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山城屋和助・・・維新後、名を変え陸軍省の長州人脈に暗躍した政商

 山城屋和助は明治維新後、名を変え、陸軍省の長州人脈に深く入り込み、軍需品納入で大儲けするようになってからの政商的商人としての名前だ。彼の本名は野村三千三(みちぞう)。後年、陸軍省から預かった公金で生糸相場に失敗。預かり金65万円を返済できず、陸軍省内で割腹自殺した。これが、彼が引き起こしたと一般的にいわれる山城屋事件だが、この事件の全貌については、彼の経歴・活動とともに謎に包まれた部分が多い。生没年は1837(天保8)~1872年(明治5年)。

 野村三千三は周防国(山口県)玖珂(くが)郡山城荘(やましろのしょう)本郷村で、医師、野村信高(玄達)の四男として生まれた。8~9歳のとき母、父を相次いで失った。1851年(嘉永4年)ごろ萩の浄土宗の寺、竜昌院に預けられ、その後出家、僧侶となって諸国を遍歴した。

 文久年間(1861~1864年)に帰郷。1863年(文久3年)に還俗して長州藩士高杉晋作が組織した「奇兵隊」に入隊。下関砲撃事件に参加。戊辰戦争には山県有朋の部下として参戦、越後口へ出征し小隊長として活躍、密偵としても行動していたといわれる。ここまでが野村三千三としての人生だ。
 明治維新後、野村はどのような経緯があったのか定かではないが、山城屋和助と名を変え、志を転じて商人となる。横浜に店舗を構えて、幕末、「奇兵隊」入隊以降、親交のある山県有朋を介して長州人脈と結びつく。この人脈を活かした、軍需品納入の商売は大繁盛した。陸軍省からの預かり金を基礎に生糸の輸出貿易に着手、陸軍の御用商人となった。さらには諸省の用達となって、明治初期の政商の代表格として巨富を得たのだ。

 政商として大いに自信をつけた山城屋和助の欲望には、もう際限がなくなっていた。山城屋は1871年(明治4年)、貿易のことでアメリカやフランスに行き、翌年帰朝した。1872年(明治5年)、山城屋は山県ら長州系の官僚に陸軍省公金15万・を借り、生糸相場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

 しかし、山城屋は不運にも、普仏戦争勃発の影響によるヨーロッパでの生糸価格の暴落で大きな損失を出してしまう。そこで山城屋は陸軍省からさらに公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとしてフランスに渡った。ところが、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使、鮫島尚信が日本の外務省に報告。これにより、山城屋への総額65万円に上る公金貸し付けが発覚したのだ。世にいう山城屋事件だ。

 陸軍省では当時、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山県有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋にはもはや借りた公金を返済する能力がないことだけが明らかになっただけだった。その結果、山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を絶った。

窮地に立たされた山城屋は、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山県への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は万策尽きたと判断し、陸軍省内部の一室、教官詰所で割腹自殺し、波乱に富んだ人生を終えた。1872年(明治5年)のことだ。この自殺により山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。ただ山県への疑惑は強く、司法卿・江藤新平の厳しい糾明もあって非難が収まらず、同年遂に山県は陸軍大輔をも辞任して責任を取った。明治初期の軍部の腐敗ぶりを反映した汚職事件だ。

(参考資料)井上清「日本の歴史 明治維新」

柳沢吉保・・・綱吉の寵愛受け大老格に大出世、引き際鮮やかな策士

 柳沢吉保は、初めは小身の小姓だったが、徳川第五代将軍綱吉の寵愛を受けて、異例の大出世を果たし、元禄時代には大老格として幕政を主導した。その出世の裏に何かからくりがあったのか。柳沢吉保に“悪役”の世評が多いのはなぜか。

 吉保の悪役イメージの一つは、忠臣蔵ドラマで事件の黒幕・悪役として描かれることが多いためだ。事実、1701年(元禄14年)の江戸城松の廊下での吉良上野介に対する浅野長矩の刃傷事件の、幕府の裁断には綱吉はもちろん、綱吉の側用人だった吉保の意向が関係していたといわれる。また、彼には側室をめぐって、主君綱吉との間で尋常ではない噂もあったからだ。

 柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれた。母は安忠の側室・佐瀬氏。彼は房安、佳忠、信本、保明、吉保、そして保山と頻繁に改名を繰り返している。別名として十三郎、弥太郎(通称)とも呼ばれた。長男だったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父安忠の娘婿)、柳沢信花が養嗣子となって継いだ。吉保は館林藩主を務めていた徳川綱吉に小姓として仕えた。このことが、後の出世のきっかけになる。

 柳沢吉保が異例とも言える“出世街道”を走ることになるのは、1675年(延宝3年)、家督相続し、これを機に保明(やすあき)と改名してからのことだ。1680年(延宝8年)、徳川四代将軍家綱の後継として、弟の綱吉が将軍となるに随って保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられた。その後、綱吉の寵愛を受け頻繁に加増され、1685年(貞享2年)には従五位下出羽守に叙任。1688年(元禄元年)、将軍親政のために新設された「側用人」に就任。禄高も1万2000石とされて、遂に大名に昇ったのだ。

 そして1690年(元禄3年)に老中格、1698年(元禄11年)には大老が任ぜられる左近衛権少将に転任した。1701年(元禄14年)は彼にとって極めてエポックメーキングな年となった。主君・綱吉の諱の一字を与えられ吉保と名乗ることになったのだ。出世はまだ続く。1704年(宝永元年)、綱吉の後継に甲府藩主の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(現在の山梨県甲府市)15万石の藩主となった。甲府は江戸防衛の枢要として、それまで天領か徳川一門の所領に限られていた。それだけに甲府藩主になったということは、綱吉が吉保をほとんど一門も同然とみなすほど、激しく寵愛していたことを如実に物語っている。

 吉保にも誇るべき閨閥があった。側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から、朝廷にも影響力を持ち、1702年(元禄15年)、将軍綱吉の生母、桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白・近衛基煕など朝廷重臣たちへ根回しをしておいたお陰だった。綱吉の“引き”と、こうした功績がものをいったか、1706年(宝永3年)には遂に大老格に昇りつめたのだ。

 しかし、“幸運児”吉保にも陽の当たらなくなるときがくる。1709年(宝永6年)、吉保の権勢の後ろ楯ともいうべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。吉保に代わって、新将軍家宣の側近、間部詮房(まなべあきふさ)、儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは急速に失われていった。こうした状況を敏感に察知して吉保は自ら幕府の役職を辞するとともに、長男の吉里に家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。その結果、その後、吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。吉保の見事な引き際のお陰ともいえる。綱吉近臣派でも、その地位に留まろうとした松平輝貞や荻原重秀らは、新井白石らと対立して、免職のうえ減封の憂き目に遭っているだけに、極めて対照的だ。

 俗説によると、吉保の側室の染子はかつて綱吉の愛妾で、綱吉から下された拝領妻だという。そして、一説には吉里は綱吉の隠し子だともいわれる。もちろん、真偽のほどは定かではない。ただ、幕閣で権勢を誇った重臣で、次の将軍の下で生き抜くことや、家督を継いだ子供の世代に全く減封されることもなく、務め上げられるケースは少ないだけに、その背景・仔細を勘ぐりたくなる。前将軍・綱吉の近親者なら…と納得するところだが、事実は闇の中だ。

(参考資料)池波正太郎「戦国と幕末」

弓削道鏡・・・称徳天皇の支援のもと、法王にまで登り詰めた異例の怪僧

 弓削道鏡は761年(天平宝字5年)、近江保良宮で孝謙女帝の病を治して寵を得て以後、政界に進出。764年(天平宝字8年)、恵美押勝が失脚し、女帝が重祚して称徳天皇となると仏教政治を展開。彼は僧侶でありながら臣下として最高の地位である太政大臣に相当する、太政大臣禅師という前例のない地位に就き、766年(天平神護2年)には法王にまで昇り詰めた。

法王などというのは、それ以前に聖徳太子が後世の人たちから称せられた以外に例はない。待遇としては天皇に準ぜられる地位なのだ。そして、さらに道鏡は、宇佐八幡神の神託によって、皇族以外がなったことのない天皇の地位に、あわや手が届こうとするところまでいってしまったのだ。そんな道鏡という人物が、実際にはどれほどの人物だったのか?孝謙女帝との関係の真相はどうだったのか?宇佐八幡の神託事件は誰によって仕組まれたのか?

 孝謙天皇は749年(天平勝宝元年)、31歳の、夫のない処女の身で即位した。それは父、聖武天皇に皇位を継ぐべき男子がなかったためだ。この点、皇后であったり、皇太子が幼かったり病弱だった場合、皇太子が即位し得る条件が整うまで皇位に就いた、それまでの女帝(推古・皇極=斉明・持統・元明・元正)とは明らかに異なる特殊なケースだった。

 坂口安吾の作品「道鏡」によると、孝謙天皇は即位の後に、皇后職を紫微中台と改め、その長官に登用した大納言藤原仲麻呂に恋をした。50歳を過ぎた仲麻呂に対する、40歳近い女帝の初恋だった。母光明皇太后が死ぬまでは、それでも自分を抑えていた。しかし、母の死後は歯止めがなくなり、仲麻呂を改名して「恵美押勝」と名乗らせ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいという、政治も恋も区別のない、でたらめな許可を与えた。すべては愛しい男、藤原仲麻呂=恵美押勝に惹かれていたからだ。

 一方、道鏡は河内国弓削郷の豪族・弓削氏の出身で、安吾によると幼時、義淵(ぎえん)について仏学を学び、サンスクリットに通達していた。青年期には葛城山に籠って修法錬行し、看病薬湯の霊効に名声があった。下山後は東大寺に入り、内道場に入った。

 当時の僧は宮中の高貴な女性たちがいるところまで入り込んで、病気を治す祈祷をし、マッサージや揉み治療までもして、薬の知識も持っている。つまり、医者と薬剤師と祈祷師と坊さんとを兼ねた存在だったのだ。道鏡は、初めは女帝の病気を治すために宮中へ招かれた。761年、孝謙天皇の病を治してからは、にわかに政界に進出。そんな道鏡に惹かれるのに反比例して、女帝の中での押勝像が歪んでいく。押勝は、女帝と道鏡の結びつきを怖れ、女帝を怨み、嫉妬心に苛まれ失脚を怖れ、狂っていった。その果てに企てたクーデターが失敗し、死んだ。

 女帝(孝謙上皇)は淳仁天皇の後を襲い、法体のまま重祚して称徳天皇となり、道鏡は大臣禅師という前代未聞の官職に就いた。さらに翌年、太政大臣禅師となり、二年後法王となった。これに伴い、地方の中小豪族に過ぎなかった弓削一族も中央政界に進出した。道鏡と女帝との関係は単なる寵臣以上のものがあったとみられ、ここから女帝が道鏡を皇位に就けようとする事態に発展した。この計画は藤原百川らを中心とする律令貴族の暗躍と、和気清麻呂の儒教的倫理観によって失敗したが、女帝にとって道鏡はそれほどに重く、愛しい存在だった。

 しかし、770年(宝亀元年)、女帝が53歳で崩御すると道鏡の命運も尽きた。彼は罪を問われ、まもなく下野国薬師寺別当として流され没した。弓削一族も枢要な地位にあった者は土佐に流された。

(参考資料)黒岩重吾「弓削道鏡」、村松友視「悪役のふるさと」、杉本苑子「対談 にっぽん女性史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

由比正雪・・・巷にあふれた浪人救済計画が、なぜか“謀反の挙”に

 由比正雪は、丸橋忠弥らと謀って徳川幕府を転覆させようとした謀反人だとされている。徳川三代将軍家光の頃には、関ヶ原の合戦において生まれた浪人が全国津々浦々にいた。幕府はこうした浪人が反幕府の力として結集せぬよう心を砕いた。浪人の取り締まりも厳しいものがあり、由比正雪はこれら浪人に対する幕府のやり方に反発し1651年(慶安4年)、それを正すために謀叛の挙に出たというわけだ。これが「由比正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」で、この事件を起こしたことで、彼の“悪役”像がつくられることになったのだ。

 由比正雪は江戸時代初期の軍学者。「油井正雪」「由井正雪」「油比正雪」「遊井正雪」「湯井正雪」など様々に表現される場合もある。生没年は1605年(慶長10年)~16051年(慶安4年)。駿河由比の農業兼紺屋の子として生まれたといわれる。幼名は久之助。幼い頃より才気煥発で、17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがてその娘と結婚し、婿養子となった。

楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「油井民部之助橘正雪(ゆい・かきべのすけ・たちばなの・しょうせつ/まさゆき)」と名乗り、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)を開いた。大名の子弟や旗本なども含め、一時は3000人の門下生を抱え、絶大な支持を得たという。まずは順風満帆な軍学者としての生活を送っていたとみられる。

 こうした環境にあって、なぜ正雪が幕府転覆計画を立てた首謀者として追及されることになるのか?軍学塾の主宰者として、巷にあふれた、行き場のない浪人たちを目の当たりにして、立ち上がざるを得なかったのか、学者として理論と実践の重要さを門下生に教えるためだったのか?そこに至る経緯はよく分からない。しかし1651年(慶安4年)、三代将軍家光が没し、四代将軍家綱が11歳で将軍に就いたが、大名の取り潰しなどで多数の浪人が出て、社会は騒然とした状況にあった。

正雪は宝蔵院流の槍術家、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義などとともに、浪人の救済と幕府の政治を改革しようと計画。1651年(慶安4年)7月29日を期して江戸・駿府・京都・大坂の4カ所で同時に兵を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前に同志の一人が密告、この計画が発覚する。「慶安の変」と呼ばれる事件だ。正雪は移動途中の駿府梅屋町の旅籠で奉行の捕り方に囲まれ、部下7名とともに自刃した。享年47。しかし、幕府はさらに追及して、連累者2000人、うち1000人を断罪して決着をつけた。だが、一説によると、これは幕府の陰謀で、浪人弾圧の口実をつくるため、デッチあげたのだという。

正雪の意図は、天下を覆すことではなく、幕府の政道を改めようとし、そのため徳川御三家をも利用しようとしていた。このことは、真偽のほどは分からないが、徳川御三家・紀州徳川家の家祖、徳川頼宣(家康の十男)の印章文書を偽造していたという嫌疑がかかったことでも明らかだ。このため、一時は頼宣も共謀していたのではないかとの疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。頼宣は、後に紀州から出て徳川八代将軍となった吉宗の祖父だ。

 正雪のこうした目論見を、幕府の「知恵伊豆」といわれたマキャベリスト、松平伊豆守信綱が反乱事件として拡大、歪曲し、一挙に旧大名の残党を掃討し、徳川体制の不安を取り除いたのだという見方もある。だが、真相は分からない。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、山本周五郎「正雪記」、 武田泰淳「油井正雪の最期」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」、小島直記「無冠の男」

安積親王・・・藤原一族による“排除の標的”となり、毒殺?される

 安積親王(あさかしんのう・あさかのみこ)は、都が奈良・平城京にあった時代、皇太子の基皇子が亡くなった年に生まれ、聖武天皇の唯一の皇子で皇太子の最有力候補のはずだった。だが、当時権勢を誇った藤原氏によって退けられ、あっけなく17歳の若さで死去した。死因は定かではなく、藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。いずれにしても、藤原氏の意向がその死と深く関わり、その背景にあることだけは確かだ。安積親王の生没年は728(神亀5年)~744年(天平16年)。

 安積親王は聖武天皇の第二皇子として、幼少の皇太子・基皇子が亡くなった年に生まれた。そのため聖武天皇の唯一の皇子であり本来、彼は皇太子の最有力候補のはずだった。ただ一点、問題があった。わずか一点だがそれが極めて大きな、死命を制する問題だった。彼の母が県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)で、当時、揺るぎのない権勢を誇った藤原四卿(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の氏族の出ではなかったことだ。

 当時、藤原氏の権勢がいかに強大だったか。臣下の身分で異例にも皇后となった光明皇后との間にもうけられた聖武天皇の第一皇子、基皇子は生まれて間もなく立太子している。その基皇子は夭折したが、738年(天平10年)、光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されたのだ。史上初の女性皇太子の誕生だ。藤原氏にはそれまでのルールや慣例を無視し、あるいは覆して、内親王をゴリ押しで立太子させるだけの権勢があったわけだ。唯一の皇子=安積親王の存在も容易に退け、有無を言わせないだけの、圧力をかける力があったといわざるを得ない。

 とはいえ、藤原氏にとって安積親王の存在は目障りだったことは間違いない。それまでのルールや慣例に従うならば当然、唯一の皇子(安積親王)が即位することになる。それでは、藤原氏の血をひかない天皇が誕生することになる-との思いだ。そうした心配のタネは、一日も早く摘み取っておかなければならないというわけだ。

それだけに、藤原一族は虎視眈々と安積親王を“始末”する機会を狙っていたのだ。744年(天平16年)閏1月11日、聖武天皇は安積親王を伴って難波宮に行幸する。その際、安積はその途中に桜井頓宮で脚病になり、恭仁京(くにきょう)に引き返すが、2日後の閏1月13日、17歳の若さでその生涯を閉じたとされている。詳細は定かではないが、そのとき恭仁京の留守を守っていたのが藤原仲麻呂であり、その仲麻呂に毒殺されたという説もある。それほどあっけない死で、いずれにしても藤原氏がその死にからんでいる可能性が高い。

 藤原氏の謀略で起こされた冤罪事件「長屋王の変」、そして大宰で起こった「藤原広嗣の乱」など血なまぐさい権力闘争が繰り広げられた時代。次代を背負う存在だったはずの安積親王の実像は、なかなか見えにくい。史料そのものが少ないのだ。『大日本古文書』によると、736年(天平8年)、すでに斎王になっていた姉の井上内親王のために写経を行い、743年(天平15年)には恭仁京にある藤原八束の邸で宴を開いていることが記されている。この宴には当時、内舎人だった大伴家持も出席し、そのとき詠んだ歌が『万葉集』に残されている。

(参考資料)杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」

大伴家持・・・藤原氏との対立の中で死後も含め時代に翻弄された人生

 大伴家持は「万葉集」の編纂に大きく関与し、「万葉集」に収められた作品も最も多い奈良時代後期の代表歌人・政治家だ。半面、彼の生涯は時代に翻弄される、波乱に満ちたものだった。家持の赴任地の足跡をみると、南は薩摩から北は陸奥多賀城まで、当時の日本国のほぼ両辺に及ぶ。いかに地方生活が長かったかを物語っている。

名門大伴氏の家名を挽回しようと意欲に満ちた、誇り高い青春時代から、大伴・藤原両氏対立の中で政争に巻き込まれて、失意の中年期を経て、晩年の復活と、死後の一族の悲惨-。信じがたいことだが、死後、家持はある事件に連座させられて、806年(大同1年)まで官の籍を除名されていたのだ。生没年は718(養老2)~785年(延暦4年)。古代、名門豪族だった大伴氏の本拠地は、大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)だったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。

 大伴家持は大納言大伴旅人の長男、大納言大伴安麻呂の孫。母が旅人の正妻ではなかったが、大伴の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻、大伴郎女(いらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられた。だが、その郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別。さらにたった一人の弟、書持(ふみもち)とも29歳のとき死別している。いずれにしても、大伴氏の跡取りとして貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけさせられていた。

しかし、出世の道は遠かった。745年(天平17年)にやっと従五位下。751年(天平勝宝3年)少納言。その後、長い地方生活を経て770年(宝亀1年)民部少輔、左中弁兼中務大輔、21年ぶりで正五位下に昇叙した。そして諸官を歴任して781年(天応1年)、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4年)中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍となった。長かった不遇の時代を経て、家持にもようやく春が巡ってきたかにみえた。しかし、彼にはもう残された時間はなかった。同年、任地先の陸奥で、68歳で病没したのだ。

 ところが、これで終わりではなかった。死者に鞭打つ残酷なできごとが起こったのだ。家持の死後20日、葬儀も終わらぬうちに、彼は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が跡取りの永主とともに隠岐に流されるという事態に発展したのだ。無茶苦茶な裁きだったといわざるを得ない。冤罪などというものではない。藤原氏の謀略にはめられてしまったわけだ。そして、家持が晴れて無罪として旧の官位に復したのは、21年後の806年(大同元年)のことだ。

 「万葉集」の中で、大伴家持の作品は最も多く、長歌46、短歌425(合作首を含む)、旋頭歌1首、合計472首に上り、万葉集全体の1割を超えている。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。防人歌(さきもりのうた)の収集も彼の功績だ。平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

足利義昭・・・うぬぼれ、過信が招いた足利最後の将軍のヘマ人生

 自分の力を過信し、オレが指示すれば世の中どうにでもなる-と思い込み、天下の策士を任じているが、実はその実力はゼロに近い。悲劇といえば悲劇、いや傍からみれば喜劇というべきかも知れない。そんな、うぬぼれの強かった人物が足利家の最期の将軍、足利義昭だ。

 足利義昭は、室町幕府の第十二代将軍足利義晴の次男として生まれた。母は近衛尚通の娘で、この女性は義昭の兄、義輝も産んでいる。父義晴は、義昭を仏門に入れることにした。仏門に入れば俗世との縁は切れるが、貴種として尊重され出世も早い。まして大寺院の勢力は、衰えた将軍家よりはるかに強かったといっても過言ではない。そこで、義昭は関白・近衛植家の猶子(養子扱い)として、奈良興福寺の一乗院門跡、覚誉(かくよ)の弟子として入門した。6歳のときのことだ。彼の弟、妹も後に仏門に入っている。こうして彼は覚慶(かくけい)と名を改め、30歳まで僧侶として日々を送ることになった。

 そんな彼の一生を一変させる事件が起こった。1565年(永禄8年)、29歳のときのことだ。父の後を継いでいた兄の第十三代将軍・足利義輝が松永久秀や三好三人衆のために暗殺されたのだ。覚慶は強大な力を持つ興福寺の保護下にあったからか、幸い殺されずに済んだ。しかし、彼は一乗院に監禁状態となり、行動の自由を奪われることになった。

 その後、義昭は前将軍の近臣だった細川藤孝らの手で救い出され、あちこち放浪の末、織田信長の支援を受けて、やっと都に戻って第十四代将軍となった。ところが、将軍になった彼は途端に、自分はオールマイティな人間だと思い込んでしまう。自分のことを都入りさせてくれた織田信長とも、瞬く間に仲が悪くなる。というのも信長は恩人だが、彼の態度からは将軍である自分に絶対服従してくれないと感じたからだ。

 そこで、義昭は信長を凌ぐ実力を持つ上杉謙信や武田信玄に、上洛して織田信長を討て-と頻繁に手紙を書くのだ。全く勝手気ままな人物としかいいようがない。ただ、こんな手紙が届いたからといって、海千山千の上杉や武田がそう簡単に動くはずもないのに、自分自身としては大いに権謀術数を尽くしたつもりになっているのは、少しこっけいでもあり、哀れでもある。

 結局、義昭は画策した“手紙”作戦が明るみで出て、怒った信長に都を追い出されることになる。そして、信長の在世中はとうとう帰京できなかった。柄にもない小細工をしたのが祟ったのだ。しかし、困ったことに彼自身は、案外そうは思っていない。自分が信長を制圧できなかったのは、頼みにしていた武田信玄、上杉謙信らが次々死んで、計画が実行に移せなかったからだ-としか考えない。だから、性懲りもなく別の大名に働きかける“手紙”作戦をやめなかった。

 怒った信長は遂に実力行使に出る。義昭は亡命した。いったんは紀州に逃れたが、やがて備後(広島県)鞆の港に落ち延びた。鞆の港は父祖尊氏が京都から追われたときに、院宣を得て南朝の新田義貞に対する討伐軍を挙げたところだ。いってみれば都落ちする足利家が再興のきっかけにした地域だ。義昭もそのことを知っていた。

 このうぬぼれやの、ほとんど実力のない将軍だからか、どうにもやること成すこと、少しずつピントが外れているのだ。だが、この義昭は強運の持ち主でもあった。“宿敵”信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺されたために、彼は自分で手を下さずに、憎い信長を討つという望みを達したのだ。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、

有間皇子・・・中大兄皇子の謀略にはめられ、謀反人に仕立てられ抹殺

 有間皇子は父・孝徳天皇の死後、次の天皇の候補者として浮かび上がり、結果的に「大化改新」の立役者であり、当時の事実上の最高権力者、中大兄皇子と対立。有間は謀略にはめられ、19歳の若さで処刑され、その生涯を閉じた。中大兄皇子の存在に脅威を覚え、狂人のふりをしてまで皇位継承争いから降りようとした有間だっただけに、狡猾に人を配して謀反人に仕立て上げられ、抹殺された最期は悲しく哀れをさそう。

 有間皇子は孝徳天皇の皇子で有力な皇位継承者の一人だった。孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟にあたり、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係だった。640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、皇子に「有間」と名付けたといわれる。有間皇子の生没年は640(舒明天皇12年)~658年(斉明天皇4年)。

 悲劇の序章は、中大兄皇子の強引な遷都要求を聞き入れなかった孝徳天皇および息子の有間皇子の一族だけを難波宮に残して、飛鳥に戻ってしまったことにあった。653年(白雉4年)、中大兄皇子が奏上して都を大和に遷そうとしたが、孝徳天皇は前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を放棄しようとせず、これを拒否した。

ところが、皇太子の中大兄は引き下がるどころか、母の皇極前天皇、妹・孝徳天皇の間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に遷った。そして、驚くことに公卿、百官らはみなこれに随行したのだ。皇太子・中大兄の独断専行に業を煮やした孝徳天皇が、威信をかけて拒否したわけだが、公卿・官僚たちは天皇ではなく、中大兄の顔色だけをうかがっていたのだ。

 孝徳天皇が無念の思いを抱き、寂しくこの世を去ってから、いよいよ孝徳天皇のたった一人の遺児、有間皇子に刻一刻、危機が迫る。そのため、18歳の有間は周囲の疑いを免れようと狂人を装ったといわれる。日本書紀にも記されていることだ。

 そして、運命の歯車が動き出す。658年、斉明天皇が中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に行幸中のことだ。都に残って留守をあずかる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、天皇の失政をあげつらい、挙兵、謀反するようそそのかす。これに対し、有間はこの謀略を見抜けず、赤兄の口車に乗せられて「わが生涯で初めて兵を用いるときがきた」などと応じた。そのため、赤兄に言質をとられる格好となり捕えられて、天皇のいる牟婁の温泉へ送られてしまった。

 紀の国へ護送される途中、有間皇子が詠んだ有名な句が二首ある。

 家にあれば 笥に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(歌意は、我が家にいれば器に食べ物を盛るのに、今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)

磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(歌意は、磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたら、またこれを見よう)

 しかし、有間は藤白坂(和歌山県海南市藤白)で処刑された。19歳の若さだった。
 遠山美都男氏は、有間皇子を謀略に陥れられた哀れなプリンスと見做すのは大いに疑問として、実は有間皇子の大胆な挙兵計画があったとの説を打ち出している。斉明天皇らに牟婁温泉行きを勧め、天皇一族が都を留守にするという状況を意図的に作り出そうとしたのは有間自身だったという。そして、母の出身、阿倍氏が「軍拡」を推進し、有間皇子の背後にその勢力が結集していた。したがって、有間の挙兵計画も、船団を組織して淡路海峡を封鎖し、天皇一族の帰路を遮断するという大規模で実に用意周到なものだった-とかなり踏み込んだ説を提起している。こうして有間皇子は軍事行動を起こして、ライバルの中大兄皇子を倒し、斉明天皇に譲位を迫り、自ら即位しようと企てたとみるが、果たしてどうだろうか。現時点ではあくまでも少数派の仮説にすぎない。

 毎年11月、和歌山県海南市・藤白神社で若くして悲運に散った万葉の貴公子、「有間皇子まつり」が開催される。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

大津皇子・・・皇位継承めぐり対抗勢力の謀略にかかり23年の生涯閉じる

 大津皇子は文武両面、そして人格的にも優れた人物だったが、幼少時、母を亡くしていただけに、後ろ楯となっていた父帝、天武天皇崩御後は、皇位継承が俎上にのぼると、対抗勢力のターゲットとなり、皇后・持統ら草壁皇子擁立派による謀略にかかり、わずか23年の生涯を閉じた。生没年は663(天智称制12)~686年(天武15年)。

 大津皇子は天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の長女、大田皇女。同母姉に大伯(おおく)皇女。妃は山辺皇女(天智天皇皇女)。異母兄に高市皇子、草壁皇子、異母弟に忍壁皇子らがいる。幼少時は学問を好み、そして成人後は武芸に長じ、文武両道に優れていたため、人気があった。大津の名は生地である那大津(現在の博多港)に因むと、また近江大津宮に因むともいわれる。

672年の「壬申の乱」に際しては、高市皇子らといち早く近江京を脱出し、大分君恵尺(おおきだのきみえさか)らとともに、伊勢の鈴鹿関で父、天武天皇(当時はまだ大海人皇子)と合流した。大津皇子10歳のときのことだ。大海人皇子が即位し、天武天皇の御世となった後、皇后の皇子、草壁が皇太子となるが、大津皇子は父帝からの信頼が厚かったらしく683年、太政大臣となり朝政を委ねられた。大津21歳のことだ。父天武天皇が皇后との間にもうけた草壁を皇太子とし期待を寄せたことは間違いないが、多くの皇子たちの中で、あるいはそれ以上に期待したのが大津だったようだ。685年(天武天皇14年)の「冠位四十八階」制定の際には草壁皇子の「淨広壱」に次ぎ、「浄大弐」に叙せられたことでも分かる。

 しかし、大津皇子の人生のピークはこのあたりにあったといっていい。大津皇子が父帝から信頼され、人気が高まれば高まるほど、彼は皇位後継者の有力候補者に擬せられ、大津皇子自身の思いや意識とは全く別に、反草壁皇子勢力が大津皇子のもとに結集しそうな事態となっていた。そのため、持統皇后ら草壁皇子擁立派は大津皇子に対する警戒を強めていた。

 いまや朝廷内に大津皇子のいる場所はなくなった。いや、それよりも陰謀を企む対抗勢力の首謀者として、敵対する立場に追いやられた。それでも、大津には持統皇后の疑惑を解くすべがなかった。そこで天武の死後、大津皇子がとった行動は、同母姉の大伯皇女を訪ねて、密かに伊勢に下ったのだ。このとき、大伯皇女は斎宮(いつきのみや)として伊勢神宮に仕えていた。

なぜ、この時期に大津皇子が天皇崩御後の本来、喪に服す禁を破ってまで都を離れたのだろうか。そこまで精神的に追い詰められていたのか、身に迫った危険を感じて、愛する姉に別れを告げに行ったか、それとも謀反を決意し、その旨を密かに伝えたのか、それは分からない。史料は何も語っていない。ただ、万葉集には大津皇子と別れる大伯皇女の愛惜の歌が残されているだけだ。

大津皇子の悲劇はまもなくやってきた。686年(朱鳥元年)、天武天皇の崩御後、わずか1カ月も経たないうちに、大津皇子が皇太子・草壁皇子に対して謀反を企てたとして、一味30人とともに捕えられたのだ。「懐風藻」によると、大津皇子の謀反を密告したのは川嶋皇子だったという。

大津皇子は逮捕された翌日、死刑を言い渡され、訳語田(おさだ)の自邸で自害した。24歳の若さだった。妃の山辺皇女(天智天皇皇女)は髪を振り乱し、裸足のままで駆けてきて、遺体にとりすがって号泣、後を追って殉死したという。

(参考資料)黒岩重吾「天翔ける白日」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

柿本人麻呂・・・身分は?刑死?か、数多くの謎に包まれる歌聖の人生

 日本の詩人というと、多くの人が頭に思い浮かべるのが、柿本人麻呂と松尾芭蕉だろう。そして、この二人を歌聖、俳聖と称えた。芭蕉については、とくに後半生、旅の生活については『奥の細道』をはじめとする彼の多くの紀行文などによってほぼその全容を知ることができる。それにひきかえ、柿本人麻呂の場合は違う。彼の歌は万葉集に数多く残されて多くの人々の心を捉えるが、その人生は数多くの謎に包まれている。いやむしろ、明確に分かっていることが少ないといった方が的を射ている人物なのだ。

 柿本人麻呂の出自、生没年には諸説あり、多くの部分が定かではない。後世の文献によると、柿本氏は第五代孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流にあたる。父は柿本大庭、兄を柿本_(佐留)とする。人麻呂の生没年は660年ごろ~720年ごろ。人麻呂は人麿とも書く。姓は朝臣。人麻呂以降、子孫は石見国美乃郡司として土着。鎌倉時代以降、益田氏を称して、石見国人となったとされる。いずれにしても同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは分からない。

 人麻呂の経歴は『続日本紀』などの史書にも書かれていないから、定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに付随する題司・左注などが唯一の資料だ。一般には680年(天武天皇9年)には出仕していたとみられ、天武朝(673~686年)から歌人としての活動を始め、主要な作品が集中している持統朝(686~697年)に花開いたとみられることが多い。700年(文武天皇4年)作の明日香皇女(あすかのひめみこ)の挽歌が作歌年時の分かる作品として最後のものになる。ただ、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝(現在の滋賀県)にも出仕していたとする見解もある。

 各種史書上に人麻呂に関する記載がなく、身分・官位を含めその生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を詠むという仕事の内容や重要性からみても高官だったと受け取られていた。

 ところが、契沖、賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名前は正史にみられない。

2.律令には三位以上は「薨」、四位と五位は「卒」、六位以下は「死」と表現することになっているが、『万葉集』の人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されている。
 人麻呂は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が収められている。讃歌、挽歌、そして恋歌があり、その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使した格調高い歌が特徴だ。代表作を挙げると、

・あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
・東(ひむがし)の野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
・近江の海(み)夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

などがある。
 梅原猛氏は柿本人麻呂についての力作『水底の歌 柿本人麿論』を著している。
この中で同氏は大胆な論考を行い、人麻呂は高官だったが、政争に巻き込まれて刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、大きな話題となった。また、梅原氏は柿本人麻呂=猿丸大夫の可能性を指摘している。ただ、学界においてはいずれもまだ受け入れられるには至っていない。

(参考資料)梅原猛「水底の歌 柿本人麿論」、井沢元彦「猿丸幻視行」