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保科正之 名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要

保科正之 名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要
 会津藩藩祖の保科正之は、徳川二代将軍秀忠の隠し子という血筋の確かさから、また三代将軍家光の死に際して、四代将軍家綱の後見役を仰せつかり、理想的な名君と誉れ高い存在だが、果たしてどうか?生没年は1611~1672年。
 会津藩主としての保科正之の評判はいい。これは、高遠藩3万石から山形藩20万石という破格の加増によって、家臣の給与を3倍から4倍に上げたからだ。戦いで命を張ったわけでも、民政で功労があったのでもないのに、禄高がこれだけ上がれば、藩士や領民が“名君”と感謝感激しても当たり前だ。さらに、会津に23万石で転封されたときも、2割から3割もの加増が一律に行われている。
 飢饉対策として、正之が儒学者・山崎闇斎の助言で古代中国に倣って社倉(米や麦を貯蓄する倉)制度を推進したのはそれなりに成功したが、これも手放しで評価できない部分がある。というのは、これは一種の強制預金で、運用の仕方では租税に上乗せした収奪になりかねないからだ。また、90歳以上の高齢者に生活費を与えたのはすばらしい高齢者対策で、「国民年金の創設」などというのも、ちょっと的外れの評価といわざるを得ない。当時の90歳以上など現在の100歳以上より少なかったはずで、そのような全く例外的扱いをもって福祉対策が充実していたなどと表現することはおかしい。
 幕政の担当者としての事績をみると、「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」「末期養子の許可」が四代将軍家綱のもとでの三大美事とされ、正之の功績とされている。殉死は戦場で功を立てることが難しくなったこの頃になって急に流行りだしたものだ。殉死者は家康にはいなかったし、秀忠にも一人だけだった。ところが、家光の死に際して5人になった。そこで、この愚劣な流行を抑制すべきというのは当たり前の考え方だ。
大名証人制の廃止は、主要35藩の家老嫡子の江戸在住だけが廃止されたのであって、決して大名家族の人質政策が廃止になったのではない。末期養子の許可は、嫡男がいないだけでお家取り潰しするのは、もともと厳しすぎる、極端な政策だったから緩和は妥当だ。ただこの廃止により、できの悪い大名を残すことになった。そして石高の固定化は、大名についても一般の武士や庶民についても、有為な人材にとってチャンスが少なくなることを意味した。
まだある。明暦の大火(1657)の後、蔵金が底を尽くという批判をものともせず、罹災者に救援金を与えたことや、江戸の大々的な都市改造を行ったことも美談とされる。しかし、その結果、家光時代に金銀だけで400万両から500万両、物価水準を考えると、およそいまの1兆円の蓄えがあったのを、ほぼ使い果たしてしまった。単なるばらまきで財政を破綻させたのだ。
刑罰の軽減化などに具体化された独特の「性善説」に基づく正之の哲学は、ユニークで魅力があり、江戸時代の名君の原型に挙げる人が少なくない。ただ、あるべき指導者の姿としての「名君」としては、かなり割り引いて考えざるを得ない。カネと権力あればこその「名君」だったといえるのではないか。

(参考資料)八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

 

築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も

築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も
 徳川家康の正室、築山殿は今川義元の姪だが、その血筋からか様々な、興味深い伝説を残している。意のままにならない苛立たしさや、夫・家康との意識のずれも加わって、わが子・嫡男信康可愛さのあまりか、正常な神経ではとても考えられない“暴挙”に出ている。そして、そのことがわが子ともども、身の破滅を招くことになった。築山殿の生没年は1542(天文11)~1579年(天正7年)。
 夫の徳川家康の幼年~青年時代が人質生活だっただけに、解放後の家康の出世ぶりが、築山殿の婚姻後の人生に大きな影響を与えた。そこで、築山殿に関係する歴史の流れをざっと見ておこう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで伯父の今川義元が織田信長にまさかの敗戦を喫し、松平元康(後の徳川家康)は晴れて岡崎に帰還する。
1562年(永禄5年)、築山殿の父・関口義広(今川義元の一族)は元康が信長側についた咎めを受け、今川氏真の怒りを買い正室とともに自害。築山殿は今川義元の妹の夫で、上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児と於大の方(家康の母)の次男源三郎との人質交換により、駿府城から子供たちと家康の根拠地の岡崎に移った。しかし、於大の方の命令により岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。1567年(永禄10年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚。しかし、築山殿はいぜんとして城外に住まわされたままだった。1570年(元亀元年)、ようやく築山殿は岡崎城に移った。
 1579年(天正7年)、徳姫は後に「信長十二ヶ条」に記されることとなる、築山殿の信康への自分に関する讒言、築山殿と唐人医師減敬との密通、武田家との内通を信長に訴えたという。これにより信長が家康に築山殿と信康の処刑を命じたとされる。家康の命令により、野中重政によって築山殿は小藪村で殺害された。信康は二俣城で切腹した。
 築山殿の名は瀬名姫。別名を鶴姫。父は今川義元の一族、関口義広(関口親永との説もある)。母は今川義元の妹にあたる。また、室町幕府の重鎮、今川貞世の血を引く。1557年(弘治3年)、今川氏の人質だった徳川家康(当時の松平元康)と結婚。駿河御前とも呼ばれた。1559年(永禄2年)嫡男・信康、1560年(永禄3年)亀姫をそれぞれ産んだ。
 今日残されている築山殿の伝説は、およそ次のようなものだ。
①夫の徳川家康と別居状態にあった築山殿は、唐人の鍼医・減敬と内通した。
②その減敬は実は武田の間者で、築山殿を篭絡し、彼女を武田方へ内通させた。
③減敬の誘いに乗った築山殿は、わが子・信康可愛さに武田方への内通を確約し、信康の同意を得ることなく、勝手に信康を大将に謀反の計画を進めた。
④築山殿は嫉妬深い女だった。彼女の侍女おまんが家康の目に留まって、手がつき身籠った。このことを知った彼女はおまんを木に縛り付け、裸にして散々に打ち据え、そのまま放置した。
⑤信康の正室、徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる築山殿とすれば、仇のかたわれと思った。そこで嫁の徳姫に辛くあたり、調伏の呪詛を行った。
こうしてみると、いずれも悪女のなせるところと思わざるを得ない。しかし、築山殿は本当にこんな悪女だったのか。後世、徳川幕府が始祖、家康を神聖化するあまり、家康の長男殺害というショッキングでスキャンダラスな事件の要因を築山殿に押し付け、スケープゴートに仕立て上げたためではないのか。
いずれにしても、年上で、恐ろしく嫉妬深くて気の強い、この築山殿の存在が、家康の女性観に大きな影響を与えたことは否定できない。身分の高い女など妻にするものではない。もう懲り懲りだ。その教訓、いやトラウマに近いものが家康にあったかも知れない。何しろ、築山殿を除くと、家康が愛した女性は一人として上流階級の出身者はいない。下級武士や下級神職の娘や百姓の後家など、すべて下層民の出身なのだ。天下の徳川家康の女性観を決定づけた女性、築山殿とはそんな人物だった。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、井沢元彦「暗鬼」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

 

三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」

三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」
 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ-という意味だ。 
 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622~94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。
 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。
 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい-と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう-と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。
 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。
そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716~36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける-とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする-とある。まさに巨富としか表現のしようがない。
天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、小島直記「逆境を愛する男たち」、中内 功・中田易直「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商 三井高利」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」
 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。
 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。
 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。
子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。
子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。
野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

 

 

 

 

 

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅
 武家社会、商人にとって何よりも恐ろしいのは“闕所(けっしょ)”だった。商人が闕所になると、資財はすべて没収され、家屋敷も召し上げられて、それこそ裸になって住居を追われなくてはならない。江戸時代前期の浪花商人の代表が淀屋であり、その闕所になった豪商の筆頭が淀屋だ。淀屋といえば世に名高いのが淀屋辰五郎だが、正確にいえば淀屋の家系図に辰五郎という人物はない。したがって、一般的に通り名となっている辰五郎は俗称ということになる。
 現在、大阪市役所のある御堂筋の少し南に淀屋橋が架かっているが、これこそ淀屋を記念したもので、常安町の地名もまた淀屋常安からきている。このように町名や橋の名になって淀屋の名が残っているのは、現在の中之島をつくり、大阪の中心部を砂州から陸地として開墾したのがこの淀屋だからだ。
淀屋の屋敷は表は北浜に、裏は梶木町(現在の北浜四丁目)に及び、東は心斎橋、西は御堂筋に至るという広大な地域を占めていて、敷地にしておよそ2万坪を所有していたという。そこに百間四方の店を構えていたというから、すごいスケールだ。 
 淀屋のルーツは山城国で岡本姓を名乗る武士の出身だった。豊臣秀吉の世になって大坂に移り住んだ。十三人町(大川町)に居を定めた常安は、淀屋と称して材木を商っていた。大坂冬の陣に際して、時代の趨勢を読む先見の明があったからだろうか、常安は関東方に味方、積極的に協力した。その褒美として徳川家康は、常安に八幡の山林地三百石と朱印を与えた。そのうえ帯刀を許され、干鰯(ほしか)の運上銀をもらえることになった。
また彼は大坂冬夏の陣で、各所に散乱している死体を片付けて鎧、兜、刀剣、馬具などの処分を任せてもらった。この戦場整理で、彼は巨富をつかんだ。徳川方に賭けた彼の狙いは見事に的中して、多くの権益と利益を得たばかりか、戦後の大坂で大きな発言権を持った。彼は全国の標準になるような米相場を建てたいと願い出て許された。功労者淀屋常安の願い出でなかったら、あるいは許されなかったかもしれない。こうして諸国から集まってくる米は、常安の邸で品質、数量に従って相場を建てられることになった。それはいわば全国の米を一手に握ったようなもので、彼は莫大な利益を得た。
彼には三男二女があった。淀屋の系図でみると、長女が婿養子をもらっている。この養子を長男としていたので、実子の三郎右衛門が次男ということになっている。この言堂三郎右衛門が古庵と号し、淀屋橋屋の祖となった。ただ代々、三郎右衛門と称し、古庵と号したといわれ、まぎらわしい。二代目は父が築いた財産と稼業を基礎として、さらに富を増やしていった。元和8年に魚市場、慶安4年に青物市場をそれぞれ支配下に治め、三大市場を一手に握った。こうして二代目は日本一の富商となった。
二代目には実子がなく、そこで弟五郎右衛門の長男、箇斎を養嗣子として迎え、三代目三郎右衛門を名乗り、淀屋の身代と事業を継いだ。ただ、この三代目にはさしたる業績は伝わっていない。箇斎の子、重当が四代目だ。ここまでは父祖の業務と身代を何とか無事に守ってきたが、重当の子の五代目三郎右衛門の時に、あまりに驕奢(きょうしゃ)が過ぎるというので、お上のお咎めを受けて遂に闕所になってしまった。
それは宝永元年(1704)2月、財政に行き詰まった幕府が発した質素倹約令に反するというものだった。初代常安の時代は、徳川将軍とあんなに親密だったのに、五代目ともなると全く疎遠になっていた。と同時に淀屋が大坂商人本来の律義さと節約の精神を忘れ、あたかも大名にでもなったかのように驕り高ぶっていたことに天罰が下されたともいえよう。
初代なら集めた富の魅力を、一人でこっそり楽しんだだけで、世間に見せびらかすようなバカな真似はしなかっただろう。淀屋の闕所によって淀屋からカネを借りていた諸大名は借金棒引きとなり、助かったことはいうまでもない。また、この結果、淀屋の莫大な財産はこれを没収した幕府の所有物となった。だから、淀屋の闕所はそれが狙いだったともいえる。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」

 

 

 

 

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」
 文化6年(1809)6月、加賀藩主前田斉広が招いた学者、本多利明は「経世済民」論を説く中で「海に国境はない」と明言した。この言葉は、39歳から廻船業に乗り出した銭屋五兵衛が持ち前の決断力と実行力で、次第に海運界で頭角を現し、その全盛期には藩の枠を越え、国を越えた貿易に乗り出す際、常に意識していたことだった。
 本多の論旨はこうだ。経済という言葉は元々「経世済民」の四文字から取られたもの。経世済民というのは、世を整え民を救うという意味だ。換言すれば仁政を施し、困窮農民を救うということだ。そのためには日本の各地域でできる産物を、地域同士で交換する必要がある。それには陸、海を含め交通が滑らかでなければならない。
ところが、現実は二百数十の国々(藩)があり、境を設けている。海はさらにひどい。国を閉じている(鎖国)ため港に外国の船が入ることができないし、日本の船が外国に行くこともできない。しかし本来、海に国境はない。日本の土地には限りがある。日本に住む万民の需要を日本の産物だけで満たそうとしても無理だ。やはり外国から産物を輸入しなければならない。日本もこの際、思い切って大船をつくり外国と交易を始めるべきだ。
 本多の「経世済民」論に深い感銘を受けた五兵衛は、加賀藩執政奥村栄実と交流を重ねて得た前田家御手船鑑札を武器に、業容を飛躍的に拡大。前田家から年々強いられる金銀調達(=損失)をはるかに上回る利益を得た。江戸、大坂、兵庫、長崎、新潟、酒田、青森、弘前、松前、箱館などに大規模な支店を置き、津軽の鯵ヶ沢、田名部、伊豆の下田、戸田、越後柏崎、越前三国の要地に出張所、代理店を設け、その数34カ所に上った。嘉永4年(1851)ごろ、五兵衛の持ち船は千石船クラスの船が10艘、五百石以上が11艘など大小合わせて200艘を超えたという。
 全国の取引先は当時の豪商を網羅していた。江戸の松屋伝四郎、京都の太物問屋近江屋仁兵衛、万屋林兵衛、大坂北堀江の加賀屋林兵衛、安達町の炭屋安兵衛、兵庫の北風荘右衛門、青森の山本理右衛門、越前武生の金剛屋次郎兵衛、越中伏木の堀田善右衛門、越後柏崎の牧口家、酒田の本間家などだ。
彼は西廻り航路、東廻り航路のいずれも利用し、藩際貿易により巨利を得た。蝦夷地の海産物を江戸、大坂へ運送。幕末には江差3000軒といわれる商家のうち、1500軒は加賀衆だった。蝦夷随一の豪商村山伝兵衛も能登出身だ。彼の蝦夷地における商品仕入れが順調に行われたのは、現地加賀衆の協力が得られたためだった。全国諸藩の商人たちは、加賀百万石の前田家御手船鑑札を見ると五兵衛を信用し、どのような信用貸しにも応じるというわけだ。
加賀百万石の藩船を駆使しての信用力を背景に、幅広く海外と密貿易していたとの例証がある。オランダ語などを話せ、絵画、彫刻、算数、暦学、砲術、馬術、柔術なども究めたという通称大野弁吉とめぐり合い、伝承を含めて記すと、五兵衛は朝鮮東方近海の竹島(鬱陵島)でアメリカ捕鯨船と交易。樺太へも進出し、山丹人を相手に家具類を売り、現地の産物を仕入れ、大坂で売却していたという。
またロシア沿海州の港へ米を運送し、毎年2万石を売却していた。この事実は五兵衛の死後、嘉永6年(1853)に長崎へ入港したロシア使節プチャーチンにより日本側にもたらされた。勝海舟も「銭五(銭屋五兵衛)の密貿易なんていうことは、徳川幕府ではとっくに分かっていたけれども、見逃していたのだ」と言っている。
このほか、五兵衛は豪州南部のタスマニア島に足跡を印していたという話もある。海外に限らず、藩を越えての交易としては薩摩藩領近海での例がある。五兵衛の持ち船が、薩摩南西端の坊津湊へ風待ちのためしばしば入津したことは、現地でもよく知られていることだという。坊津は薩摩藩島津家が密貿易に利用した湊だ。
巨万の富を得た銭屋も奈落に落とされる時がくる。79歳の五兵衛が晩年、子孫の繁栄を願って試みる最後の大事業、河北潟干拓工事で投毒容疑をかけられ、逮捕されてしまう。そして藩の手で、巨大な財産は全部没収された。そのうえ五兵衛は執拗な拷問の果てに、嘉永5年(1852)80歳で牢死し、息子の要蔵は磔になる。銭屋は徹底的な弾圧を受けたわけだ。
 銭屋の先祖は武士だった。小岩を姓とし、前田利家の家来で舟岡山城主高畠石見守定吉に仕えていたが、善兵衛の代に関ケ原の合戦後、帰農して能美郡山上郷清水村に住んだ。善兵衛の子吉右衛門のときに金沢に移住し、さらに寛文年間に宮腰に引っ越して質屋と両替商を始め、それまでの清水姓を捨て、銭屋を称するようになった。それから徳兵衛、市兵衛、三右衛門、五兵衛…と続く。この五兵衛は、ここで取り上げた五兵衛の祖父である。

(参考資料)南原幹雄「銭五の海」、津本陽「波上の館 加賀の豪商・銭屋五兵衛の生涯」、童門冬二「海の街道」、同「江戸の賄賂」、日本史探訪/「銭屋五兵衛 獄死した豪商の雄大な夢」、安部龍太郎「血の日本史 銭屋丸難破」、邦光史郎「物語 海の日本史」

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 
 三野村利左衛門は幕末から明治の初期の激動期、天下の富豪が相次いで倒れていく中、三井家を襲った幾多の窮地を救った大番頭で、影の功労者だ。
 利八と名乗った彼の前半生は霧に包まれている。生地は信濃(長野県)または出羽(山形県)ともいう。いやそうではなく、出羽の浪人を父に、江戸で生まれたとの説もある。だが、いずれも確証はない。両親とも死別し、天涯孤独となった利八が、放浪無頼の生活を続けた後、江戸へやってきたのが天保10年(1839)、19歳の時のことだ。深川の干鰯問屋、丸屋に住み込み奉公。後にその才覚を認められ旗本、小栗家の雇い中間に召し抱えられた。小栗家は先祖が徳川家の縁筋に当たる名家で、禄高は2500石、利八が奉公した頃の当主は小栗忠高だった。この跡を継いだのが、その子・小栗上野介忠順で、後に勘定奉行として名を馳せた人物だ。
 神田三河町の油、砂糖問屋、紀ノ国屋の入婿となり、娘なかと結婚した。利八25歳、なか19歳だった。義父の死に伴い彼は美野川利八を襲名し、紀ノ国屋の財を足がかりに、小銭両替商を開業。これが江戸における筆頭両替商、三井両替店に出入りするきっかけとなる
 当時、ペリーの黒船来航で日本は大きく揺れ動き、豪商三井家も再三にわたり幕府から巨額の御用金を申し付けられ、破産の危機に直面していた。これを拒否すれば、そのしっぺ返しに幕府は三井家に「闕所」(けっしょ=財産没収)を言い渡すことは間違いない。頭を抱えた三井家では減額を嘆願することにした。このとき浮かび上がったのが、出入りの脇両替屋の利八だった。小栗家で信頼をうけている彼なら…と望みを託したのだ。こうして勘定奉行、小栗説得を任された大役だったが、結果は大成功。利八は三井家への御用金は免除、そのうえ幕府が江戸市中への金融緩和政策として行っている、貸付金の取り扱い業務「江戸勘定所貸付金御用」まで貰ってきたのだ。
 こうして三井家重役の絶大な信頼を得た利八は三井家当主、三井八郎右衛門高福に対面を許され、三井家の「三」、紀ノ国屋美野川利八の美野川の「野」、亡き父の養子先の木村の「村」を取り、」「三野村」を名乗り、破格の待遇で三井入りする。利八46歳のことだ。以来、利八は三井両替店の番頭(通勤支配格)として幕末維新の金融争乱の真っ只中を奔走する。
 三野村は、明治新政府の中心は薩長にあるとにらんで、長州の要人に接近、井上馨と組んで新政府の税収や公金の取り扱いの代行を引き受けた。江戸改め東京に日本初の洋風建築を試みて、5階建ての三井組バンクをつくったのも彼の才覚だった。三井越後屋の分離(三越の創立)と、銀行業への進出が実行された。この頃になると、三井の総指揮は三井家当主を頭に戴いた三野村利左衛門に任され、彼は大番頭となった。彼は明治の動乱期の大波に揺れる三井丸のパイロット役を果たしたばかりか、資本主義経済の世の中へ向かって、三井家の針路を決める大事な役目を果たし、三井銀行、三井物産の創設に関わった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、三好徹「政商伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、小島直記「福沢山脈」

 

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商
 京都市を北から南へ流れる鴨川。これと平行に、その少し西を走る細い1本の運河がある。森鷗外の「高瀬舟」で知られる高瀬川だ。今は高瀬舟の影もないが、鷗外が記したこの高瀬川は370年の昔、河川開鑿に賭けた一人の京都の大商人によって造られた。角倉了以だ。彼は戦国末期から江戸初期に生きた大事業家だが、大堰川(桂川)、富士川、天竜川など、とくに日本の水運に力を尽くした人だ。
 角倉家はもともと吉田姓をとなえ、室町幕府に医師として仕えていた。この一族が発展する貨幣経済の先端、土倉(一種の金融業)として巨大になるのは、了以の祖父、宗忠の代である。角倉家には二つのはっきりした異質の血が流れている。一つは医者としての、もう一つは代々、土倉業を行ってきた商人としての血だ。医師としての家系は、了以の弟、宗恂に伝えられ、彼は医術をもって徳川家康から禄を受けている。了以は実業家、企業家としての血が、非常に色濃く流れていた
 了以が京都の高瀬川を開き「高瀬舟」を走らせるのには、実は他で見た情景がヒントになっており、彼のオリジナルではない。彼が交易品の調達のため倉敷を訪れその際、親戚を伴って岡山に遊びに行った。陽気のいい時期だったので、親戚は彼を近くの高梁川の水遊びに誘った。そこで彼は乗った船の脇を底の浅い船がしきりに行き交いするのを見た。それが、海や平野部の品物を山に運び、山から山の産品を積み下ろしてくる「高瀬舟」だと知る。これが彼に転機を与えた。
 二条で樋口を設け鴨川の水を取り、九条で鴨川を横切り、伏見で淀川に接するという大工事を数期に分けて、“高瀬川開鑿プロジェクト”を計画した。全長10㌔、川幅8㍍、舟入れ9カ所、舟回敷2カ所、工費7万5000両という大工事が完成したのは、慶長19年秋である。この完成によって、大坂から伏見まで三十石船で運ばれた物資は、伏見で高瀬舟に積み替えられ、京の市中に運ばれた。この運河ができたことにより、京都の経済はこれまで以上に潤うことになった。
 上りの高瀬舟を引く綱引きのホイホイという掛け声が、明治の頃まで両岸数㌔にわたり聞こえた。その高瀬舟159艘。運賃は1回2貫500文。うち1貫文は幕府に、250文は船加工代に、残り1貫250文が角倉家に入った。この開通により京の物価が下がったという。
 角倉了以の仕事の特色は公共性の強い土木や海運、異国交易、河川の開鑿だ。そのうえ了以の性格もあって、自ら陣頭に立って仕事の指揮をした。ただ、ここで忘れてはならないのが、息子の角倉与一(素庵と号す)の存在だ。了以と素庵との仲は、年が17歳しか離れていないこともあって、半ば兄弟のような関係だった。家業の中での役割分担で一番重要なことは、幕府との折衝だった。朱印状や河川開鑿許可など外交的な折衝はすべて素庵の仕事だった。だから了以がやった偉大な事業のほとんどが、この親子の共同事業といっていい。
 了以は宇治・琵琶湖間の疎水計画を幕府に願い出た。これは琵琶湖・宇治川間に運河を引くだけでなく、これにより琵琶湖の水位を下げ、6万石ないし20万石の上田を作るという雄大な計画だった。家康も承諾したが、彼はそれを知ることなく、慶長19年(1614)7月12日、世を去った。

(参考資料)日本史探訪/江戸期の豪商「角倉了以 高瀬川を開いた京の豪商」(辻邦生・原田伴彦)、童門冬二「江戸のビジネス感覚」、童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、邦光史郎「物語 海の日本史 角倉了以・素庵父子」

藤原鎌足 大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖

藤原鎌足 大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖
 645年(皇極4年)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で起こった蘇我入鹿暗殺事件の首謀者は誰だったのか。恐らくは20歳の中大兄皇子と32歳の中臣鎌足との見方が有力だ。半面、詳細は今日においても断定できない部分もある。しかし、この事件によって蘇我宗家の政権支配は崩壊、クーデターは成功した。入鹿を討たれた父・蝦夷は翌日、自害し蘇我氏宗家は壊滅した(乙巳の変)。
そして、新政府は入鹿暗殺のわずか2日後に樹立。中大兄皇子を皇太子とし、藤原鎌足(当時は中臣鎌足)を内臣(うちつおみ)とする大化の改新がスタートした。これまで無名に近かった中臣鎌足が、一躍時代の実力者として歴史の表舞台に躍り出たのだ。鎌足はこの後、中大兄皇子=天智天皇の腹心として活躍、日本に史上初の官僚機構を創っていく。
 元々は中臣氏の一族で、初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた。その後、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に改名。臨終に際して天智天皇より大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。出生地については「藤氏家伝」によると、大和国高市郡藤原(現在の橿原市)だが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(「大鏡」)もある。子供は長男の定慧(じょうえ、俗名は真人、644~665年)(僧侶=遣唐使として渡唐)、次男の不比等(659~720年)の二人が知られている。
 鎌足は早くから中国の史書に関心を持ち、あのマキャベリズムの聖書といわれる中国兵法の書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、そこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。鎌足は密かに蘇我氏打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近。また、蘇我氏一族の内部対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。乙巳の変の功績から内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。但し、内臣は寵臣・参謀の意味で、正式な官職ではない。
 鎌足は氏族連合から、天皇を中心とする中央集権体制に転換すべく、律令国家への第一歩として、それまでの各豪族の私有だった人民と土地を、すべて国有とする「公地公民制」、官僚制度の整備を目指す「冠位制」の制定を、朝廷の宰相として強力に推し進めた。鎌足の定めた「冠位制」は、それ以前の聖徳太子による「冠位十二階制」を改めたもので、「徳・仁・礼・信・義・智」といった、それまでの徳目を用いず、織・繍・錦などの冠の材質と、紫・青・黒という色彩によって区分された。
 鎌足は中大兄皇子と二人三脚で、断固とした姿勢で改革に取り組んでいた。そのため計画を阻む者は容赦なく滅ぼした。649年(大化5年)、入鹿暗殺の功労者、蘇我倉山田石川麻呂が讒訴を受けて自殺に追い込まれている。鎌足はかつての主君、孝徳天皇が中大兄皇子と仲違いすると、これを冷酷に切り捨てて、667年、近江大津京遷都を断行している。また、日本最初の国立学校=「庠序(しょうじょ)」を開設。家財を投じて神仏を保護したかとみれば、百済救援軍派遣の軍事的冒険を決断し、663年、白村江で唐・新羅連合軍に惨敗して、終戦処理に奔走しなければならなかった。
ところで、これだけ強力に諸施策を断行してきた鎌足だが、彼個人にとって悲しい事件がある。653年(白雉4年)、孝徳天皇を難波に残して飛鳥に移ったこの年、鎌足の子、定慧が出家、入唐しているのだ。当時は次男の不比等はまだ生まれていないから、一人息子だ。しかも中臣家は神官の家柄、それにも増して当時、唐へ渡ることは大変な、命の危険を伴った。政治家として成功の道を行く鎌足が、どうしてこの大事な一人息子を出家させて唐へやったのか、極めて謎めいている。定慧は唐へ渡り、それからさらに百済へ行く。しかもその百済が滅んで、日本へ帰ってきている。ところが、この定慧は日本へ帰ってわずか3カ月、23歳の若さで毒殺されているのだ。
これには定慧の出自がからんでいる。史料によると、定慧の生年はおそらく皇極2年か3年。この年、孝徳天皇つまり軽皇子が自分の妃、阿倍小足媛を鎌足に与えているのだ。つまり定慧は軽皇子の子、あるいはその疑いのある人物だったということだ。となると、中大兄皇子と孝徳天皇の仲が決定的に冷え込んだとき、あるいは対立したとき、鎌足が孝徳天皇の子供であるという嫌疑を持たれている定慧を手許に置いておくことは、中大兄皇子の手前都合が悪かったのだ。そこで鎌足は因果を含めて唐へやったのではないか。だから、定慧は日本へ帰ってきてはいけない人物だったのだ。
668年(天智7年)、鎌足は「補佐役」として、宿願の中大兄皇子の即位(=天智天皇)を実現した。鎌足が没したのは、その翌年だ。享年56。律令制はすべてが鎌足によって、実行に移されてはいない。その多くが完成をみたのは、彼の次男、藤原不比等の代以降だった。だが、鎌足は律令制への道を開いた革命家だったといえよう。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、井沢元彦「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「日本史探訪/律令体制と歌びとたち」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

由利公正 横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男

由利公正 横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男
 福井・越前藩士で当時、三岡八郎といっていた由利公正は、「藩富」のた
めの殖産興業を奨励した横井小楠の経営哲学を徹底して実践した。横井小楠
は「地球上にも、有動の国と無道の国がある。有動の国というのは、王道政
治を行っている国のことだ。無道の国というのは覇道政治を行っている国の
ことだ。王道政治というのは民に対して仁と徳を持ってのぞむことだ。覇道
政治というのは、民に対して力と権謀術数を持ってのぞむことである」と定
義した。
由利公正は幕末から明治にかけて活躍した英傑だ。彼が仕えたのは名君と
いわれた松平慶永(春岳)である。慶永は他家から入った養子なので、有
能なブレーンを次々と登用した。その一人が藩の医者だった橋本左内であ
り、また九州熊本から招いた既述の横井小楠だ。小楠は家老よりも上席の
ポストも貰って、藩士たちに学問を教えた。三岡八郎はこの小楠の考えに
共感した。そして尊敬し、教えを受けるために小楠の家を訪ね、小楠も八
郎の家にやってきた。二人でよく酒も飲み交わした。
 越前藩は32万石の大藩だが、藩の財政は貧乏のどん底にあった。そのた
め、寛永年間、幕府から正貨2万両を借り入れ、これを基礎として4万両の
藩札を発行し、必要ある場合いつでも正貨と交換するという兌換制度をつく
った。これがわが国における藩札発行のはじめだ。同藩の窮乏は脱出でき
ず、藩札は増発され、結局は不換紙幣となってしまうのだが、明治政府の財
政担当者第一号が越前藩士から出るそもそもの機縁はここにあった。
 横井小楠の教えに従って、越前藩でも産業奨励を行うことになった。その
責任者に選ばれたのが三岡八郎だ。八郎は「藩が富むためには、民がまず富
まなければならない」ということを実行しようと企てた。その方法として
①藩内で生産される製品に、付加価値をつけて高く輸出できるようにする
②藩に物産総会所を設ける③藩内の生産品は物産総会所が買い上げる。この
時は、藩札をもって支払いに充てる。そして、これを売り払った時の収入は
正貨とする-とした。藩札の使用などは他の藩とそれほど変わらない。しか
し、藩が設けた物産総会所の運営を商人に任せたことは、他藩より一歩進ん
でいた。
 藩が物産総会所を持つということは、藩が商社をつくったということだ。
藩が藩内物産の専売を行うということは「武士が商人になること」であり、
同時に「藩(大名家)が商会化した」ということだ。つまり商人のお株を奪
って、武士と武士によって組織されている大名家が前垂れ精神を持って商売
を始めたということだ。だから、三岡八郎は「あいつは銭勘定ばかり堪能
で、武士にあるまじき振る舞いをしている」とバカにされてきた。ところ
が、横井小楠の出現により、これまでの八郎に対する批判が間違いだと指摘
されたのだ。
 横井小楠は英国を例に「自国の産業革命以来生産過剰になった物品を売り
つけるために、アジアをマーケットにしようとした。しかし、いうことを聞
かない中国にはアヘン戦争を起こして、無理矢理自国の製品を買わせてい
る。あんなやり方は王道ではない。覇道だ。いまの世界で王道を貫けるのは
日本以外ない。そうすれば、日本の国際的信用が高まり、多くの国々が日本
のマネをするようになるだろう。日本は世界の模範にならなければならな
い」と唱え続けた。
 その国内における実験を越前藩で実行する三岡八郎も「越前藩の藩内生産
品に付加価値をつけて高く売るといっても、おれは覇道を行うわけではな
い。商業を通じて、王道を実践するのだ」という自信を持っていた。
 三岡八郎は明治維新になってから、由利公正と名を変える。彼の新政府に
おける最初のポストは財政担当だった。新政府の参与に推薦されたが、カネ
の全くない財政運営がその任務だ。普通なら冗談じゃないと抗議するところ
だが、彼には越前藩での財政改革の経験がある。彼以外に財政問題には体験
も見識もなかった。そのため、そのリーダーシップはおのずと由利公正が握
るところとなった。彼は慶応年間から明治にかけて、寝る間も惜しんでこの
仕事に専念した。素人ばかりの明治新政府にあって、由利公正の財政的手
腕、経歴は断然傑出していた。
 由利公正はその後、東京府知事や元老院議官にもなった。明治維新直後に
「議事之体大意」という国事五箇条を提出した。これが、後の「五箇条のご
誓文」の原案になる。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材」、童門冬二
      「江戸商人の経済学」、小島直記「無冠の男」