大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、穂積皇子、藤原麻呂、大伴宿奈麻呂(すくなまろ)らに嫁ぎ、後年は氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。額田王以後最大の女流歌人で、『万葉集』に長短歌84首が収められている。これは女性では最多で、全体でも大伴家持、柿本人麻呂に次いで第三位だ。大伴坂上郎女の生没年は不詳。

 大伴坂上郎女は、大納言・大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母。坂上郎女の通称は、坂上の里(現在の奈良市法蓮町北町)に住んだためという。7世後半に生まれ、750年(天平勝宝2年)ごろまで生きた。藤原時代の最後から奈良朝初期に歌を残し、『万葉集』に84首が収められている女流最多の歌人。これに次ぐのが笠郎女の29首だから、その差は歴然としている。

    晩年の穂積皇子に愛され、次いで藤原不比等の四男で京家の祖・藤原麻呂の妻となった。その死別後、異母兄・大伴宿奈麻呂に嫁して坂上大嬢(おおいらつめ)、二嬢(おとのいらつめ)を産んだ。724年(神亀元年)~728年(神亀4年)ごろ宿奈麻呂が亡くなった後、異母兄の旅人を追って大宰府に下向した。帰京後は佐保邸にとどまり、一家の刀自(とじ=家政をつかさどる婦人の称)として、また氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。旅人が亡くなった後は、甥の家持を後見し、家持の歌人としての出発に多大な影響を及ぼすとともに、娘の大嬢をその妻として嫁がせた。

 大伴坂上郎女の歌人としての評価は高い。その題材も相聞歌、祭神歌、挽歌など多岐にわたっている。とりわけ、恋の歌において、即興的・機知的な才を遺憾なく発揮した。

 「夏の野の繁みに咲ける姫百合の 知られぬ恋は苦しかりけり」

 歌意は、夏の野の繁みにひっそりと咲いている姫百合のように人に知られない恋は苦しいものだなあ。

 「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波 やむ時もなし我が恋ふらくは」

 歌意は、佐保川の川面を岩ばしるながれのように、私の恋心もまた激しく、とどまることはない。

 「山菅(やますげ)の実ならぬことを我(わ)に寄そり 言われし君はたれとか寝(ぬ)らむ」

 歌意は、山菅が実を結ばないことを、私との仲になぞらえて世間から噂されたあなたは、いまごろどなたと一緒に寝ているのでしょうか。

 「黒髪に白髪(しろかみ)交じり老ゆるまで かかる恋にはいまだ逢はなくに」

 歌意は、黒髪に白髪が混じって、これほど年取るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありません。

 「恋ひ恋ひて逢える時だに愛(うつく)しき 言(こと)尽くしてよ長くと思はば」

 歌意は、恋して恋して、やっと逢えたときくらい、情け深い言葉をありったけ言い尽くしてください。これからも二人の仲を長く続けようと思うなら。

 「ぬばたまの夜霧のたちておぼほしく 照れる月夜の見れば悲しさ」

 歌意は、夜霧が立ち込めて、ぼんやり照っている月を見ると悲しいことだ。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」