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槇村正直 東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物

槇村正直  東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物
 槇村正直(まきむらまさなお)は明治時代初期、東京奠都で衰退しつつあった京都の近代化政策を強力に推進した中心人物だ。当時、全国に先駆けて行おうとしたものも少なくなかった、槇村の施策に呼応した「町衆」と称される商工業者たちにより、京都の近代化が確立していった。槇村の生没年は1834(天保5)~1896(明治29年)。
 槇村正直は山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となった。初名は半九郎、のち龍山と号した。
 槇村の出世は藩閥を抜きには語れない。1868年(明治1年)、長州出身で維新政府の要職に就いた木戸孝允は、幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槇村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槇村は議政官試補皮切りに、徴士・議政官、大阪府兼勤。そして権弁事を経て京都権大参事となった。1870年の小野組転籍事件に関連し、謹慎を命じられたが、その後、34歳の若さで1871年、京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場になった。長谷知事退任に伴い、1875年京都府権知事になり、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)に就任した。彼は会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。
 槇村が行った主な京都近代化政策は①1869年(明治2年)、小学校の開設②1870年(明治3年)、舎蜜局(せいみきょく)の創建③1871年(明治4年)、京都博覧会の開催④1872年(明治5年)、都をどりの創設⑤1872年(明治5年)、新京極の造営⑥女紅場(にょこうば)の創建-などだ。
全国に先駆けて学区制による小学校開設に着手し、町組ごとに64校の小学校をつくった。大阪市本町の舎蜜局とは独立して、京都における舎蜜局(理化学工業研究所)を明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村が勧業場の中に仮設立した。理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、島津源蔵ら多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。博覧会は日本で最初で、三井八郎衛門や小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。
 都をどりは槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになった。新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路をつくり、恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。女紅場は女子に裁縫、料理、読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校だ。
 こうして生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。これは槇村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果だった。ただ、近代国家の体制ができ上がり、地方政治の制度が整ってくると、槇村の裁量権の幅も次第に縮小し、やや強権的な政治手法は新たにできた府議会などとの対立も引き起こした。
 槇村は1881年(明治14年)辞表を提出、知事の座を北垣国道に譲って京都を去った。そして東京へ移って、元老院議官となり、行政裁判所長官(1890~1896年)、貴族院議員(1890~1896年)などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

 

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身
 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。
頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。
 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。
 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。
結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。
 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。
 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。
 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

福沢桃介 日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

福沢桃介  日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家
 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。
 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。
桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。
破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。
1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。
1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。
こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。
桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

中島知久平 日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

中島知久平  日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王
 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。
 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。
 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年
にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。
中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。
 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。
その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

 

前野良沢 蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者

前野良沢  蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者
 前野良沢といっても、いつ、どのようなことを成した人物かと問われても、とっさには出ない人が多いのではないか。良沢はオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の編纂に携わった主幹翻訳者の一人だ。ところが、解体新書発行当時、良沢は自らの名前を出さなかったため、その業績は知られておらず、『解体新書』発行の功績は杉田玄白一人に帰した感がある。だが、現実に即していえばオランダ語に群を抜いた知識を持つ良沢を除外しては、翻訳事業が成り立たなかった。ひいては、1774年時点で、内容的にあのレベルの『解体新書』刊行はなかったと思われる。
杉田玄白はターヘル・アナトミアの翻訳事業を推進させた功績者ではあった。だが、彼にはその翻訳を一日も早く公にすることで名声を得たいという野心も十分にあった。それは人間としてある意味では当然の欲望だったが、学究肌の良沢にはそれが度を超えたものとして映った。そのため、良沢は翻訳事業が終了したとき、『解体新書』はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけた後に行うべきだと考えていた。しかし、玄白は刊行を急いだ。良沢はそれについていく気になれず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。玄白はそれを素直に聞き入れた。その結果、『解体新書』の訳者は杉田玄白ただ一人となったのだ。
 『解体新書』が華々しい反響を得た中で、前野良沢は書斎に閉じ籠った。53歳だった。病と称して門を閉じ、交際も極力避けた。訳書の量は増えていったが、名利を卑しむ彼は、それを刊行することすらしなかった。生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。そして。研究は医学から天文・暦学・地理などにも及び、多くの訳書がその手によって残された。
対照的に杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。また玄白は医術に精励したという理由で十一代将軍家斉に拝謁も許された。それは蘭方医として初の大きな栄誉でもあった。しかし、玄白のオランダ語研究は『解体新書』刊行と同時にほとんどやんだ。玄白は開業医として経済的にも豊かな後半生を送り、85歳の天寿を全うした。玄白の出世の道が『解体新書』を刊行したことで拓けたとするなら、それはストイックなまでに学究肌の、名利を卑しむ前野良沢という蘭学に一生を捧げた人物がいたからこそ実現したのだ。良沢がいなければ、玄白の人生はあるいはもう少し違ったものになっていたかも知れない。
 前野良沢は豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。生没年は1723(享保8年)~1803年(享和3年)。筑前藩士、谷口新介の子として江戸牛込矢来に生まれた。幼時に父は死亡、母も良沢を捨てて去り孤児となった良沢は、山城国淀藩主稲葉丹後守正益の医官で、叔父の宮田全沢に引き取られ育てられた。1769年(明和6年)、蘭学を志して晩年の青木昆陽に師事。その後、1770年(明和7年)藩主の参勤交代について中津に下向した際、長崎へと留学した。留学中に入手したのが西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』だった。
 良沢はこの書を翻訳するにあたって大宰府天満宮に参詣し「名声利欲にとらわれず、学問のため一生を捧げる」と誓った。『解体新書』が完成したとき、彼は天神への誓いを守って書中に自分の名をあらわさなかった。そうした蘭学に対する真摯な姿勢により、藩主・奥平昌鹿から「蘭学の化け物」と賞賛された。そして、彼はこれを誉として「蘭化」と号した。
 寛政の三奇人の一人、高山彦九郎とは親しかった。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。

(参考資料)吉村昭「冬の鷹」、吉村昭「日本医家伝」

真田幸村 天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

真田幸村  天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣
 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。
 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。
 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。
 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。
 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。
 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。
 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。
 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。
豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。
男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。
 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

松平容保 不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに

松平容保  不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに
 松平容保(かたもり)は江戸時代末期、将軍後継となった一橋慶喜や政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らに強く勧められて、「京都守護職」という大役を引き受けたばかりに、後の会津の白虎隊の悲劇につながっていく遠因をつくることになった。
容保はもともと病弱のため、このときも風邪をひき病臥していて、初めは固辞していたのだが、会津藩祖・保科正之が定めた家訓を守るべく、やむなく不本意ながら引き受けざるを得なくなったわけで、これはまさしく“火中の栗”を拾うに等しい“貧乏くじ”だった。そして、将軍家を守るために忠勤に務めた結果、“賊軍”のレッテルを張られてしまった。
また、意外に知られていないが、京都守護職を務めた当時の容保を、孝明天皇が宸翰の中で職務勉励ぶりを嘉する文章がある。孝明天皇がいかに容保を信頼していたか物語るものだ。ただ、このことは容保を“乱臣賊子”とし、「所詮、会津松平は朝敵」の異名を着せ、押し切ろうとする薩長主体の新政府にとっては極めて厄介な存在だったと思われる。幕末動乱期を、薩長にとって危険分子と思われた容保が、どうしてその危機を切り抜けることができたのか。
 松平容保は陸奥国会津藩九代藩主であり、最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主、徳川治保の子孫。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の一人。幼名は銈之丞。官は肥後守。正室は松平容敬の娘、敏姫。生没年は1836(天保6年)~1893年(明治26年)。
 1846年(弘化3年)、八代会津藩主・容敬の養子となり、1852年(嘉永5年)に会津藩を継いだ。1860年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士に殺害された「桜田門外の変」では水戸藩討伐に反対した。井伊直弼暗殺後、一橋慶喜や福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、1862年(文久2年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推された。容保は初めは固辞していたのだが、最終的には松平慶永らの強い勧めに遭い、不本意ながらこの大役を引き受けることになった。
その結果、容保は幕末動乱期の京都の治安を維持するため、「新選組」などを使い、西南雄藩の志士たちを含め討幕派の動きを弾圧。そのため、維新後は幕府派の重鎮とみられて敵視されることになった。
 容保は1867年(慶応3年)、参議に補任されたが、1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いの後、解官。藩主の地位を降り、改元して明治元年、白虎隊で知られる会津戦争の後、因幡国鳥取藩に幽閉・永預り処分となった。1869年(明治2年)、紀伊国和歌山に移されるなど逼塞生活が続いたが、1872年(明治5年)、預け処分が免ぜられ、公人として復活した。そして1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任した。
 容保は「禁門の変」での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜った。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首に掛け死ぬまで手放すことはなかったという。また、幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。“沈黙は金”ではないが、何も語らなかったことが、維新直後の蟄居・逼塞期を経て、明治半ばまで彼を生き延びさせる遠因となったことは間違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「王城の護衛者」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、綱淵謙錠編「松平容保のすべて」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」

松平定信 “田沼詣で”の屈辱が、私心から田沼政治の全否定に

松平定信 “田沼詣で”の屈辱が、私心から田沼政治の全否定に
 白河楽翁といわれ、名君の誉れ高い松平定信は、若い頃から清潔な身の処し方で有名だった。政治に対する高い理念もあった。だが、彼が生きた時代は田沼時代だ。田沼意次が老中首座として諸政策を展開していた時期だが、周知の通り田沼は大の賄賂好きだった。そのため“田沼詣で”の大名や旗本たちで連日、田沼邸はあふれた。ある日、そんな群れに松平定信の姿が加わった。定信が20代のころのことだ。清廉潔白を絵に描いたような松平定信にも、文字通り、“汚職”宰相、田沼意次に贈賄した“汚点”があった。そして、そのときの屈辱が後に定信が宰相になった際、田沼政治の全否定となって表れたのだ。
松平定信は、自分が否定し、心の底から忌み嫌う賄賂好きの田沼のところになぜ出かけていったのか?当時の権力のしくみが田沼詣でをしなければ、絶対に出世できなかったからだ。それほど田沼の権勢は絶大だったのだ。もちろん田沼詣でを決行するまで定信は悩みに悩んだ。清潔な生き方に取り返しのつかない汚点になるからだ。しかし、それと引き換えにしても定信は老中になりたかった。幕閣に参加して、自分の政治理念を実現してみたかったのだ。
 そんな重い決断をして出かけた定信に対し、田沼はあいまいな返事しかしなかった。それは定信が尊大な態度で、気取って格好をつけ、名門の自分が頼みに行きさえすれば田沼は何とかするだろうと、たかを括っている様子がみえたからだ。
田沼自身は足軽からの成り上がり者だから、名門だとか貴公子だとかは、もうそれだけで嫌いなのだ。田沼邸に日参する人たちは目的のためにはなりふり構わないではないか。それに対し、この青年(定信)は人の世の苦労を全く知らぬ。人にものを頼む態度ではない-と映ったのだ。しかも、土産もろくなものを持ってきていない。
田沼は賄賂をもらうことを全く悪いとは思っていない。連日田沼邸に持参される、いい品物や金は私に対する誠意の表れだ。だから、私は誠意に応える。その品物がよければよいほど、金が多ければ多いほど私はその人を重い役に就ける-などと田沼は公言したから、田沼邸には賄賂の金品が山のように積まれ、持参した人たちであふれたのだ。
 名門の貴公子(定信)が身を屈しての猟官運動に、色よい返事をしなかった田沼に、この日、定信は手ひどく面子を潰された。そして、それは田沼への深い遺恨となった。その後、松平定信は待望の老中になった。しかし、田沼の推挙によってではなかった。田沼の強力な後見人だった第十代将軍・家治が死んだからだ。政変が起こった。30歳の宰相、松平定信は人事異動で田沼派を一掃した。このとき罷免した高級官僚は数十人に及んだ。中でも田沼意次に対する処分は苛酷を極めた。老中職を解かれたうえ、相良(静岡県)二万石を没収され、江戸にあった邸もすべて没収、蟄居させられた。孫の意明(おきあき)に辛うじて一万石くれたが、領地は東北と越後(新潟県)の荒蕪地だった。
 松平定信が行った「寛政の改革」は“潰された面子、屈辱感からの報復”だった。一度でも田沼詣でを行った自身への自己嫌悪と、それを増幅するあの日の屈辱感がエネルギー源になっていた。広く万民のためではなく、所詮、私心から発せられたものだ。そのために、定信の改革は失敗した。
 松平定信は御三卿田安宗武の七男として生まれた。幼名は賢丸。生没年は1759(宝暦8)~1829年(文政12年)。幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄、徳川治察が病弱かつ凡庸だったため一時期は田安家の後継者、そしていずれ将軍家治の後継者とも目されていた。
しかし、当時は田沼意次が権勢を誇った時代。しかも、その政治を定信が「賄賂政治」と批判したため、そのしっぺがえしを恐れた一橋家当主・治済によって1774年(安永3年)陸奥国白河藩第二代藩主・松平定邦の養子にされてしまったのだった。
一般には名君の誉れ高い松平定信だが、人間的な器量という面では?の付く、たくましさに欠ける、線の細い人物だったのではないか。また老中としては、当時の経済システムはもちろん、一般庶民の思いや暮らしぶりを全く理解できない“暗愚”の宰相だったのではないか。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」、山本周五郎「日日平安」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、奈良本辰也・南条範夫「日本史探訪/幕藩体制の軌跡 松平定信.」

松浦武四郎 全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親

松浦武四郎  全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親
 松浦武四郎は江戸時代末期に活躍した蝦夷地探険家であり、北にその一生を捧げ、「北海道」の名付け親として今日知られている。それだけに、当時の蝦夷地について数多くの著作を残している。彼はまたアイヌの人々が心から信頼した和人だった。封建的な江戸時代にあって、松浦武四郎にヒューマニズムあふれる近代的精神が育まれたのはなぜだろうか。生没年は1818(文化15)~1888年(明治21年)。
 松浦武四郎は伊勢国(三重県)一志郡須川村(現在の三雲町)小野江の郷士の四男として生まれている。名は弘(ひろむ)、字は子重。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。幼名を竹四郎、長じて武四郎を通り名とした。ただ、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。先祖は肥前の松浦党の一族で、伊勢に移り、多気(たけ)の城主北畠氏の家臣として土着したという。父は時春(桂介)。本居宣長の門下として国学を修め、敬神家の名望があったのは、伊勢神宮のある伊勢という土地柄だと思われる。母はとく。
 武四郎は幼少から父の感化で俳諧などの風雅を好んだ。7歳で曹洞宗真学寺の和尚に手習を学び、名所図会や地誌などを好んで読み、他国の山河を写し取ったりして飽きることがなかったという。1830年(天保1年)、津の儒者、平松樂斎の塾に入った。3年後、国学を学んだ武四郎は突然のように平松塾を辞して家に戻った。そして江戸に下った。1833年(天保4年)、16歳のことだ。
 その後、諸国を遊歴。その一端を記すと、大坂では大塩中斎(大塩平八郎)を訪ねている。大坂東町奉行所の与力だったが、この頃はすでに隠居して、陽明学者として名高く、洗心洞塾を開いていた。大坂を後にした武四郎は播州、備前を経て四国に渡り、讃岐、阿波を回り淡路から紀州和田などへ足を伸ばしている。翌年、1835年(天保6年)、18歳になった武四郎は紀州の田辺、富田、串本を過ぎ、那智山に登り、熊野本宮に詣でた。高野山にも登り、粉河寺から和泉の槙尾峠を越えて観心寺に南朝の古跡を訪ずれている。その後、河内、大和、山城、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若狭を経て越前へ出て、敦賀、福井、三国、吉崎、加賀の大聖寺、さらに美濃高山から三河、信濃を経て甲斐の金峯山寺、身延山に登り、霊峰富士山に初めて登っている。こうして17歳で家郷を出て以来、一度も戻らず、足掛け5年もの間、日本全国を遊歴、旅に明け暮れたのだ。
この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷地の探検を決意した。
しかし、旅人が蝦夷地奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2年)、場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2年)には国後・択捉を探検し、この間見聞したことを「蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」に著した。
 1855年(安政2年)、幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷地山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査。「東西蝦夷山川地理取調図」「東西蝦夷山川取調日誌」として呈上したが公にされなかった。そのことが理由か定かではないが、1859年御雇を辞任。以後、約10年間著作活動に専念した。
1868年(明治1年)新政府から東京府付属、次いで翌年には開拓判官に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかし、アイヌ介護問題などについて、政府の方針と意見を異にしたため、病を理由に辞任。以来、著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従五位に叙せられた。

(参考資料)佐江衆一「北海道人 松浦武四郎」、杉本苑子「決断のとき」、梅原猛「百人一語」、更級源蔵・船山 馨・吉田武三「日本史探訪/海を渡った日本人 松浦武四郎」

 

山本常朝 江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

山本常朝  江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者
 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。
『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。
 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。
 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。
 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。
 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。
 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。
 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」