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フランシスコ・ザビエル・・・不可解な死と日本占領計画の相関関係は?

 フランシスコ・ザビエルはカトリック教会の宣教師で、イエズス会の創設者の一人だ。ザビエルは1547年、マラッカで布教活動中、鹿児島県出身のヤジロウ(=弥次郎)という日本人に出会い、日本で宣教したいと思い立ち1549年、鹿児島に上陸。鹿児島をはじめ平戸、山口、岩国、堺、京都などで2年3カ月にわたって布教活動を行い、日本に初めてキリスト教を伝えたことでとくに有名だ。

その後、ザビエルは日本を離れ、厳しい鎖国政策下の中国・明へ渡り、布教する予定だったが、明への中継地、マラッカで4カ月近くも足止めされているうちに肋膜にかかって、46歳の若さで病死したといわれる。ただ、この死には不可解な部分が多く、謎に包まれている。

また、7つの海をまたにかけて競争が行われた大航海時代は、植民地化の時代でもあった。ザビエルがポルトガルから見れば最果ての地、日本にやって来た目的は、単なる宣教活動だけではなかったのか。現実に交易などをテコにしたポルトガルの日本占領計画も見え隠れしていることを考え合わせると、果たして、実体はどうだったのか。

 ザビエルがゴアに送った書簡は、日本に関する情報がふんだんに書き込まれた調査報告書だった。ところが、ある一時期を境にその内容が、手の平を返すように変わっていくのだ。それは離日後すぐに書かれた書簡からだ。最初は日本を金銀に満ちた豊かな市場として報告し、有望な交易国として商売の促進を呼びかけていたが、日本を離れるや否や、今までの魅力的な市場については触れず、いかに日本に来る途中の海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく積極的な関係を持つには値しないと、正反対の内容になっているのだ。

 これは明らかにニセ情報だ。ある歴史家はザビエルがいなくなった後、金銀に惹かれたポルトガル人が武力に訴えて日本を占領しにくることを危惧したためだと分析している。果たして、ポルトガルが日本に本当に内政干渉してくる可能性があったのだろうか。

実は具体的な形として記録に残っている文書がある。ザビエルの死後38年経った1589年(天正17年)、豊臣秀吉が宣教師の追放令を出したときに書かれた彼らのメモがそれだ。このときすでに信者は15万人を超え、教会は美濃から薩摩にかけて200以上もあったという。しかし、突如として発令された追放令はイエズス会の宣教師たちを震撼させ、強い危機感となって表れる。布教で日本を手なずけることはできないと確信するのだ。そこで彼らはキリシタンに改宗している大名たちに反乱を起こさせ、自国の軍隊も上陸させて一挙に植民地にする計画だったという。

 この衝撃的な文書は、研究家の高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったもので、その後極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切出されていないという、結局、当時の日本侵略計画そのものは、実行に移されることはなく、机上の空論に終わったというが、布教でダメなら最終手段は軍事力しかないという当時の列強の国々の思想をうかがい知ることができる。
 いずれにしても清新な心の持ち主だったザビエルが日本を戦禍に巻き込むことを望まなかったことは、残されている書簡や史実が物語っている。彼以外の宣教師、具体的にいえば場合によっては武力行使も辞さない好戦的な人物が、宣教師として最初に来日していたら、日本はどうなっていたかと考えずにいられない。日本の中世史が少し変わっていたかも知れないのだ。中世ヨーロッパの植民地政策に伝道が相乗りせざるを得なかったことが、宣教師ザビエルの死を早めてしまったことは間違いない。

 ザビエルは現在のスペインのナバラ地方、バンブローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子。1525年、19歳で名門パリ大学に留学。バルバラ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにビエール・ファーブルに出会い、さらに同じバスクからきた中年学生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)と出会い、これがザビエルのその後の人生を大きく変えることになる。ザビエルはイグナチオから強い影響を受け、俗世での栄達より大切な何かがあるのではないかと考えるようになり、聖職者を志すことになる。1534年、イグナチオを中心とした7人のグループは、モンマルトルにおいて神に生涯を捧げるという同志の誓いを立てた。その中にザビエルの姿もあった。これがイエズス会の起こりだ。

ザビエルは、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれるカトリック教会の聖人だ。ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味。生没年は1506~1552年。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

平賀源内・・・エレキテルなどの発明家・科学者で、多芸多才な天才

 平賀源内は発明家であり科学者で、非常に多芸多才な天才であり、時代の先駆者だった。例えば宝暦年間、江戸に日本諸州から様々な珍しい品々を集め、公開した物産会が開催された。いわば博覧会の草分けともいえるこの物産会を、今から200年以上も昔に演出した人物、それが平賀源内だ。エレキテルの発明は機械学・電気学の萌芽だった。また、彼は杉田玄白や中川淳庵などにも影響を与え、「蘭学事始」の精神的原動力となった。

そして源内はまた、「根南志具佐(ねなしぐさ)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などの講談本ばかりか「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」のような浄瑠璃にまで手を染めた。また、鈴木春信は源内が江戸錦絵の誕生にも貢献したと語っている。

 「硝子を以って天火を呼び病を治し候器物」といわれる摩訶不思議な品が天下の評判を呼んだ。これが平賀源内製作のエレキテル=摩擦起電機だった。電気について、とくに系統的な知識がない源内が、エレキテルの復元に成功したのは1776年(安永5年)、壊れたエレキテルを長崎で手に入れてから、足掛け7年の歳月が経っていた。

この起電機が日本に入ってきたのは、西欧で発明されてからまだわずかの時で、西欧でもエレキテルは科学というより、新しい魔術の箱と考えられていた。江戸でもたちまちこの機械は高級見せ物になった。そのため源内の家は身分高き人、富裕なる人で賑わった。また時には源内自らエレキテル持参で、大名屋敷に伺うこともあった。

 源内が江戸っ子をあっといわせたのは発明ばかりではない。それまで上方言葉で語られていた浄瑠璃の世界でも、彼は「神霊矢口渡」では題材を関東に取り、江戸言葉ないしは吉原の廓言葉を堂々と舞台で使った。浄瑠璃は福内鬼外の名で書いたが、戯作者としては風礼山人、天竺浪人、紙鳶堂風来、悟道軒、桑津貧樂などと称した。

 源内は四国高松藩志度浦で生まれた。生没年は1728(享保13年)~1780(安永8年)。父は白石茂左衛門、御蔵番(二人扶持)の軽輩だった。源内の幼名は四方吉(よもきち)。少年の頃からからくりを作り、俳諧を詠み、軍記物を読みふけり、志度の神童、天狗小僧といわれていた。その才能を見込まれてか、13歳から藩医のもとで本草学を学び、儒学を学んだ。高松藩の当時の藩主、松平頼恭(よりたか)が無類の本草学好きだったことも、源内がこの道に進むような環境を育てていたのだろう。

 源内は25歳の時、1年間医学修行のため、藩から長崎へ遊学する。本草学、オランダ語、そして油絵なども学んだ。あり余る才能を持つ男の興味が次に、江戸へ向かうのは必然だった。27歳になると、源内は病身を理由に妹の婿養子に従弟を迎え、家督を譲り江戸へ出た。まもなく田沼時代が幕を明けようとしていたときだった。

本草学者、田村元雄(藍水)の門に入った源内は、物産会に取り組んだ。1757年(宝暦7年)から1762年(宝暦12年)まで、わずか6年の間に5回も物産会は開かれた。物産会は博覧会といっても飲食物は出さず、また入場者も制限していたので、真面目な学問的な催しだったが、1762年(宝暦12年)、源内主催の物産会に集まった薬種・物産は1300種を超えたと記録されている。
 源内の鋭い思考力と才能は尽きることがない。欧州から入ってきた油絵を見れば、すぐに自分で油絵具から画布まですべて考案し、西洋風絵画を仕上げてみせる。また、輸入された西洋陶器に対して作った源内焼と称される陶器もある。普通、緑色の釉薬(うわぐすり)がかかった焼き物で、その図案には万国地図をよく使っているのも源内らしい。発明・工夫は寒熱昇降器・磁針器など数知れなかった。

 源内は些細なことから殺人を犯して波乱に満ちた52年の生涯の幕を閉じた。その死の5年前、彼は「放屁論」を、2年前に「放屁論後編」を書いた。当時、江戸に「放屁男(へっぴりおとこ)」なるものがおり、見事に屁をひり、「三番叟(さんばそう)」や「鶏東天紅(にわとりとうてんこう)」を奏でて人気を博した。「放屁論」で源内はこの放屁男を古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人はいないと褒め称えた。そして「後編」では貧家銭内(ひんかぜにない)という、自分自身の生い立ちに近い男を登場させる。これらは「憤激と自棄のないまぜ」の書であり、ここに表現されているのは、彼自身の自画像とみられる。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、吉田光邦・樋口清之「日本史探訪/国学と洋学」
      平野威馬雄「平賀源内の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

藤原基経・・・長く朝廷の実権を握り藤原摂関家隆盛の基礎をつくり上げる

 藤原基経は初の摂政・関白・太政大臣を務め、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた人物だ。清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。また陽成天皇を暴虐だとして廃し、光孝天皇を立てたほか、次の宇多天皇のとき「阿衡事件」を起こして、天皇をも凌ぐ権勢を世に知らしめた。時の天皇もこの基経には、細心の気を使いながら詔(みことのり)するありさまだった。まさに怪人だ。基経の生没年は836(承和3)~891年(寛平3年)。
 藤原基経は藤原一族の中でも最大の権勢を誇った藤原北家、藤原長良の三男として生まれた。母は仁明天皇の女御沢子(たくし)と姉妹の関係にある藤原乙春(おとはる)。正室は仁明天皇と沢子との間に生まれた人康(さねやす)親王の娘だ。幼名は手古。官位は従一位、贈正一位。堀河大臣と号した。漢風諡号は昭宣公。
 太政大臣だった叔父・藤原良房に見込まれて養嗣子となり、養父の死後、氏長者となった。851年(仁寿1年)、16歳で文徳天皇から加冠されて元服し、852年(天安2年)に即位した清和天皇のもとで蔵人頭となり、864年(貞観6年)には29歳で参議となった。2年後の「応天門の変」で源信の無実を伝え、伴善男が失脚した後、7人を抜いて中納言となり、872年には正三位右大臣となった。基経37歳のときのことだ。とんとん拍子の栄進は、もちろん養父の後ろ楯によるが、彼は政治家として非凡の器だった。
 基経の政治と特色は、養父良房の先例を、法的に整合性を持った体系として位置づけようとした点にあり、後世に先例として尊重された。
 876年、清和天皇が27歳の若さで突如退位し、即位したのはわずか9歳の陽成天皇だった。時の実力者は天皇の母高子(こうし)の兄、基経だった。彼が摂政となって事実上朝政をみることになった。陽成天皇は乳母を手打ちにしたり、宮中で馬を乗り回したり、小動物に悪戯をして殺生を重ねたその風狂ぶりは目に余るものがあり、周囲のものは天皇に翻弄されるばかりだったとも伝えられる。そんな天皇もある日、書簡を寄せて、病気のため譲位の意向をほのめかした。そこで基経も天皇の退位を企図。彼は皇位継承者の人選を進め、55歳の時康(ときやす)親王(=光孝天皇)の擁立を決めた。時康親王の母と基経の母とが姉妹だったこと、時康親王自身が政治に無関心だったことも基経が政務を独占するのに好都合だったからだ。
 基経の独裁ぶりはまだまだ続く。それから3年後の887年(仁和3年)、天皇の病気が重くなったのを機に、基経は天皇の皇子で臣籍に下っていた源定省(さだみ)を親王に復させ、皇太子に立てた。そして、光孝天皇の崩御に伴い即位、宇多天皇を実現させた。つまり、当代きっての実力者で関白の基経が、その権勢を背景として事実上、皇位継承の方針を決め、源定省を親王に復帰させ、ほぼすべての手順が基経の意向通り運ばれたのだ。その結果、基経の強烈な権力志向はとどまるところを知らず、新帝=宇多天皇との間に齟齬をきたした。そして、遂に「阿衡の紛議」が発生した。
 887年(仁和3年)、宇多天皇の即位後まもなく、摂政、太政大臣基経に対し、基経への関白任命が発令された。この就任要請の中に記された一文、「阿衡」の解釈をめぐって、基経が意地を通したのだ。彼は頑なに出仕を拒み、その期間は半年以上にも及んだ。この事件は橘広相と藤原佐世を中心に多くの学者間の論争に発展した。この事件には、この機会を捉え自己の意向を押し通し、関白の地位を不動のものにしようとする基経の政治的思惑が強く働いていたことは間違いない。そして、基経の狙い通り決着した。
 こうして確立された藤原北家の比類なき権勢は、基経の子供世代、時平・仲平・忠平に引き継がれていく。
(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」

前田慶次郎・・・文武両道に秀でた、戦国を代表する「かぶき者」

 前田慶次郎は戦国時代を代表する「傾奇(かぶき)者」といわれる。前田利家の義理の甥。武勇に優れ、古今の典籍にも通じた人物でもあったようだが、史料は少なく、謎の多い人物だ。面白い逸話が多いのだが、それが真実かどうか、それを裏付ける史料もまた少ない。しかし、その少ない史料をつなぎ合わせると、まさに怪人というほかない。

 前田利益(まえだとします、慶次郎)は尾張国旧海東郡荒子(現在の名古屋市中川区荒子)で生まれた。幼名は宗兵衛。通称は慶次郎、慶二郎、啓次郎など。彼を題材とした漫画「花の慶次」の影響で、前田慶次という名前で呼ばれることも多い。諱は利益のほか、いくつもあるが、史料では利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)などの名が伝わっている。
養父は前田利久(前田利家の兄)。妻は前田安勝の娘で、間に一男三女をもうけた。嫡男の前田正虎は従兄弟の前田利常に仕えた。慶次郎は早くから奇矯の士として知られていたが、単に変わり者というだけでなく、文武両道に秀でた人物だったようだ。

 慶次郎が有名なのは「傾奇者」としてだ。とくに養父の前田利久が病没して、しがらみがなくなってからは、利家との決別を決意。利家が自慢にしていた名馬「谷風」にこっそり乗って、金沢を出奔したという。その後、上洛した慶次郎は浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条○道・古田織部ら多数の文人と交流。たちまち洛中の有名人となり、後に豊臣秀吉から「心のままにかぶいてよろしいと」いう、いわゆる「傾奇免許」を得たという話もある。

 浪人時代は「穀蔵院○戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。「鷹筑波」「源氏○宴之記」によると、「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

 秀吉が亡くなると、天下は再び動き始めた。徳川家康による上杉家討伐の話を聞くと、慶次郎は朱塗りの槍を抱え上杉家に馳せ参じた。上杉景勝は慶次郎が見込んだ唯一の戦国大名であり、その重臣の直江山城守兼続は慶次郎の文武の友だ。慶次郎は傾奇者として冥利を感じつつ、武者ぶるいして戦いに挑もうとしていたが、相手の家康が上杉家を攻める軍勢を進めていたときに、西で石田三成が挙兵。家康は反転して西に向かった。後に「関ケ原の戦い」と呼ばれる合戦に臨むためだ。上杉軍としては兵法の常識として家康を追撃し、石田三成率いる西軍と呼応して挟撃すべきだ。しかし、そうはしなかった。なぜだか、正確には分からない。そして、当面の相手を失った上杉家は隣の最上家の攻略に矛先を向ける。

 ここで最上領を攻めていた上杉軍に想定外のことが起こる。関ケ原の戦いが思いのほか、短時間で東軍が勝利を収め集結。こうなれば家康がとって返してくるのは目に見えている。最上領を早急に撤退して守りを固めるほかない。味方を無事に退却させるために、上杉家の名軍師といわれ、世に知られた直江兼続が3000騎を率いて殿軍(しんがり)を務め、退却戦を行うことになった。追う相手の最上軍は2万騎。圧倒的な兵力差だ。瞬時に壊滅させられてもおかしくないところだ。
しかし、この殿軍は類をみないほどの頑強な抵抗を示した。「北越○談」によると、この戦いは10時間の間、距離にしてわずか6キロの間で28回の戦闘が行われたという激烈なものだったという。

 しかし、3000対20000の兵力の差は歴然、闘うたびに兵が減ってどうにもならなくなり、兼続は自分が相手に討ち取られて味方の士気が落ちることを恐れ、切腹しようとした。それを止めたのが前田慶次郎だ。「上杉将士書上」によると、慶次郎はわずか5人ばかりを引き連れて最上軍に突進した。
慶次郎と、このたった5人の猛烈な攻撃に何と最上軍は右往左往にまくりたてられ、遂に逃げ出したという。その間に兼続は堅固な陣を張ることができ、虎口を脱することができたという。捨て身の策とはいえ、わずか5人で戦局がこれほど劇的に変わることあるのか、とても信じ難いことだ。

 さらに問題なのはこのときの慶次郎の年齢だ。「米沢史談」によると、慶次郎が生まれたのは1541年となっている。とすると、このとき満年齢にして59歳。また「加賀藩史料」にあるように1605年に73歳で亡くなったとすると、このとき67歳ということになる。平均寿命が短く、40歳にもなると老兵といわれ、滅多に戦場に赴くことなどなかったこの時代にである。どちらの年齢であったとしても、とても常人とは思えない。

(参考資料)海音寺潮五郎「乱世の英雄」

間宮林蔵・・・ 「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者

 間宮林蔵といえば、幕命により樺太を探検し、樺太が島であることを確認、すなわち「間宮海峡」を発見したことで知られている。この間宮海峡の存在は、シーボルトによってヨーロッパに伝えられ、間宮の名は世界地図の上に永遠に刻み付けられることになった。林蔵はそのシーボルト事件の摘発者だとされている。探検・測量家で、幕府隠密でもあった林蔵は、その責務を冷静に果たしたに過ぎないとの見方もあるが、それは世の大きな批判と非難を浴びる行為でもあった。生没年は1780(安永9)~1844年(天保15年)。生年には1775年(安永4年)説もある。

 間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳(かみひらやなぎ)村(現在の茨城県つくばみらい市)の農業・箍屋(たがや)に生まれた。名は倫宗(ともむね)。9歳のとき、村の専称寺にあった寺子屋に通い、読み書き、そろばんを学んだ。その後、地理学者、村上島之丞(しまのじょう)に規矩(きく)術(三角測量)を学び、1800年(寛政12年)、蝦夷地御用掛雇(えぞちごようがかりやとい)となった。同年、箱館で伊能忠敬に会い師事、のち天測術(緯度測定法)を学んだ。

林蔵は1806年(文化3年)、択捉を測量。1808年、調役下役元締・松田伝十郎と樺太に派遣され、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を調査。翌年アイヌの舟で海峡を渡り、黒竜江下流地方を探検、樺太が島であることを確認した。1812年、再度蝦夷地に渡り、伊能忠敬の未測量地域の海岸を実測。1821年(文政4年)完成した忠敬の「大日本沿海與地全図」には林蔵の測量が生かされているといわれる。

 1822年、林蔵は江戸に帰り普請役、1824年、安房、上総御備場掛手附(おそなえばがかりてつき)を命じられ、東北地方の東海岸を巡視。以後。林蔵は様々な姿に変装して各地を歩き、外国船渡来の風聞や密貿易調査の隠密活動に従事した。1828年(文政11年)、林蔵49歳のとき、シーボルトから小包が届き、彼は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え開封せずに上司に提出した。これによりシーボルトと幕府天文方・書物奉行の高橋景保との交流が明らかになり、これがシーボルト事件の発端となった。

オランダ商館付の医師、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死(その後、死罪判決を受けた)した事件だ。処分者の多さに事の重大性が表れており、それをいわば密告した林蔵の卑劣さをなじる眼も少なくなかった。

 1834年(天保5年)以降の林蔵は、海防問題を通じて水戸藩と接触、藤田東湖らと交わった。2年後、林蔵は隠密として石見国浜田で密貿易事件摘発の発端を掴んでいる。しかし、健脚を誇った林蔵も少しずつ足腰が弱り、その後は隠密としての務めは果たせなくなっていった。59歳のとき、江戸で病の床に就き、6年後の1844年(天保15年)、江戸の自宅で65歳の生涯を閉じた。

 主な著書に「東韃(とうだつ)紀行」「銅柱余録」などがある。
(参考資料)吉村昭「間宮林蔵」、池波正太郎「北海の猟人」、池波正太郎「北海の男」

宮本武蔵・・・ 『五輪書』の書き出し、武蔵複数説など数多い謎

数多い剣豪の中でも、二刀流の使い手といえば宮本武蔵をおいてほかにない。二刀流の祖といわれるのも十分うなずける。生涯で60数回の決闘はすべて勝った。佐々木小次郎との巌流島での対決は伝説化された武芸伝としても有名だ。ただ、本人の伝記には不明な点が多い。文武両道で天才肌といわれる武蔵の行動には常に謎がつきまとっている。果たして武蔵は本当に二刀流で戦ったのだろうか。そして、彼は伝えられるような剣豪だったのだろうか。

そもそも宮本武蔵という人物が、我々の脳裏に強く印象づけられているのは、作家の吉川英治氏が書いた不朽の名作「宮本武蔵」の影響が大きい。小説は関ケ原の合戦後から始まり、巌流島の決闘をクライマックスとして終わっている。だが、吉川氏本人が語っているように、これは史実を明らかにするのが目的ではなく、剣の道に己を求めていく一人の男をテーマにした歴史小説であって、明らかにフィクションだった。

では、本当の武蔵はどのような人物だったのか。これまで多くの歴史家が重視してきたのは武蔵自身が著した兵法書「五輪書」だ。しかし実は、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、直筆のものは存在しないのだ。さらに、「五輪書」の書き出し部分に、本当に武蔵自身が書いたのか信じ難い部分がある。「自分は13歳の時から29歳までの間に60数回の決闘をしたが、一度も負けたことがない。これは自分が兵法を究めたのではなく、天才だったからだ」とあるのだ。剣術指南として大名に仕官するチャンスを意識して、自分の腕を誇張してこのように表現したと取れなくもない。だが、果たして自分で自分のことを天才と表現するだろうか。まずここに疑問を投げかけざるを得ない。

さらに古文書をもとに武蔵の人物像に迫ろうとすると、いくつも違う名前の武蔵が出てくるのだ。「新免武蔵(しんめんたけぞう)」というのが本名だが、彼をよく知る旗本の渡辺幸庵は、彼のことを「竹村武蔵」と書き残しているのが代表的な例だ。

疑問はまだある。武蔵の墓が熊本に5つもあるのだ。熊本は彼が最後の人生を過ごした細川家のあるところで、現存している「五輪書」もここで書き写されていることを考えれば、武蔵が相当手厚いもてなしを受けていた場所と見て間違いはないはずだ、だから、死後に供養される墓もきちんと作られているに違いない、と見ていい。しかし滝田町弓削には「新免武蔵居士」の名前が刻まれた石塔があり、島崎町には武蔵のことを指す「貞岳玄信居士」の名前の入った墓が、また細川家歴代の墓のある場所にも「武蔵の供養塔」が建っているのだ。このほか、小倉手向山、宮本村の平田家の墓地にも武蔵が眠っているといわれているのだ。こうなると、複数の武蔵がいたのではないかと考えざるを得ない。

武蔵複数説はまだある。彼が自らの刀さばきを二天一流(にてんいちりゅう)と呼び、二刀流という言葉も含めて自らが考案したものとしているが、歴史家によると、この二天一流の呼び方は晩年になってからで、それ以前に二刀流で円明流という技があったのだ。それなら円明流のルーツをたどれば武蔵に行き着くはずだ。ところが、この流派の創始者をたどってみると2人の武蔵が登場する。1人は宮本武蔵守吉元で、もう1人は宮本武蔵守義貞だ。どちらも実在の人物なら、武蔵という名の2人の二刀流の達人がいたことになる。

謎の列挙はこのくらいにして、限られた史料に基づいて終盤の武蔵の人生をたどってみよう。彼が藩主・細川忠利の客分として熊本にきたのは1640年(寛永17年)、57歳のとき。剣を通して人生を探求し続けた武蔵は、晩年までの5年を熊本で過ごしている。

「五輪書」は1643年(寛永20年)、武蔵60歳のとき熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」に籠って、書き綴ったもので、完成は1645年(正保2年)春。武蔵の死は同年5月。「五輪書」は死の間際まで筆を執り続けた武蔵執念の書だ。地・水・火・風・空の5巻から成り、「地之巻」は兵法の全体像を、「水之巻」は剣法の技術を、「火之巻」は駆け引きや戦局の読み方を、「風之巻」では他流派の兵法を評論、「空之巻」では武蔵の考える兵法の意義・哲学を書いている。「空」は武蔵晩年の心境を書いたもので、「兵法を究めることが善の道」と説いている。
武蔵は「兵法の道」の極意を究めたほか、「詩歌」「茶道」「彫刻」「文章」「碁」「将棋」などにも秀でた才能を発揮している。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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山田長政 ・・・徳川二代将軍秀忠の時代、シャムで老中並み地位に

山田長政は江戸初期、17世紀に東南アジアへ渡った貿易商人。史料では山田仁左衛門。シャム(現在のタイ)のアユタヤ王朝から官位を授けられ、リゴールの長官に任じられたとされる。ただ、その実像は不明で、太平洋戦争時、親・東南アジア政策の下、作り上げられた「英雄的日本人」との評も厳然としてあり、詳細は定かではない。

山田仁左衛門長政は1590年(天正18年)頃、駿府国(現在の静岡県)馬場町の染物屋の子として生まれた。少年時代の長政はよく学問を好む半面、はなはだ乱暴な子供で、周囲からは疎んじられたといくつかの伝記に書かれているが、日本国内での事跡を裏付ける確実な史料は残されていない。徳川家康の側近、金地院崇伝が幕府の公文書を写した「異国日記」には、長政は1607年(慶長12年)頃には沼津藩主・大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の六尺(駕籠かき)をしていたと記されている。これが長政の前歴を語る唯一の史料だ。

鎖国以前の日本は、豊臣秀吉の時代に始まった朱印船貿易が盛んで、それに伴い多くの日本人が海外に出奔し、東南アジア各地の日本人町を拠点に活躍していた。若き長政も海外で名を成そうと考え、長崎から旅立っていった。彼が目指したのはシャムに栄えたアユタヤ王朝の国都、アユタヤだ。1612年(慶長17年)頃、長政23歳頃のことだ。やがて才能を認められ、日本人町の頭領の座に就いた。そして、織田信長以来の熾烈な戦乱を体験した“関ケ原浪人”や“大坂浪人”などで構成された日本人傭兵隊を率いて、数々の戦果を挙げた。彼はアユタヤ近くまで攻め込んできたスペインの艦隊を撃退してしまう。こうした武勲が国王ソンタムの知るところとなり、彼は「オムプラ」という貴族の官位を授かった。

シャム側の文献には長政の官位について「オークプラ・セーナピモック」、さらにその上の「オークヤー・セーナピモック」になっている。オークヤーは大臣級である。そして、セーナピモックというのは「軍神」の意味だった。つまり、長政は日本人町の頭領として、また王宮の親衛隊長として大臣級の扱いを受けていたのだ。このことは先にも触れた金地院崇伝の日記「異国日記」で裏付けられる。1621年(元和7年)4月11日付で、長政が幕府の老中、土井利勝と本多正純に書簡を出していたことが分かる。「異国日記」にその全文が写しとたれているので間違いない。内容は「シャム国王が日本の将軍に国書を贈ったので、そのとりなしを頼む」というものだった。その頃の書簡のやり取りには書札礼(しょさつれい)という厳しい決まりがあり、書簡を出すときは対等の人間に出すのがしきたりだった。シャム国王は二代将軍・徳川秀忠に国書を出し、長政が土井利勝・本多正純に書簡を出していることが、見事にそのルールに則っている。ということは、長政はシャム王朝では日本の老中と対等の地位にあったことを示している。

このあと長政はシャムの王位争いに巻き込まれ、体よくシャムの中では南のはずれのリゴールという国の王に任命されてしまった。分かりやすくいえば、幕府の老中職にあった人物が、都から遠く離れた地方の藩主に左遷されてしまったようなものだった。そして、任地に赴いて少し経過した1630年(寛永7年)、対抗勢力の手の者によって毒殺されてしまったのだ。

17世紀の初頭、東南アジア各地に日本人移住者の集団居住地、「日本人町」が形成されていた。これは、徳川家康の貿易奨励策の下に展開された朱印船貿易によって日本商船で東南アジア各地に渡航する者が激増したためで、渡航した朱印船は1603年(寛永13年)の鎖国令発布に至るまでの30余年間に延べ350~360隻にも上った。これらの船には貿易商人はもとより、牢人あるいはキリシタンなども乗り込み、海外に赴いた。

日本人町は交趾(こうち)(中部ベトナム)のフェフォとツーラン、カンボジアのプノンペンとピニヤール、シャムのアユタヤ、呂宋(ルソン)島(フィリピン)マニラ城外のサン・ミゲルとディラオの7カ所に建設された。その盛時には呂宋の3000人を筆頭に、アユタヤ1500~1600人のほか、各地に300~350人ほどの日本人が在住し、その総数も5000人以上に達した。これらの日本人町は自治制を敷き治外法権を認められ、在住日本人の有力者が選ばれ行政を担当していた。フェフォの林喜右衛門、ピニヤールの森嘉兵衛、アユタヤの山田長政らはその代表的人物だ。鎖国下で徐々に衰退していったが、17世紀半ばから18世紀初頭まで存続した日本人町もあった。

(参考資料)城山三郎「黄金の日日」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、
早乙女貢「山田長政」

足利義政・・・応仁の乱で都を荒廃させ、浪費に明け暮れた政治家失格者

 日本史において15世紀後半は「暗黒の時代」といわれている。足利幕府の統治力が緩み、管領はじめ有力大名の内輪もめを抑えるどころか、家督争いのゴタゴタは将軍家にまで波及し、それがエスカレートした結果、遂に10年余にわたる「応仁の乱」が勃発。都は荒れ果て、一揆・暴動が洛中洛外に蜂起して、さながら無政府状態に似た状況となった。それにもかかわらず、総責任を負う立場にある将軍足利義政は、浪費に明け暮れる政治家失格者で、幕僚・側近に人材なく、幕府の威令はいよいよその重みを失って、戦国乱世の様相へのめり込んでいった。すべて“無責任”将軍義政が招いたものだ。確かに義政の政治に対する無策・無関心には目を覆うものがあるが、そんな気質を育んだ環境にも原因はあったようだ…。足利義政の生没年は1436(永享8)~1490年(延徳2年)。

 足利義政は、六代将軍・足利義教の子として生まれた。とはいえ、すでに兄に二歳年長の義勝がいたから、義政の立場は暢気なものだった。足利宗家では嫡流の惣領以外は、男女を問わず子供は門跡寺院などに入室させて、僧尼にさせてしまう慣例があり、義政の場合もそんなレールが敷かれていたはずだった。 
 
ところが、運命は彼の人生コースを大きく変えた。彼が6歳の時、父の義教が赤松満祐に暗殺されたのだ。「嘉吉の乱」だ。青蓮院門跡から還俗して将軍位に就いた義教が幕府権威の伸張を急ぐあまり苛烈な独裁政治を断行した反動だった。その赤松一族は誅滅させられ、七代将軍の位は義勝が継いで、乱の収拾もついたかにみえた2年目だった。今度は少年将軍義勝が病気であっけなく亡くなってしまったのだ。本来なら仏門に入っておとなしくのんびりと、好きな庭造りや香・華・能など遊びの道を楽しみつつ一生を終わるべく運命付けられていた次男坊の義政が、幸か不幸か8歳の若さで八代将軍の座に座らされ、いやおうなく歴史の表面に引きずり出されることになったのだ。

 将軍義政に対する閣僚・諸大名らの目は、二代続いての不幸に懲りて、将軍は幕威をシンボライズする旗であればそれで足りる。適当に骨を抜いておいた方が牛耳り易い。変に政務に欲など出してくださるなと、幼少の義政に“無能”教育を施したきらいがあるのだ。それにしては、青年期の義政は頑張った。側近・重臣の思惑通りに操られる傀儡ばかりで過ごしたわけではない。

 そんな義政も後半生は最高権力者としての責任を放棄、何もしない無責任で怠惰そのものの、優柔不断で自堕落な将軍に成り下がっている。そして、妻の日野富子には全く相談もせずに、義政は自分の弟で出家して義尋(ぎじん)と名乗っていた僧を口説いて、自分の後継者にしようとしたのだ。このとき義政はまだ30歳そこそこだ。妻の富子は25歳で当時としては若くはないが、まだまだ子供を産める年齢だ。側室をもうければ男の子が生まれないとは限らない。むしろこれから生まれる可能性の方が高い。それなのに、なぜ義政は引退など考えたのか?趣味に生きたい義政は、将軍の座を引退することによって、面倒な儀式や将軍として最低限果たさなければならない義務を放棄し、その代わり大御所として気ままに生きようと考えたのだ。

 義政に今後男の子が生まれても、それは出家させ決して跡継ぎにしない、という条件を義政が確約したため、当初、兄義政の申し出を断っていた義尋は、結局その申し出を受けた。還俗して義視と名乗り屋敷を京の今出川に構えた。

 ところが1年後、妻富子が男の子を出産したため、義政の軽率な決定が大きな問題となってしまった。富子は何が何でも自分の腹を痛めた子を将軍にしたい。そこで、彼女は気の弱い亭主の義政を何度も攻め立てたというわけだ。義政も弟よりは自分の子供の方を将軍にしたいと思ったに違いないが、自分が楽隠居するために、弟を無理矢理、還俗させ養子にしたという負い目があった。そう簡単に約束事をほごにできない。結局、義政は将軍を辞めるに辞められなくなった。

 こうして義政の、政治などしたくないというわがままと、富子の自分の子を何が何でも将軍にするというわがままが、10年余の長きにわたり国内を二分する、日本未曾有の大乱「応仁の乱」の種を蒔いたのだ。全く人騒がせな夫婦だが、それにしてもその大元の責任はやはり義政の優柔不断で、軽率な行動にあった。引退するなら、それに伴うルールと約束をきちんと守る覚悟が必要なのだ。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史・中世混沌編」、杉本苑子「決断のとき」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

足利義満・・・大胆不敵な皇位簒奪計画が成就する直前、急死した将軍

 室町幕府の第三代将軍・足利義満は皇位簒奪を計画していたといわれる。その計画が成就する直前、義満は急死。その空前の恥ずべき所業は後世に残ることはなかったが、その大胆不敵とも思われる計画の証拠のいくつかを今日、私たちは目にすることができる。義満の生没年はユリウス暦1358(延文3)~1408年(応永15年)。

義満の幼名は春王、のち義満、道有、道義。封号は日本国王、諡号は鹿苑院太上天皇。父は第二代将軍・足利義詮(よしあきら)で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘、日野業子。またその後、業子の姪、日野康子が2番目の正室となった。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

父の第二代将軍・足利義詮が38歳で思い半ばで病没。1368年(応安元年)、義満は征夷大将軍に任じられた。わずか11歳の将軍に、さしあたり何もできるはずはない。乱世の余燼さめやらぬそのころ、一つ間違えば天下の大乱が起こりかねない情勢だったにもかかわらず、何事もなく推移したのは父が残していってくれた補佐役・細川頼之のお陰だ。政務のすべてをこの細川頼之に任せていた義満が、初めて書類に花押を据えたのは15歳のときのことだ。

この時期から目立つのが義満の官位の昇進だ。義満の邸宅「室町殿」が落成、彼は後円融天皇を招いて大掛かりな宴を催した。この後、彼は内大臣に、そして25歳になったときは左大臣に任じられているのだ。三代目将軍が公家になって出世するというパターンは鎌倉幕府の源実朝と似ているが、その意味は全く違う。実朝の場合は、朝廷からの“お恵み”によって与えられた称号だった。右大臣になったからといって、実朝はその下にいる大納言以下ににらみを利かせることはできなかった。

だが、義満の場合は正真正銘の実力者として、彼は公家社会に割り込み、まもなく公家の叙位・任官へも大きな発言力を持つようになったのだ。公家社会はいまや完全に義満に制覇されて、その下風に立つことになった。これは鎌倉時代にはなかったことだ。義満による公家社会の制覇といっていい。
こうして権力者・義満は、次は強大な権威の象徴=天皇をも膝下に置くことを目指す。皇位簒奪計画がそれだ。皇位簒奪とは義満自らが天皇に即位するわけではなく、治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって、王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。義満は寵愛していた次男・義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしたのだ。

 義満は1406年(応永13年)、2番目の妻康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)とし女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また、祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に後小松天皇が北山第へ行幸したが、この際、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁(うんげんべり)が用いられた。4月には宮中において、次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためで、義嗣の践祚が近づいていることは公然の秘密だった。これより少し前のことになるが、1402年(応永9年)の明による日本国王冊封も、当時の明の外圧を利用しての義満の簒奪計画の一環と推測される。

 ところが、皇位簒奪のゴール直前、義嗣元服のわずか3日後、義満は急病を発して死の床につく。こうして空前の簒奪劇は未遂に終わったのだ。あっけない幕切れだった。義満の死因には多くの様々な謎がある。海音寺潮五郎氏や井沢元彦氏らは暗殺されたとの見方をしている。

 義満の死後、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、四代将軍となった子の義持は、斯波義将らの反対もあり辞退している。義満の法名は鹿苑院天山道義。遺骨は相国寺鹿苑院に葬られた。そして相国寺には「鹿苑院太上天皇」と記された過去帳が残っており、以後、相国寺は足利歴代将軍の位牌を祀る牌所となった。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、井沢元彦「天皇になろうとした将軍」、今谷明「武家と天皇-王権をめぐる相剋」、永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

井伊直弼・・・ 視点は幕府のみで、日本の将来見据える視点に欠けた超保守派

 井伊直弼といえば「安政の大獄」で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など将来日本の様々な分野で名を成したであろう、多くの有為の人材を罪に陥れ、処断した“極めつきの悪役”というイメージが強い。だが、果たして彼は本当に根っからの悪人だったのか?

 井伊直弼は近江彦根藩第十一代藩主井伊直中の十四男。幼名は鉄之助、鉄三郎。字は応卿、号は埋木舎・柳王舎・宗観。本来なら他家に養子にいく身だったが、庶子だったため養子の口もなく17~32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。1846年(弘化3年)、第14代藩主で兄の直亮の世子だった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。1850年(嘉永3年)直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり掃部守(かもんのかみ)に遷任する。

 直弼は1858年(安政5年)、幕府の大老に就任すると、孝明天皇の勅許なしで米国と日米修好通商条約を調印し、無断調印の責任を配下の堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外へ放遂した。また、違勅調印を断行した直弼らの責任を問うため、大挙して江戸城に登城した越前藩主松平慶永、水戸藩前藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜らを、逆に大弾圧に乗り出した。いわゆる「安政の大獄」の始まりだ。弾圧の嵐は止まるところを知らず、反井伊派の公家、幕臣、藩士らに及んだ。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らは死罪、近衛忠煕は辞官に、公卿だけでも90数人を処罰した。

また、十三代将軍家定の後継問題では、直弼は紀州藩主の慶福(よしとみ)を擁立し、第十四代将軍家茂を誕生させたが、対立した一橋派の徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝、一橋慶喜、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信らを、違勅調印を唱えたことをからめて永蟄居や隠居などに処罰した。このほか川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

 通商条約の違勅調印に続く安政の大獄は、尊皇攘夷派の反発、憤激を呼び1860年、大老井伊直弼は桜田門外で脱藩した水戸浪士ら総勢18人による襲撃で暗殺された。この日、3月3日朝、夜通しの雪が降りしきっていた。そのため、井伊家の120人余の供方は、いずれも菅笠に桐油合羽(とうゆかっぱ)といういでたちで、刀には柄袋をかけていた。不意の事件で、身支度も整わず斬られた者も多い。
井伊家の届け出には、井伊大老は負傷ということにして、子・愛麿が家督を相続し三十九代掃部頭直憲となった後、病死として処理された。ありのままに発表すれば、井伊家改易は幕府従来の規律だからだ。この「桜田門外の変」を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになる。この事件は白昼、お膝元、江戸城の間近で幕府最高の権力者が惨殺されたものだっただけに、世間に大きなショックを与えた。

 幕閣でこれだけの強権・独裁・恐怖政治を断行した井伊直弼だが、これは、あくまでも大老という職責を担う公人として、“徳川幕府の威信”を守るためにやったことだった。だが、この時代、求められていたのはもう少し俯瞰で、日本の将来にとってどうあるべきかを考え、行動できる人物だったのだろう。ところが、現実に幕閣を担った井伊直弼は、そうした視点に欠けた、超保守的な人物だったのではないだろうか。

 井伊直弼は、彦根藩主時代は藩政改革を行い名君と呼ばれた。彼は部屋住み時代、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを咲くことのない埋もれ木にたとえて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた住まいで世捨て人のように暮らした。この頃、熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど聡明さを早くから示していた。したがって、彼は幕末・安政年間、幕閣に大老として登場して、その時代の幕府側にとって求められた“役割”を粛々と実践したに過ぎないのかも知れない。それだけに忌まわしい「安政の大獄」「桜田門外の変」に直結した井伊直弼の極端な“悪役”イメージを、彼自身はちょっと心外に思っているのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「桜田門外の変」、松本清張・奈良本辰也「日本史探訪/開国か攘夷か」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、立原正秋「雪の朝」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、白石一郎「江戸人物伝」