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大野弁吉・・・からくり人形など多才、黒子に徹した銭屋五兵衛のブレーン

 大野弁吉の存在は、あまり知られていない。彼は黒子に徹し、歴史の表面に出てこないからだ。大野弁吉は「海の百万石」といわれた加賀藩の御用商人、銭屋五兵衛の何人かいたブレーンの一人だった。しかし、日本全国における拠点・支店網の設置、扱い品目の拡大、外国との貿易など、銭屋五兵衛が海を主体にして展開した幅広い商活動のほとんどは、この大野弁吉の進言によっているといっても過言ではない。弁吉のブレーンぶりは極力、銭屋の店の組織に入らずに行うことだった。

 大野弁吉は1801年、京都五条通の羽子板細工師の子として生まれた。幼少の頃から四条派の画を描き、20歳ごろ長崎に留学。オランダ人から医学、天文学、理化学、西洋科学を学び修得。絵画や彫刻も学んだという。その後、対馬や朝鮮に渡り、馬術、砲術、算術を学び、帰国した後は紀伊国に出かけ、砲術、馬術、算術、暦学を究めた。加賀国石川郡大野町(現在は金沢市に編入)に住んだところから大野弁吉と呼ばれた。

 弁吉は「加賀の平賀源内」とも「加賀のダ・ヴィンチ」とも評されるように、エレキテルや万歩計、発火器(ライター)、ピストルまで制作し、鶴の形をした模型飛行機を作って飛ばし、多くの人を唖然とさせたこともあるという。彫刻も巧みで、名工の域にまで達していた。このほか、たった1枚の銀板写真を見てカメラを作ったという話さえある。製作年ははっきりしないが、弁吉が撮った妻うたの写真などが残っている。

 多種多彩な才能を持っていた弁吉は、紀伊から京都に戻り、中村屋の婿養子となる。それから30歳ごろから妻の実家、越前国の大野に移り住んだ。職業は指物師。家具や机、木箱などの生活用品を作る職人だ。だが、現在では仕事の合間に作っていた、からくりの制作者としてよく知られている。からくりの新しいアイデアがひらめくと、食事も摂らずに2日も3日も作業場にこもって妻を心配させたそうだ。

からくりの中で有名なのは「茶運び人形」だ。人形の上に茶碗を乗せると、客に向かって運び、その茶碗を受け取ると、お辞儀をして、くるっと向きを変えて帰っていくというものだ。その他にもゼンマイを回すと人形が太鼓を叩き、ネズミが穴からちょこちょこ出てきて、再び穴に入っていく「ねずみからくり」や「鯉の滝登り」「三番叟人形」「品玉人形」などの作品を作っている。

 こんな弁吉の良き理解者だったのが「銭五」とも呼ばれた加賀の豪商、銭屋五兵衛だ。弁吉は富や名誉には全く無関心で、天才にありがちな気紛れもの。仕事は気が向かなければ、頼まれてもやらない。そのせいで夫婦の生活は常に苦しかった。親交の深かった銭五からでさえ弁吉は生活の援助を受けようとしない。一度、貧しさを見かねた銭五が米を持ってきたときも、弁吉はひどく憤慨した。だが、銭五は「俺はお前に施しをするつもりはない。これは今から頼む指物の前払いだ」といって、さらに味噌、醤油、野菜、魚、弁吉の大好きな酒、そしてうたの着物まで運び込んだという逸話が残っている。

 銭屋五兵衛との親交は20年以上にも及んだ。その銭五は河北潟埋め立てに関して、濡れ衣だったが、毒物を使うことを指示した疑いで投獄され、無実を訴えながら獄中で非業の最期を遂げる。加賀藩はそれまで銭五をさんざん利用して藩ぐるみで密貿易をしていた。その密貿易が幕府に知られ、嫌疑をかけられそうになったため、罪を銭五一人に背負わせて藩の責任を逃れようとしたのが真相だった。こうして弁吉は良き友で、良き理解者だった銭五を失った。

 大野弁吉は好奇心の塊のような人物だったのだろう。器用貧乏のようにもみえるが、平賀源内と比べると無名だが、才能、とくに独創性は源内より優れていたといえるのではないか。弁吉は1870年(明治3年)、70歳で生涯を終えた。弟子は多くはなかったが、米林八十八、朝倉長右衛門をはじめ和算、医術、彫刻、写真など多くの分野で活躍した人たちがいて、明治期に活躍した。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、童門冬二「海の街道」、南原幹雄「銭五の海」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

金地院崇伝・・・豊臣氏を追い詰めた方広寺鐘銘事件に深く関与した怪僧

金地院崇伝は臨済宗の僧でありながら、江戸幕府を開いた徳川家康に招かれ、やがて幕政に参加。寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定などに関係した。また、豊臣氏を滅亡に追い込むきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」にも深く関与。時にはかなり強引とも思える手法で、政務を断行し、徳川政権を支え、安定に寄与したといわれている。同じように家康に招かれ、権勢を誇った南光坊天海とともに「黒衣の宰相」と呼ばれた“怪僧”だ。金地院崇伝の生没年は1569(永禄12)~1633年(寛永10年)。

金地院崇伝は武家の名門、足利将軍家の家臣一色氏の一門、一色秀勝の第二子として京都で生まれた。1573年に室町幕府が滅亡し、父秀勝も没落。父の没後、南禅寺で玄圃霊三に師事し、南禅寺塔頭の金地院の靖叔徳林に嗣法、さらに醍醐寺三宝院で学んだ。1594年に住職の資格を得て、福厳寺、禅興寺に住持している。この頃から彼は「以心崇伝」を名乗るようになった。

以心崇伝は1605年(慶長10年)、鎌倉五山の一つ、建長寺の住職となった。そして同年、彼は古巣で臨済宗大覚寺派の本山、南禅寺の270世住職となった。臨済宗の最高位に就いたのだ。このあたりの経緯については定かではない。

1608年(慶長13年)以心崇伝は、豊臣政権に代わり江戸幕府を開いた徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり、外交関係の事務を担当。やがて幕政にも参加するようになった。1612年から閑室元佶や京都所司代・板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係した。

以心崇伝はかなり強引な手法も交え、政治では辣腕を振るった。例えば「方広寺鐘銘事件」がそれだ。1614年、崇伝は家康から豊臣家を追い落とす方法はないか-と相談を受けた。そこで彼が持ち出したのが方広寺の鐘銘だった。その鐘銘に『国家安康』『君臣豊楽』という文があった。これを彼は『国家安康』は家康公の名を引き裂いており、『君臣豊楽』は豊臣家を主君として楽しむ-と取れると言い、これで言いがかりをつけては、と提案したのだ。強引で勝手な解釈による、あきれるほどの言いがかりもいいところだが、これを大問題にしてしまったのだ。これにより、「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を開戦に走らせたわけで、家康の思いを叶えた良策となった。崇伝の“怪僧”の面目躍如?といったところだ。

こうした強引で卑劣な策略をも用いたため、崇伝は庶民には全く人気がなかった。庶民は彼を「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名し、大徳寺の沢庵宗彭(たくわん そうほう)は「天魔外道」と評している。こんな世評にも崇伝は全くめげない。

1616年(元和2年)、家康が亡くなると、神号をめぐり崇伝は、南光坊天海と争った。天海は神号を権現として神仏習合神道で祀りたいとし、崇伝は神道で祀り大明神の神号を奉りたいと、意見は真っ向から対立、二人の間で激しい論争が繰り広げられた。だが、明神は豊臣氏の豊国大明神とつながって不吉-と主張する天海側に大勢が流れ、結局は天海の主張する権現に決まり、崇伝は敗れた。
1616年(元和4年)、崇伝は江戸・芝に金地院を開き、翌年僧録司となって五山十刹以下の寺院の出世に関する権力を握り、名実ともに禅宗五山派の実権を掌握した。1626年(寛永3年)、後水尾天皇より円照本光国師の諡号を賜った。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」

工藤平助・・・ 『赤蝦夷風説考』で江戸期の海防論の先駆けに

 工藤平助は鎖国下の日本において、長崎のオランダ人と交友のある蘭学者などから入ってくる帝政ロシアの情報をまとめ『赤蝦夷風説考』を著し、老中田沼意次に建白書として提出、江戸期の海防論の先駆となった人物だ。林子平はこの工藤平助から蘭学の知識、国防論の刺激を受け兄事していたが、『海国兵談』を著わした際、子平に懇願されて平助は序文を書いている。生没年は1734(享保19)~1801年(寛政12年)。

工藤平助は紀州藩医、長井大庵の第三子として生まれた。名は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)、万光(ばんこう)、通称は周庵(しゅうあん)、青年になって平助と称した。只野真葛(ただのまくず)は娘。12歳まで紀州で育ったが、13歳のとき父・長井大庵と親交のあった仙台藩医、工藤丈庵の養子となった。工藤家は代々仙台藩医だった。医術を養父に学び、儒学を服部南郭(なんかく)、青木昆陽に師事した。

平助は1754年(宝暦4年)、父禄300石を継ぎ藩医に列せられ、江戸定詰となった。時代は移っても大過なく藩に仕え、医師としても重視されたが、藩政にも関与するようになり、小姓頭から出入司(仙台藩固有の官職で財務をつかさどる)に進んだ。

平助は医術のみに携わることを好まず、学問を修め、多くの優れた友人と様々なことを論じ合った。中川順庵、野呂元丈、吉雄耕牛、桂川甫周ら蘭学者と交遊、海外の知識を得た。親交のあった蘭医・学者、前野良沢の弟子、大槻玄沢を藩医に推挙し、彼と親族の義を結んだ。平助は玄沢とともに仙台領内の薬物30種を調査研究し、藩政に寄与した。

1883年(天明3年)、平助は老中田沼意次に建白書『赤蝦夷風説考』を提出し、ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説いた。赤蝦夷とは当時日本側が使っていたロシアの通称。これによって平助は、林子平、本多利明ら江戸期の海防論の先駆となった。

老中田沼意次は蝦夷地経営に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に備える必要性を認識していた。そこで平助は何とか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人、三浦庄司を介して上申。その甲斐あって1784年(天明4年)、勘定奉行松本秀持が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、この『赤蝦夷風説考』が添付された。伺書は『赤蝦夷風説考』を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地、豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。

それを受けた田沼意次は早速、翌年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし1786年(天明6年)、田沼の失脚により、この探索隊は残念ながら中途で断絶してしまった。

(参考資料)永井路子「葛の葉抄」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」

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佐倉惣五郎・・・一族の身命を賭けて藩主の苛政を将軍に直訴した義民

佐倉惣五郎は江戸時代前期、自身の命を賭けて藩主の苛政を将軍に直訴した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主だったといわれる。その結果、藩主の苛政は収まったが、惣五郎夫妻、そして4人の子供までも磔となってしまった。後世、物語や芝居の題材に取り上げられ、佐倉惣五郎は“義民”として知られるようになった。生没年は不詳。俗称は宗吾。

佐倉惣五郎の名は江戸時代の百姓一揆の指導者として有名だ。しかし、有名なのは芝居として上演されたりしてきたためで、史実ではなく伝説としての惣五郎といった色彩が濃い。そのため、少し前までは惣五郎は架空の人物で、実在しなかったのではないかと主張する研究者もいたほどだ。実在か非実在かの論争に決着をつけたのは児玉幸多氏だ。当時の名寄帳に「惣五郎」という名前があることから、惣五郎の実在が確認されたのだ。その名寄帳によると、惣五郎は3町6反の田畑を持ち、9畝10歩の広さの屋敷を持っていたことが分かる。そこで、当時の百姓としては上層部に属していたことも判明した。しかし、確実な史料によって確認されるのはそこまでで、彼が名主だったとか、さらに割元名主(大庄屋)だったとか、直訴を行ったなどということは確かめることはできない。

土地の農民たちの間で語り伝えられていた惣五郎伝説が、文字となって他の地域の人々に知られるようになったのは、18世紀に入ってからのことと思われる。1715年(正徳5年)、磯部昌言編の「総葉概録」に惣五郎伝説の概要が記されている。しかも、惣五郎が冤罪で殺され、その祟りで藩主堀田氏が滅びてしまったことまで書かれている。しかし、今日流布しているような物語性を持った惣五郎伝説が成立してくるのはもっと後のことで、「地蔵堂通夜物語」「堀田騒動記」「佐倉義民伝」が世に出てからのことだ。これらは18世紀末から19世紀初めにかけての成立と思われ、伝えられる直訴事件があってからすでに150年近くも経っていたわけで、これらから史実を探っていくことは困難といわざるを得ない。

惣五郎の住む公津村は佐倉藩領だった。藩主堀田正盛が1651年(慶安4年)、三代将軍家光の死に殉じ、子の正信の代になって急に年貢・諸役の増徴を始めたのだ。佐倉藩領は1644年(正保元年)からの凶作ですでにかなり疲弊していたが、そのうえの増徴ということで、百姓たちは困窮の極みに達していた。そこで、惣五郎をはじめとする藩領村々の名主たちは、とりあえず百姓たちの窮状を代官や奉行および家老たちに訴えた。しかし、その訴えは取り上げてもらえなかったのだ。その頃には百姓一揆を起こそうとする動きも起き始めていたが、惣五郎ら名主はそうした動きを押さえ、名主たちの連判状を持って、江戸の藩邸へ訴え出た。こうした「代表越訴型一揆」までも江戸の藩邸では却下されてしまい、惣五郎らは老中の久世広之に駕籠訴をしている。しかし、それも成功しなかった。

こうなると、百姓一揆の蜂起を食い止めるには、将軍への直訴しかない。そこで、惣五郎は四代将軍家綱が上野寛永寺に参詣するときを狙って越訴に及んだというわけだ。もっとも、越訴を決行した時期については1652年(承応元年)とする説、その翌年とする説がありはっきりしない。しかし、越訴の結果、1654年(承応3年)、佐倉藩は加重した年貢・諸役を免除している。このまま何もお咎めがなければ、あるいは惣五郎伝説は生まれなかったかも知れない。越訴は違法行為なので、成功しても成功しなくても、自分は死罪を免れないと思って覚悟していたろう。惣五郎だけの死罪であれば、あるいは怨霊伝説は生まれていなかった。

ところが、堀田正信は24歳という若さのゆえか、越訴をされ自分のプライドに傷をつけられた思いだったからか、惣五郎の妻子にまで過酷な処罰を科したのだ。妻はもちろん、何の罪もない4人の子供まで磔にされているのだ。惣五郎とその妻が見ている前で4人の子供を殺すという残虐ぶりだった。このときの惣五郎の怨みが以後、怨霊となって正信に祟ることになる。

千葉県成田市にある真言宗豊山派の寺、東勝寺には義民・佐倉惣五郎を祀る霊堂があることから、同寺は宗吾霊堂(そうごれいどう)とも呼ばれる。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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蘇我馬子・・・日本古代史・最大の権力者で、大和政権の実権を掌握

 日本の古代史で、まさに“怪人”と評され、巨大な権力を持ち“悪役”の烙印を押された人がいる。それは蘇我馬子だ。彼は権力への妄執に取り憑かれ、目的のために手段を選ばず、政敵ばかりか天皇まで暗殺した。そして傀儡の天皇を操り大和政権の実権を掌握。息子の蝦夷、そのまた子の入鹿まで蘇我氏は三代にわたって、その権力は受け継がれた。確かに馬子が手中にした権力は強大だった。そのことは飛鳥寺、石舞台古墳など馬子が残した史跡からもうかがえる。

また、聖徳太子を重用し、四天王寺や法隆寺の創建を通じて日本の仏教伝来を主導したのも彼だ。後世の評判はともかく、馬子が日本の古代史で決定的な役割を果たした人物なのは間違いない。まさに怪人と呼ばれる所以だ

 蘇我馬子を悪役とする歴史観は、「日本書紀」に基づいたものだ。「古事記」「日本書紀」には潤色が加えられており、すべてを事実とは見做せない。馬子の実像も近年、従来とは異なる様々な見解が提唱されている。

 蘇我馬子は572年(敏達天皇元年)、大臣(おおおみ)に就き以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛を築いた。父は稲目。姉に堅塩媛(きたしひめ、欽明天皇妃)、妹に小姉君(おあねのきみ、欽明天皇妃)、子に刀自古郎女(聖徳太子妃)、蝦夷、河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)などがいる。伝えられる馬子の生没年は551年(欽明天皇13年)~626年(推古天皇34年)だが、定かではない。

 馬子には様々な事績があるが、大きなものの一つは父、稲目と同様、日本における仏教の興隆に力を注いだことだ。百済の工人に飛鳥寺を建立させた。また、渡来人である善信尼を百済に派遣して仏教を学ばせている。善信尼は、日本で最初の尼僧となった人物だ。

このほか、聖徳太子の優れた事績となっているものの中に、馬子こそがその主体者ではなかったかと指摘されているものも少なくない。あるいは、聖徳太子のよき理解者としての馬子がいたからこそ、太子はあれだけの、様々な改革を推し進めることができたのだとみる向きもあるのだ。

 ただ、馬子は大臣として54年もの長きにわたり権勢を振るっただけに、最高権力者としての“驕り”の場面も数多かった。馬子にとっては大王=天皇も特別、畏怖しなければならない存在ではなかった。東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使っての崇峻天皇暗殺が好例であり、天皇選びの際は、有力豪族も馬子の顔色をうかがいながらしか、意見が言えない状態だったようだ。まさに、馬子は王権を無視し、政治をほしいままにしていたのだ。こうした状況が蝦夷、入鹿と三代続いたわけで、その報復として後世、蘇我氏が“悪役”に仕立て上げられた最大の要因がここにあるのではないか。
古代史で強大な権力を誇った蘇我氏だが、そもそもそのルーツが定かではない。蘇我の名に渡来人である証拠が隠されているという説があるその論者の一人が作家の松本清張氏だ。朝鮮の史書「三国遺事」によると、かつて新羅は「徐伐(そぼる)」と呼ばれたことがあった。徐(ソ)は、蘇の音に連なる。伐と我は1画しか違わず、極めてよく似ている。したがって、蘇我は徐伐が転じた名ではないかというわけだ。

さらに渡来人説に立ちながら、馬子こそ当時の天皇だったとする見方もある。馬子天皇説はまず渡来人の勢力をより強大なものだったとする視点に立つ。そして天皇の始祖を渡来氏族に求め、その直系の子孫である馬子は皇位継承権があったとするものだ。また馬子が残した飛鳥寺、そしてその墓とされる石舞台古墳も天皇説の根拠とされている。つまり、・蘇我氏が氏寺とした飛鳥寺が法隆寺や四天王寺の2.5~3倍の規模を持つ・石舞台古墳が崇峻天皇の墓より数段大きく、しかも当時の政治の中心地だった飛鳥に作られている-などから、天皇以外の誰にもそのような権力は持ち得ない、というのがその根拠だが果たして…。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「磐舟の光芒」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」

山東京伝 ・・・初めて職業として戯作活動を行った江戸の代表的作家

山東京伝は江戸時代を代表する戯作者だ。従来の戯作者は、そのほとんどが余技で書いており、原稿料もほとんどなかった。これに対し、彼は職業として戯作活動を行い、原稿料が支払われるようになったのは彼が最初だともいう。また、松平定信が推進した「寛政の改革」で出版取り締まりにより、彼の洒落本三部が摘発され発禁となり、手鎖(てぐさり)50日の刑に処せられたことで知られている。
山東京伝は江戸・深川木場で岩瀬伝左衛門の長子として生まれた。生家は質屋だったという。本名は岩瀬醒(さむる)。通称は京屋伝蔵。「山東京伝」の筆名は、江戸城紅葉“山”の“東”に住む“京”屋の“伝”蔵からといわれる。ほかに山東庵、菊亭主人、醒斎(せいさい)、醒々老人、狂歌には身軽折介(みがるのおりすけ)などの号がある。合巻作者の山東京山は実弟。
山東京伝は浮世絵師・北尾重寅に学び、18歳で草双紙(黄表紙)の挿絵画家、北尾政寅(まさのぶ)としてデビュー。20歳ごろから黄表紙と呼ばれる絵入り読物を書き始める。黄表紙や洒落本を数多く書き、売れっ子作家となり、とくに『御存知商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(1782年)で一躍、黄表紙作者として脚光を浴び、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの武家作者と並び、天明・寛政期(1781~1801年)の中心的戯作者の地位を占めた。
ところが、1791年(寛政3年)、洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹?(しょうぎきぬぶるい)』が、松平定信が推進した「寛政の改革」の出版取り締まりに触れ摘発・発禁処分となり、手鎖50日の筆禍に遭った。これに懲りたか、山東京伝は路線を変更。その後は読本作家として新境地を開き、享和・文化期(1801~1818年)には“飛ぶ鳥落とす勢い”だった曲亭馬琴に対抗し得た、ただ一人の作家だった。
そして、そのかたわら考証随筆にも名著を残した。その代表作には黄表紙に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわさのかばやき)』(1785年)、『心学早染草(しんがくはやぞめぐさ)』(1790年)、洒落本に『通言総籬(つうげんそうまがき)』、『古契三娼(こけいのさんしょう)』(ともに1787年)、『繁千話(しげしげちわ)』、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(ともに1790年)、読本に「忠臣水滸伝」(前編1799年、後編1801年)、『昔語稲妻表紙(むかしがたりいなずまびょうし)』(1806年)、随筆に『近世奇跡考』(1804年)、『骨董集』(1814、1815年)などがあり、貴重な史料として今日に残している。
門人には曲亭馬琴はじめ数人いるが、その影響は十返舎一句、式亭三馬、為永春水らにも及ぼしている。
京伝は生涯で二度結婚したが、相手はいずれも吉原の遊女上がりだった。また、京伝には尾張藩主・徳川宗勝の落胤説がある。

(参考資料)井上ひさし「山東京伝」、

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司馬江漢・・・広重の『東海道五十三次』は司馬江漢作の画帖がもと 多芸の才人

 伊豆高原美術館長の對中如雲氏は、その著書「広重『東海道五十三次』の秘密」で、安藤広重の名作浮世絵版画『東海道五十三次』は、司馬江漢(しばこうかん)作といわれる画帖をもとに描かれたものだった-と書いている。あの広重の名作が、彼自身のオリジナルと信じて疑わない人たちにとっては、かなりショッキングなことだ。司馬江漢は、それほどに様々な分野に関心を持ち、銅版画を制作し、洋風画、浮世絵などを描き、また自然科学に親しみ、地理・天文に関する書物も著す多芸・多彩の人物だった。司馬江漢こそ江戸時代を代表する奇人・怪人といっても過言ではない。

 司馬江漢の生没年は1738?~1818年。ただ、没年ははっきりしているが、そのとき彼は72歳だという説と、81歳だという説の二通りあって定かではない。江戸で生まれ、芝に住んだ。司馬という姓はそれをもじったものだという。本名は安藤峻。無言道人・春波楼と号した。

幼いときから画才があり、はじめ狩野派を学び、後に浮世絵師である鈴木春信門下となり、春重の号を与えられる。その後、宋紫石の門人となり、人物・風景・山水画に秀で画名を挙げたが、平賀源内の影響を受け、洋風画の道を志した。そして1783年(天明3年)、江漢は日本最初の腐蝕銅版画の制作に成功した。また地理・天文に関する書も著した。

 伝えられる司馬江漢の事績をみると、好奇心が旺盛で、実に幅広く様々なことに関心を持ち、様々な人物との交流もあり、作品も描き、書も著している。平賀源内とは一緒に鉱山探索のための山歩きなどもしているし、数多くの大名とも会っている。

江漢の周囲の人物が弾圧を受けていた最中、時の老中、松平定信を公然と批判している。江漢は定信に自作の地球儀を贈っているし、江漢の西洋画に対して定信は批評したりしているから、お互いに見知っていたはずだが、それでいて江漢は少しも弾圧を受けなかった。また、当時キリスト教は禁制だったが、江漢は絵の参考としてと言いながら使徒、聖パウロ像を持ち歩いていたという。それでも、何故か全く咎めを受けていない。

 この他、幕府の隠密だったといわれている間宮林蔵が、樺太探検から江戸へ戻ってすぐに江漢宅を訪れている。また、ロシアに漂着して帰国した大黒屋光太夫にも会っているのだ。鎖国下で外国に行った人間は、一種の軟禁状態にあり、普通の人間には会うことができないはずだが…。不可解で、どうしてそんなことができたのか?と首を傾げることはかなり多い。だから彼自身が隠密だった、隠れキリシタンだった、物凄いハッタリ屋だった-などと、いろいろ酷評もされている。

 まだまだある。自分でコーヒーを挽き、器を工夫してコーヒーを飲み、地球儀や補聴器、老眼鏡も作った。自分の年齢を詐称し、途中から実年齢に9歳加算した年齢を作中に書くようになった。友人や知人に偽の死亡通知を送り付けることもした。訳の分からない人物、奇人・怪人の面目躍如といったところだ。

 江漢は晩年著した随筆「春波楼筆記」の中で奇人を返上するような、優れた言葉を残している。それは「上、天子将軍より、下、士農工商非人乞食に至るまで、皆もって人間なり」というものだ。この人間平等観は優れているといわざるを得ない。単なる奇人や“皮肉屋”ではとても発せられる言葉ではない

(参考資料)高橋嗔一・細野正信「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

シーボルト・・・長崎・鳴滝塾で西洋医学を教え、多くの俊秀を輩出

 シーボルトといえば長崎・鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)教育を行い、ここから高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介ら俊秀が育ち、後に日本を代表する医者や学者として活躍している。しかし、シーボルトがオランダ人ではなくドイツ人であることも、そしてその人となりや、そもそもの来日の目的については意外に知られていない。果たしてシーボルトとはどんな人物だったのか…。シーボルトの生没年は1796~1866年。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは神聖ローマ帝国がまだ存続していた当時のドイツの司教領ヴュルツブルク(現在のドイツ連邦バイエルン州)に生まれた。名前は標準ドイツ語読みではジーボルトだが、本人は自らを「シーボルト」と発言していた。シーボルト家はドイツ医学界の名門だった。父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト、母はマリア・アポロニア・ヨゼファー。姓の前のフォンは貴族階級を意味し、祖父の代から貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で医者や医学教授を多数輩出している。

 両親は二男一女をもうけるが、長男と長女は幼年に死去し、次男のフィリップだけが成人した。フィリップが1歳1カ月のとき父が亡くなり、母方の叔父に育てられた。1815年、ヴュルツブルク大学に入学したシーボルトは家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授デリンガー家に寄寓し、医学をはじめ動物、植物、地理などを学んだ。

ただ彼は常に、自分が名門の出身という誇りと自尊心が高かったから卒業後、彼に町の医師で終わる道を選ばせなかった。彼は東洋研究を志し、1822年オランダのハーグへ赴き、国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、オランダ領インド陸軍病院の外科少佐となった。

 オランダ・ロッテルダムから出港し、喜望峰を経由して1823年4月にジャワ島へ、そして6月に来日。鎖国時代の日本の対外貿易の窓口だった長崎の出島のオランダ商館医となった。出島内において開業。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた多くの医者や学者に西洋医学(蘭学)を講義した。代表的な塾生に高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介らがいる。塾生は後に医者や学者として活躍している。

 シーボルトは日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行。この際、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭した。地理や植生、気候や天文などを調査した。1826年には十一代将軍徳川家斉に謁見。江戸においても学者らと交友。蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や幕府天文方・書物奉行の高橋作左衛門景保らと交友した。その間、楠本瀧との間に娘、後に日本初の女医となる楠本いねをもうけている。

 1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、シーボルトは1829年国外追放のうえ再渡航禁止の処分の処分を受けた。後に「シーボルト事件」と呼ばれ、高橋景保ら十数名処分され、高橋が獄死した(その後、死罪判決を受けている)不幸な事件だ。これはシーボルトからクルーゼンシュテルンによる最新の世界地図をもらう見返りとして、高橋が伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図を贈ったとされるもの。当時この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。

 シーボルトは1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって、追放処分が取り消され、翌年オランダ商事会社の顧問として再来日し、長崎で楠本瀧・いね母娘と再会、江戸幕府の外交にも参画した。1862年(文久2年)帰国、4年後ミュンヘンで亡くなった。

 ところで、シーボルトの来日の目的は何だったのか?プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説がある。オランダから何かの密命を受けていたのか?定かではない。ただ彼はオランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として日本および蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島などに関する記録集全7巻を刊行し、その名を世界に知らしめた。それにより、「日本学」の祖として名声が高まり、故国ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれている。なぜか、その招聘には応じていないが…。招聘されたことで、誇りと自尊心が満たされ、自分の人生の目的は達成されたと納得できたのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村昭「間宮林蔵」杉本苑子「埠頭の風」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

高山彦九郎・・・吉田松陰ら多くの幕末の志士に影響を与えた勤皇思想

 戦後、勤皇の価値は堕ち、今は高山彦九郎を顧みる人はほとんどいないが、彦九郎の勤皇思想は後世、吉田松陰はじめ幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた。また、彦九郎は林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人で、戦前の修身教育で二宮尊徳、楠木正成と並んで取り上げられた人物だ。

 高山彦九郎は江戸時代後期の尊皇思想家で、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士、父高山良右衛門正教、母繁(しげ)の次男として生まれた。名は正之。彦九郎は通称。彼には、新田義貞に従ったその郎従の中でも新田十六騎といわれた高山遠江守の子孫だという歴とした家系が、犯すべからざる威厳のようなものとして備わっていたという。

彦九郎は13歳のとき、『太平記』を読み、「建武の中興」の忠臣の志に感動。生地が新田氏ゆかりの地であることもあって、その報いられざる忠節を捧げた対象を、いつのまにか彼自身の理想に育て上げていたのだ。つまり、そのころの常識だった幕府、いや将軍家を中心として物事を考えるのではなく、天皇というものを中心として物事を見るようになっていたのだ。

18歳のとき、遺書を残して家を出た。京都に出て学問を修め、中山愛親(なるちか)らの公卿や多くの有志の知遇を得た。さらに忠君仁義の人を訪ねて各地を遊歴、勤皇論を説いた。藤田幽谷や立原翠軒を訪ねて水戸へ行き、仙台では林子平のもとを訪れて海防の話を聞いた。長久保赤水、簗又七、江上観柳らと心を許した交友があったほか、前野良沢、頼春水、柴野栗山、細井平洲といった当時第一級の学者が、その理解者として江戸にはいた。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより、光格天皇にも拝謁した。

 1789年(寛政元年)、江戸へ行き、翌年には水戸から奥州を経て松前まで足を伸ばしている。その後、さらに山陽から九州へ入り、小倉、中津、久留米、長崎、熊本、鹿児島などを遍歴し、生涯で30数カ国を歴遊した。

こうして全国を歴遊して勤皇論を説く彦九郎の存在が、幕府にとって都合の悪い、批判分子として映るようになる。尊号事件とからみ公卿、中山愛親の知遇を得たこと、さらには京都朝廷の権威回復を唱える人たちとの交友が、彦九郎自身を追い込んでいく。すでに宝暦のころ、竹内式部は京都朝廷の権威を回復しようとする考えに立って、公卿の間にその講義を行っていた。しかし、そのことが幕府に聞こえると、幕府は一挙にその弾圧に乗り出したものだ。彦九郎が京都にきて中井竹山らを説いて歩いたのは、まさにそのことによって廃絶した禁中の講義を再開させようとしたのだ。

彦九郎のこうした行動に加え、竹内式部の事件で罰せられた岩倉卿の邸での半年間にわたる滞在などが、“要注意人物”として老中の松平定信など幕府の警戒を呼び、彼は幕吏の監視下におかれることになる。そのうちに、幕吏は公然と彼の行く先を求めて姿を現すようになって、自分の行動が常に監視されていることを知る。親友・旧友を訪ねても、訪ねた相手も幕吏から疑いの眼をかけられているようで、自分が追い詰められてゆく感じを味わう。

1793年(寛政5年)、彦九郎は筑後国久留米の友人、森嘉膳の家を訪れた。彼を迎え入れた嘉膳は、何か思いつめた様子が彦九郎に感じられるので、努めて気の安まるような話題を選び歓談、夕食を摂った。そして、しばらくして彦九郎は与えられている部屋へ入って自刃する。47歳の生涯がここに終わった。

 京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。

(参考資料)吉村昭「彦九郎山河」、奈良本辰也「叛骨の士道」、梅原猛「百人一語」

天武天皇・・・現人神になった独裁的専制君主だが、実は謎だらけの人物

日本の古代史には謎の部分が極めて多い。ここに取り上げる天武天皇などその最たるものだ。例えば歴代天皇の中で唯一、生年が不明な天皇なのだ。生年だけではなく、前半生すら全く闇に隠されたままだ。なぜなのか?

一般に天武天皇はそれまで、大和朝廷を組織していた畿内の大豪族主導による合議制政治を否定。壬申の乱に勝利し、この戦いで有力豪族の多くを滅ぼしたことで、権力を天皇家に集中し「皇親政治」を実現した、賢君のイメージが強い人物と思われている。現実に『万葉集』などで天武天皇は、「大君(おおきみ)は神にしませば…」と詠われ、その政権は独裁的専制君主の地位に達していた。そんな現人神(あらひとがみ)になった天武天皇の生年が、また前半生がなぜ闇の中にあるのか。そこには、オープンにできない、奥深い事情があるのではないか。まさに謎だらけの人物といわざるを得ない。

天武天皇は名を大海人(おおあま)皇子といい、父は舒明天皇、母は皇極天皇で、正史では天智天皇(中大兄皇子)の弟とされている。しかし、最近の説では天智天皇とは兄弟ではなかったとか、兄弟にしても大海人皇子の方が兄だったとか、大海人皇子は渡来人だったといった説まで生まれている。中大兄皇子とは父が異なり、大海人皇子が年上だったからこそ、生年を明記できなかったのであり、大海人皇子に対する天智天皇の遇し方も尋常ではなかったのではないだろうか。

天智天皇にとって、大海人皇子は単なる兄弟の一人というわけにはいかない、“賓客”に相当する存在だったのではないか。そうでなければ、4人もの自分の娘を大海人に嫁がせる理由がない。これらの真偽はさておき、大海人皇子が天智朝の皇太子として、一時は政権の中枢にいたことは事実だ。「皇太弟」と表現されることもあったのだから、この点は間違いない。

ところが、幼少だった大友皇子の成長に伴い、天智天皇が皇太子=大海人ではなく、わが子大友に皇位を譲りたいと思うようになったことで、状況が激変する。天智天皇は、皇太子の大海人皇子の地位を奪い、671年(天智天皇10年)、大友皇子を太政大臣に任命し、政権のトップの座に就かせたのだ。太政大臣が官職として正式に登場するのは、これが初めてのことだ。天智天皇はわが子を皇位に就けるため、新しいポストを作ってまで大友皇子を政治の中枢に置いたのだ。大友皇子23歳のときのことだ。

そして、天智天皇が大友を後継者にするために謀った最後の機会が、病の床に就いた天智が、病気が全快しないのを予感し、大海人を招いたときだった。671年のことだ。天智は「私の病気は重い。お前に後を譲ろうと思う」といった。大海人は一瞬、真意を図りかねたが、即座に「いや、結構です。皇位は倭姫(やまとひめ)皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子にお任せください。私は出家し、天皇の病気治癒を祈りましょう」と答えた。とっさに大海人は天智天皇の言葉が、自分に仕掛けられた罠だと察したのだ。事実、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)は、大海人が承知すれば、その場で暗殺しようと狙っていたともいわれる。危機一髪、僧形となった大海人皇子は吉野に逃れた。

後の歴史に即していえば、こうして大海人皇子による皇位奪取計画の火ぶたが切って落とされたのだった。天智天皇亡きあと近江京の総帥・大友皇子と、吉野で密かに態勢を立て直した大海人皇子、甥・叔父の戦い=古代史上最大の内乱「壬申の乱」はこの翌年、672年のことだ。この戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇となった。

(参考資料)黒岩重吾「天の川の太陽」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、関裕二「大化の改新の謎」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」