豊臣秀吉・・・信長に仕えて学び取った「大局観」で天下人に

 今日、立身出世譚の代表ともいわれる日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉→太閤秀吉-の記録には、様々な矛盾や謎が多い。「農民の心」と「商才」と「武士の魂」で天下を取った男、豊臣秀吉の実像とは?秀吉の生没年は

 豊臣秀吉の20歳前後、織田信長に仕えるまでの経歴はほとんど分からない。生年月日すらはっきりしない。分かっているのは1.尾張中村の土民の小せがれとして1535年(天文4年)か1536年(天文5年)に生まれ、サルとあだ名を付けられた少年だったこと、2.継父との折り合いが悪くて幼くして家を飛び出し、濃尾地方を戦災孤児のような形で放浪したこと、3.そのころは与助という名前で、小溝で小魚をすくって人に売って命をつなぎ「どじょう売りの与助」と呼ばれていたらしいこと、4.14、15歳のころ縫い針の行商人となって遠州に放浪して行き、浜名の城主、松下之綱に拾われて、初めて武家奉公して数年いたが、何かの事情があって、暇を取って尾張に帰り、20歳前後のころに信長の家に小物奉公した-というくらいのことで、その間の子細は一切分からない。尾張蜂須賀郷の野武士蜂須賀小六ら野武士の下働きとして飯を食わされ、あまりにも悲惨で自ら思い出すのも嫌な期間があったことは推察される。

 江戸時代、徳川幕府に対する批判の意味と、家康によって滅ぼされた豊臣氏に対する追慕の情とが相まって、いくつもの『太閤記』が世に出され、ベストセラーとなっている。そして『絵本太閤記』や『真書太閤記』など読物的になっていくにつれ、創作された部分が増え、ノンフィクションからフィクションへという傾向が顕著になっていった。秀吉が信長に仕えるまでに38回も職を変えたというのは少しオーバーだが、秀吉が若いころ様々な職業に就いたことは事実だ。そして「貧しい百姓のせがれ」として生まれながら、若いころから商才を身につけていた。その商才が、武家奉公してからの秀吉には相当プラスになった。まさに「農民の心を持ち、商才を身につけ、武士として振る舞った」といっていい。

 秀吉は人の嫌がること、最も危険なことを進んで引き受け、この積み重ねが信長の信頼を固めていった。それは、無理に自己を奮い立たせてやったというより、幼少時代からの不遇による経験および教訓を踏まえ、「才」プラス「誠実」という命がけの勤勉さがそうさせたのであり、ひいては未曾有の大成功者を生んだのだ。

 秀吉は諸説あるが、『太閤素生記』などによると、1554年(天文23年)18歳で信長の小者として仕え、信長のすべてを受け入れられる境遇からスタートした。この点が、ともに信長の薫陶を受けてきた同志ではあったが、明智光秀との大きな違いだった。光秀は、秀吉とともに信長のお気に入りだったが、彼は40代も半ばで織田家に仕官し、すでに自己というものができ上がっていたうえで、信長に接することになったため、客観的な判断に自身との比較、そこから生じる信長に対する批判を自分の中に抱えることになってしまったのだ。
 秀吉は決して生まれながらの“大気者”ではなかった。10代で家出し、放浪する中で、生きていくための方便として、意識的に明るさを身につけたのだ。光秀が重役待遇でスカウトされて中途入社したのに比べ、秀吉はアルバイト要員の補充といった立場で織田家をスタートした。それだけに秀吉は一途に、アルバイトから正社員として召し抱えてくれた信長に、気に入られるべく懸命に努力した。織田家で生きていくには、信長のすべてを受け入れなければならない。短気で激しやすい気性、言葉など四六時中、観察し信長という人間を最もよく理解し、己れのものにしたのではないか。

 秀吉がこうして信長の中に様々なものを見て、そして学んだ。その最も大きなものが時勢を読み取る「大局観」だった。信長には、将軍を擁して京都に旗を立て、大義名分を明らかにし、楽市楽座の経済政策や海外貿易によって国力を豊かに、そして最新兵器を多量に揃えて、遠交近攻の外交・軍事戦略をもって臨めば、自ずと天下の統一は達成できるとの読みがあった。こうした信長の大局観を、秀吉は足軽から足軽組頭、部将、城代、方面軍司令部と立身出世していく過程で、身をもって学ぶことができたのだ。

 秀吉は信長の欠点すら、反面教師として学習を怠らなかった。組織に属している限りは、部下の立場で上司は選択できない。その選択の余地のない上司を批判し、愚痴ってみても、何の解決にも、プラスにもならない-と。その結果、秀吉の独自色と、周囲の彼に対する信頼、あるいは人望が生まれたのだ。

 こうして秀吉は自己を確立し、主君・信長の横死という悲嘆の底から、毛利攻めの中国遠征から史上有名な大撤退作戦「中国大返し」を敢行。2万余の軍団を率いて、凄まじい速度で昼夜走り続け、天下取りの千載一遇の好機を自身へ導くことに成功。光秀に京都・山崎の地で史上最大の“弔い合戦”を挑んで、これに勝利したのだ。

 秀吉には終生、劣性コンプレックスがつきまとっている。素性の卑しさ、体格の矮小、容貌の醜悪さのためだ。しかし、彼はそれに圧倒されはしなかった。それを跳躍板にして、飛躍している。彼が常に大きいことを心掛け、大言壮語したのは、そのコンプレックスを圧倒するためだったに違いない。大掛かりな城攻めをしたのも、壮麗な聚楽第や伏見城や大坂城を築いたのも、二度も皇族、公卿、大名らに巨額な金銀配りをしたのも、奈良の大仏以上の大仏をこしらえたのも、そのためだろう。いずれにしても、彼の劣性コンプレックスは彼の人気を高め、彼を成功させ、彼を“天下取り”に仕上げたのだ。

(参考資料)今谷明「武家と天皇」、井沢元彦「逆説の日本史」、堺屋太一「豊臣秀長」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「新史 太閤記」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、司馬遼太郎「覇王の家」