鑑真・・・日本で初めて授戒を行い、戒律制度を伝えた律宗の開祖

 鑑真は、朝廷からの「伝戒の師」としての招請を受け、数々の苦難を超えて、6回目の渡海で来日した、唐代、江南第一の大師と称された人物で、日本における律宗の開祖だ。天皇をはじめ多くの人々に日本で初めて正式な授戒を行い、日本の仏教界に正式に戒律制度を伝えた人でもある。鑑真の生没年は688(持統天皇2)~763年(天平宝字7年)。

 鑑真は中国・唐代の揚州江陽県に生まれた。俗姓は淳于。14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、道岸、弘景について律宗・天台宗を学んだ。713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称された。律宗とは仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派だが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている高僧。

鑑真は揚州の大明寺の住職だった742年(天平元年)、第九次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。しかし周知の通り、その実現は容易なものではなかった。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗。次第に視力を失うことになったが、753年(天平勝宝5年)、6回目にして鑑真が乗り込んだ、帰りの遣唐使船が薩摩・坊津に漂着、遂に日本の地を踏んだ。鑑真66歳のことだ。以後、76歳までの10年間のうち、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇はじめ多くの人々に授戒を行った。

 仏教では新たに僧となる者は戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには10人以上の正式の僧尼の前で儀式(=授戒)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は、自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。

 しかし、奈良時代に入ると戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。こうした時代背景の下、栄叡と普照は授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れたのだ。
 栄叡と普照から強い要請を受けた鑑真は弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで、鑑真自らが渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人が随行することになったのだった。

 こうして来日した鑑真は753年(天平勝宝5年)、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行った。そして754年(天平勝宝6年)、鑑真は平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することになった。同年4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇から僧尼まで430余名に菩薩戒を授けた。これが日本で行われた最初の登壇授戒である。併せて常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により鑑真は大和上に任じられ、政治に捉われる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を与えられる配慮が成された。759年(天平宝字3年)、鑑真に新田部親王の旧邸宅跡(現在の奈良市五条町)が与えられ、ここに彼は「唐律招提」(とうりつしょうだい、後の唐招提寺)と名付けられた、戒律を学ぶ人たちのための修行道場を建てた。 
 
 同寺には戒壇は設置されたが、あくまでも鑑真和上の私寺であって、当初は経蔵、宝蔵などがあるだけだった。そのため、金堂は763年(天平宝字7年)の鑑真の死後、弟子の一人だった如宝(にょほう)の長年にわたる勧進活動により、781年(天応1年)以降、完成したといわれる。これにより現在は、この「唐招提寺」が奈良時代建立の金堂、講堂として“天平の息吹”を伝える貴重な伽藍となっている。2001年(平成13年)1月から始まった平成の大修理事業で解体され、地震対策として耐震性も強化、一新された金堂の工事が終了、09年11月1日、落慶法要が行われた。

 鑑真は戒律のほか、彫刻や薬草などへの造詣もとりわけ深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院もつくり、貧民救済にも積極的に取り組んだ。
 師・鑑真の死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆造=だっかつかんしつづくり 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法、両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている。国宝の「唐招提寺鑑真像」がそれだが、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船(おおみのみふね)により、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
(参考資料)永井路子「氷輪」、井上靖「天平の甍」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」古寺を巡る「唐招提寺」