中江兆民 日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト

中江兆民 日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト
 中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者だったことで知られ、「東洋のルソー」と評された。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人だ。彼の名を不朽にしたのは著述活動で、明治15年、36歳のとき出版した『民約訳解』、明治20年、41歳のとき出版の『三酔人経綸問答』の二つがとくに注目される。
1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学んだが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。
 兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」すなわち「大衆」という意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。本名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬(ちくま)。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。
 兆民は15歳のとき父を失って家督を継ぎ、翌年藩校文武館開校と同時に入学。漢学、英学、蘭学を学び、19歳のとき、土佐藩留学生として英学収容のため長崎へ派遣された。長崎には土佐藩の長崎商会、正式には開成館貨殖局長崎出張所があった。その商会の経営を任されていたのが岩崎弥太郎だった。また、坂本龍馬の海援隊があった。
  1866年(慶応2年)、兆民は江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた彼は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。
 1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書『民約論』や『エミール』などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。『英国財産相続法』などの翻訳書を出版する。
 1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)『東洋自由新聞』を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。
とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が、明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。
 1882年(明治15年)仏学塾を再開し、『政理叢書』という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著『民約論』の抄訳『民約訳解』をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答』を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。
そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の『東雲(しののめ)新聞』主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。
前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。
 漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は、世人から奇行とみられた。
ところで、意外なことに兆民は、学者、思想家、役人、代議士などの経歴に自ら決別して、実業家を志したことがあった。明治25年、46歳のときのことだ。しかし、次から次に手をつけたが、ことごとく失敗に終わった。札幌での紙問屋を皮切りに、北海道山林組、帰京して毛武鉄道、川越鉄道、常野鉄道などの交通事業に関係し、また京都パノラマ、中央清潔会社に手をつけたが、一つとして成功しなかった。
 主な著書に明治34年に出版された随想集『一年有半』、兆民哲学を述べた書『続一年有半』などがある。この中には、様々な人物を俎上に挙げたユニークな人物論があり、おもしろい。彼は議論、時事評論の最も優れた人として5人を挙げている。福沢諭吉、福地桜痴(源一郎)、朝比奈碌堂、徳富蘇峰、陸羯南だ。また、近代における非凡人として31人を選んでいる。藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋、竹本春太夫、橋本左内、豊沢団平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ヶ谷藤太郎、勝安房(勝海舟)、円朝、伯円、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢諭吉、越路太夫、大隅太夫、市川団洲、村瀬秀甫、九女八、星亨、大村益次郎、雨宮敬次郎、古河市兵衛。伊藤博文、山県有朋、板垣退助、大隈重信など、ときの政界の大物を入れず、多くの芸人を挙げているところに、兆民らしい反骨ぶりが出ている。
 両著ともに人気を呼び、売れに売れた。そして、そんな状況に胸をなでおろして?か、兆民は両著が出版された明治34年暮れ、54年の生涯を閉じた

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「無冠の男」、小島直記「逆境を愛する男たち」、三好徹「近代ジャーナリスト列伝」