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灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

 灰屋紹益(はいやじょうえき)は江戸時代前期の京都の豪商だが、和歌・俳諧・蹴鞠・茶の湯・書などを当時の一流の人物から学んだ知識人でもあった。遊里・島原の名妓、吉野太夫を、関白・近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話はあまりにも有名だ。灰屋紹益の生没年は1610(慶長15)~1691年(元禄4年)。

 灰屋紹益は本名・佐野重孝、別名は承益、又三郎、通称は三郎左衛門。佐野家は本阿弥光悦の縁故の生まれだ。灰屋は屋号。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子となった。薬品のない時代、染めには灰が用いられた。紺染めに用いる灰を扱うため“灰屋”と号したというわけだ。この紺灰業を営み、灰屋紹益は巨万の富を築き、京の上層町衆を代表する豪商だった。

 当主・灰屋紹由の跡継ぎに見込まれて養子となったはずの紹益だったが、彼は商売よりも風雅を愛し、商売そっちのけで和歌、茶道、書道などに凝った。それも単なる遊びで楽しんだわけではなかった。和歌を烏丸光広、俳諧を松永貞徳、蹴鞠を飛鳥井雅章、茶の湯を千道安、書を本阿弥光悦、という具合に当時一流の人物から本格的に学ぶという徹底ぶりで、商人ながら、名の知られた知識人でもあった。

このため、交流のあった人物も幅広い。風雅・文化人はもとより、後水尾天皇、八条宮智忠親王らとも交わったという。そのため、一般庶民の間でも知られていた、井原西鶴の『好色一代男』の主人公、世之介のモデルともいわれているほどだ。

 中でも文筆に優れ、随筆『にぎはひ草』は風流人としての紹益の思想をよく表しており、近世初期の随筆文学の名著との指摘もある。また、紹益がこよなく愛したのが女性だ。彼は最初の妻と死別後、遊里・島原の名妓、吉野太夫を関白・近衛信尋(後水尾天皇の実弟)と争って身請けし、妻としたのだ。1631年(寛永8年)、紹益22歳、吉野太夫26歳のときのことで、4歳年上の女房だった。当初、父・紹由は、遊里の女を身請けするに及んで、紹益に愛想をつかして一時は勘当したほどだ。その後、吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許した。

 人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んだ紹益の句がある。

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

 恋い焦がれて妻に迎えた吉野太夫だったが、美人薄命。吉野大夫は36~38歳ごろ病死してしまう。紹益にとっては身を裂かれるほどの悲しみだったろう。

 「都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして」

と詠んで、吉野太夫を偲んでいる。

 それだけではない。実は凄まじい話が残されている。紹益は吉野を荼毘に付した後、その遺灰を壺の中に残らず納めた。そして、その遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら全部飲んでしまったというのだ。

 現在、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺には紹益、吉野(大夫)二人の墓がある。

 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、「朝日日本歴史人物事典」

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。

 時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。

 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。

 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」

120人が新しい仲間に JJS幼稚部で入園・進級式

120人が新しい仲間に JJS幼稚部で入園・進級式

 ジャカルタ日本人学校(JJS)は4月15日、幼稚部の入学・進級式を開いた。2014年度の新入園児として年少90人、年長30人の計120人が新たに仲間入りした。この結果、総勢199人の園児たちが、これからともに新しい幼稚園生活を過ごしていくことになった。

ベトナムIT大手 2000人の技術者を日本で研修

ベトナムIT大手 2000人の技術者を日本で研修

 ベトナムのソフトウエア開発大手、FPTソフトウェアは日本でベトナム人技術者の日本語研修を始める。社員を来日させ、日常会話ができるようにする。ビザ取得などの準備が整い次第始め、3年間で合計2000人を来日させる。日本でシステム開発の技術者が不足しているため、人材を育てて日本の企業やシステム開発会社からの業務委託を増やす。FPTの社員が9カ月ほど日本語を学ぶ。研修後はベトナムに帰国し、FPTが日本企業から受託したシステム開発に従事する。

JJS新入生251人で在校生過去最高の1199人に

JJS新入生251人で在校生過去最高の1199人に

 ジャカルタ日本人学校(JJS)は4月14日、小・中学部の入学式を開いた。小学部144人、中学部107人の合わせて新入生251人が仲間入りし、上級生や先生たちとの新たな学校生活が始まる。これにより、2014年度の両部在校生は計1199人となり、過去最多だった1997年の1193人を上回った。じゃかるた新聞が報じた。

 齋藤稔校長は、「笑顔あふれる学校にし、生徒・児童一人一人の可能性を伸ばしていきたい」との思いを込めた、2014年度の学校テーマ「笑顔」を発表した。入学式にはJJS維持会の藤岡也寸志・理事長やジャカルタ・ジャパンクラブ(JJC)の吉田晋事務局長らが出席。在インドネシア日本国大使館の青木公使や井上裕PTA会長らが来賓祝辞を述べた。

頼山陽 日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

頼山陽 日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

 今から150年ほど前、日本の最大の文豪は誰か?と問われたら、当時の日本人はみんな頼山陽と答えただろう。それほどに偉い作家、文学者だった。といっても、別に大衆受けするベストセラー作家だったわけではない。明治維新の思想的・理論的指導者だったのだ。

 当時の青年たちの最も心を捉えたのは頼山陽が著した二つの歴史書だった。それは「日本外史」と「日本政記」だ。「日本政記」は天皇家の歴史を書き、「日本外史」は平家から徳川氏に至る武家の歴史を書いている。頼山陽はその中で、時の勢いが歴史の流れを変えていく-と主張する。平家が滅び、鎌倉幕府が滅びていったのは、それらが歴史の動きに取り残され、政権を担当する力を失ってしまった当然の結果だとする。歴史は必然的に動いていく。この歴史観が、尊王倒幕の意気に燃える青年たちを煽り立てた。

 頼山陽の父、頼春水は、安芸国、現在の広島県竹原出身の学者だ。頼家の先祖はその姓を頼兼(よりかね)といい、竹原で紺屋を営んでいた。学者となった春水は、中国風にその一字を取り、頼と名乗ったという。若い頃、大坂で学び、自らも塾を開いていた。頼山陽は、その春水の長男として大坂で生まれた。幼名は久太郎。生没年は1780(安永9年)~1832年(天保3年)。母静子も大坂の有名な学者、飯岡義斎の娘で、当時としては開けた女性だった。山陽が生まれてまもなく、父春水は広島藩の儒官となった。学問の力で町人から武士となったのだ。

 子供の頃、山陽は非常に体が弱かった。ただ、厳格な父は初めのうち、息子を「病気」だと認めようとしなかった。さらに儒官の父は、藩主の供をして江戸へ出ているときが多く、広島の留守宅は母親と病弱の子供の母子家庭みたいなものになっていた。そして父は時々、藩主と一緒に藩に戻ってきて、息子を厳格に叱り、躾けようとする。ただその途中で江戸へ出てしまう。すると、母は寂しがり、またそれを平気で言動に出す人だったから、その寂しさが全部子供にかかってくる。そこで、山陽は溺愛される。この溺愛と厳格とを交互に繰り返される。こんなところから、山陽のいろいろな性格上の特異な点が強く出てきたものと思われる。

 山陽は生涯に3度、この環境からの脱出を図っている。一度はせっかく入学した「江戸昌平こう」からの退学。二度目は広島藩からの脱藩。そして三度目は、先生として迎えられていた菅茶山(かんさざん)の塾からの脱走だ。中でも広島藩からの突然の脱藩は大問題となった。当時の法律では、許可なしに藩の領地を離れると、追っ手がかかり上位討ちされてしまう。しかし、山陽は病気ということで、脱走先の京都から連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉されてしまう。厳格な父も、息子山陽の病気を認めざるを得なくなった。21歳から3年間の座敷牢生活。この間に山陽は「日本外史」の筆を執り始めたのだ。

 山陽は躁うつ病を患い、周囲を心配させつつ、次から次へ、この頼家一族および広島藩そのものに衝撃を与えるようなことをやる。そういうことを通しながら、やがて彼は自分で人生を作り上げていく。つまり、自分の可能性を好きなように伸ばすように、自分の生活を作るということを覚えていって、遂に頼山陽というあの巨大な存在にまで自分を仕立て上げたのだ。

 山陽の子も二つの生き方をした。山陽が53歳で死んだとき、京都の家には二人の男の子がいたが、兄又二郎は父山陽の学者としての面を受け継ぎ、のち東京大学の教授となった。弟三樹三郎は、父山陽の改革者としての面を受け継いだ。反体制運動の実行者として、安政の大獄に倒れた。三樹三郎は、山陽の孫弟子にあたる吉田松陰の墓の隣に葬られている。山陽の死後27年目のことだ。

 

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、童門冬二「私塾の研究」、中村真一郎「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

 

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

 九州の大宰府に左遷された菅原道真や、豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休らとは格は違い、それほど有名ではないが、北辺の探検家だった近藤重蔵も江戸幕府の実力者に疎まれて、左遷に次ぐ左遷の中で生き、死んだ後、人々から「雷」になったと噂された。それは彼が死ぬ前「俺は死んだら必ず雷になって、択捉島や樺太の守護神になる」としきりに告げていたからだ。したがって、近藤重蔵の雷への変身願望は、個人的な怨念を晴らすためではなく、あくまでも北方領土防衛のために、死んだ後も闘い続けるという意気が込められている。

 近藤重蔵は終始一貫して北方領土に深い愛情を注いだ志の高い日本人だった。しかし彼の篤い志は、必ずしも幕府上層部の受け容れるところとはならなかった。むしろ、彼の頑固一徹の性格も災いして、志が篤過ぎたために、かえってうるさがられ、遠ざけられてしまったのだ。

 近藤重蔵は江戸時代後期の幕臣、探検家。御先手組与力、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれた。諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵とともに“文政の三蔵”と呼ばれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童といわれ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持ち主だった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残している。生没年は1771(明和8年)~1829年(文政12年)。

 父の隠居後の1790年(寛政2年)、御先手組与力として出仕。火附盗賊改方としても勤務。1794年(寛政6年)には松平定信が行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。1795年(寛政7年)、長崎奉行手付出役、1797年(寛政9年)に江戸へ帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進した。

 1798年(寛政10年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度、蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地の「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標柱を立てた。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させた。

 1803年(享和3年)、譴責により小普請方。1807年(文化4年)にロシア人の北方侵入に伴い、再び松前奉行出役となり、5度目の蝦夷地入り。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、十一代将軍徳川家斉に謁見を許された。その際、札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭をつけた。

 1808年(文化5年)、江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。しかし、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、1819年(文政2年)、大坂勤番弓矢奉行に左遷。1821年(文政4年)、小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。1826年(文政9年)、長男の近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となり、連座して近江国大溝藩にお預けの身となった。

 

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、杉本苑子「癖馬」 、司馬遼太郎「街道をゆく37」

 

 

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

 三浦鞍針ことウイリアム・アダムスは、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家だ。家康から俸禄とともに、「三浦鞍針」という日本の名を与えられ、異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な境遇のもとで、その生涯を終えた。奇人、ウイリアム・アダムスの生没年は1564~1620年。

 イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入り。造船術より航海術に興味を持つ少年だったという。

 ウイリアム・アダムスが、自身の人生を大きく変えることになったのは、1598年、弟のトーマスらとオランダのロッテルダムから極東を目指す、5隻からなる船団の航海士として乗船したことだった。ウイリアム・アダムス34歳のときのことだ。彼は英国海軍の貨物補給船に身を置き、海戦にも参加したことがあったが、当時は軍を離れて「バーバリー商会ロンドン会社」の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙で、ほとんど家にいることはなかったらしい。そして、25歳のときに結婚したメアリー・ハインとの間に娘デリヴァレンスと息子ジョンの二子をもうけていた。

 極東を目指した航海は惨憺たるありさまで、マゼラン海峡を抜けるまでに、スペイン船に拿捕される船、沈没する船が出る一方、インディオの襲撃に遭うなど次々に船員を失った。弟のトーマスもインディオに殺害された。その結果、極東に到着したのはウイリアム・アダムスが航海士として乗船していたリーフデ号1隻で、出航時110人だった船員は、日本到着までに24人に減っていた。

 1600年(慶長5年)リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。疲労と憔悴で、自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主、太田一吉の出した小船でようやく日本の土を踏んだ。その後、当時、豊臣政権の下で五大老首座だった徳川家康がアダムス、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを初めて大阪で引見。

イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダや英国など新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。家康はしばらく彼らを投獄したものの、何度か彼らを引見した後、釈放。そして城地の江戸へ彼らを招いた。

 江戸に到着後、アダムスは繰り返し英国への帰国願いを出したが叶わず、家康は米や俸禄を与えて慰留。外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。この時期、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたといわれている。帰国を諦めつつあったアダムスは1602年頃、日本橋大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚。彼女との間に息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。

 結婚し家族を得たことでアダムスは精神的に安定、家康の意向に沿って動いている。船大工としての経験を買われて、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80㌧の帆船を建造した。1604年(慶長9年)完成すると、家康は気を良くしてアダムスに大型船の建造を指示、1607年には120㌧の船舶を完成させた。

 この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず、相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦鞍針の名乗りが与えられた。まさに、破格の扱いだ。“三浦”は領地のある三浦半島に因むもので、“鞍針”は彼の職業で水先案内人の意。この結果、彼は異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な人生を送ることになった。この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦鞍針の名乗りもジョゼフに継承されている。

 鞍針の墓は長崎県平戸市の「崎方公園」にある。また、神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には鞍針夫妻の慰霊碑があり、1923年、国の史跡に指定された。

 

(参考資料)白石一郎「航海者」、邦光史郎「物語 海の日本史 三浦按針」

 

 

南方熊楠 粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

南方熊楠 粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

 南方熊楠は博物・生物・民俗学者で、柳田國男とともに日本の民俗学の草創者だ。とくに菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキに因んでの命名という。主著に「十二支考」「南方随筆」などがある。生没年は1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)。萎縮腎により自宅で死去。満74歳。

 熊楠は子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい記憶、家に帰ってその記憶をたどり書写するという特殊な能力を持っていた。9歳の時、儒者で医師でもあった寺島良安が編纂した厖大な百科事典「和漢三才図会」の筆写を始め、5年かけ全105巻を筆写した。

このほか、9歳から12歳にかけて、植物学大事典ともいうべき明の李時珍が著した「本草綱目」52巻21冊、「諸国名所図会」、「日本紀」、貝原益軒の「大和本草」なども筆写したという。何日も家に帰らず、山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。

 子供の頃の性格はその後も変わることなく、1884年、大学予備門(現在の東京大学)に入学するが、彼は学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れた。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、山田美妙などがいた。

 熊楠は1892年、渡英しロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽力。人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。1897年にはロンドンに亡命中の孫文と知り合い、親交を始めている。孫文32歳、熊楠31歳のことだ。

 帰国後は和歌山県田辺町(現在の田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化人類学を展開した。

 菌類の研究では新しい70種を発見し、また1917年(大正6年)自宅の柿の木で粘菌新属を発見。これが1921年(大正10年)“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila 長糸南方粘菌)と命名された。1929年には田辺湾神島(かしま)沖の戦艦「長門」艦上で、紀南行幸の昭和天皇に進講する栄誉を担っている。

 熊楠はエキセントリックな行動が多く、酒豪だったが半面、酒にまつわる失敗も多かった。語学には極めて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとより、サンスクリット語におよぶ19カ国語の言語を操ったといわれる。

 田辺では1906年に布告された「神社合祀令」によって神社林、いわゆる「鎮守の森」が伐採されて生物が絶滅したり、生態系が破壊されてしまうことを憂い、熊楠は1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先駆けとして高く評価されており、その活動は2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された「熊野古道」が今に残る端緒ともなっている。

 

(参考資料)鶴見和子「南方熊楠」、神坂次郎「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」

      津本陽「巨人伝」

本居宣長 ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

本居宣長 ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

 本居宣長は生涯、桜を愛した国学の大成者だ。当時すでに解読不能に陥っていた「古事記」の解読に成功し、「古事記伝」を著した。このように表現すると、堅苦しい、文人気質の学者タイプの人物を想像してしまうが、実際はかなり違ったようだ。確かに本居宣長は常軌を逸した振る舞いが非常に嫌いで、日々の生活態度がかなり厳格な人だった。ところが、彼は医師だった関係で、日々の患者のこと、調剤のこと、謝礼のことなどを、実に細かくつけていたのだ。また、23歳の春、医師になるため京都に留学したが、彼の「在京日記」をみると、勉強もしたが、相当遊びもしたのではないかと思われる。とくに歌舞伎は相当通であったことがうかがえるし、乗馬をしたり、お茶屋へも遊びに行ったのではないかと思われ、酒も相当飲め、とくにタバコが好きだったようだ。その意味では、当然必要だったとはいえ、また青年時代のこととはいえ、従来のイメージの、真面目で、ストイックで、文人気質一辺倒とは裏腹の、日常性に徹するというか、とにかく普通の生活者タイプの学者だったといえる。

 本居宣長は伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿問屋、小津三四右衛門定利(おづさじえもんさだとし)の次男として生まれた。幼名は富之助。名は栄貞。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、鈴屋大人(すずやのうし)と号した。

 伊勢商人は近江商人と並んで、各地の大都会に繰り出して商売を広げてきた。とくに江戸の大伝馬町には、伊勢店(いせだな)と呼ばれる出店がずらりと軒を並べて、手広く松坂木綿を商っていた。しかし江戸の出店の経営は、支配人に任せ、主人は松坂に住んで、趣味的な生活を送る-。これが伊勢松坂の木綿問屋なのだ。宣長の父もまた、そのような旦那衆の一人だった。

 ところが、任せていた支配人の過ちから父は家産を失い、宣長が11歳のとき失意の中で病死した。江戸の出店も、松坂の本宅も整理された。宣長は母かつの手で育てられ、叔父の江戸の店で商いの見習いもしたが、本を読めぬ生活を嫌い帰郷。小さいときからおとなしく、書物が好きだった宣長をみて、母は彼を商人よりも、医者にすることにした。京都に留学した宣長は、堀景山という儒学者の家に寄宿。まず儒学を学び、その後、小児科の医者を目指して5年4カ月を京の都で学んだ。

 28歳。松坂に帰った宣長は、小児科医として開業し、診察、往診、家伝の子供用の飴薬作りもした。そして、忙しい間を縫いながら、なお独力で古典研究を続けた。とくに賀茂真淵の著書を読み、その学問に傾倒した。こうして医業と学問の生活を続けて5年余り。結婚し、長男(後の本居春庭)も生まれたその年の初夏、かねてから心の師と仰ぐ賀茂真淵との対面が実現。1763年(宝暦13年)、賀茂真淵67歳、本居宣長34歳だった。

 真淵は国学者としてすでに名声が高く、国学研究の究極は「古事記」にあり、と考えていた。そして、その「古事記」研究の前段階として「万葉集」の研究が必要だと考えていた真淵は、すでにこれを完成していた。しかし、真淵は「万葉集」の研究に多くの歳月を失い、「古事記」研究を成し遂げるには老い過ぎたことを自覚していた。一方、宣長もまた、古典研究の最終テーマは「古事記」にあると考えていた。同じ志を持つ者の、熱い思いに駆られた二人は、夜の更けるのも忘れて語り明かした。

 真淵は自分の「万葉集」の研究成果を基礎にして、「古事記」の研究を大成するよう宣長を励まし、自らの注釈を施した「古事記」の書入れ本を宣長に託した。二人はここに師弟の縁を結び、宣長は正式に真淵の門人に名を連ね、江戸と松坂の間を書簡で結んで学び合った。しかし、この師弟が直接会って言葉を交わしたのはこの時の面会が最初で最後だった。

 宣長は、真淵から託された「古事記」の研究にそのすべてを注ぎ込んだ。以来、およそ30年、古い茶室を改造して住まいの二階に付け加えた、四畳半にも満たない「鈴屋」と名付けた狭い書斎で続けられた。1798年(寛政10年)、宣長は遂に「古事記伝」全四十四巻を完成した。35歳から始めて69歳まで、実に34年が経過していた。ライフワークを果たした宣長は、その喜びを友人に書き送り、鈴屋に知人や門下生を集めて祝賀の歌の会を催した。

 

(参考資料)西郷信綱「日本史探訪/国学と洋学」、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」