大久保一翁・・・勝海舟の出世の方途を開き、江戸無血開城に貢献

 大久保忠寛(隠居後は一翁)は幕末時、勝海舟とともに政局混乱終息に動いた幕臣だが、勝が重要な政局収拾にあたったため、彼の名は勝ほど知られていない。ただ、彼は幕府存続のため大政奉還を前提とした諸大名による会議、つまり議会制の導入を早くから訴えるなど、先見の明を持っていた。江戸無血開城に貢献したため、勝海舟、山岡鉄舟とともに「江戸幕府の三本柱」ともいわれる。生没年は1818(文化14)~1888年(明治21年)。

 大久保忠寛は旗本大久保忠尚の子として東京で生まれた。幼名は市三郎、忠正。隠居後、一翁(いちおう)と号した。第十一代将軍家斉の小姓を務め、1842年(天保13年)家督を相続した。1854年(安政元年)、老中阿部正弘に登用され目付兼海防掛となった。以後、蕃所調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などを務めた。ところが、「安政の大獄」の際、大老井伊直弼の厳しすぎる処分に反対したため直弼に疎まれ、遂に罷免された。しかし、井伊直弼が暗殺された後、1861年(文久元年)再び登用され、蕃所調所頭取、外国奉行、大目付、側御用取次などの要職を歴任した。

 大目付は元来、目付と分業になっていたのだが、このころ目付を配下に組み入れるように変更されたから、大目付兼外国奉行は大変な権力だ。内務次官と外務次官を兼ねているようなものだ。また、側御用取次は旗本が就任し得る最高の地位といっていい。老中と将軍の間を取り次ぐため、その間に自分の意見を織り込むことも可能で、幕府の最高意思決定に介入できるのだ。このため権勢も老中に匹敵した。

 大久保の重要な功績の一つとして指摘しておかなければならないのは、幕末の幕府側のキーパーソンの一人、勝海舟の出世の方途を開いたことだ。1854年(安政元年)、大久保は意見書を提出した勝海舟を訪問。場所は赤坂の田町、勝はそこで蘭学塾を開いていたのだ。大久保が38歳、勝が32歳のときのことだ。会った大久保はこの男ならと、その能力を見い出し、老中阿部正弘に推挙して、勝を登用させたのだ。このことがなければ幕末、後の勝の出番はなかったか、あるいはあったとしても、もっと遅く小さなものになっていただろう。とすれば、後世の歴史は少し違ったものになっていたかも知れない。

 大久保は第十四代将軍家茂に仕えたが、政事総裁職となった越前藩主松平慶永らとも交友し、外国事情に関心を持つ開明的幕吏として、長州征伐などを批判し、早くから大政奉還も説いた。この大政奉還は幕府存続のためで、彼は諸大名による会議、つまり議会制の導入を第十五代将軍慶喜にも進言している。

 大政奉還は土佐藩の建白を慶喜が受け入れたものだが、土佐の建白の種を蒔いたのは周知のとおり坂本龍馬だ。そして、その龍馬に大政奉還論を教えたのが実はこの大久保なのだ。大久保が龍馬に会ったのは文久3年4月で、江戸の屋敷に引き籠もっている大久保を龍馬が訪問したのだ。このとき龍馬は勝に従って京都・大坂方面で活躍していた。神戸海軍操練所の設立が決まる直前の時期だ。その3月末から4月初めにかけて、勝は上方に残り、弟子の龍馬が幕府軍艦順動丸で江戸へ往復した。大久保のところへ行ったのは、勝に代わって上方の情勢を報告するためだった。

 1867年(慶応3年)、幕府崩壊後も大久保は幕府会計総裁として戊辰戦争の始末にあたる一方、新政府側からも旧幕府へのパイプ役として重んじられた。勝海舟、山岡鉄舟らとともに江戸無血開城実現に寄与したほか、のち静岡県知事、東京府知事(第五代)、元老院議官などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」