徳川家定 幕末 将軍後継問題の原因をつくった病弱・暗愚の将軍 

徳川家定 幕末 将軍後継問題の原因をつくった病弱・暗愚の将軍 

 徳川家定は、嘉永~安政年間にかけて在職した徳川十三代将軍だ。家定は十二代将軍だった父・家慶の四男だったが、兄たちはすべて夭折・若死にしてしまい、唯一残ったため父の後継将軍に就いた。だが、彼は幼少時から虚弱体質で、脳性まひを患っていたといわれるくらい、将軍職を務められるかどうか、当初から不安視されていた人物だ。

    そのため、将軍就任直後から後継将軍問題が取沙汰される始末だった。後に紀伊藩主・慶福(よしとみ、後の十四代将軍家茂)を推す紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派の両派が、幕閣はもとより朝廷をも巻き込んで争った将軍後継問題がそれだ。この両派の対立は急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の決断で紀州派が勝利を収めた。その後処理を巡って、家茂の治世下、京都の公家をも含め処罰の対象にした、直弼による厳しい、かつ忌まわしい「安政の大獄」が断行された。その結果、吉田松陰、橋本左内ら無事なら後世に様々な功績を残したであろう数多(あまた)の英傑が処刑・処罰され、結果的に幕府にとっても大きな汚点を残した。

 徳川家定は、十二代将軍・家慶と本寿院との間に生まれた。家定を名乗る前は政之助、家祥とも呼ばれた。別名イモ公方。生没年は1824年(文政7年)~1858年(安政5年)。既述のとおり、家定は幼少時から虚弱体質だった。そのため、精神的な発達が遅れ、将軍職として執務することは重荷で、江戸城の庭にいるアヒルなどを追い駆けたり、豆や小豆を煎って側近に与えることが唯一の楽しみとするような性格だったという。父・家慶は家定の治療を指示し治そうとしたが、無理だったようだ。

 家定は公家から二度、そして武家から一度、計三度正室を迎えている。最初の縁組は1828年(文政11年)、5歳の時に決定した。相手は1823年(文政6年)誕生した一歳上の、鷹司前関白政煕(まさひろ)の末娘有君で、関白鷹司政通の養女として家定に嫁ぐことになった。この有君が江戸城西の丸に入輿したのは19歳のときのことだ。このとき家定は18歳だった。が、有君は1848年(嘉永元年)、疱瘡のため25歳の若さで死去した。このため、1849年(嘉永2年)、左大臣一条忠良の娘秀子を二度目の御簾中として迎えたが、不幸にもこの秀子も翌年、死去してしまった。

 家定の側室はお志賀の方一人しかおらず、子供もいなかった。したがって三度目の正室を迎えることや、誰を養君に立てるかということが、重要な政治問題になりつつあった。そこで、浮上してきたのが武家、島津家からの輿入れだ。二度まで正室を失った家定は、病弱な京都の公家の娘を好まず、長命で子孫が繁昌した茂姫(広大院、島津家から4歳で一橋家の松平豊千代=後の第十一代将軍・家斉の正室となった)の先例にあやかり、島津家から後室を娶ろうとしたのだ。もちろん、これが家定自身の発意かどうかは分からないが、阿部正弘を老中首座とする幕閣もこれを好感、支持していたようだ。

 こうした幕府の意向を受ける形で、島津斉彬の養女一子が「篤姫(あつひめ)」と称され、近衛家の養女「敬子(すみこ)」と改め、1856年(安政3年)、家定と婚儀を挙げたのだ。家定33歳、篤姫21歳の時のことだ。史料によると、家定と篤姫の夫婦仲はなかなか良好で、世子となる若君の誕生が期待された。だが、篤姫との間にも遂に子供はもうけられなかった。病弱な家定は1853年(嘉永6年)、将軍職に就いてから、1858年(安政5年)に病没するまでわずか5年の在任だった。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、加藤蕙「島津斉彬」、綱淵謙錠「島津斉彬」