866年(貞観8年)、平安京の応天門が放火・炎上する怪事件が起こった。果たして真犯人は誰だったのか?経緯は後で詳しく述べるとして、この事件の首謀者として紀豊城(きのとよき)ら4人とともに流罪に処せられたのが、ここに取り上げた大納言・伴善男だ。しかし、この事件には真犯人の真偽よりも、「藤原氏北家の隆盛と他氏排斥」という、当時の政情が複雑にからんでおり、簡単には結論付けられない部分があるのだ。この事件後、伴氏は政界から葬り去られたが、伴善男への同情は後に様々な伝説を生んでいる。伴善男の生没年は811(弘仁2)~868年(貞観10年)。
伴善男は平安時代前期の有能な政治家だった。父大伴(のち伴)国道は参議に昇ってからも陸奥出羽按察使等を兼ねて活躍した能吏だ。その5男に生まれた善男は仁明天皇に信任されて蔵人と弁官を兼ね、848年(承和15年)38歳で参議兼右大弁となり、次いで検非違使別当・式部大輔・中宮大輔・民部卿等も兼ねて歴任。さらに860年(貞観2年)50歳で中納言、864年(貞観6年)には大納言にまで栄進した。出世街道を突き進んだ。
その間、伴善男は846年(承和13年)、法隆寺の僧善_(ぜんがい)の裁判事件で法理を争い、左大弁正躬王をはじめ同僚の5人の弁官を失脚させた。また、『続日本後紀』の編集(855年)にあたり、民部省の政務運営などにも携わり活躍している。彼の人生はまさに順風満帆だった。
ところが、藤原氏北家が巧妙に仕掛けた企てに遭い、善男の人生の歯車が狂い出す。866年(貞観8年)大内裏の応天門が炎上、焼失すると、善男はまず、それを左大臣源信の犯行だとして告発した。源信を失脚させようとの目論見からだった。だが、頼みとした太政大臣・藤原良房の裁定で源信は無罪となり、善男は逆に長男、右衛門佐中庸(うえもんのすけ なかつね)に命じて放火させたものだと告訴されてしまう。善男は再三、無実を主張しても認められず、結局死一等を減じて遠流に処された。善男は伊豆、中庸は隠岐、紀豊城は安房、伴秋実(あきざね)は壱岐、伴清繩(きよなわ)は佐渡へそれぞれ流された。そして、その2年後、不幸にも善男は配流先の伊豆で没した。
伴善男の出世街道はどうして挫折、そして政界から葬り去られなければならなかったのか。その理由の一つは家系にある。彼は当時、時めいていた藤原氏でも源氏でもない。大伴氏だ。伴という姓に変わったのは淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)が大伴だったので、それを憚って改姓させられたのだ。823年(弘仁14年)のことだ。もとはといえば、万葉の歌人、大伴旅人や家持とも同族なのだ。
大伴氏は悲運を背負った一族だった。まず曽祖父の古麻呂は奈良時代に橘奈良麻呂の叛乱計画に同調したとして捕らえられ、拷問を受けて非業の死を遂げている。祖父の継人は、桓武天皇の長岡京遷都に反対し、これを推進していた藤原種継を暗殺した首謀者として斬刑に処せられている。父はこれに縁坐して佐渡に流されていたが、20年後許されて都に戻り、官吏として遅いスタートを切りながら、参議までたどり着いた努力家だった。それだけに、善男は自分だけは必ず成功者の道を歩んでみせる、との思いだったに違いない。家柄のハンデは逆に彼を勝気にし、学問に人一倍精進させることになった。そして、彼は用意周到に人脈づくりを進めたはずだった。
だが、藤原氏北家が推し進めていた他氏排斥の“刃”は、躊躇することなく大納言伴善男にも振り向けられ、巧みな人脈も全く力を発揮することなく、伴一族の夢をあっさり砕いた。
善男については、後に様々な伝説が生まれた。その一つに彼が死後疫病神になったというのがある。ある年、天下の咳病(しわぶきやみ)-咳の病が流行したとき、ある夜一人の下級官人の前に、赤い衣装を着けた気高く恐ろしげな人物が現れ、自分は伴善男で、いま疫病神になっている、と告げ「本来ならたくさんの人が死ぬのだが、自分も朝廷から恩を蒙っているので、咳の病に変えたのだ」と語ったという。政争のあおりを受けて失脚したものが怨霊になる、という考え方が当時あった。この後、悲運の道をたどった菅原道真がその典型だ。こうした伝説は、力なき民衆の形を変えた権力批判ともいえる一面がある。
(参考資料)永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、永井路子「悪霊列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」