空也・・・念仏を唱え続けた民間の浄土教の先駆者 「念仏聖」の先駆

 空也は平安時代中期の僧で、天台宗空也派の祖。乞食しつつ諸国を巡り、道を拓き橋を架け、盛んに口称念仏(称名念仏=しょうみょうねんぶつ)を勧め、市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖(あみだひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと称された。民間における浄土教の先駆者と評価されている。

彼の活動は貴族からも注目された。ただ、踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したことを示す史料はない。空也の門弟は高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。

 詳細は分からないが、空也は尾張国(現在の愛知県)で生まれたとみられる。法号は空也・光勝(こうしょう)。空也の生没年は903(延喜3)~972年(天禄3年)。『空也誄(るい)』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』などの史料によると、空也は醍醐天皇の皇子とも、仁明天皇の皇子・常康親王の子とも伝えられているが、無論、彼自身が自らの出生を語ることはなく、真偽は不明だ。

 922年ごろ尾張国の国分寺にて出家し、空也と名乗った。若い頃から在俗の修行者、優婆塞として諸国を巡り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら、道路・橋・寺などを造り、井戸を掘るなど様々な社会事業を行い、貴賎を問わず幅広い帰依者を得た。絶えず南無阿弥陀仏の名号を唱えていたので、俗に阿弥陀聖とも呼ばれた。

 938年(天慶1年)、京都へ入って浄土往生の念仏を勧めるとともに、街中を遊行して乞食(こつじき)し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝えられる。948年(天暦2年)、比叡山で天台座主・延昌(えんしょう)のもとで得度、受戒し「光勝」の法号を受けた。ただ、空也は生涯、超宗派的立場を保っており、天台宗よりも、奈良仏教界、とくに思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。

 950年(天暦4年)から金字大般若経の書写を行い、人々から浄財を集めて951年(天暦5年)、十一面観音像ほか諸像(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)を造立した。963年、鴨川の岸で大々的に供養会を行い、これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深めた。東山・西光寺(現在の六波羅蜜寺)で70年の生涯を閉じた。空也の彫像は六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男、康勝の作)が有名。

 平安時代以降、貴賎を問わず、老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のお陰だといわれる。また、東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された
 諸悪に満ちたこの世を嫌って、美しく、楽しい「あの世」を求める浄土教の祖師たちは、理論家の法然を除いて、源信、親鸞、一遍などいずれも詩人の心を持ち、すばらしい偈(げ)や和讃を残している。中でも、とりわけすばらしい詩心の持ち主は、彼らの先駆者だった空也だと思われる。空也の言葉はあまり残っていないが、わずかに『一遍上人語録』などに断片的に残っている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」