塩焼王・・・帝位目前に非業の最期を遂げた、藤原氏に対抗した反骨の王

 塩焼王(しおやきおう・しおやきのおおきみ)は、天武天皇の孫だ。天武天皇の子・新田部(にたべ・にいたべ)親王を父として生まれた、皇位をも望める血筋で、聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた不破内親王の夫となった人物だ。彼は、隆盛を誇った藤原四兄弟(宇合・武智麻呂・房前・麻呂)の死後、以前の勢いを失ったとはいえ、いぜんとして権勢を持つ藤原氏に対抗、皇位を奪取しようと目論んだとみられている。しかし、その企みはあっけなく露見し、官位を奪われ、最終的に配流されてしまう。『続日本紀』にはその事実だけが記され、その理由は何一つ書かれていない。したがって、詳しいことは分からない。ただ、様々な類推が可能な情報は記されている。その後、復帰し栄達するが、担ぎ出されて帝位を目前に、非業の最期を遂げた。

 塩焼王の生年は不詳、没年は765年(天平宝字8年)。母は不明。758年(天平宝字2年)、「氷上真人」の氏姓を与えられて、臣籍降下し、「氷上塩焼」と称した。官位は従三位、中納言。
塩焼王は732年(天平5年)、親王の子に対する蔭位として無位から従四位下に叙された。740年(天平12年)、従四位上の昇叙。同年10月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年11月には正四位下に昇叙。時期は不明だがこの間、中務卿に任ぜられている。当時の皇族の最長老、新田部親王の子としてはまず順調な出世の途を歩んでいた。

 ところが、742年(天平14年)女嬬4人とともに塩焼王は投獄され、伊豆国に流されたのだ。真相は不明だが、皇位継承問題などの政争に巻き込まれたものと推測されている。冒頭に述べた皇位奪取の目論見が露見したためと思われる。ただこの際、彼がどの程度、主体的な役割を果たしたのか、あるいは担ぎ上げられて巻き込まれたのか、詳細は分からない。

 しかし3年後の745年(天平17年)、赦免されて帰京、746年(天平18年)には官位も正四位下に復している。恐らくは、それほど主体的な役割は演じていないものと判断されたことと、妻の不破内親王が聖武天皇の皇女だったことから特赦されたとの見方が強い。ただ、これにより新田部親王の旧宅は没収され、勅によって鑑真に与えられて戒院とされ、のち「唐招提寺」となった。

 永井路子氏は塩焼王が伊豆に配流になった要因として、藤原氏に対抗して、県犬養広刀自一家の“祈り”にも似た意向を受けて、塩焼王がもっと積極的に皇位奪取の意志があったとみている。そして、藤原氏・聖武天皇に、彼にそう思わせる状況があったと指摘する。

 それは、聖武天皇が情緒不安定で、ノイローゼに陥ったことと、隆盛を誇った藤原四兄弟が疫病で相次いで急死し、宮廷内での藤原氏族の勢力が低下したためだ。また聖武天皇自身が藤原氏との関係に深入りし、先に讒言を信じ込み、結果的に藤原氏の策謀に乗せられて、左大臣で朝廷内きっての実力者、長屋王 一家を冤罪で自決に追い込んだ負い目も加わって、藤原氏を襲った相次ぐこれらの不幸を、気弱な聖武天皇は“祟り”と捉えて恐れたからだ。この後、聖武天皇が難波・恭仁・紫香楽と遷都、行幸を繰り返すのも、呪われた地、藤原氏の本拠・奈良を逃れたいとの思いからだったとみる。

 こうした状況を見た塩焼王が、いまがチャンスと思ったのも無理はない。彼には聖武王朝は崩壊寸前に見えたことだろう。これを支える藤原氏に昔の力がない今なら…。政権は自分の手の届くところにある。血の気の多い、この20代の皇族は暗躍を開始する。彼は聖武天皇を帝位から降ろし、義弟の安積親王(聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた不破内親王の弟)を皇位に就けようとしたのか、自分自身が自ら帝位に就き、妻の不破内親王を皇后にしようと考えたのかは分からない。

 757年(天平宝字元年)、弟の道祖王が皇太子を廃されると、塩焼王は藤原豊成・永手らによって後任の皇太子に推されたが、かつて聖武太上天皇に無礼を責められたことがある(伊豆配流のことか)との理由で、孝謙天皇に反対され、実現しなかった。

 その後、恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して栄達を図った塩焼王は、765年(天平宝字8年)、その頼みの押勝が追い詰められて武装反乱を起こすと、押勝により天皇候補に擁立されて「今帝」と称された。だが、押勝の敗走に同行して、孝謙太上天皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一族とともに殺害された。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、杉本苑子「穢土荘厳」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」