近松門左衛門 竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家
近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家だ。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)~1724年(享保8年)
近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松は武家からの転身を迫られることになった。
「近松門左衛門」のペンネームの由来は三井寺の別院、近松寺(ごんしょうじ)にしばらく身を寄せていたからと思われる。この近松寺での経験がよほど気に入ったのではないか。もっともこのとき、彼は僧だったのか、俗人だったのかよく分からない。
近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松の浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。
近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。
近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。
1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。そうした政治のあり方を近松はどう受けとめたのか?ヒット作の上演に水を差されるのを心底、嫌気したか、近松はその翌年没する。
近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にある-と唱えたとされる。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというものだ。芝居など所詮実在しない「虚」の世界だと誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくらみていても飽きないし、感動するわけだ。それは感動した自分の中に実在する感覚・理想・イメージなどと、その「虚」が結びついたときに、引き起こされるのではないか。つまり、「虚」「実」が絡み、入り混じったときに、初めて魅力が生まれるといったことだ。だが、この「虚実皮膜論」は穂積以貫が記録した「難波土産」に、近松の語として書かれているだけで、残念ながら近松自身が書き残した芸能論はない。
(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、梅原猛「百人一語」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、「この国のかたち 三」