白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

 白石正一郎は幕末、勢威を誇った下関の豪商で、当時のインテリだ。長州藩の志士はもちろんのこと、関門海峡を通過する志士らを分け隔てなく世話した、勤王党の志士らのシンパでもあった。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。まさに新時代を築き上げる人材を、経済面で支援したスポンサー的存在だった。1863年(文久3年)、高杉晋作が結成した「奇兵隊」にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられている。

 白石正一郎は長門国赤間関竹崎に回船問屋、小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(八代目)として生まれた。名は資風、通称は駒吉、熊之助。号は橘円。白石正一郎の生没年は1812(文化9)~1880年(明治13年)。小倉屋は米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材などを扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝だったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富だった。

 正一郎は国学に深い関心を持ち、鈴木重胤(すずきしげたね)から国学を学び、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。43歳ころのことだ。そして重胤の門下生を通じ諸藩の志士とも親交が生まれた。薩摩藩の西郷隆盛も正一郎を訪ね親しくなり、小倉屋は1861年(文久元年)には薩摩藩の御用達となった。西郷は正一郎を「温和で清廉実直な人物」と書き記している。

正一郎は月照、平野国臣、真木和泉らとも親しく交流したが、それは尊皇攘夷の志に共感したためだ。長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助したほか、土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。白石邸は、さながら志士たちに開かれた交流、集会の場だった。武士に限らず、公家も同様だった。都を追われた、明治天皇の叔父にあたる中山忠光や三条実美ら六卿もここに滞在した。六卿の一人、錦小路頼徳(にしきのこうじ よりのり)は下関に到着後、病に倒れ、この白石邸で息を引き取っている。

 白石邸は歴史の舞台ともなっている。1863年(文久3年)、藩命により下関を訪れた高杉晋作と白石正一郎の話し合いにより、この白石邸で「奇兵隊」が結成されたのだ。奇兵隊は結成以後、白石邸に寄宿していたが、すぐに隊員が増えて手狭になったため、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)へ屯所を移した。奇兵隊結成と同時に、正一郎自身も弟の廉作とともに入隊した。正一郎は奇兵隊の陰の力となって、惜しげもなく資金面で志士たちを支えた。そのため、晩年には豪商の身代も傾いてしまったほど。白石家は正一郎も、その弟の廉作も、伝七も皆、志ある人だった。日本初期の社会主義者で、革命直後のロシアで踪跡不明になった大庭呵公(かこう、景秋)は弟・伝七の子だ。

 明治維新後は、赤間神宮の二代目となった。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木和泉の次男・真木菊四郎の墓が並んでいる。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」