明治新政府は、一口にいって藩閥政治といわれている。この時代、政府高官となった同藩出身者の実業家とが互いに協力し合って、様々な事業を興していったケースが少なくない。いわゆる「政商」だ。土佐藩の岩崎弥太郎(三菱の創始者)がそうだ。そして、長州藩を代表する政商が藤田伝三郎だ。
藤田伝三郎は天保12年(1841)、長州藩で酒造業を営む藤田半右衛門の四男に生まれた。16歳になると父の方針で、長兄が投げ出した醤油醸造業を引き受けて独立することになった。3年間で赤字の店を立派に建て直した。そして、国事に身を捧げる決心をした。
元治元年(1864)、京都に上った伝三郎は志士たちに混じってよく働いた。高杉晋作が組織した、身分制度の枠を取り払った奇兵隊に参加した伝三郎は、そこで山県有朋や井上馨といった、後に大物となった人たちと知り合った。明治新政府が生まれると、山県や井上は政府に入って高官に出世した。ところが、伝三郎は奇兵隊でよく働いたのに、少しもその功績が認められないので、不満の余り勝手に隊を離れて大阪へ向かった。
大阪で一頓挫あった後、伝三郎は大賀幾助を頼って、その店員となって製靴業を始めた。当時陸軍は輸入した靴を兵隊に支給していたが、あまり高くつきすぎるので、何とかして国産に切り替えたいと望んでいた。兵部大丞の山田顕義はかつての先輩だった。そうした伝手をたどって軍用品の製造を始める手がかりを得た伝三郎は、身を寄せていた大賀幾助の業務を継承して製靴業に乗り出した。
そこへ、かつての幕府の上級武士で、明治維新となって斎藤辰吉から中野梧一に名を改めて、新政府に登用されていた中野が、官を辞して大阪に来て、再びめぐりあう。中野は米相場で巨万の富をつかんだところだった。ともに西南の役の軍需品を調達して大いに儲けることになったが、明治初年はまだ政情不安で、佐賀の乱や神風連の乱などが相次いだから、軍靴などは製造が追いつかないくらいだった。伝三郎は中野と組んで征討軍の物品調達を引き受け、軍靴はむろんのこと軍服や糧食や革鞋まで納めて、藤田組という企業体をつくり上げるまでに成長していった。軍需品よりまだ儲かったのは軍夫の斡旋だった。
西南戦争の儲け頭は岩崎弥太郎で、政府から新式の汽船を10隻も買ってもらったばかりか、多額の輸送費を支払われて“戦争成金”となった。東の岩崎と並ぶ西の戦争成金は藤田伝三郎で、軍靴、軍服、紺足袋といった衣類のほか、人夫、軍夫の請負、周旋で大いに儲けた。月収5円か6円で暮らせた時代に約300万円の巨富を得たから、世間の羨望の的となった。
明治14年、初代会頭五代友厚の後を受けて、伝三郎は大阪商法会議所の会頭に就任、関西財界のリーダーの一人となった。彼は関西において大阪硫酸会社、太湖汽船、大阪紡績会社、南海鉄道会社(現在の南海電鉄)などの運営や設立・参画、さらに欧米式の大阪商品取引所の設立、初代理事長なども務めた。明治45年、彼の死後、彼の事業は甥の久原房之助が継承した。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」