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日本庭園の元祖 奈良・飛鳥京跡苑池の南池の全容判明

 奈良県立橿原考古学研究所は11月20日、国内初の本格的な宮殿付属庭園、飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村、7世紀後半)の南池の全体像が明らかになったと発表した。南池の中島はX字形と判明。東西約32㍍、南北約15㍍で、同時期の他の庭には見られない珍しい曲線構造だった。東西の岸からは柱を抜き取った跡が複数見つかった。池の観賞用施設があったらしい。近くの高台では、苑池全体を取り囲んでいたとみられる塀の跡も見つかった。同研究所では、想像以上の規模と景観。日本庭園史の出発点を飾る庭で、当時の総力を傾けた庭だったのだろう-としている。
 苑池は1999年の調査で見つかった。池は南北2つあり、南池は東西約65㍍、南北約55㍍で、石積みの島や松のある中島、噴水のような石造物があることは分かっていたが、全体像は不明だった。

塗料の下にダビンチの絵 ミラノの古城・天井画の部屋

 イタリアミラノ市などの調査によると、同市の観光名所スフォルツァ城にある、レオナルド・ダビンチの天井画が描かれた部屋の壁の塗料の下に、天井から続くダビンチの絵が隠れていたことが分かった。塗料を剥がして絵を復元する作業が行われており、2015年のミラノ万博開幕に合わせた一般公開が計画されている。ダビンチはミラノ滞在中の1498年、スフォルツァ家のミラノ公ルドビコ・イル・モロの依頼で、スフォルツァ城の「板張りの間」の天井に桑の木などをデザインした装飾画を制作。部屋の壁にも天井画から続く木の幹や根などを描いていたとみられる。
 1499年にミラノがフランスに征服され、ルドビコはミラノを脱出したため、部屋の絵画は完成しなかった可能性が高い。18世紀初めには板張りの間はオーストリア軍の厩舎となり、このころにダビンチの絵は白い塗料で塗りつぶされたようだ。

おくのほそ道の10県13カ所を名勝に 文化審議会が答申

 文化審議会は11月15日、俳聖・松尾芭蕉が東北、北陸を旅した「おくのほそ道の風景地」(10県13カ所)などを名勝に指定するよう下村博文文部科学相に答申した。芭蕉は弟子の曾良と古歌にまつわる名所を訪ね「おくのほそ道」をまとめた。芭蕉が俳句を詠んだ名所など往時をしのばせる優れた風景のうち、地元で保全の準備が整った「草加松原」(埼玉県草加市)や「象潟および汐越」(秋田県にかほ市)な。ど13カ所を指定、保護する。今後、順次追加指定を求める方針だ。
 また、室町幕府と伊達氏との結び付きを示す「宮脇廃寺跡」(福島県伊達市)など9件を史跡に、吉野川中流の「大歩危」(徳島県三好市)など3件を天然記念物とするよう求めた。近く答申通り告示される見込み。この結果、史跡は1724件、名勝378件、天然記念物1011件となる。このほか、「旧南部氏別邸庭園」(盛岡市)など4件を登録記念物に、「宮津天橋立の文化的景観」(京都府宮津市)など5件を重要文化的景観にすることも求めた。

六波羅蜜寺開山1050年を記念し坂東玉三郎さんが舞奉納

 平家ゆかりの六波羅蜜寺(京都市東山区)で11月16日、開山1050年を記念し、本尊の国宝・十一面観世音菩薩の前で、歌舞伎俳優で人間国宝の坂東玉三郎さんがしなやかに舞を奉納し、詰めかけた観客を沸かせた。寺は963年、悪病退散を祈願するため、空也上人が開山。境内には平清盛らの供養塔が建立されるなど、平家とのつながりが深い。この日は本堂から屋外にせり出した舞台で、太鼓芸能集団「鼓童」と共演。日本神話を題材に自身が演出した舞踊劇「アマテラス」をモチーフに、優美な舞を演じた

西本願寺の国宝能舞台で能上演 世阿弥生誕650年記念

 室町時代に能を大成した世阿弥の生誕650年を記念し、京都市下京区の西本願寺に現存する日本最古の能舞台、国宝・北能舞台で11月21日、喜多流シテ方の友枝昭世さん(人間国宝)らが能を上演した。北能舞台での能上演は1997年以来。観世流シテ方の片山幽雪さん(人間国宝)の仕舞「砧(きぬた)」に続き、友枝さんが能「清経」を上演。幽玄な静寂の世界にひととき浸った。西本願寺によると、北能舞台は1581年の創建とみられる。

隋・煬帝と妃の墓と確認 江蘇省で発見された2つの古い墓

 中国考古学会は11月16日、江蘇省揚州市で今年3月に見つかった2つの古い墓が約1400年前の隋王朝の第2代皇帝、煬帝(569~618年)と妃の墓であることが確認されたと発表した。中国の通信社、中国新聞社が伝えた。2つのレンガ製の墓は不動産開発の工事中に発見。一つは長さ約25㍍で墓誌のほかに玉器、銅器などの副葬品が100点余りと、50歳前後とみられる男性の歯などが出土した。墓の形、当時の最高級品を含む副葬品の特徴から煬帝の墓と認定したという。別の墓は長さ約13㍍で、副葬品は200点余り。56歳ごろとみられる女性の人骨があり、煬帝の妃の墓と推定された。
 煬帝は、607年、第2回目の遣隋使として派遣された小野妹子に託した聖徳太子が認めた国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と書かれた表現に激怒したと伝えられる隋の皇帝だ。

バチカンが聖ペテロの遺骨?を初公開へ

 ローマ法王庁(バチカン市国)は11月18日、バチカンのサンピエトロ広場で11月24日に開くミサの際に、キリストの12使徒の一人、聖ペテロのものとされる遺骨を納めた棺(ひつぎ)を初めて一般公開すると発表した。棺は普段はサンピエトロ大聖堂の地下墓地に安置され、許可がなければ見学できない。イタリアのメディアによると、1939年から約10年間行われた地下墓地の発掘調査で聖ペテロの墓とみられる場所が見つかった。68年に法王パウロ6世が「聖ペテロの遺骨であることが納得いく方法で確認された」と発表したが、学者らの間では真偽について議論が続いている。

ベトナムの山岳地帯で「幻の動物」サオラ撮影

 1992年に発見されたが、生きた姿が稀にしか確認されていない「幻の動物」サオラが9月、ベトナム中部の森林で撮影され、世界自然保護協会(WWF)が、11月13日までに写真を発表した。生きた姿としては99年にラオスで撮影されて以来という。サオラはウシ科の哺乳類で、長くとがった2本の角と顔の白い線などが特徴。サオラの生態はよく分かっておらず、数十頭しか生息していないとの見方もある。

天草四郎・・・3倍超もの幕府連合軍をはねのけた「島原の乱」の少年指導者

天草四郎は江戸時代初期、飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しむ農民が起こした反乱、「島原の乱」の指導者とされている人物だが、その実像は定かではない。本名は益田四郎時貞。苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞。洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。一般に天草四郎時貞の名で知られる。生没年は1621?(元和7?)~1638年(寛永15年)。

天草四郎は、肥後国の南半国の熱烈なキリシタン大名で関ケ原の戦いに敗れ斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛好次の子として、母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。しかし、宇土郡江辺村(現在の宇土市)、または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。
益田家は小西氏滅亡後、帰農した牢人で、一家は敬虔なキリシタン信徒で宇土に居住したという。天草は九州の中でもとくにキリシタン人口の比重が高い地域だったので、そうした周囲の環境から四郎も自然にキリスト教に接近していったのだろう。

四郎は生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗だったと伝えられている。彼は、小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物と考えられており、盲目の少女に彼が触れると視力を取り戻した、海を歩いた-など様々な奇跡を起こした伝説や、彼が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。

江戸時代初期の天草・島原地方は飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していた。1634年(寛永11年)から続いていた大凶作の中でも容赦ない年貢の取り立ては行われたし、生きたまま海に投げ込まれたり、火あぶりの刑など想像を絶するキリシタン信者への迫害があった。

その不満を抑えていたのが、マルコス宣教師が残した予言だった。1613年(慶長18年)、マルコスは追放されるとき「25年後に神の子が出現して人々を救う」と予言した。人々はこの予言を信じ、神の子の出現に懸けていたのだ。そして、予言にある25年目の1637年(寛永14年)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂されるようになる。四郎の熱心な説教は人々の心を捉え、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられるのだ。

過酷な徴税と限界を超えた弾圧に耐え切れず、1637年(寛永14年)年貢納入期を前に遂に島原で農民が蜂起。呼応して天草でも一揆が起こり、島原半島に渡って島原勢と合流する。こうして当時16歳の少年、天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、鎮圧軍と戦うことになる。一揆軍は島原城主松倉重政が城を島原に移すまで使っていた原城に籠り、長期戦となった。

松倉重政の家老からの一揆蜂起の報を受けた幕府は、ことの大きさに驚き、九州諸大名に帰国を命じて備えさせる一方、京都所司代板倉重昌らを上使として鎮圧軍を送り込んでいる。はじめは簡単に攻め落とせると思われていたが、籠城兵の意外な抵抗の強さにびっくりし、焦って無理に攻めたため、かえって死傷者を多く出す結果になってしまった。寄せ手の大将、板倉重昌が鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死している。

とはいえ幕府連合軍12万5800人に対し、戦うことには素人で寄せ集めの集団、一揆軍はわずか3万7000人。力の差は歴然としていた。幕府はその後、松平信綱を送り込み、またオランダ船の砲撃といった助けなどを借りながら、3カ月余りかかってようやく原城を攻め落とした。1638年(寛永15年)、一揆軍は全滅。幕府軍も8000人の死傷者を出して終結した。四郎も熊本藩の陣野佐左衛門という侍に首を取られ、母親の首実検で四郎本人であることが確認された後、首は長崎で晒された。

この戦いで一揆軍の四郎が、実際にどのような采配を振るったのかは分からない。しかし、彼が一揆軍を結束させるカリスマ的な存在であったことは事実で、その結束力の強さが12万の大軍の攻撃をはねのけたことも間違いない。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

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役小角・・・修験道の開祖で、神秘的な逸話に彩られ、人物像は伝説化

 仏教の諸宗諸派がその開祖などの遺徳を偲び、50年あるいは100年といった区切りで大規模な法要を行うことを御遠忌(ごおんき)という。2000年、修験道の世界でこの御遠忌が大々的に繰り広げられた。聖護院を本山とする本山修験宗、醍醐三宝院を本山とする真言宗醍醐派、金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の三派が行った大規模な法要がそれだ。この御遠忌の主が役小角(えんのおづぬ、えんのおづの)、あるいは役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる人物だ。

役小角は7世紀に実在したとされ、修験道の開祖と崇められ、修験道を実践する修験者=山伏の間では「神変(じんぺん)大菩薩」の尊称で篤く信仰されている。だが、神秘的な逸話に彩られ、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。

 役小角に関する記録の中で、正史と呼べるものは平安時代初期の史書「続日本紀」の一つだけだ。役小角は鬼神を使って水を汲ませたり、薪を採りに行かせたりした。そして、もし言うことを聞かないようなことがあれば呪縛した-と書かれている。このほか、役小角は、初め葛城山に住んでいて、呪術で広く知られた存在だったが、自分の弟子の韓国連広足にその能力を妬まれて、人を怪しい言葉で惑わせるという讒言に遭い、伊豆に流された-とある。正史としてはこれだけなのだ。

 伝説は9世紀の「日本霊異記」、12世紀の「今昔物語」などに登場する。役小角は賀茂役公(えのきみ)、後の高賀茂朝臣の出で、大和国損木上郡茅原村の人という。生没年は不詳で、一説に643年頃~706年頃。役小角の母は天から降ってきた独鈷(とっこ)という仏具が体内に入り、小角を処女懐胎した。そして胎内にいるときから「異光」や「神光」を放ったという。 生まれたとき、頭に1本の角があったという伝承もあり、これが「小角」の名の由来ともいわれる。

やがて小角は成長、岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得し、呪文を唱えては奇跡を起こした。孔雀明王とは孔雀を神格化した仏のこと。さらに小角は五色の雲に乗り、自由に空まで飛んだという。こうした小角の能力に、神々さえも恐れをなした。人間でありながら、神々が恐れた男、彼が生涯を通じてなしたとされる奇跡は、釈迦やキリストにも劣らない。まさに日本史上、最も奇妙で神秘的な人物の一人といっていいだろう。

 小角は神々に命じて、吉野の金峯山寺と葛城山との間に岩の橋を架けさせようとした。この難事業に神々は困惑し、一言主(ひとことぬし)神が人間に乗り移って、小角に反逆の意があると朝廷に訴えた。朝廷は小角を捕えようとしたが、容易に捕えられない。そこで、小角の母を縛った。母の苦痛を思った小角は自ら縛につき、伊豆に流された。しかし、流されたといっても、昼は伊豆にあったが、夜は駿河国の富士山に登って修行を重ねた。一方の一言主は、配流だけでは飽き足らず、小角を処刑するように託宣した。そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとした。ところが、そのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現われたため、これに驚き、言葉通りに赦免した。自由の身になった小角は一言主明神を呪縛。そして日本を見限り、老母を伴い、唐へと飛び去って行った…。

 ほとんどのことが伝説、伝承の中にある役小角だが、確かなことは小角が朝廷にとって見過ごせない力を持った人物だったということだ。朝廷が呪術や山林修行を規制する中にありながら、彼はそれらを通じて名を馳せた。同時に小角は、人々にとって忘れ難い人物でもあった。後に小角をめぐる数々の伝承が作られ続けたことがその証拠だ。恐らく彼は呪術者、あるいは山林修行者として、相当な人望を集めていたのではないか。また、怨霊を恐れる日本独自の審理が働き、小角の神格化が始まったと推察される。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」