松平容保 不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに
松平容保(かたもり)は江戸時代末期、将軍後継となった一橋慶喜や政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らに強く勧められて、「京都守護職」という大役を引き受けたばかりに、後の会津の白虎隊の悲劇につながっていく遠因をつくることになった。
容保はもともと病弱のため、このときも風邪をひき病臥していて、初めは固辞していたのだが、会津藩祖・保科正之が定めた家訓を守るべく、やむなく不本意ながら引き受けざるを得なくなったわけで、これはまさしく“火中の栗”を拾うに等しい“貧乏くじ”だった。そして、将軍家を守るために忠勤に務めた結果、“賊軍”のレッテルを張られてしまった。
また、意外に知られていないが、京都守護職を務めた当時の容保を、孝明天皇が宸翰の中で職務勉励ぶりを嘉する文章がある。孝明天皇がいかに容保を信頼していたか物語るものだ。ただ、このことは容保を“乱臣賊子”とし、「所詮、会津松平は朝敵」の異名を着せ、押し切ろうとする薩長主体の新政府にとっては極めて厄介な存在だったと思われる。幕末動乱期を、薩長にとって危険分子と思われた容保が、どうしてその危機を切り抜けることができたのか。
松平容保は陸奥国会津藩九代藩主であり、最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主、徳川治保の子孫。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の一人。幼名は銈之丞。官は肥後守。正室は松平容敬の娘、敏姫。生没年は1836(天保6年)~1893年(明治26年)。
1846年(弘化3年)、八代会津藩主・容敬の養子となり、1852年(嘉永5年)に会津藩を継いだ。1860年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士に殺害された「桜田門外の変」では水戸藩討伐に反対した。井伊直弼暗殺後、一橋慶喜や福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、1862年(文久2年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推された。容保は初めは固辞していたのだが、最終的には松平慶永らの強い勧めに遭い、不本意ながらこの大役を引き受けることになった。
その結果、容保は幕末動乱期の京都の治安を維持するため、「新選組」などを使い、西南雄藩の志士たちを含め討幕派の動きを弾圧。そのため、維新後は幕府派の重鎮とみられて敵視されることになった。
容保は1867年(慶応3年)、参議に補任されたが、1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いの後、解官。藩主の地位を降り、改元して明治元年、白虎隊で知られる会津戦争の後、因幡国鳥取藩に幽閉・永預り処分となった。1869年(明治2年)、紀伊国和歌山に移されるなど逼塞生活が続いたが、1872年(明治5年)、預け処分が免ぜられ、公人として復活した。そして1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任した。
容保は「禁門の変」での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜った。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首に掛け死ぬまで手放すことはなかったという。また、幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。“沈黙は金”ではないが、何も語らなかったことが、維新直後の蟄居・逼塞期を経て、明治半ばまで彼を生き延びさせる遠因となったことは間違いない。
(参考資料)司馬遼太郎「王城の護衛者」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、綱淵謙錠編「松平容保のすべて」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」