高松凌雲・・・戊辰戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置

 高松凌雲は戊辰戦争の最後の舞台、函館・五稜郭戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置した人物だ。その後、民間救護団体の前身といわれる同愛社を創設。日本における赤十字運動の先駆者とされている。生没年は1837(天保7年)~1916年(大正5年)。
 高松凌雲は現在の福岡県小郡市で庄屋の子として生まれた。名は権平、荘三郎。20歳のとき久留米藩家臣の川原家の養子となった。22歳で江戸にいる兄、古屋佐久左衛門を頼って上京。医師を志すようになる。まず蘭方医として有名だった石川桜所(おうしょ)の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。

その後、大坂に出て全国から俊才が集まっていた「適塾」に入塾し、緒方洪庵の指導を受けた。1861年(文久元年)のことだ。適塾の「姓名録」には580番目に高松凌雲の署名が残されている。凌雲はここで頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、オランダ語を操るまでになった。さらに幕府が開いた英学所で学び英語もマスターした。

 1865年(慶応元年)、凌雲の学才を知った一橋家が、彼を一橋家の専属医師として抜擢する、ほぼ時を同じくして一橋家出身の慶喜が第十五代将軍となったため、凌雲は幕府から奥詰医師として登用されることとなった。凌雲はわずか1年数カ月の間に、無名の蘭学書生の境遇を脱し、幕藩体制下における医師の最高位昇りつめたわけだ。伊東玄朴や林洞海、松本良順らの錚々たる大家、それに恩師の石川桜所とも、いまや肩書き上、凌雲は同格だった。

 1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に慶喜が弟の昭武を団長とする派遣団に随行していた凌雲は、パリ博終了後、留学生としてパリに残るよう言い渡された。資金は幕府負担。凌雲が留学先として選んだのがオテル・デュウ(神の家)という病院を兼ねた医学学校だ。彼はここで様々な最新医療に触れた。この病院は貴族、富豪、政治家などの寄付によって成り立っており、国からの援助を受けない民間病院だった。

 1年半にわたるパリ留学を終えて帰国した凌雲は、すでに幕府が崩壊し江戸城は薩長勢に明け渡され、主君・慶喜は水戸で謹慎中という状態に驚いた。彼はパリに留学させてくれた幕府への恩義に報いるため蝦夷地で幕臣の国をつくろうとして旧幕府軍の総帥・榎本武揚らに合流。函館戦争に医師として参加する。

 函館に入ると、凌雲は函館病院の院長に就任した。これは榎本の依頼だったが、「病院の運営には一切口出ししない」という条件を榎本につけたという。凌雲は2階建ての病棟を2棟新築することを決め、工事を急がせた。病院の内治にも意を用い、病院規則を定めて運営の組織化を図った。そして、医務心得、病者取り扱い、看護人心得などの細則を次々と制定し病院管理の近代化を推進した。戦時下、明治2年に落成した新築の病棟はわが国に出現した最初の本格的な洋式野戦病院とされている。
ここで凌雲は、戦傷者であれば敵味方を問わず公平に受け入れて、できる限りの治療を施した。これは当時としては全く異例のことといっていい。当然最初は敵方の兵士とともに治療されることに対して混乱・反発が生まれたが、凌雲はパリで学んだ「神の家」精神を胸に、毅然とした態度でこれを制した。この行動は日本で初めての万国赤十字の精神に通じるものであり、日本史において大きな出来事だった。函館戦争は圧倒的な官軍勢力の前に、ほどなく旧幕府軍の敗北で終結。

 その後、凌雲は東京へ戻って病院を開院。新政府での役職の誘いが多数きたが、それらをすべて断り、町医者として「神の家」の精神を実行する道を選んだ。もし出仕すれば、相当の栄達が約束されていたはずなのに、あえて民医に徹したのは、一つには恩義のある幕府の悲運に準じるという意識を抱いていたからであり、また最後まで奥医師就任を渋り在野の生き方を望んだ適塾の緒方洪庵と同質の精神が脈打っていたからではないか。

洪庵の影響がもっとはっきりしているのは、東京都下貧民の救済医療組織、同愛社を組織したことだ。同愛社は官の補助をあてにしない医療福祉事業団の先駆けとなった。その意味で、医師凌雲にとって、適塾はまさしく出発点であり、心の故郷だったわけだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、百瀬明治「『適塾』の研究」