善信尼 日本最初の尼僧で15歳で百済に留学、戒律を学んだ先駆者

善信尼 日本最初の尼僧で15歳で百済に留学、戒律を学んだ先駆者

 善信尼(ぜんしんに)は飛鳥時代、11歳で出家した日本最初の尼僧の一人で、15歳で百済に留学、戒律を学び帰国。多くの女性を尼として得度、出家させ仏法興隆貢献したと伝えられる女性だ。善信尼は鞍作部(くらつくりべ)の司馬達等(しばたっと)の娘だ。名は嶋。仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母にあたる。中国からの渡来人、恵善尼(えぜんに)、禅蔵尼(ぜんぞうに)とともに得度、出家したといわれる日本最初の尼僧の一人。善信尼の生年は574年(敏達天皇3年)だが、没年は不詳。

 司馬嶋は584年(敏達天皇13年)、百済から請来(しょうらい)した弥勒像供養のために、高句麗から招いた僧・恵便(えびん)に師事、出家し善信尼と名乗った。彼女がまだ11歳のときのことだ。こうして日本初の出家者が誕生した。このとき、中国からの渡来人、恵善尼、禅蔵尼とともに、斎会を行ったと伝えられる。

 仏教の受け入れを巡る諸豪族の姿勢は、消極派が大勢を占めていたといっていいだろう。時代はさかのぼるが『日本書紀』によると、552年(欽明天皇13年)、百済から仏教が伝来すると、欽明天皇はその礼拝の賛否を群臣に諮った。開明派の蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)は積極的に賛成したが、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)は、「蕃神(あだしくにのかみ)」(仏のこと)を礼拝すれば「国神(くにつかみ)」の怒りをかうであろうと反対した。

 そこで、欽明天皇は試みに稲目に礼拝することを許したが、後に疫病が流行し、病死する者が多く出た。尾輿らはその原因を、仏を礼拝したためとして、仏像の破却を欽明天皇に上奏し、仏像を難波に流し、寺を焼いた。この双方の対立は子の時代に引き継がれた。稲目の子・馬子、尾輿の子・守屋だ。こうした崇仏派と廃仏派が激しく対立しつつあった当時、日本初の出家者に対する社会の目は冷たいものだった。翌585年(敏達天皇14年)、廃仏派の急先鋒、物部守屋に廃仏運動の、崇仏派に対する見せしめとして、彼女たちは法衣を剥ぎ取られて全裸にされ海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。

 崇仏派の代表者が蘇我馬子だが、馬子はなぜ司馬嶋を選んだのか?それは、政治的な側面を考慮した、もっといえば彼女たちは政治的な道具として利用されたとみるのが妥当なようだ。馬子は、まだまだ得体の知れない仏教を受け入れるにあたり、いきなり男性の僧をつくることは政治的反発も強いと予想。こうした批判を牽制しつつ、神道の巫女と同様のイメージを中心に据え、渡来人だった司馬達等の娘であれば、万一、仏教受容に失敗したときも言い逃れできると読んだのだ。いわば、馬子の巧妙なリスクヘッジの産物だったわけだ。

 年長の善信尼は、馬子の期待通り守屋に辱めを受けた後も、他の二人を元気づけ、尼僧としての務めを果たしていく。善信尼は588年(崇峻天皇元年)、戒律を学ぶため百済へ渡った。後の中国・隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つものだ。15歳の善信尼の留学だった。百済で彼女は十戒、六法、具足戒を受け、2年間の留学を終え、590年帰国した。

 帰国後は、馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ多くの女性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

(参考資料)黒岩重吾「磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子」、黒岩重吾「紅蓮の女王 小説 推古女帝」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」