灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

 灰屋紹益(はいやじょうえき)は江戸時代前期の京都の豪商だが、和歌・俳諧・蹴鞠・茶の湯・書などを当時の一流の人物から学んだ知識人でもあった。遊里・島原の名妓、吉野太夫を、関白・近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話はあまりにも有名だ。灰屋紹益の生没年は1610(慶長15)~1691年(元禄4年)。

 灰屋紹益は本名・佐野重孝、別名は承益、又三郎、通称は三郎左衛門。佐野家は本阿弥光悦の縁故の生まれだ。灰屋は屋号。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子となった。薬品のない時代、染めには灰が用いられた。紺染めに用いる灰を扱うため“灰屋”と号したというわけだ。この紺灰業を営み、灰屋紹益は巨万の富を築き、京の上層町衆を代表する豪商だった。

 当主・灰屋紹由の跡継ぎに見込まれて養子となったはずの紹益だったが、彼は商売よりも風雅を愛し、商売そっちのけで和歌、茶道、書道などに凝った。それも単なる遊びで楽しんだわけではなかった。和歌を烏丸光広、俳諧を松永貞徳、蹴鞠を飛鳥井雅章、茶の湯を千道安、書を本阿弥光悦、という具合に当時一流の人物から本格的に学ぶという徹底ぶりで、商人ながら、名の知られた知識人でもあった。

このため、交流のあった人物も幅広い。風雅・文化人はもとより、後水尾天皇、八条宮智忠親王らとも交わったという。そのため、一般庶民の間でも知られていた、井原西鶴の『好色一代男』の主人公、世之介のモデルともいわれているほどだ。

 中でも文筆に優れ、随筆『にぎはひ草』は風流人としての紹益の思想をよく表しており、近世初期の随筆文学の名著との指摘もある。また、紹益がこよなく愛したのが女性だ。彼は最初の妻と死別後、遊里・島原の名妓、吉野太夫を関白・近衛信尋(後水尾天皇の実弟)と争って身請けし、妻としたのだ。1631年(寛永8年)、紹益22歳、吉野太夫26歳のときのことで、4歳年上の女房だった。当初、父・紹由は、遊里の女を身請けするに及んで、紹益に愛想をつかして一時は勘当したほどだ。その後、吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許した。

 人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んだ紹益の句がある。

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

 恋い焦がれて妻に迎えた吉野太夫だったが、美人薄命。吉野大夫は36~38歳ごろ病死してしまう。紹益にとっては身を裂かれるほどの悲しみだったろう。

 「都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして」

と詠んで、吉野太夫を偲んでいる。

 それだけではない。実は凄まじい話が残されている。紹益は吉野を荼毘に付した後、その遺灰を壺の中に残らず納めた。そして、その遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら全部飲んでしまったというのだ。

 現在、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺には紹益、吉野(大夫)二人の墓がある。

 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、「朝日日本歴史人物事典」