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種田山頭火 ・・・妻子を捨て行乞の人生を送り自由に一筋の道を詠い続ける

 種田山頭火は生きている時には、ほとんど無名で、その一生を終えたが、死後、評価され「自由律俳句」の代表の一人となった。妻子を捨て、世間を捨て、行乞(ぎょうこつ=修行僧が各戸で物乞いをして歩くこと)の人生を送り、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠い続けた山頭火は、生涯に約8万4000句を詠み捨てたという。生没年は1882(明治15)~1940(昭和15年)。

種田山頭火は現在の山口県防府市に、父竹次郎、母フサの長男として生まれた。本名は正一。種田家はこの付近の大地主で、父は役場の助役なども務める顔役的存在だった。その父の、妾を持ち芸者遊びに苦しんだ母が、自宅の井戸に身を投げて死んだ。山頭火11歳の時のことだ。この母の自殺が彼の生涯に大きな衝撃を与えた。

山頭火は1902年(明治35年)、早稲田大学文科に入学したが、2年後、神経衰弱のため退学して帰郷。その後、隣村の大道村で父と酒造業を営む。1909年(明治42年)佐藤サキノと結婚、翌年長男健が誕生。1911年(明治44年)、荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」に入門した。この頃から「山頭火」の号を用いる。29歳のことだ。狂った人生の歯車は順調に回りかけたかに見えたが、そうではなかった。1916年(大正5年)、家業の酒造業に失敗し、家は破産したのだ。家業を省みない父の放蕩と、度を過ぎた父子の酒癖が原因だった。父は他郷へ、山頭火は妻子を連れて句友のいる熊本へ引っ越す。

熊本へ移った山頭火は額縁店を開くが、家業に身が入らず結局、1920年(大正9年)、妻子と別れて上京する。その後、父と弟は自殺する。東京での山頭火は定職を得ず、得るところもないまま1923年(大正12年)、関東大震災に遭い、熊本の元妻のもとへ逃げ帰る格好となった。

不甲斐ない自分を忘れようと、酒におぼれ生活が乱れた。そして、生活苦から自殺未遂を起こした山頭火を、市内の報恩禅寺の住職、望月義庵に助けられ寺男となった。1924年(大正13年)、出家した。法名・耕畝(こうほ)。市内植木町の味取(みどり)観音の堂守となった。

1925年(大正15年)、寺を出て雲水姿で西日本を中心に行乞の旅を始め、句作を行う。1932年(昭和7年)、郷里の山口の小郡町に「其中庵(ごちゅうあん)」を結んだ。その後も行乞、漂泊することが多く、諸国を巡り、旅した。1939年(昭和14年)、松山市に移住し、三度目の庵である「一草庵(いっそうあん)」を結び、翌年この庵で波乱に満ちた生涯を閉じた。隣室で句会が行われている最中に、脳溢血を起こしたものだったという。

季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる、前衛的な「自由律俳句」。山頭火はその自由律俳句の代表として、同じ荻原井泉水門下の尾崎放哉(ほうさい)と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって、生計を立てているところは似通っている。しかし、その作風は対照的で「静」の放哉に対し、山頭火の句は「動」だ。

どうしようもないわたしが歩いている
山頭火の句には「近代人の自意識」がある。この句の中には二人の山頭火がいる。一人は、どうしようもない心を抱いて歩いている山頭火であり、もう一人はそれをじっと見ている山頭火だ。この自意識は小説分野の「私小説」にも通じるものだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

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東洲斎写楽・・・10カ月間に140数点の作品を残し、忽然と姿を消した作家

 東洲斎写楽は江戸中期の浮世絵師で、1794~95(寛政6~7年)の約10カ月間に140数点ものおびただしい役者絵などの作品を残したが、その後は忽然と歴史から姿を消してしまった。写楽は歴史を通じて日本美術を代表する作家の一人といっていいだろう。

ところが、意外なことにその実像は謎に包まれている。浮世絵師に記された落款とわずかな史料以外、写楽について伝える記録は残されていないのだ。この完璧なまでの歴史的空白は、まるで当時の関係者たちが意図的に“演出”して、作り出しているかのような印象さえ受ける。果たして、謎に包まれている写楽の実像は?その正体は?

 1794年(寛政6年)5月、写楽は28点の大判錦絵をひっさげて華々しくデビューした。「寛政の改革」を実施した松平定信は老中を辞したものの、引き続き贅沢は厳しく取り締まられていた時代のことだ。当時江戸で上演されていた歌舞伎に登場する役者たちを描いた28点の「大首絵」は写楽の代表作であり、その構図や独特のタッチはそれまでにないものだった。

その異様なまでの迫力に満ちた人物描写がヨーロッパ人にも高く評価され、20世紀初めに写楽を西欧へ紹介したドイツ人研究家、ユリウス・クルトはベラスケス、レンブラントとならぶ三大肖像画家の一人に数えたほどだ。

 謎の第一は活動期間の短さだ。写楽の作品が初めて世に出たとされるのは1794年(寛政6年)5月。ところが、翌1795年(寛政7年)2月以降の作品は1点も見つかっていない。活動期間わずか10カ月間だ。この10カ月間に140数点もの傑作を残したわけで、大雑把に計算すれば、2日に1点という大変な制作スピードだ。

 謎の第二はデビューの仕方だ。通常、絵師は読本や黄表紙の挿絵から描き始め細判、小判という小さいサイズを経て、初めて大判の絵を描くチャンスを与えられる。しかし、写楽はいきなり大判を描いている。謎の第三は最初から、絵のバックに高価といわれる雲母摺(きらず)りを使っていることだ。当時、雲母摺りを使えたのは歌麿と栄松斎長喜くらいだった。したがって、「写楽」とは無名の新人ではなく、名のある浮世絵師の別名(ペンネーム)ではないかという見方が生まれてきた。

写楽別人説は大きな謎を投げかけている。いうまでもなく、それは写楽は誰かという謎だ。これまで写楽ではないかいわれた絵師は喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川豊国、鳥居清長、栄松斎長喜、司馬江漢、円山応挙など数多い。また、画家以外の名を挙げる説も多い。例えば「東海道中膝栗毛」で知られる戯作者の十返舎一九、同じく戯作者兼浮世絵師の山東京伝、そして能役者の斎藤十郎兵衛なども有力な写楽候補だ。さらに問題を複雑にしているのは、写楽は何も1人に限らないという視点だ。つまり、写楽とは2人あるいは数人による共同ペンネームだとする説も提唱されている。これなら、謎の第一に挙げた2日に1点という制作スピードも、少しは納得できるのだ。

謎の第四は無名の役者も描いたという点、140余点の版元がすべて蔦屋という点も、当時の常識からは考えられないことだ。

 写楽別人説の多くは、どれもそれなりの根拠を構えている。しかし40人を超える候補の乱立は、裏を返せば大半が決め手に欠けていることの証といってもいい。果たして写楽は誰か?

(参考資料)梅原猛「写楽 仮名の悲劇」、高橋克彦「写楽殺人事件」、歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

玉松 操・・・王政復古の勅を起草、「錦旗」をデザインした岩倉具視の謀臣

 玉松操(たままつみさお)は幕末・明治維新期の国学者・勤皇家で、岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名だ。本名は山本真弘(まなひろ)。参議侍従、山本公弘の次男。京都生まれ。生没年は1810(文化7年)~1872年(明治5年)。

 8歳のとき京都・醍醐寺無量院において出家得度し、法名を猶海とした。修行・精進の末、大僧都法印に至る。だが寺中の綱紀粛正を強く主張するなど、僧律改革を唱えたため、反発を買い、30歳で下山。還俗して山本毅軒(きけん)と号し、のち玉松操と改めた。京都で国学者、大国隆正に師事し国学を学んだが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江に隠棲。のち和泉や近江坂本で私塾を開いた。

 1867年(慶応3年)、門人、三上兵部(みかみひょうぶ)の紹介で、蟄居中の岩倉具視の知遇を受け、その腹心となった。以後、王政復古の計画に参画するなど幕末維新期の岩倉具視と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。とりわけ有名なのは、小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことだ。さらに、玉松は早晩、幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための「錦旗」のデザインを考案するなど、官軍勝利に貢献した。

 日本の歴史にとって実に奇妙な日がある。1867年(慶応3年)10月13日と14日に全く矛盾する朝廷の勅命が出されているのだ。10月13日には薩摩藩に対して討幕の密勅が出され、同時に長州藩に対して、失われていた藩主の官位を復旧する宣旨が出されている。そして翌14日には長州藩に討幕の密勅が下された。

ところが、この14日には徳川十五代将軍慶喜が提出した「大政奉還」の願いが上表されている。翌日許可された。討幕の密勅というのは、その徳川慶喜を賊と見做し、これを討てという天皇の密命だ。討幕の密勅と大政奉還許可は、朝廷の行為としては全く矛盾する。なぜこんなことが行われたのだろうか?

 実はこの討幕の密勅、玉松操の画策だった。討幕の密勅には・天皇の直筆ではない・副書している中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の3人の公家の花押がない・3人の公家の署名が、すべて同一人の筆ではないか思われる-などから、従来から偽書だという説が強かったのだ。この画策=密勅こそ不発に終わったが、玉松操は討幕へ向けて次々と手を打ち出していく。

 玉松操はたとえ多少の血を流しても、徳川幕府は徹底的に武力で叩き潰さなければならないと考えていた。それだけに玉松にとって、大政奉還の起案者だった坂本龍馬が暗殺され、邪魔者が失くなった感があった。そのため、その後の玉松の行動に弾みがついた。錦の御旗をデザインし、岩倉具視が蟄居していた岩倉村の家に、薩摩藩の大久保一蔵(後の利通)とともに出入りしていた長州藩の品川弥二郎に「宮さん 宮さん…」の軍歌を作詞させ、その歌詞に品川が祇園で馴染みの芸者に節をつけたといわれる。すると、今度は一室にこもって、王政復古の詔勅づくりに取り組み始めた。岩倉を京都朝廷に推しだすためだ。

有名な小御所会議は慶応3年12月9日に開かれた。この日、天皇の命によって、今までの謹慎を解かれた岩倉具視は、自分が主宰する形で小御所会議を招集した。大政を奉還した徳川慶喜の官位と領地を剥奪するという内容を伴う「王政復古の大号令」を出すためだった。会議は騒然となった。だが、西郷隆盛や大久保一蔵らから、文句をいうものがいれば誰にしろ…、と武力行使をほのめかされていた岩倉のすさまじい“熱”が会議を主導、慶喜の官位剥奪、領地没収が決まった。やがて、この決定に憤慨した旧幕臣たちが、鳥羽伏見戦争を起こす。薩長軍は応戦、このとき翻ったのが、玉松操がデザインした錦の御旗だ。この旗によって薩長軍は官軍に変わった。天皇の親兵になった。そして新政府が樹立された。

 王政復古の後は、内国事務局権判事となり、矢野玄道(はるみち)、平田銕胤(てつたね)らと組んで、大学官(皇学所)、大学寮(漢学所)を皇学所への一本化や尊内卑外政策の実施を求めるなど、極めて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1870年(明治3年)、東京で大学中博士兼侍読(じどく)に任ぜられたものの、新政府の欧化政策に基づいた文教政策を批判して、1871年(明治4年)、官職を辞し京都に帰って隠棲したが、翌年病没した。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、司馬遼太郎「加茂の水」

徳川家斉・・・17人の妻妾を持ち53人の子をもうけた子持ちNo.1将軍

徳川第十一代将軍家斉は、50年もの長期にわたって将軍職にあった異例の将軍で、生涯に特定されるだけで17人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子をもうけた歴代将軍の中では、いや歴史上日本人の“子持ち”No.1の記録男だ。複数の女性を妻に迎えることは、例えば平安時代でも宮廷の高位を占める高級貴族の間では珍しいことではなかった。しかし、これだけ多くの妻となると、稀有なことと言わざるを得ない。また相当傑出した、強靭な体力がなければできることではない。こうしてもうけられた、これら子供たちの膨大な養育費が、逼迫していた幕府の財政をさらに圧迫することになり、やがて幕府財政は破綻へ向かうことになった。“お騒がせ”いや“オットセイ”将軍、家斉の生没年は1773(安永2)~1841年(天保12年)。

徳川家斉は、第二代一橋家当主・治済(はるさだ)の子として生まれた。幼名は豊千代、後に家斉。だが、第十代将軍家治の世嗣・家基が急死したため、父と老中首座にあった田沼意次の裏工作、そして家治にほかに男子がいなかったこともあって、幸運にも家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。そして、家治が1786年(天明6年)、50歳で急死したため、1787年(天明7年)、家斉は15歳で第十一代将軍に就いた。以後、50年もの長きにわたって将軍の座にあって、65歳で将軍職を家慶(第十二代)に譲ってからも、「大御所」として幕政の実権は握り続けた。

官位も太政大臣に上った。生前に太政大臣に上ったのは、徳川家の将軍では初代家康、二代秀忠以来のことだ。位人臣を極めたというべきか。体も丈夫だった。冬でも小袖二枚と肌着のほかは着たことがなく、こたつにもあたらず、手あぶりだけで済ませた。現代のように冷暖房完備とはいかない江戸城の中で、この薄着でいられたのは、よほど体の芯が丈夫だったのだろう。

家斉は将軍職に就いた年に第一子、淑姫(ひでひめ)をもうけ、54歳のときの最後の子、泰姫(やすひめ)まで、約40年間に53人の子供をもうけたのだ。これらの子の縁組先は6人が御三家、4人が御三卿、7人が家門(越前家諸家・会津松平家などの徳川家一門)など、計19人までが徳川家の近い親類に縁付いている。それらを除いた7人が外様大名に縁付いているが、2人が養子、5人が娘(姫)だ。これら家斉の子供のため、徳川家一門は御三家筆頭の尾張徳川家を始めとして、家斉の血縁の者が跡を継ぐケースが頻出し、幕末の大名家当主は多くが家斉の血縁の者になった。

家斉には17人の特定される妻妾以外にも妾がいたとも伝えられ、一説では40人ともいわれる。とはいえ、これらの側室が常時、彼のハーレムに侍っていたわけではない。周知の通り、徳川時代には大奥制度が厳然としてあり、加えてこれらの側室たちも30歳になると、「お褥(しとね)お断り」といって、その座を降りるしきたりになっていた。

それにしても、この側室の多さはマイナスでしかなかった。大奥の費用はかさみ幕府財政は極度に悪化したのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子「続 悪霊列伝」、「にっぽん亭主五十人史」、南条範夫「夢幻の如く」

天海・・・江戸城の場所選び、「東照大権現」を主張し権力を誇示した怪僧

 徳川幕府に仕えた天海の活躍ぶりには目を見張るものがあったという。江戸城の築城にあたり、風水術に長けていた天海が運気の強い場所を選び、東に東海道、西に隅田川や荒川、北に武蔵野台地、南に東京湾という、その好立地を決定したといわれている。また、家康を神として祀る聖なる地、日光東照宮を建てたのも天海だ。実は家康の神号、「東照大権現」も金地院崇伝、神龍院凡舜らと大論争の末、天海が主張したもので、権力の強さをみせつけている。

 人物伝によると、天海は江戸前期の天台宗の僧で、14歳のときから諸国名山霊区を遍歴。1608年(慶長13年)、65歳前後で徳川家康に招かれ駿府に赴き、帰依を受けて日光山を主宰、三代将軍家光まで幕府の信頼を受けたとされている。実はこの天海、家康に招かれたときから突如、歴史の表舞台に登場するのだ。不思議なことに、それ以前の足取りは一切掴めていない。生年月日や誕生地も不明だ。したがって、死亡年齢は108歳、110歳、111歳、さらには135歳と様々に推測されている。

 東照宮は現在およそ300社あるが、江戸時代には倍近くの555社もあった。日光の東照宮から地方の東照宮へ社僧が派遣されていたという事実もあり、天海は日光を拠点に東照宮のネットワーク化を図り、宗教界に君臨しようとしていたのではないかとみられた。

 そして近年、天海=明智光秀ではないかとの説が浮上し、注目を浴びている。光秀も天海と同様、いつ生まれたのか定かではない。文献によりまちまちで、「生年不詳」「享禄元年(1528年)」「大永6年(1526年)」などの説がある。出身地も岐阜県恵那郡明智町、岐阜県可児市と2つの説が挙げられており、確定していない。

諸国遍歴後、1558年(永禄元年)織田信長に仕え、1571年に近江国坂本城主となった光秀は、1582年(天正10年)、信長の宿所、本能寺を急襲し、信長に自刃させる。そして山崎の戦で豊臣秀吉に敗れた光秀は、現在の京都府伏見区にあたる小栗栖(おぐるす)で農民に竹槍で突かれて死んだとされている。

光秀はなぜ信長を討ったのか?など謎に満ちた「本能寺の変」もさることながら、光秀最大の謎がその「死」についてだ。江戸時代に書かれた「絵本太閤記」を前提に類推すると、・真っ暗闇の中、総勢30人ほどの前から6番目あたりにいた光秀の横腹に単なる一百姓が、それほど見事に槍を刺せるか・光秀の前後を護衛していた武将は光秀が刺されたことになぜ気付かなかったのか・後に土中から発見された生首を光秀と断定した根拠が定かではない-などいくつかの疑問が残る。これを突き詰めると、光秀不死説が浮上するのだ。行方をくらました光秀は数年後、天海となって再び、表舞台に姿を現すのだ。

 では天海=光秀とした場合、符合する部分はどれくらいあるのか。また矛盾点はないのか。1.光秀が小栗栖で姿をくらましたとき、彼はおよそ57歳ころといわれている。仮にそうだとすると光秀は1525年(大永5年)生まれとなる。天海は1643年に110歳以上で死んだと推測されているが、1525年に誕生し1643年(寛永20年)に亡くなったとすれば118歳、ほぼ一致するのだ。2.天海の諡号、慈眼大師という名は、光秀の木像と位牌が安置されている京都府周山村(現在の京北町)の慈眼寺にちなんだものだ3.天海とゆかりの深い日光に明智平という場所があり、日光の建物の至る所に明智の紋がある4.家光の乳母は春日局だが、彼女は光秀の姪でもあった5.比叡山の松禅寺には、光秀が亡くなったとされる年から33年後の、慶長20年に光秀が寄進したという意味の言葉が刻まれた石灯篭がある。

 ただ、ここで新たな疑問が出てくる。天海=光秀なら、なぜ家康は宿敵、信長の重臣だった光秀をわざわざ迎え入れたのか。その答えは、本能寺の変は家康と光秀の2人が共謀して起こしたとの説を採れば解決する。光秀は自分より秀吉に信頼を置くようになった信長に不満や不信感を募らせ、信長と距離を置くようになったところに、家康が素早く眼をつけ手を組んだというわけだ。とはいえ、信長が死んでも織田軍団がそれほど簡単に破滅するはずがない。だから逆に自分の首が危うくなると考えた家康は、光秀が単独で信長を殺害したことにしたのだ。その光秀も死んですべては終わったと見せかけた。しかし、実は天海として徳川家にブレーンとして迎え入れられていたというわけだ。果たして本当に天海は光秀なのか。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

トーマス・グラバー・・・巧みにしたたかに、幕末に暗躍した武器商人

 今も長崎の地に邸宅跡が「グラバー園」として一般公開され、観光名所にその名を残すトーマス・グラバーは、イギリス人の政商だ。幕末に暗躍した武器商人で、本国の英国と取引相手が対立した際も武器の販売は止めようとはせず、それでも罪を着ることなく、巧みに、そしてしたたかに激動期を生き抜いた怪人だった。徳川家とは距離を置き、薩摩・長州・土佐など討幕派を支援し、坂本龍馬の亀山社中とも取引があった。

有名なオペラ「お蝶夫人」のモデルになっている。つまり、お蝶さんの愛人はグラバーをモデルにしている。実際のグラバーは、オペラと違って「ある晴れた日」に、故国に戻って二度と帰らぬということはなかった。グラバーは「談川ツル」という日本人女性を妻とし、長女・ハナ、長男・倉場富三郎の二子をもうけている。明治44年に東京で死んだ。

あまり知られていないが、明治以降は高島炭鉱の経営にあたった。蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街、長崎の基礎をつくったのだ。グラバーこと、トーマス・ブレーク・グラバーの生没年は1838~1911年。

 1859年(安政6年)5月28日、徳川幕府が神奈川、長崎、箱館の3港を開き、米国、オランダ、ロシア、フランス、英国の5カ国との貿易を許可。次いで6月20日、外国の武器を日本側が購入することも許可。そうした状況下、駐日総領事として英国からやってきたのがオールコックだ。
トーマス・ブレーク・グラバーは日本が開国するとすぐ英国から渡航してきた。そして、長崎に貿易商社「グラバー商会」を設立した。グラバー商会は、海運と武器弾薬の販売を行うことを目的としていた。西南の雄藩が争って外国の武器を買い始めたので、グラバー商会はたちまち発展した。最大の取引相手は薩摩藩だった。そして、薩摩藩側の担当が五代友厚(当時の才助)だ。

 五代才助は薩摩藩士だったが、開明的な考えと、実業家的手腕を持っていた。若い頃、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを勉強した。1862年(文久2年)幕府が上海に船を派遣し、各藩から志望するものは同乗を許したので、五代も薩摩藩から派遣されてこれに参加した。このとき同じ船に長州藩の高杉晋作が乗っていた。五代と高杉はたちまち肝胆相照らして仲良くなった。五代は上海でドイツ製の船を買って帰った。高杉は上海の状況を見て、欧米列強の実力をまざまざと感じた。そしてこの時点で、高杉は攘夷論を放棄した。

グラバーは薩摩、長州、土佐など西南雄藩に接近した。そうした一環として、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則、長沢鼎らの海外留学、長州藩の井上馨、伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉らの英国渡航の手引きもしている。

取引相手として最も重要視していた薩摩藩と英国との間に事件が起こった。文久2年の「生麦事件」だ。この事件は薩摩藩主の父、島津久光の行列の前を、数人の英国人が横切ったことから起こった。列の先頭にいた薩摩藩士が怒って、いきなり刀を抜いて英国人たちを殺傷した。この事態収拾をめぐって交渉は決裂、「薩英戦争」となった。

このとき必死になって、日英間の和平調停をしたのが五代友厚とグラバーだ。五代は上海で買った外国船の艦長として鹿児島湾内にいた。だが、英国艦隊が攻め込んできても彼は戦わなかった。そして英国艦隊の捕虜になった。このため、五代は薩摩藩士の風上にも置けない卑怯者だと非難された。五代は英国の捕虜として横浜に連行された。ところが、彼は横浜から脱走した。その後、長い亡命生活を送る。このとき手を貸したのがグラバーだ。

 グラバーの怪人たる所以は、彼が決して一元的な発想方法を取らなかったことだ。薩摩藩と取引しながら、そのため本国の英国に対して結果として弓引くことになる場合もあったのだ。例えば薩摩藩は公然と英国を敵視し、英国人を斬殺し、戦争状態に入ったときもグラバーは薩摩藩と取引することを止めなかった。そして、薩摩藩から裏切り者と見られていた五代友厚を、あえて匿うようなこともする。

また、当時、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を結びつけた、薩長同盟を成立させた黒幕がグラバーだったのだ。このグラバーと一緒になって暗躍したのが土佐の坂本龍馬であり、龍馬率いる亀山社中だ。亀山社中は後の海援隊になる。薩長同盟が契機となって、日本の政治情勢はどんどん変わっていった。グラバーはその後も、英国公使館に出入りし、アーネスト・サトウとともに、パークス公使の補佐をする。地に着いた彼の意見は、どれほどパークスを助けたかわからない。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、白石一郎「異人館」

長野主膳・・・幕末動乱期 大老・井伊直弼を陰で操った怪物参謀

 長野主膳(しゅぜん)は、幕末・維新史上の大怪物とも、大魔王とでもいうべき人物だ。幕末・維新の騒乱は井伊直弼の大老就任から始まったといっていいが、周到な計画を巡らせて井伊直弼を大老にしたのは井伊の参謀だった長野主膳であり、井伊が大老としてやったことのほぼすべて-紀州慶福(よしとみ)を将軍世子に決定したこと、勅許なく条約を結んだこと、安政の大獄を起こしたこと、和宮降嫁の運動に着手したことなども彼なのだ。突き詰めていえば、井伊はロボットで、陰でそれを操っていたのはこの長野主膳だったのだ。

 長野主膳は伊勢国の出身といわれるが、その出自、幼・少年時代のことなどは、詳らかではない。長野の幼名は主馬(しゅめ)、諱は義言(よしとき)。長野の生没年は1815(文化12)~1862年(文久2年)。

長野は本居宣長系統の国学者で、和歌は速吟で、しかも上手だったという。そして、長野は“主義”の人ではなく、功業を目的とする人物だったといわれ、権謀に長けた策謀家というのが大方の評価だったようだ。

 天保10年、三重県飯南郡滝野村(現在の飯高町)にやってきた長野主膳は、紀州新宮の領主、滝野次郎左衛門の妹、滝と恋におちた。そして天保12年、二人は結婚する。長野が27歳、滝が31歳のときのことだ。結婚すると二人は滝野村を出て、京に上り、それから近畿、東海道の各地を巡遊。そして、最後に江州伊吹山の麓の坂田郡志賀谷村の阿原家に落ち着き、「高尚館」という国学塾を開いた。坂田郡志賀谷村は水野土佐守忠央(ただなか)の知行地の一つで、阿原家はその代官だったといわれる。

 長野は志賀谷村に落ち着くと、よく彦根にでかけた。やがて、弟子や和歌の友もできて数カ月の後、彼は井伊直弼に会うのだ。直弼は彦根井伊家十二代藩主の直中(なおなか)の十四番目の子だ。江戸時代の武家の三男以下ほど哀れなものはない。それは大名の家も同じだ。次男はお控えと称して、長男が万一若死にでもしたときのスペアとして相当な待遇をされるが、三男以下は他の大名や、家中の重臣の家に養子にいく以外には、わずかな捨扶持をもらって一生飼い殺しにされ、妻も持てない。妻を持たせて子供ができれば藩でその行く末までみなければならないからだ。女がほしければ妾をおくか、女中で間に合わせるよりほかない。妾や女中なら、構わなくてもいいからだ。惨めなものだ。

 直弼も養子の口を探したが、なかなかなかった。遂に東本願寺別院、長浜の大通寺に養子に入ろうとして、ずいぶん運動したが、これも結局まとまらなかった。井伊家ではこんな境遇にある子供には年給米三百俵を与えて、飼い殺しにする定めになっている。直弼はこれを受けて生涯を埋もれ木で終わる覚悟を決め、三の丸の尾末町の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた。この家号でも分かるように、直弼の嗜好は国学にあったのだ。国学を仲立ちとして直弼と長野の関係は結ばれた。長野は埋木舎を訪問し語り合い、直弼と深い信頼を抱きあう師弟関係となった。長野、直弼ともに28歳のときのことだ。

 長野と直弼が知り合いになってから3年余の弘化3年、直弼の兄で世子だった直元が江戸で死亡、直弼が世子となった。そして、直弼が世子となって4年10カ月目の嘉永3年、井伊家の当主、直弼の長兄直亮(なおあき)が病死。遂に直弼が当主となった。一時は自らの運命を諦め切っていた直弼に、花が咲いたのだ。直弼36歳のときのことだ。

 直弼は長野を嘉永5年の春、知行百五十石の藩士として、藩校弘道館の国学教授とした。こうして長野は素性も知れない身の一介の浪人学者から、井伊家お抱えの国学者として百五十石を食む身分となったのだ。だが、人間の欲望には限りがない。この点は直弼も似た思いだったに違いない。長野は直弼を大老にしたいと考える。なぜなら井伊家はそうなれる家柄なのだから…。

大老は常置の職ではないが、平時でも置かれたことが多いうえに、こんな時局になっているのだから、置かれる可能性は大いにある。直弼は天性優れた才と度胸があるうえに、学問もしており、長い間逆境にあって下情に通じている。功名心の強い長野は、単に直弼のためだけにこう考えたのではない。直弼を大老として幕閣第一の権力者としたうえで、自分もまた幕府の要人になろうと考えていたのではないかと思われるのだ。

 1853年(嘉永6年)、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航、世情騒然となったその年、病気がちだった第十二代将軍家慶が死亡。そして十三代将軍に家慶の子、家定が就いた。だが、この家定は精神薄弱児的人物だったから、できるだけ早く将軍世子に賢明な人物を立て、その人物に将軍の政務を担ってもらおうとの動きがあった。こうして周知の通り、将軍世子に一橋慶喜を推す派と、紀州慶福(よしとみ)を推す派の二派が相争う状況となった。

 冒頭に記した通り、長野は井伊大老が断行したすべてをいわば主導したのだが、最も衝撃的だったのはやはり「安政の大獄」だ。狂気のような大検挙があった翌々年、万延元年、「桜田門外の変」で直弼は惨殺される。直弼の後を継いだ直憲からは疎まれ、その翌々年、文久2年、直弼という絶大な後ろ楯を失ったダメージは大きく、藩内の空気が一変、長野に対する批判が爆発。長野は“奸悪”の徒として禁固され、牢内で処刑された。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

林子平・・・憂国の思いで著した2作品が発禁となり、不遇のうちに死去

林子平は江戸時代、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』や日本海岸総軍備という論旨の『海国兵談』などを著したが、幕府からはにらまれ、世に全く受け入れられず、不遇のうちに死去した。高山彦九郎、蒲生君平とともに「寛政三奇人」の一人。生没年は1738(元文3)~1793年(寛政5年)。

林子平は幕臣、250石の旗本、岡村源五兵衛の次男として生まれた。名は友直。小納戸兼書物奉行をしていた父は新井白石と交友があり、なかなかの学者だったが、硬骨漢で古武士の風格を備えた人物だった。そのため、徳川吉宗の時代になって新井白石が没落した際、反対派の上役とソリが合わず父が浪人。そこで兄・嘉膳とともに、叔父の林従吾に養われ、林姓を名乗った。

姉なおが仙台藩六代藩主伊達宗村の側室に上がった縁で、1757年(宝暦7年)仙台に居を移し、兄とともに仙台藩の禄を受けた。子平20歳のことだ。仙台では「赤蝦夷風説考」の著者、工藤平助、塩釜神社の神官藤塚式部らと交わっている。仙台藩で教育や経済政策を進言するが、採用されることはなかった。そのため、禄を返上して藩医だった兄の部屋住みとなり、全国を行脚した。

1775年(安永4年)、長崎へ行き、オランダ人からロシアの南下策を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志した。その後、二度長崎で学び、江戸では大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周(ほしゅう)の蘭学者らと交遊した。

林子平が生きた時代はロシアの南下政策が顕在化してくると同時に、蝦夷地への関心が一挙に高まった時代だった。子平は1777年、『海国兵談』の稿を起こした。日本が太平の眠りに呆けているうちに、近海の島や国が片っ端から、ヨーロッパ諸国の植民地や領土に繰り込まれていく。やがては日本の国土が蚕食されないとは限らないのだ。それを思うと何とかして、この書を書き上げ世の政治家たちに訴えたかった。

1785年(天明5年)には『三国通覧図説』を世に出した。三国とは朝鮮・琉球・蝦夷だ。そして1788年(天明8年)に『海国兵談』を出版した。着手して以来、実に9年の歳月が流れていた。『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書だったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は16巻・3分冊もの大著を、自ら版木を彫っての自費出版にして世に問う決心をし、実行する。

しかし、完成した『海国兵談』は老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、政治への口出しを嫌う幕府に危険人物として眼を付けられ、『三国通覧図説』も幕府からにらまれ、両著作とも発禁処分となった。そればかりか、『海国兵談』は版木没収の処分を受ける。

子平は第二回の長崎行き以来17年間、人生の働き盛りをすべてその問題に懸けてきたのだ。つまり、彼の命も全精神も一冊の書『海国兵談』にあったといってもいい。しかし今、その版木が資金不足からわずか38部を世に出したのみで、没収されようとしている。彼の命が、全精神が闇から闇へ消し去られようとしているのだ。子平が心に受けた衝撃は筆舌では尽くせないものがあった。だが、子平はその後も自ら書写本をつくり、それがさらに書写本を生み、後世に伝えられた。

子平は、チフスと思われる病気との闘病後の身を警護の役人に守られながら、最終的に仙台の兄のもとへ強制的に帰郷させられた。そのうえ、禁固刑(蟄居)に処され、そのまま不遇のうちに死去した。
蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。子平が息を引き取った翌月、松平定信が老中首座の地位から退けられている。時代がいま少し遅ければ、あるいは老中首座がいま少し開明的な人物なら、林子平もこれほど悲惨な状況に追い込まれることはなかったかも知れない。それにしても時期が悪すぎた。

当時、日本で認められなかった『三国通覧図説』は1832年に仏語訳が出版され、その付図「無人島之図」は幕末、諸外国との間に小笠原諸島の帰属が争われたとき、日本側の有力証拠資料となった。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、南条範夫「夢幻の如く」

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藤原良房・・・人臣初の摂政となり、藤原北家全盛の礎を築く

 藤原良房は皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた人物だ。それは、決して彼一人の力で成されたものではなく、父・藤原冬嗣が皇太弟時代からの嵯峨天皇に仕え信頼が厚かったこそ、着実に形成されていった閨閥を背景に、押し出されるように実現したように見える。しかし、その後の藤原氏北家の、「承和の変」「応天門の変」など、次々と政敵を陥れ排除していく事件を丹念に見ると、実態は見事に、そして計画的に仕組まれて行われたものだと分かる。良房は、そうした藤原北家全盛の礎を築き上げ、良房の子孫たちはその後、相次いで摂関(摂政・関白)となった。良房の生没年は804(延暦23)~872年(貞観14年)。

藤原良房は父・冬嗣の二男として生まれた。母・藤原美都子(みつこ)は838念に右大臣となった藤原三守(みもり)の姉で、嵯峨天皇の宮廷で尚侍(ないしのかみ)として天皇・皇后の篤い信任を受けていた。三守の妻・安子は皇后・橘嘉智子の姉だった。良房はこうした閨閥でもこの皇后と深く結び付いていた。子に明子(あきらけいこ)、養子に藤原基経がいる。

藤原北家の繁栄の基礎を築いたのは藤原冬嗣だ。冬嗣は平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」(810年)で嵯峨天皇のより深い信頼を得て蔵人頭という天皇の秘書官長ともいえる重要な職に任ぜられ、翌年参議に任じられ、国政に中枢に参画するようになった。のち大納言、右大臣を経て左大臣に就任。朝廷のトップの座に昇った。

良房は814年(弘仁5年)、嵯峨天皇の皇女・源潔姫(きよひめ)を降嫁された。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだ。これは、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけ大家父長制をとった嵯峨上皇ならではのことともいえるが、上皇も藤原氏、とりわけ冬嗣の系統(北家)との関係を緊密にする狙いがあったのだ。桓武天皇は793年(延暦12年)に詔を下して、藤原氏に限って二世以下の王(女王)をめとることを許したのだが、冬嗣・良房の北家の流れは、ごく大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。
さらに、良房は妹の順子を仁明天皇の女御として権力を握った。順子と仁明天皇との間に道康親王が生まれると、良房に大きな野望が膨らむ。それが具体的な行動として現れるのが842年(承和9年)のことだ。それは嵯峨上皇が57歳で没した2日後、その火ぶたが切って落とされた。

良房は仁明天皇の生母、橘嘉智子(故嵯峨天皇の皇后=皇太后)と密議の上、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らのグループの何らかの思惑を、一大疑獄に仕上げてしまったのだ。仁明天皇は彼らを謀反人と断じ、その責任を恒貞親王にも問い、皇太子の地位を奪い去った。逸勢は、姓を非人と改められて伊豆国に流されたが、護送の途上で死んだ。健岑の配流先は隠岐国だった。東宮坊の官人らで流刑の憂き目に遭った者には、名族の伴氏(かつての大伴氏)、橘氏など、良房にとって朝廷でのライバルだった公卿が含まれ、60余人の多きに及んだ。これが、「承和の変」だ。

これによって良房は大納言の地位を占めた。その翌月、良房の妹、順子が仁明天皇との間にもうけた道康親王が皇太子に立てられた。親王16歳のときのことだ。

良房は次に、嵯峨天皇から降嫁された皇女、潔姫との間でもうけた明子を文徳天皇の女御とし、その間に生まれた惟仁(これひと)親王を9歳で即位させる。清和天皇だ。そして866年、遂に皇族以外で初の「摂政」となった。摂政は、天皇が幼少だったり、女帝の場合に「政を摂る」こと、あるいはその役職を指すが、それまでは聖徳太子、中大兄皇子のように皇族が就任するのが通例だった。そんな、本来手の届かないはずの摂政に良房は就任したのだ。そして「摂政」職はその後、良房の養子・基経に引き継がれていく。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史 平安京」

原市之進・・・徳川慶喜の側近・黒幕で、取るべき行動を指示、画策

 徳川家では、征夷大将軍になるには必ず徳川家の当主でなければならないという取り決めがあった。世襲制であると同時に、徳川家の当主を兼ねた。手続きとしては、まず宗家の当主になりその後、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けることになる。しかし、徳川家の当主になったときは、たとえ養子でもすぐにそのまま征夷大将軍に移行するということが慣行になっていた。

ところが徳川慶喜の場合は違った。彼が徳川宗家の当主になったのは、1866年(慶応2年)8月のことだが、将軍になったのはこの年12月5日のことだ。約半年間、空白期間があるのだ。そうさせたのは慶喜の黒幕だった原市之進の画策だ。原はこの頃、慶喜の黒幕としてピタリとついていた。

 慶喜の実質的に将軍宣下に“待った”をかけた原市之進の言い分はこうだ。徳川宗家の当主を引き受けることは構わないが、徳川幕府が置かれているこの大変なときに、今すぐ将軍を引き受けるのは得策ではない。どうせならなければならないのなら、もっと恩に着せて、大名会議にどうしてもあなた(慶喜)に将軍になってほしいと要望させるのです。安売りはいけません-と進言した。そして、そのため京都にいる老中・板倉勝静殿と画策中です-という。

 この頃、幕府は第二次長州征伐の最中だった。その総指揮を執っていたのが、大坂城までやってきた十四代将軍徳川家茂だ。まだ年若な将軍で、妻は天皇の妹、和宮内親王だった。しかし、病弱な家茂はこの戦いの最中に死んでしまった。そのため、慶喜は早急に要望されて徳川宗家を相続したのだ。いままでのルールで、当然そのまま将軍職に就くものと思っていたのに、ブレーンの原が反対した。

 原市之進は元々、水戸藩の藩士だ。水戸斉昭のブレーンだった藤田東湖の従弟にあたる。幼名は小熊。諱は忠敬、忠成。別名は任蔵。号は尚不愧斎。字は仲寧。通称は伍軒先生。藩の勘定奉行を務めた水戸藩藩士・原雅言の次男として生まれ、弘道館で学んだ。1853年(嘉永6年)、昌平坂学問所に入学。その後、水戸に帰国して弘道館の訓導(現在の先生)となり、奥右筆頭取に任命された。
1863年(文久3年)、原は徳川慶喜の側近となり慶喜の補佐を務める。1864年(元治元年)、慶喜の側用人(一橋家家老)だった平岡円四郎が暗殺されると、慶喜の側用人となった。1866年(慶応2年)、慶喜より幕臣として取り立てられる。原自身は聡明で、慶喜に忠義を尽くしていたが、その功績を妬む者も多く、平岡円四郎同様に奸臣と見做されていた。

 原市之進の前半生は波乱に満ちている。若い頃、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)に心酔し、川路が対露交渉のため長崎に行ったときは、その従者として一緒に行った。その頃、原は当時はやりの過激な攘夷論者だった。だから、彼の交際範囲は、いわゆる“志士”と呼ばれた連中にも広く及んでいる。とくに安政年間には水戸藩は、日本の攘夷派のメッカであり、期待する人々が多かった。長州の桂小五郎や、備中松山藩の山田方谷などとも交流があり、当時の原はこうした過激派の先頭に立って、攘夷論者の幹部として活躍していたのだ。

 1862年(文久2年)、江戸城の坂下門で老中の安藤対馬守が襲撃された事件の背後に原はいたのだ。安藤を襲撃して捕らわれた浪士が持っていた斬奸状の文面は、原が書いたという噂がもっぱらだったという。しかし、彼は表には出なかった。黒幕としてこの事件の脚本を書き演出した。彼の黒幕としての資質は天性のものであったといっていい。

 1867年(慶応3年)、8月14日、原市之進は自宅で同僚の幕臣、鈴木豊次郎と依田雄太郎に暗殺された。背後には山岡鉄舟がいたといわれる。黒幕の原の死後、慶喜の行動は常にフラフラ、グラグラとぶれ、“優柔不断な男”のレッテルを貼られることになった。原が健在なら慶喜の行動はもう少し違ったものになっていたのではないか。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、童門冬二「江戸の怪人たち」