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孝明天皇・・・攘夷にこだわり、批判勢力のターゲットとなり毒殺されたか

 孝明天皇の崩御をめぐっては、『孝明天皇紀』にも肝心の死因についての記載がなく、毒殺説をはじめ多くの疑問がある。幕末、朝廷・公家、幕府・諸藩・志士たちを含めた開国派と攘夷派の対立は激化。攘夷の意思が強く、公武合体により、あくまでも幕府の力による鎖国維持を望む孝明天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出ようになった。こうした人たちの勢力が天皇を追い込み、毒殺を謀ったのか?天然痘が原因なのか。その死因は謎だ。

 第121代・孝明天皇は仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘、藤原雅子(新待賢門院)。幼名は煕宮(ひろのみや)、諱は統仁(おさひと)。正妃は九条尚忠の娘、九条夙子。孝明天皇の生没年は1831(天保2)~1867年(慶応2年)。在位は1846(弘化3)~1867年(慶応2年)でこの間、幕府は十二代将軍家慶、十三代家定、十四代家茂、十五代慶喜の四代にわたっている。

 1840年(天保11年)に立太子。1846年(弘化3年)、父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格で、その遺志を継いで公家の学問所、「学習院」を創設した。また、1853年(嘉永6年)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への積極的な関与を強め、1858年(安政5年)、40年にわたって朝政を主導してきた前関白鷹司政通の内覧職権を停止して、落飾に追い込み、さらに2カ月後、現関白・九条尚忠の内覧職権も停止して朝廷における自身の主導権確保を図った。

さらに、孝明天皇は幕政に発言力を持ち、1858年(安政5年)、日米修好通商条約の締結にあたって、幕府が事前の了解を求めた際、これを拒否。大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶと、これに不信を示し、退位の意向も示した。そして、攘夷強硬派の公卿に動かされ、水戸藩に幕政改革を求める「密勅」を発したほど、攘夷の立場で幕府を強く指導した。1863年(文久3年)攘夷勅命を下した。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。

 しかし、「八月十八日の政変」(1863年)にあたっては攘夷派公卿と袂を分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放した。そして、異母妹、和宮親子内親王を第十四代将軍家茂に降嫁させたのをはじめ徳川慶喜、松平慶永、山内容堂ら雄藩藩主を中心とする公武合体を目指し、岩倉具視ら一部公卿の王政復古倒幕論には批判的だった。それだけに、家茂が上洛してきたときは攘夷祈願のため石清水八幡宮などに行幸、京都守護職・会津藩主松平容保への信頼はとくに厚かった。

 こうした尊皇攘夷派・開国派による権力をめぐる争いに巻き込まれ、孝明天皇個人の権威は低下していくことになった。公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは、天皇に対する批判が噴出するようになったのだ。薩摩藩はじめ岩倉具視や、薩摩藩の要請を受けた内大臣・近衛忠房までもが天皇に批判的な動きをするようになった。

 1866年(慶応2年)、第二次長州征伐中に将軍家茂が急死すると、孝明天皇は征長の停止を幕府に指示。これに伴い、幕府の統制力の崩壊は決定的となった。そして、第十五代将軍に慶喜が就任した直後、孝明天皇は急逝したのだ。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京都回復を狙い、薩長による武力倒幕の動きが具体化していたときだけに、陰謀による毒殺との説が有力視された。公式には天皇が痘瘡(天然痘)に罹っていたことは発表されたが、それが直接の死因だとするには、全く説得力がなかった。

 孝明天皇は長年の間、悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外ではいたって壮健だったという。公家・政治家の中山忠能の日記にも、「近年、御風邪の心配など一向にないほど、ご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、安部龍太郎「血の日本史」

花山天皇・・・藤原兼家・道兼父子の謀略で在位わずか2年で退位

 第65代花山天皇は父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原一家の策謀により、在位わずか二年で退位させられた人だ。少し奇異な所業が目立ったにしろ、荘園整理令の布告など革新的な政治路線も打ち出しており、無事ならまだまだ善政が敷かれていたはずだ。生没年は968(安和元年)~1008年(寛弘5年)。

 花山天皇は冷泉天皇の第一皇子。母は太政大臣正二位藤原伊尹(これただ)の娘、懐子(かいし)。諱は師貞(もろさだ)。984年(永観2年)、円融天皇の譲位を受けて即位した。17歳のことだ。即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある。こうした所業が直ちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた賢臣、権中納言藤原義懐(よしちか)と左中弁藤原惟成(これしげ)の献身的な支えによるところが大きい。

 関白は先代から引き続き藤原頼忠(よりただ)だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、902年(延喜2年)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となった。

 花山天皇については様々な多くのスキャンダルが聞かれるが、中でも大納言藤原為光の娘、女御・_子(きし)への寵愛ぶりはとくに知られている。そのため_子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して遂に妊娠8カ月の身で他界した。天皇の落胆ぶりは大きく、いかに神に祈祷すべきか悩みぬいていた。

 この様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣、藤原兼家だ。兼家は天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めて、一日も早く外孫懐仁(やすひと)親王へ譲位させようと謀ったのだ。「大鏡」によると986年(寛和2年)、藤原兼家の次男、蔵人・道兼が言葉巧みに花山天皇を連れ出し元慶寺へ向かう。そのころ兼家の長男の道隆と三男の道綱は清涼殿に置かれていた神器を皇太子・懐仁親王の部屋へ移す。

いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せ剃髪させてしまう。そして、次は道兼の番になったが、道兼はどこにもいない。花山天皇が騙されたと思ったころには、“役者”の道兼は丸坊主になった花山天皇を残して藤原家に帰ってきていた。そのころには兼家の末子、道長が関白、藤原頼忠(兼家の従兄弟)に天皇行方不明の報告をしていた。そこで懐仁親王(当時7歳)が即位して一条天皇となり、兼家は念願の外祖父となったのだ。

 こうして兼家・道兼父子の謀略によって、無念の思いで皇位を追われた花山上皇はその後、仏門修行、そして和歌と女に明け暮れたといわれる。とくに歌人として優れており、多くの和歌を残している。

(参考資料)永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「百人一語」

孝徳天皇・・・わが国最初の生前譲位で即位したが、実権を甥に握られる

 孝徳天皇は、形式的には実姉からわが国史上初の譲位により即位したにもかかわらず、その存立基盤は極めて脆弱だった。それは645年(皇極天皇4年)の、蘇我本家(蝦夷・入鹿)を滅亡に追い込んだ「乙巳(いっし)の変」により、この企ての推進者であった中大兄皇子が、“補佐役”の中臣鎌足の助言を入れて辞退したことと、“対抗馬”と目された古人大兄皇子が急遽、出家し僧形となったため、消去法で残った候補者(=軽皇子)が即位したという事情があるからだ。そのため天皇となってからも基盤が弱く、実権は甥にあたる、同母姉の皇極上皇の子、中大兄皇子が握っていた。このことが後の様々な悲劇を産むことになった。

 孝徳天皇は敏達天皇の孫で、押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男。母は欽明天皇の孫、吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。諱は軽皇子(かるのみこ)。その在位中には「難波長柄豊碕宮」に宮廷があったことから、後世その在位時期を難波朝(なにわちょう)という別称で表現されることもある。孝徳天皇の生没年は596年(推古天皇4年)~654年(白雉5年)。

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とした。新政権の立役者、中臣鎌足には大錦の冠位を授け、内臣(うちつおみ)とした。また、僧旻(みん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士(くにのはかせ)とした。

 皇極天皇4年は大化元年に改められた。これが年号使用の始まりだ。孝徳天皇は皇極上皇の娘、間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后に立て二人の后妃を迎えた。一人は阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の娘、小足媛(おたらしひめ)で、その間に有間皇子をもうけ、もう一人は蘇我倉山田石川麻呂の娘、乳娘(ちのいらつめ)だ。

 蝦夷・入鹿の蘇我本家を葬った「乙巳の変」は通常、中大兄皇子と中臣鎌足らが謀って起こしたクーデターということになっているが、異説もある。遠山美都男氏は、経緯はどうあれ、軽皇子が即位している事実から見るならば、クーデターの首謀者は軽皇子とその一派と見るのが最も妥当-としている。軽皇子一派とは、軽皇子の宮があった後の和泉国和泉郡やその周辺に何らかの拠点あるいは権益を保有していたとみられる蘇我倉山田石川麻呂、阿倍内倉梯麻呂、巨勢徳太、大伴長徳らだ。

 船史恵尺(ふねのふひとえさか)はクーデターの最終局面、蘇我蝦夷の自殺の現場に居合わせ、蝦夷によって蘇我氏累代の財宝とともに焼かれようとしていた『天皇記』『国記』のうち『国記』を持ち出したという。『天皇記』『国記』編纂のため日頃より蝦夷邸に出入りしていた恵尺は、クーデター派の命令で密偵的な働きをしていたのではないか、と遠山氏は見ている。

 遠山氏は中臣鎌足についても極めて興味深い見方をしている。鎌足は恐らく、摂津・河内・和泉の各地に居住した中臣氏同族から、軽皇子との関係を仲介され、早い段階から軽皇子に仕える立場にあったというのだ。鎌足は中臣氏の若い族長候補として、これら中臣氏同族を統括する立場にあった。彼らとの交流を通じて、鎌足は和泉国和泉郡に宮を構える軽皇子と深く知り合うことになったのだろう-という。

 遠山氏の見解は、クーデターの首謀者は中大兄皇子と中臣鎌足とする『日本書紀』の著述内容とは明らかに矛盾する。しかし、『日本書紀』のこの件は、藤原氏の始祖である鎌足の功績を顕彰するためにつくられた書物をもとにしているからだ。クーデターの勝者で、その後の政治の激動の最終的な勝者である鎌足や藤原氏のサイドに立って書かれた史料の陳述を鵜呑みにできないというわけだ。

 遠山氏の見解に近い姿で軽皇子が即位したのだとすると、軽皇子=孝徳天皇の悲劇の度合いは幾分、薄らぐ。しかし、653年(白雉4年)、不思議なことが起こった。皇太子の中大兄皇子は、天皇を難波宮に残したまま、母の皇極上皇や弟の大海人皇子(後の天武天皇)をはじめ、公卿・大夫・百官を引き連れて、突如、飛鳥川のほとりの川辺(河辺)行宮(かわべのかりみや)に移ってしまったのだ。

ショッキングなことにこのとき、孝徳天皇の皇后の間人皇女(はしひとのひめみこ)までが、夫の天皇を捨てて、中大兄皇子と行動をともにしているのだ。それは、中大兄皇子と間人皇后が近親相姦の関係にあったからだ。つまり、中大兄皇子はタブーを犯して同母妹の間人皇后と愛情を通じるようになり、叔父の孝徳天皇から奪ったのだ。それでも、孝徳天皇は黙って見ているほかなかった。天皇に実権はなかったのだ。ひとり取り残された天皇は654年、失意のうちに崩御した。

(参考資料)杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」、遠山美都男「中大兄皇子」

弘文天皇・・・明治政府により追号された大友皇子 壬申の乱の敗者

 江戸時代まで公式には弘文天皇は存在しなかった。あるいは、削除されていた。明治政府により「弘文天皇」と追号されたのは1870年(明治3年)のことだ。しかし、そのおよそ1200年前、大友皇子が671~672年のわずか2年弱だが、天智天皇崩御後、近江朝廷にあって実権を握り、事実上皇位にあったとする見解が今日、有力視されている。生没年は648(大化4)~672年(天智天皇11年)。

 天智天皇の崩御後、672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視され、在位を認めない見解もある。少なくとも「日本書紀」は弘文天皇紀を記しておらず、同天皇を一代と見做していない。これは同紀の編纂にあたった舎人親王が父、天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされている。

それでも、事実上大友皇子が皇位を継いでいたとする様々な史料が残っている。「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御後の二日後に皇位を継いだとされている。また、徳川光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方をしている。

 弘文天皇は天智天皇の第一皇子で、名は大友皇子、伊賀皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。日本最古の漢詩集「懐風藻」によると、皇子は風貌たくましく、頭脳明晰だったとされている。博識で文武両道を究め、詩文にも優れていたと伝えられている。皇妃は大海人皇子と額田王(ぬかだのおおきみ)との間に生まれた十市(とおち)皇女。皇女には葛野(かどの)皇子、与多王(よたのみこ)の子があった。

 天智天皇には8人の妃がいたが、皇子が誕生したのは4人。だが、1人は8歳で亡くなり、残る3人のうちの最年長が大友皇子だった。しかし、大友皇子が皇位を継ぐことは、当時の慣習からいえば困難だった。皇位を継承できる資格は、まず第一に皇族出身の皇后・皇妃を母とする皇子であり、第二は大臣の娘で后妃となっているうちに生まれた皇子でなければならなかった。この習慣は蘇我氏がつくりだしたものだ。だが、大友皇子の母は伊賀国山田郡の国造家の娘だ。他の2人の皇子も同じような身分の母から生まれていた。慣例に従えば、大友皇子は皇位継承の資格がなかったのだ。
 にもかかわらず、天智天皇はこの大友皇子に深い愛情を注ぎ、皇位を託そうと思うようになった。大友皇子が聡明で、ひとかどの人物だったからだ。ところが、天智天皇には皇太子として弟の大海人皇子がいた。いうまでもなく、皇太子は次期皇位継承者のナンバー1だ。たとえわが子とはいえ、即座には後継者にできない。それには周囲の承認がいる。

そこで671年、大友皇子は太政大臣に任ぜられた。太政大臣が官職として正式に登場するのはこれが初めてで、大友皇子に権威をつけさせるため、新しいポストを作ってまで大友を政治の中枢に置いたのだ。大友23歳のことだ。そしてこの前後に、障害となる皇太子の大海人皇子の地位を奪い、政界から排除する方向にあったとみられる。このときの大海人皇子の推定年齢は36歳だ。

こうして本来ならば最有力の皇位継承者である大海人皇子は働き盛りの年齢で、地位を奪われ、近江王朝の中で孤立し、大友皇子と敵対する立場に追いやられたのだ。大海人皇子は何の失政・失態を犯したわけでもないのに、理由もなく失脚させられたわけだ。

 天智天皇のこうした強引なやり方に反感を抱き、また非情な権力者、天智天皇を快く思わない連中は、当然ながら大海人皇子を支持したのではないだろうか。それが天智天皇自身の死後、朝廷から離反、多くの親・大海人皇子勢力をつくりだしていくことにつながったのではないか。そして、その決着点が「壬申の乱」での近江朝の敗北だったのだ。

(参考資料)豊田有恒「大友皇子東下り」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説・壬申の乱」、神一行編「飛鳥時代の謎」 、遠山美都男「中大兄皇子」

早良親王・・・藤原種嗣暗殺事件の関係者の嫌疑で幽閉・配流、怨霊に

 早良(さわら)親王は第50代桓武天皇の弟で、皇太子の座にあったが、ある事件の関係者あるいは首謀者の嫌疑をかけられ、一言の弁明もできないまま幽閉され、配流の途中、衰弱して亡くなった悲劇的な人物だ。この後、桓武天皇はこの早良親王の怨霊に怯え続けることになった。そのため、早良親王の霊を祀るとともに、延暦19年、同親王に崇道(すどう)天皇を追号した。早良親王の生没年は750?(天平勝宝2?)~785年(延暦4年)。

 このきっかけとなったのは、桓武天皇が平城京へ赴いている最中、785年(延暦4年)に起こった長岡京造営の最高責任者、藤原種継暗殺事件だ。この事件は反桓武天皇勢力=早良皇太子の役所、春宮に仕える人々が長官、大伴家持の死後、暴発して起こしたものとみられる。桓武天皇は、自分が信頼し朝政の中枢を担っていた種継が暗殺されたことに怒り、大伴継人(つぐひと)など関係者数十人を捕縛、ただちに処刑した。この事件の背景には種継主導の下の遷都や人事などをめぐって、藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立があったとされる。

とりわけ問題を大きくしたのは、この事件の関係者の中に、春宮坊(皇太子の御所の内政を担当)の官人ら皇太子の側近が混じっていたためだ。その結果、嫌疑が早良皇太子にまで及んだ。その中には、万葉歌人として名高い大伴家持も加わっており、家持はすでに亡くなっていたが、官位を剥奪される憂き目に遭った。捕えられた早良親王は、皇太子を廃され、一言の弁明も許されないまま乙訓(おとくに)寺に幽閉された。そして、淡路への配流処分となった。早良皇太子は無実を訴えるため、自ら飲食を絶って、配流の途中、衰弱して河内国高瀬橋付近で憤死したとされている。

 早良親王は母が百済系の卑母だったので、幼いときに出家している。761年のことだ。奈良の寺に入れられ親王禅師と呼ばれていた。781年、兄、桓武天皇の即位と同時に父・光仁天皇の勧めで還俗し、皇太子に立てられている。平穏なら桓武天皇の後を受けて、皇位に就いていたはずなのだ。

 藤原種継暗殺事件に早良親王が関与していたかどうかは不明だ。だが、東大寺の開山、良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(=早良親王)に後事を託したとされること、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたことなどが伝えられている。種継が中心となって推進していた長岡京造営の大きな目的の一つが、東大寺、大安寺などの南都寺院の影響力排除だったため、南都寺院とつながりの深い早良親王が、遷都阻止を目的として種継暗殺を企てたとする見方もできるわけだ。

 さらに、早良親王が種継暗殺を企てる可能性を示唆する伏線もあった。桓武天皇の治政下、大事は天皇自身が決したが、平常の事務は皇太子と藤原種継に委ねていたのだ。そして、長岡京造営が進むと皇太子と種継との間に確執が生まれ、二人の仲は次第に険悪になっていたともいわれる。

 一方、桓武天皇側にも早良親王を皇太子の座から外し排除したいとの思惑もあった。父、光仁天皇から譲位された際、父の強い要望で僧籍にあった弟、早良親王を還俗させてまで皇太子に立てたが、できることなら可愛い自分の息子たちを跡に据えたい思いが強かったのだ。

 早良親王の死後、皇太子には新たに桓武天皇の長子、安殿(あて)親王が立てられたが、その後、天皇の身辺では忌まわしいできごとが頻発した。藤原百川の娘で天皇の夫人だった藤原旅子が年若くして他界し、天皇の母、高野新笠、皇后の藤原乙牟漏らが次々と発病してこの世を去った。安殿皇太子も体調がすぐれず、陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りと出た。

桓武天皇はこれを聞き、早良親王の怨霊をとくに恐れた。そこで人心の一新を図るべく794年、平安京に遷都した。平安遷都は怨霊ゆかりの地である長岡を退去することが目的だったが、遷都後も長く天皇は早良親王の怨霊に怯え続けた。そのため、早良親王に崇道天皇を追号した。また、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復も図られたのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史/平安京」、永井路子「王朝序曲」、永井路子「続 悪霊列伝」

塩焼王・・・帝位目前に非業の最期を遂げた、藤原氏に対抗した反骨の王

 塩焼王(しおやきおう・しおやきのおおきみ)は、天武天皇の孫だ。天武天皇の子・新田部(にたべ・にいたべ)親王を父として生まれた、皇位をも望める血筋で、聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた不破内親王の夫となった人物だ。彼は、隆盛を誇った藤原四兄弟(宇合・武智麻呂・房前・麻呂)の死後、以前の勢いを失ったとはいえ、いぜんとして権勢を持つ藤原氏に対抗、皇位を奪取しようと目論んだとみられている。しかし、その企みはあっけなく露見し、官位を奪われ、最終的に配流されてしまう。『続日本紀』にはその事実だけが記され、その理由は何一つ書かれていない。したがって、詳しいことは分からない。ただ、様々な類推が可能な情報は記されている。その後、復帰し栄達するが、担ぎ出されて帝位を目前に、非業の最期を遂げた。

 塩焼王の生年は不詳、没年は765年(天平宝字8年)。母は不明。758年(天平宝字2年)、「氷上真人」の氏姓を与えられて、臣籍降下し、「氷上塩焼」と称した。官位は従三位、中納言。
塩焼王は732年(天平5年)、親王の子に対する蔭位として無位から従四位下に叙された。740年(天平12年)、従四位上の昇叙。同年10月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年11月には正四位下に昇叙。時期は不明だがこの間、中務卿に任ぜられている。当時の皇族の最長老、新田部親王の子としてはまず順調な出世の途を歩んでいた。

 ところが、742年(天平14年)女嬬4人とともに塩焼王は投獄され、伊豆国に流されたのだ。真相は不明だが、皇位継承問題などの政争に巻き込まれたものと推測されている。冒頭に述べた皇位奪取の目論見が露見したためと思われる。ただこの際、彼がどの程度、主体的な役割を果たしたのか、あるいは担ぎ上げられて巻き込まれたのか、詳細は分からない。

 しかし3年後の745年(天平17年)、赦免されて帰京、746年(天平18年)には官位も正四位下に復している。恐らくは、それほど主体的な役割は演じていないものと判断されたことと、妻の不破内親王が聖武天皇の皇女だったことから特赦されたとの見方が強い。ただ、これにより新田部親王の旧宅は没収され、勅によって鑑真に与えられて戒院とされ、のち「唐招提寺」となった。

 永井路子氏は塩焼王が伊豆に配流になった要因として、藤原氏に対抗して、県犬養広刀自一家の“祈り”にも似た意向を受けて、塩焼王がもっと積極的に皇位奪取の意志があったとみている。そして、藤原氏・聖武天皇に、彼にそう思わせる状況があったと指摘する。

 それは、聖武天皇が情緒不安定で、ノイローゼに陥ったことと、隆盛を誇った藤原四兄弟が疫病で相次いで急死し、宮廷内での藤原氏族の勢力が低下したためだ。また聖武天皇自身が藤原氏との関係に深入りし、先に讒言を信じ込み、結果的に藤原氏の策謀に乗せられて、左大臣で朝廷内きっての実力者、長屋王 一家を冤罪で自決に追い込んだ負い目も加わって、藤原氏を襲った相次ぐこれらの不幸を、気弱な聖武天皇は“祟り”と捉えて恐れたからだ。この後、聖武天皇が難波・恭仁・紫香楽と遷都、行幸を繰り返すのも、呪われた地、藤原氏の本拠・奈良を逃れたいとの思いからだったとみる。

 こうした状況を見た塩焼王が、いまがチャンスと思ったのも無理はない。彼には聖武王朝は崩壊寸前に見えたことだろう。これを支える藤原氏に昔の力がない今なら…。政権は自分の手の届くところにある。血の気の多い、この20代の皇族は暗躍を開始する。彼は聖武天皇を帝位から降ろし、義弟の安積親王(聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた不破内親王の弟)を皇位に就けようとしたのか、自分自身が自ら帝位に就き、妻の不破内親王を皇后にしようと考えたのかは分からない。

 757年(天平宝字元年)、弟の道祖王が皇太子を廃されると、塩焼王は藤原豊成・永手らによって後任の皇太子に推されたが、かつて聖武太上天皇に無礼を責められたことがある(伊豆配流のことか)との理由で、孝謙天皇に反対され、実現しなかった。

 その後、恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して栄達を図った塩焼王は、765年(天平宝字8年)、その頼みの押勝が追い詰められて武装反乱を起こすと、押勝により天皇候補に擁立されて「今帝」と称された。だが、押勝の敗走に同行して、孝謙太上天皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一族とともに殺害された。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、杉本苑子「穢土荘厳」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

蘇我倉山田石川麻呂・・・中臣鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略で抹殺される

 蘇我氏一族の中で、馬子直系の氏族は大臣(おおおみ)として権力を独占、蝦夷・入鹿父子は我が世を謳歌したが、同族内で陽の目を見ず、これに不満を持っていた有力者がいた。それが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)だ。蘇我入鹿暗殺事件の際、中臣鎌足(後の藤原鎌足)に引き込まれ、彼が朝鮮使の上表文を読み上げ、これを合図に決行するという重要な役割を演じている。石川麻呂はクーデター成功後、その報酬として右大臣ポストを得ている。

そして、これを機に鎌足の仲立ちで、彼は娘を中大兄皇子の妃に送り込み、天皇家との結びつきを強くしている。これにより先々、これまでの蘇我本家に代わり、分家の蘇我倉家が隆盛期を迎えたかに思われた。ところが、大化の改新が一段落ついたところで、今度は彼の異母弟を使った、鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略によって抹殺されたのだ。蘇我倉山田石川麻呂の生年は不明、没年は649年。

 蘇我倉山田石川麻呂の父は蘇我馬子の子、倉麻呂。したがって、彼は馬子の孫だ。本宗家の蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟にあたる。兄弟に日向(ひむか)・赤兄(あかえ)・連子(むらじこ)・果安(はたやす)らがいる。本宗家討滅計画に加わり、娘の造媛(みやっこひめ)、遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)を葛城皇子(中大兄皇子)の妃に入れた。また、娘の乳娘(ちのいらつめ)は軽皇子(孝徳天皇)の妃とした。こうした閨閥づくりは後に花開くことになる。遠智娘は大田皇女(大伯皇女、大津皇子の母)、_野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)、姪娘は御名部皇女(高市皇子の妃<長屋王の母>)、阿閉皇女(後の元明天皇、草壁皇子の妃)をそれぞれ産んでいる。

 蘇我入鹿暗殺のクーデターの翌日、早くも新政権樹立の準備が始まり、皇極天皇の後継に年長の軽皇子が決定、孝徳天皇となった。当時、軽皇子は50歳、中大兄皇子は20歳だ。大化改新を推進するにあたって、クーデターで動揺している宮廷を治めるにも、こうした長老を立てておくのが人心を収拾するには上策だ。そして、従来の大臣・大連に代わって設置されたのが左大臣・右大臣だ。左大臣に元老格の阿倍内麻呂(倉梯麻呂)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が就任した。

 しかし、石川麻呂は左大臣・阿倍内麻呂の死後、649年(大化5年)異母弟の蘇我日向に、石川麻呂に謀反の疑いがあると讒言され、これを信じた中大兄皇子の追討を受ける破目になった。難波から2子、法師(ほうし)・赤猪(あかい)を連れて、大和の山田寺へ逃げ帰った石川麻呂は、追討軍に周囲を取り囲まれた。それでも石川麻呂は天皇から遣わされた勅使の審問に応じず、天皇に直接対面して事の真相を語りたいと申し出た。だが、これは受け入れられず、石川麻呂は従容として死を受け入れようと、集めた一族に語りかける。長子の興子(こごし)らは抗戦を主張したが、石川麻呂はこの意見を退け、妻子らとともに自決した。連座した者のうち斬殺された者14人、絞刑に処せられた者15人に上ったという。この事件、実は中大兄皇子による謀略だったのではないか。

石川麻呂の異母弟、日向はまんまと中大兄皇子にいいように踊らされ、兄殺しを手伝わされた格好だ。
 石川麻呂の死後、彼の潔白が証明され、中大兄皇子は讒言した日向を筑紫に追放した。

(参考資料)関裕二「大化改新の謎」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」、遠山美都男「中大兄皇子」

聖徳太子・・・厩戸皇子=聖徳太子かを疑問視 事績に虚構の疑いも

 聖徳太子といえば、様々な事績を挙げるまでもなく、日本人なら幅広い世代の間で最も認知されている、賢人・貴人の代表格の人物だ。しかし近年の歴史学研究ではこれまで聖徳太子の事績と考えられていたことを否定する文献批判上の検証や、太子の実在を示す『日本書紀』などの歴史資料としての信憑性の低さから、聖徳太子自体を虚構とする説もある。

廐戸皇子が実在したのは確かだが、廐戸皇子=聖徳太子かどうかが疑問視されているのだ。事実、廐戸皇子の事績で確実だといえるのは「十七条憲法」と「冠位十二階」のみだ。随書にも記載されている事柄だが、その随書には、推古天皇のことも廐戸皇子のことも一切記載されていないのだ。『日本書紀』にも廐戸皇子のことは記載されていない。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女。太子の生没年は574(敏達天皇3)~622年(推古天皇30年)。本名は廐戸(うまやど)、別名は豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「廐戸皇子」の呼称に変更している教科書もある。

 聖徳太子についての記述は日本最古の正史『日本書紀』をはじめ、いまは存在しないが最古の太子伝といわれる『上宮記(じょうぐうき)』、平安中期に完成した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』、『上宮聖徳法王帝説』、また『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)』や『四天王寺本願縁起』などにみられる。

 教科書ではこれらの文献をもとに、聖徳太子の人物像や事績を史実として紹介し、誰もがそれを紛れもない事実として受け止めてきた。父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女の間に生まれた太子は、生まれるとすぐに言葉を話し、わずか3歳で合掌しながら「南無仏」と唱え、また幼少の頃から10人あるいは20人の声を同時に聞き分けることができたという。まさに超人的な聡明ぶりだ。
蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐり壮絶な戦いを繰り広げていた際も、蘇我氏に勝利の祈願を依頼されていた聖徳太子は、望み通り蘇我氏を勝利に導くことに成功した。弱冠14歳のときのことだ。また、高句麗や百済の知識人に帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになったという。
 593年、19歳のときには、叔母で日本初の女帝、推古天皇の皇太子・摂政となり、内政の改革に努めた。また、607年には小野妹子を第二回遣隋使として隋に派遣し、隋との外交も進めている。飛鳥から、斑鳩の地に構えた新しい宮殿に移ってからは、世界最古の木造建築、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立したほか、経典の注釈書『三経義疏』の著述をはじめ数々の歴史書の編纂を行うなど、様々な功績を残した-とされてきた。私生活では4人の妻をめとり、14人の子供をもうけている。そして622年、49歳で生涯を閉じた。

史実として語り継がれるこうした数々の事柄は、果たして事実なのだろうか。確かに、文献の中には過度に脚色されている部分があるが…。例えば聖徳太子は、伝えられる4回にわたって遣隋使を本当に派遣したのか?冠位十二階、十七条憲法は本当に聖徳太子によって制定されたのか?一つ一つ検証していくと、随書との食い違いは多く、謎は深まるばかりなのだ。聖徳太子はいなかったとする方が、無理がなく自然な部分さえあるのだ。また歴史上、廐戸皇子は、推古天皇の摂政として活躍したとされているが、その当時、摂政という官職はなかったとされている。

 もし実在しなかったと考えるなら、どうして「聖徳太子」という人物をつくり上げる必要があったのか?聖徳太子が日本書紀でつくり上げられたものだと仮定すると、責任者として編集に携わっていた藤原不比等の名前がクローズアップされてくる。不比等は日本書紀を編集する際に、自分にとって都合のいいように書き加える必要があったと思われる。

当時はもちろんのこと、後世の評価はどうあれ、藤原氏隆盛の原点ともいえる「大化の改新」を正しいものだと見せる必要がある。中大兄皇子と藤原鎌足の手柄をよく見せるためには、この二人によって滅ぼされた蘇我氏を悪者にしなければいけない。そのため、入鹿に滅ぼされた山背大兄王や、その父の廐戸皇子を聖徳太子としてつくり上げて、善人にしなければならなかったのではないか。
 不比等は藤原一族に次々と襲いかかる不幸なできごとは、蘇我氏の祟りではないかと考えた。そのため、蘇我氏の魂を鎮めなければならず、日本書紀という歴史書で蘇我氏の働きを褒め称え、魂を慰めようとしたわけだ。ところが、そうすると鎌足と中大兄皇子は蘇我氏を滅ぼした悪者になってしまうのだ。そこで、蘇我一族の善人としてシンボル的存在の、架空の人物=聖徳太子をつくり上げる必要があったのだ。これによって、藤原一族のメンツも立ち、蘇我氏の供養もできるのだ。こうして聖徳太子伝説ができあがったというわけだ。

 伝説とは別に、聖徳太子にまつわる説の一つに、聖徳太子=非日本人、具体的にいえばペルシャ人説がある。その根拠として歴史学者、小林惠子氏は聖徳太子が新羅征伐のためにつくらせ、今日まで法隆寺夢殿に伝承されてきた軍旗、四騎獅子狩文錦を挙げている。四騎獅子狩文錦はササン朝ペルシャの流れを汲む文様が最大の特徴で、翼の生えた馬、すなわちペガサスに乗って獅子を倒そうとするペルシャ人らしき騎士の姿が描かれたものだ。また、騎士が被っている冠はササン朝ペルシャの王、ホスロー2世のものと酷似しているばかりでなく、夢殿に安置されている救世観音像の冠の飾りとも同じデザインなのだ。救世観音像は聖徳太子をモデルにしたといわれており、聖徳太子=ペルシャ人説を裏付けている。

さらに小林氏は、聖徳太子は北朝鮮からイラン北部を征服していた遊牧騎馬民族、突厥人であり、しかもその中の英雄、頭達(たるどう)だとしている。突厥については『随書』の突厥伝に詳しく記載されている。有名人物の生死の記録はほとんど例外なく歴史書に残されているにもかかわらず、頭達は599年の戦いの記録を最後にぷっつりと歴史上から姿を消している。

頭達が姿を消したのとほぼ同時期、今度は日本で聖徳太子が登場する。これが頭達説根拠の一つだ。599年に消息を絶った頭達は実は翌年600年に北九州に上陸、北上して播磨(現在の兵庫県)の斑鳩寺に本拠地を置いたという。その証拠に、その際持ち込まれた西突厥製と思われる、いびつな形の地球儀が今でも斑鳩寺に残されている。また、ゴビ砂漠周辺にはカイルガナ(モンゴルひばり)と呼ばれる鳥が棲息しているが、斑鳩という名称もここからつけられたのではないかと推測されている。斑鳩は斑(まだら)の鳩と訳すことができ、実はササン朝ペルシャの女神、アナーヒターの使い鳥も鳩なのだ。

 聖徳太子の死もまた多くの謎に包まれている。621年、母の穴穂部間人皇女が死亡。翌年、聖徳太子が病に伏してしまう。太子を看病していた妃の膳大郎女が疲れから622年先立つとその翌日、聖徳太子も49歳の生涯を閉じ、3人は同じ墓に葬られたのだ。死因については一切解明されていない。恐らく3人とも異常死だったのではないかと推察されるが、研究が待たれるところだ。

(参考資料)黒岩重吾「聖徳太子」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、小林惠子「聖徳太子の正体」、神一行編「飛鳥時代の謎」

崇峻天皇・・・当時最大の権力者・蘇我馬子に殺害された唯一の天皇

 第一代の神武天皇から第百二十五代の平成天皇まで、様々な個性あふれた天皇がいたが、実在を確認できない天皇はともかく、第三十二代の崇峻天皇ほど不運な天皇はいない。なぜなら、崇峻天皇は当時、政治の実権を握っていた大臣、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手で殺害されたのだから。崇峻天皇の生年は不明で、没年は592年。

 崇峻天皇は欽明天皇の第12子で、母は蘇我稲目の娘、小姉君(おあねのきみ)。「古事記」には長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)とあり、「日本書紀」には泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)とみえる。崇峻天皇は大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。崇峻は馬子の娘、河上郎女を嬪としており、馬子にとって崇峻は女婿でもあった。

 崇峻天皇が皇位に就くまでに、実は大豪族間の駆け引き・抗争が熾烈を極めた時期があった。蘇我氏と物部氏の主導権争いだ。第三十一代・用明天皇(聖徳太子らの父)が崩御すると、皇位は穴穂部皇子を押し立てた大連(おおむらじ)・物部守屋と、これを阻止しようとする大臣(おおおみ)・蘇我馬子率いる豪族および泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)ら皇族連合軍との戦いとなった。

当初、連合軍は劣勢だった。ところが、厩戸皇子が戦いに勝利できたならば四天王の像を造り、寺を建立するという誓い立て、仏に祈った効果があったか、戦いは連合軍の勝利となった。

 こうして泊瀬部皇子が即位し、崇峻天皇となった。587年のことだ。激しい物部氏と蘇我氏の対立時代を経て、物部氏の没落によって、第二十九代・欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着がつき、崇峻天皇は法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業を積極的に行った。しかし、皇位に就いた後も、政治の実権は常に馬子が握っており、崇峻は次第に不満を感じ、反感を抱くようになった。

 そして592年、崇峻天皇の運命の歯車が急回転し始める。10月に猪を奉る者があったが、このとき崇峻は「いつの日かこの猪の頸を斬るがごとく、自分の憎いと思うところの人(=蘇我馬子)を斬りたい」と思わず、胸の内を語ってしまったのだ。これが天皇自身の生死を決する決定的な言葉となってしまった。

崇峻天皇の胸の内を知った馬子が手をこまねいてみているわけがない。馬子にとっては、相手が天皇であろうと、自分が押し立て皇位に就けた、単なる皇子の一人に過ぎなかった。翌11月、馬子は配下の側近、東漢直駒に命じ、天皇を殺害した。ただ、狡猾な馬子のこと、その時期には非難の眼が少ないと思われるタイミングを待っていたフシがある。任那再興のため新羅を討つべく大軍を筑紫に向かわせた留守を狙った犯行だった。

 これは、崇峻天皇に限らず、厩戸皇子をはじめこの時代を生きた皇族および有力豪族らのすべてが感じていたことだろうが、蘇我氏の権勢がそれほどに強大で、とりわけ王権さえ軽視し、政治をほしいままにしていた馬子に、意見を言える者などいなかったのだ。あの厩戸皇子さえ、馬子の権勢をよほど恐れていたのではないかと思われる史料が数々ある。今日、聖徳太子の名で、様々な善政として知られる諸施策も、すべて馬子の承諾なしに推し進められたものはないはずだ。もっといえば、聖徳太子が天皇にならなかった、あるいは天皇になれなかったのも、蘇我馬子の存在を抜きには語れない。

(参考資料)黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」、黒岩重吾「磐舟の光芒」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

平 宗盛・・・武家の大将の器量に欠ける、妻子への愛情深い家庭人

 平清盛の没後、平家政権は惣領=内大臣の平宗盛を中心に、宮廷内の外交は時忠(宗盛の叔父、清盛の正室時子の兄弟)が補佐し、知盛が軍事の指導権を掌握する形で再編成された。つまり、源平争乱の決戦に向けた平家の布陣は、この宗盛を総帥として組まれ、差配されることになった。突き詰めていえば、権勢を誇り栄華を極め、並ぶ者のなかったはずの平家一門の不運は、この点にあった。一門滅亡の最大の要因ともいえよう。

平宗盛は清盛の正室・時子の長子として優遇されて育てられ、精神的な逞しさはなかった。そのため、源氏を筆頭とする東国武士団との闘いにおいて、総帥の宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし、最悪の道を選択してしまう。「平家物語」の表現を借りれば、宗盛はあくまでも妻子への愛情深い家庭人であって、武家の大将たる器ではなかったのだ。

 平宗盛は平清盛の三男。正室・時子の子としては長男で安徳天皇の母・建礼門院徳子は同母妹。官位は従一位内大臣。母が異なる重盛は10歳年上で、当初から重盛の小松家とは対立の芽が内包されていた。平安時代末期、後白河天皇-二条天皇-六条天皇-高倉天皇-安徳天皇および、「治天の君」の後白河院を主君とした。後白河の寵妃、平滋子(建春門院、宗盛の生母、時子の異母妹)の側に一貫して仕え、妻に滋子の妹、清子(高倉天皇の典侍)を迎えている。

生没年は1147年(久安3年)~1185年(元暦2年)。
 「平家物語」は平重盛賛歌の書であって、父清盛も好意的には書かれていない。とくに宗盛は優れた兄重盛との対比として愚鈍なうえ、傲慢な性格で思い上がった振る舞いが多く、そのため他氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物として戯画化されている。

 また「玉葉」では妻清子の死後、宗盛は政治への意欲を失い、権大納言・右大将の官職を返上してその死を嘆き、その妻の遺児(宗盛にとっては第二子・能宗)を乳母に預けず、自分の手で育てている。複数の妻を持つのが当たり前の、平安時代のセレブの貴族社会に照らして考えてみると、高級官僚としては失格だし、どれだけ亡き妻を思ってのこととしても、ちょっと異常としか言いようがない体たらくだ。

 究極は、源氏との最終決戦となった壇ノ浦の戦い以降の宗盛の行動。敗色濃くなった時点で、母時子が夫清盛とともに築いたこの時代の一門の最後の幕引きをするかのように、幼い安徳天皇を抱いて入水。以下、平家の武将や女人たち、要人が次々に自決、入水するなかで、総帥の宗盛は伊勢三郎能盛に生け捕りにされ、息子の清宗とともに、一度は京都へ送られて、次いで鎌倉に護送されていることはどうにも理解できない。どうしてそこまで生き恥を晒すのか?潤色はあるかも知れないが、「吾妻鏡」に書かれている宗盛は愚鈍で、哀れを誘う。彼は勧められた食事も摂らず、泣いてばかりいて、源頼朝との対面では弁明もできず、ひたすら出家と助命を求め、これが清盛の息子かと非難されている。そして、助命嘆願が受け容れられず処刑の直前、「平家物語」によると、宗盛の最期の言葉は「右衛門督(宗盛の長子、清宗)もすでにか」とわが子を思うものだった。ここには、平家の総帥の姿はカケラもない。ただ、子を思う一人の親の顔があるだけだ。宗盛39歳、子の清宗はわずか15歳。父子の首はその後、京都六条河原に晒された。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」、加来耕三「日本補佐役列伝」