「中高年に人気の歴史群像」カテゴリーアーカイブ

一休・・・カラスの鳴き声を聞いて大悟 風狂の人生を送った名僧

 一休は世間の常識や名誉欲・出世欲から離れて生きた禅僧だ。後小松天皇の落胤といわれる一休が、いかにして悟りを開き、独自の思想を築き上げていったのか。一休の生没年は1394(応永元)~1481年(文明13年)。

 一休宗純は京都・嵯峨の民家で生まれた。幼名は千菊丸、長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号。父は後小松天皇、母は南朝の公卿の娘だったという。後小松天皇は、南朝と北朝とが一つになったときの北朝の天皇だ。南朝最期の天皇、後亀山天皇が京都に遷り、嵯峨の大覚寺に入られたのが1392年(元中9年)10月2日。10月5日には神器を後小松天皇に授けて、ここに南北朝の争いに終止符が打たれたのだ。その2年後に一休が生まれたことになる。

 一休が天皇の落胤でありながら、嵯峨の民家に生まれ、僧として生涯“風狂”の生活を営んだというのも、その出自に原因がある。南北朝が統一されたころはまだ、宮中も南朝方に対する敵対意識も取り去られてはいなかった。一休の母が南朝方の血をひいていると分かると、後小松天皇がどんなに深くその女性を愛していたとしても、いや深く愛していたればこそ余計に、宮中にいられなくなるようにされたのだ。こうして一休は、父の顔を知らず、父の名を口にしてはならない人間として、嵯峨の民家に生まれたのだ。

 将軍足利義満は統一された両朝が再び分裂することを恐れた。その原因になりそうなものはすべて排除されなくてはならないと考えた。このとき、最もその原因になりそうな存在がこの千菊丸だ。そして、6歳の年に寺に預けることでけりがついたのだ。京都・安国寺の長老、像外鑑公(しょうがいかんこう)の侍童となり、周建(しゅうけん)と名付けられた。この小僧時代のことを材料にして作られたのが『一休頓智咄(とんちばなし)』だ。恐らくほとんどが後世の創作だろうが、当時の周建に、そういう片鱗がなかったとはいえない。

13歳のとき周建は、東山の慕_(もてつ)禅師について漢詩をつくることを学んだ。そのころから彼は、毎日一首の詩を作ることを自分に課していた。これによって詩才は磨かれ、漢詩「長門春草」、15歳のとき作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。

 1410年(応永17年)17歳のとき、西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんのうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改めた。5年間みっちりと仕込まれたのだ。ある日、謙翁は「わしの知っている限りのことはお前に授けた。もはや教えるべきことは何もない。しかし、わしは師から悟ったという証明をしてもらっていないから、お前が悟ったという証明もしない」と周建にいった。謙翁の師は妙心寺の無因(むいん)禅師だ。無因禅師が謙翁の悟境を認めて印可しようとしたとき、謙翁は固く拒んで受けなかった。それに値しないと謙遜したのだ。こういうことは当時珍しいことだったので、周囲の人はこの人を謙翁(謙遜する翁)と呼んだのだ。この後まもなく謙翁は死んだ。周建がこの師を失ったことは大きな打撃だった。21歳の周建は石山観音に参籠し7日間、必死に祈った。だがどうにもならず、遂に彼は瀬田の唐橋から身を投げようとした。しかし、彼の身を案じた母が密かに見張らせていた下男が抱きとめて、この投身自殺は失敗に終わった。

 1415年(応永22年)、京都・大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となった。そして5年後の1420年(応永27年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したという。華叟は印可状を与えようとしたが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後、一休宗純は退廃した仏教界の慣習を次々破り、戒律を無視して、肉食もすれば、女も抱く。名刹の住持になるよりも、一所不在-ある時は京にはほど遠く、ある時は山の奥深くに庵を結んで、定住はせず、詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。

 1474(文明6年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。自由奔放で奇行が多かった。1481年、一休宗純は88年の生涯を、酬恩庵(通称「一休寺」、京都府京田辺市)で閉じた。
 一休宗純が遺した言葉に、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(狂雲集)などがある。

(参考資料)紀野一義「名僧列伝」、水上勉「一休」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

大久保利通・・・近代日本が生んだ第一級の政治家で日本の官僚政治の始祖

 大久保利通は、近代日本が生んだ第一級の政治家だ。周知の通り、西郷隆盛、木戸孝允と並び称される「明治維新三傑」の一人だが、日本の官僚政治の始祖といっていいかも知れない。冷徹な計画性、着実な行動力、感情におぼれることのない理性など、官僚政治家に求められる資質を備えた第一級の人物だったことは間違いない。大久保の生没年は1830(天保元)~1878年(明治11年)。

大久保は明治政府にあって、近代国家日本の基礎を、ほぼ独力で創始した。期間にしてわずか11年。厳密には」欧米列強への歴訪を終えて帰国した1873年(明治6年)から、紀尾井坂で暗殺される1878年(明治11年)までの5年ほどの間に、「富国強兵」「殖産興業」の二大スローガンに代表される、日本の方向、性格を決定づけたといっても過言ではない。

 大久保は「内務省」を創設し、一部エリートによる独裁をもって、日本の国力を短時日に欧米列強へ追い付かせるというプロジェクトを策定した。そのために、「薩長に非ずんば人に非ず」とまでいわれた藩閥政治の時代にあっても、非藩閥出の人々も含め、実に効率よく適材適所にあてはめている。それが様々な問題点を抱える人物であっても、明治国家にとって必要な人材と判断すれば、あえて火中の栗を拾うように、その人物を庇い同僚の参議たちに頭を下げた。 
  
黒田清隆や山県有朋らはその好例だ。黒田清隆は戊辰戦争において五稜郭攻めの司令官を務め、敵将の榎本武揚、大鳥圭介らを降伏させ、後に助命嘆願を周旋。しかも、彼らを政府に出仕させる離れ業までやってのけた。だが、黒田には一定量を超すと人が変わり、何をしでかすか分からない、恐ろしいぐらいの酒乱癖があった。

山県有朋は幕末の長州藩に、しかも奇兵隊に参加していなければ、恐らく歴史に名をとどめることはなかったろうと思える程度の人物だった。それが、藩内の動乱期(長州征伐)、高杉晋作、大村益次郎という天才軍略家を相次いで担ぎ、その下で着実に地歩を築き、明治以後、長州藩の恩恵でいきなり陸軍中将となったのだ。大村が暗殺され、山県には大村がやり残したことを仕上げる役割が残された。しかし、山県への風当たりは強く、金銭に汚いとの個人的悪評も重なって、味方であるはずの長州藩の木戸孝允からも嫌われた。そんな“奸物”、権謀術数をもっぱらとした山県を、大久保は重用した。

薩長閥出身者はいずれもひと癖もふた癖もあり、性格的にも問題のある人物が少なくなかった。一方、非藩閥出の人々は逆に、優秀で実直な人物が数多あったが、彼らにはその力量を発揮すべきポストが与えられにくかった。

 能力第一主義。大久保は欠点に優る長所があれば、多少のリスクを犯してもそうした欠陥人間をも登用、抜擢して用いる、そんな割り切り方をした。盟友の西郷隆盛は、大久保のこのやり方を不愉快に思い、木戸孝允は声を荒げて非難した。だが大久保は、西郷や木戸にもなんら抗弁もせず、そのやり方を変えることはなかった。

 大久保は1878年(明治11年)、紀尾井坂で西郷崇拝の加賀の青年、島田一郎・長連豪・脇田巧一らに暗殺され非業の死を遂げた。大久保はぜいたくな生活をしていたので、御用商人などから収賄して、ずいぶん巨額な財産を残しているだろうと思っている人が多かった。しかし、死後、遺産整理してみると現金わずかに数百円、借財が8000円余もあった。そして、その貸主は全部、知己・朋友で、癒着していると思われた富豪・御用商人などは一人もいなかったという。大久保が登用した人物には金銭的に随分、富豪・御用商人との癒着が指摘された者も少なくなかったが、自身は間違いなく清廉潔白の人だったのだ。

 大久保は薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島市高麗町)で、琉球館附役の薩摩藩士、大久保次右衛門利世と皆吉鳳徳の次女ふくの長男として生まれた。幼名は正袈裟(しょうけさ)、のち正助、一蔵。一蔵がよく知られている。家格は御小姓組と呼ばれる最下級武士。幼少期に大久保一家は甲突川を隔てた下加治屋町に移り住んだ。ここは島津家の下級武士の住む町で、70軒ぐらいの戸数だったが、ここから西郷隆盛・従道兄弟、日露戦争のときの陸軍の大山巖、海軍の東郷平八郎など、明治を飾る偉人が多く輩出したことで有名な町だ。

(参考資料))海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」松永義弘「大久保利通」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、加来耕三「日本創始者列伝」、「翔ぶが如く」と西郷隆盛 目でみる日本史(文芸春秋編)、安部龍太郎「血の日本史」

織田信長・・・情報収集力・活用力に長けた、徹底した合理主義者

 織田信長は戦国時代、群雄が割拠する中で、いち早く“天下布武”のスローガンを掲げて天下統一を目指した武将だ。そして、安土に壮大な居城を築き上げ、天下取りを目前にしたとき、彼は天皇より上位に立とうとし、遂には「余が神である」といい、神に成ろうとした戦国時代では稀有な人物だ。日本人離れした、近代精神を兼ね備えた思考と行動で、まさに時代を駆け抜けた英雄・信長。そうした思考と行動はどこから生まれたのか?

 結論を先に言えば、信長は情報収集力・活用力に長けた、神仏も来世も信じない徹底的な合理主義者だった。このことが彼を天下人に押し上げた最大の要因だ。情報は、常日頃からスピードと正確さを備えた伝達回路を持っていなければ、いざというとき役に立たない。そのため、信長は同時代を生きた諸国の大名や武将とは、かなり異なった動き方をする。

例えば敵地を偵察させる場合、個人に物見に行かせるのではなく、麾下の武将に一軍を率いて敵地に強行侵入させ、状況を直接、肉眼で観察させるのだ。これだと敵陣深く潜行するため、キャッチする情報が正確だ。当然情報量も多い。とりわけ信長は迅速を尊んだ。織田家の武将たちは、こうした信長の情報戦略の中で鍛えられていた。

 その結果、織田軍団は上から下まで、情報の重要性を十分に認識することができ、トップへの情報伝達は全くといっていいほど疎漏がなかった。ちょっと信じ難いことだが、時には信長にとって聞きたくないようなことまでも、織田家ではいち早く伝える家風ができ上がっていたという。織田家の中核を担う情報・伝達将校の“母衣衆”は、そのための専門職でもあり、その選定にあたっては、私的な利害得失に拘泥しない、諫言・論争も辞さない人材が登用されている。後に加賀百万石を領した前田利家は、二つあった母衣の一方、赤母衣衆の筆頭を務めた人物だった。

 信長が、あの有名な桶狭間の合戦に勝利し得たのも、奇跡でもなければ、幸運が重なっただけのものでもない。敵将・今川義元が何処にいるかを、いち早く、的確にキャッチし得た、常日頃の情報管理があったからこそ成し得たのだ。

また、信長の生涯における最大の危機ともいえた金ヶ森の退却戦=第一次朝倉征討において、義弟・浅井長政の裏切りに遭い、九死に一生を得たのも、凶報の情報伝達の早さ、正確さと、それに機敏に反応した信長であればこそ、無事生還できたのだ。これらの要素の一つでも欠けていたら、朝倉・浅井連合軍の挟み撃ちに遭い、織田軍団は少なくとも壊滅的な打撃を受けていただろう。

 もっといえば、武田信玄や上杉謙信の死を他に先んじて確信できたのも、信長なればこその情報収集力・活用力だった。当時の戦国大名の多くは、格上の信玄や謙信の動向を恐れ、見えない影に怯えていた。

 信長は宗教が幅を利かせる「中世」の徹底的否定者だった。彼が青年期、父・信秀の葬儀に異様な風体をして現れ、仏前に抹香を投げつけたのも、後年、天下統一の邪魔をする宗教的権威・比叡山を焼き討ちにし、一向一揆で多くの門徒を殺したのも、近代という時代が中世的、宗教的権威の完全な否定の上にしか、築かれないことを示そうとしたのではないか。

(参考資料)今谷明「信長と天皇」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、海音寺潮五郎「武将列伝」、梅原猛「百人一語」、津本陽「創神 織田信長」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、童門冬二「織田信長の人間学」

笠原良策・・・幕末、私財を投げ打ち種痘を成功させ、天然痘予防に尽力

 笠原良策は蘭方医学に通じ、福井・越前藩の町医ながら、8世紀に日本に侵入し、恐るべき感染力で大流行を繰り返し、おびただしい人命を奪った日本の天然痘予防に尽力、医業も私財も投げ打っての苦闘のすえ、種痘を成功させた人物だ。良策の生没年は1809(文化6)~1880(明治13年)。

 笠原良策は福井の医師、笠原竜斉の子として生まれた。名を良、字を子馬、後に白翁と号した。15歳で福井藩医学所済世館に入り、漢方を学んだ。20歳で江戸に出て磯野公道について古医方を学び、23歳のとき福井に戻って開業した。27歳のとき山中温泉で大武了玄という蘭方医と知り合い、啓発を受けて蘭方への志を絶ち難く、京都の大蘭方医と称されていた日野鼎哉(ひのほうさい)の門を叩いて入門を許された。良策の勉学ぶりは真剣そのもので、たちまち頭角を現した。

 ところで1796年、イギリスのジェンナーは牛も天然痘にかかり、人間にもうつるが、症状が軽く発病しないうえに、一度かかると一生、天然痘にかからないことに注目し、種痘に成功した。そこで、日野鼎哉、笠原良策の師弟は日本にも種痘を普及させねばならないと一念発起した。しかし、これが日本に伝わり、天然痘の予防法として広まるには笠原良策らの、長期にわたる献身的な努力が必要だった。

 まず第一の難関が痘苗(とうびょう)の入手だ。長崎で種痘が成功を収めていることを知った良策は、1849年オランダ人の医師オットー・モーニッケがもたらした、液状の痘苗を入手した。福井越前藩の名君の誉れ高い松平春嶽に、鎖国下の日本にあって牛痘病の輸入を嘆願してからすでに3年の歳月が流れていた。それは医業も私財も投げ打っての苦闘の連続だった。まず液状の牛痘病で失敗した良策は、次に保存性の高い牛痘のかさぶたを使うと、今度は見事に登痘させることに成功した。そこで彼は日野鼎哉らの協力で、京都に種痘所を設けた。1849年9月ごろのことだ。

 京都で100人以上の子供に種痘を済ませたころ、その噂を耳にした名医の緒方洪庵も大坂に種痘を広めるために良策のもとを訪れている。しかし、京都で成功を収めた種痘も、福井では簡単に広まらなかった。同年11月いよいよ福井へ伝苗する。だが、障害は多い。それは未知のものだけに、痘苗を植え付ける恐怖がどうしても先に立つなど、多くの困難が立ちはだかったからだ。それでも良策らは伝苗にあたり、より確実な人から人へ植え継ぐ方法をとった。

 当時の医術では痘苗の保存は一週間が限界で、種痘を施した子供の腕に発痘がみられると、滲み出る膿を採って新たな痘苗とし、一週間以内に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならなかった。良策は京都から福井までの旅程一週間を考慮し、京から二人、福井から二人の幼児を雇い、未知の種痘に怯える幼児の両親を含め、総勢14名で京都を発った。

 季節は11月、積雪がないと異常気象とされる山岳地帯を、女子供を連れての旅は困難を極めた。京都→大津→草津→米原と経由し、そこで京童から福井童への種痘が行われた。このときも子供の両親が未知と天然痘への恐怖から説得に難渋したこともあったが、何とか種痘は行われた。役目を終えた京童とその両親はここで引き返した。ここからは山岳地帯を越えての福井入りだったが、ただでさえ雪深い栃ノ木峠が当時は六尺(2・)もの積雪があり、これに加え猛吹雪が一行を襲い、遂に日没を迎え遭難寸前のところへ追い込まれた。

しかし、事前に連絡を受けていた虎杖(現在の板取)の村落の人々が良策一行を心配し迎えにきていたため、危ういところを救出された。虎杖で一夜を過ごし、翌朝村を発ち、その日のうちに今庄へ着き、路上で計画通り府中(現在の武生市→越前市)の斎藤策順、生駒耕雲、渡辺静庵の三人の医師の子供たちに種痘を施した。京都を発って七日目、こうして良策の決死の雪中行は終わった。安政2年、藩医学所済世館の東に除痘館が併置された。

 良策はその後、嘉永6年までに6595人に種痘をし、その中で天然痘に感染したのは三国港の小役人鷲田楢右衛門の子供一人のみで、他は一人残らず感染から免れた。良策がもたらした種痘はその後、各地へ広がっていった。鯖江藩、大野藩、そして加賀藩金沢、富山、敦賀、勝山、丸岡、金津、三国などへも福井から分苗され、多くの人命を救った。

(参考資料)吉村昭「雪の花」、吉村昭「日本医家伝」

空海・・・密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域まで高めた天才

 弘法大師空海は日本仏教史および文化史の上に偉大な足跡を残している。空海の意図した宗教的世界は、周知の通り真言密教と呼ばれる。密教はインドに発したもので、実に難解な内容を持つが、東洋の仏教思想史上、その密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域にまで高めたのが空海だ。

 真言宗の開祖・空海は讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)で、父佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)、母阿刀大足(あとのおおたり)の娘(または妹)の三男として生まれた。幼名は眞魚(まお)。俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)。生没年は774(宝亀5)~835年(承和2年)。能書家としても知られ、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。

789年(延暦8年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師だった母方の舅の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。792年(延暦11年)18歳で京の大学寮に入った。ところが、大学に入って一年後のことか、三年後のことか、時期ははっきりしないが、空海は突如として現世的栄達に背を向け、大学からも去って、山林修行に邁進し始めるのだ。

 そして、804年(延暦23年)正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る直前まで、御厨人窟(みくろど、高知県室戸市)、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行に明け暮れたといわれる。ただ、この修行時代の詳細も、入唐直前まで私度僧だった空海が突然、留学僧として浮上する過程も、今日なお謎を残している。
 ただ、後の空海の行動や成し遂げた事績から推察すると、彼はいわばこの空白の期間に、諸経典のみならず南都六宗の教義、とりわけ密教につながる華厳教学に関してほぼ通暁するまでになっていたと思われる。また中国語やサンスクリットを修得したのもこの期間だったのではないか。さらに、空海を密教へ導いた密教の根本経典『大日経』との出会いもこの期間のことのようだ。

 いずれにしても、20数年ぶりに派遣される第16次遣唐使の一員、留学生(るがくしょう)として空海は渡航することになった。この遣唐使船(4艘で編成)には最澄が桓武天皇の信任を受け、留学生より格上の還学生(げんがくしょう)として、短期間滞在して天台教学を究めるため乗り込んでいた。

 空海の真の目的は真言密教を投網で打つように体系ぐるみ日本にもたらすところにあったが、このことは官に明かしていなかった。真言密教を体系ぐるみ導入するというのはひらたく言えば買ってくることなのだ。
 長安の諸寺を周遊した後、空海は青龍寺の恵果(けいか)と巡り合い、遂に正師と仰ぐべき名僧と確信。一方、恵果も空海の来訪を大歓迎したといわれる。中国密教の第一人者が、異国の僧をたった一度引見しただけで、たちまちその器を見抜き、空海を恵果自身が感得した正統密教の継承者として意識したのだ。このとき恵果は60歳で、健康に衰えがみえ、そろそろ後継者を選ばなければならない時期に直面していた。だが、弟子は1000人余いたものの、期待を託すに足る者といえば義明(ぎみょう)という弟子一人しか見当たらず、しかもその義明は病身だった。そんなところへ、思いがけず空海という大器があらわれたのだ。それは恵果にとっても、空海にとっても、ともに大きな幸運だった。

 恵果は空海が入門してほどなく、胎蔵界の学法灌頂(かんじょう)、金剛界の灌頂を授け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えた。さらに恵果は、まだ愛弟子の義明にも許したことのない伝法阿闍梨位の灌頂を遂に空海に授けた。こうして恵果から空海への伝法はここに成就したわけだ。

 留学生は20年の滞留を義務付けられているが、空海はこの1年余の間に目的のほとんどを達した。師恵果からも一日も早く故国に帰り、国のため万民のため密教を伝える算段をせよ-といわれている。空海という比類ない天才は、官から頂戴していた20年留学という分だけの砂金を、2年に短縮すれば集中的に大量に使うことができると判断したことだ。そして、空海の奇跡は一介の留学生にしてそれをやってのけたことだ。むろん、買って済むわけではなく、それらを理解しなければならないが、この点で空海の天才性はいうまでもない

 空海は、新訳などの経すべて142部247巻、梵字真言讃などすべて42部44巻、論疏章などすべて32部170巻、以上合計216部461巻に及ぶ経典、仏典を筆写、蒐集して持ち帰った。ほかに仏・菩薩・金剛天などの像、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、そして仏具・道具類などもあった。このために空海は大勢の写経生を雇い入れ、それはあたかも写経工場のようなものだったはずだし、仏像の制作に至っては多種類の工場を、一時的ながら空海は稼働させたことになったはずだ。金属製の仏具を改めて鋳造・彫金しなければならないから、空海が雇った仏師や画工は、下働きを含めて数百人といった規模になったのではないかとみられる。

 真言密教を体系ぐるみ持ち帰った空海を世の人々が注目するようになり、彼 が最澄とともに平安仏教界を指導する双璧となったのは812年(弘仁3年)、高 雄山寺における灌頂がきっかけだった。空海は嵯峨天皇に度々、そのひとつ一 つに心を込めた文章を付した贈り物をした。また同時並行して最澄との交渉も 頻繁に持った。これは主に書簡を介してのものだが、最澄の方が積極的だった ようだ。
これは遣唐使として入唐した際、中国ではすでに天台教学が斜陽化しつつあ り、密教が最新の仏教として脚光を浴びている状況だったのに、天台教学や禅を学んだ後、最澄が密教の典籍・法具などを伝承するとともに、金剛界・胎蔵界の灌頂を受けるなど、密教の資料収集や研修に時間を割けたのはわずか1カ月余に過ぎなかったからだ。いわば天台教学研鑽の片手間に密教を学んだに過ぎないという自覚を最澄が持っていたのだ。それだけに、密教をより深く体系的に修めた空海に、後輩であっても教えを乞う態度を取ったのだ。
 しかし、良好だった最澄と空海との交友関係にも徐々に亀裂が生まれ、最澄 の高弟、泰範問題によって、その溝が決定的に拡大、事実上断絶状態となった。 空海は816年(弘仁7年)、朝廷に上奏文を提出し、紀州高野山を密教修行の道 場として賜りたいと願い出た。そして819年(弘仁10年)、空海が作成した設 計プランに基づき、いよいよ堂塔伽藍の建設が始められた。
(参考資料)司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、百瀬明治「開祖物語」、八尋舜右「空海」、渡辺照宏・宮坂宥勝「沙門空海」、稲垣真美「空海」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

近藤勇・・・ 粘り強く転戦した土方のしたたかさに比べ、潔さが際立つ最期

 近藤勇は農民の子として生まれながら、剣の道を究め天然理心流剣術宗家四代目を継承。幕末、新選組局長、そして甲陽鎮撫隊隊長を務めるまでに出世した近藤には、策謀家と潔さとの両面の“顔”が垣間見られる。果たしてどちらが近藤の実像に近いのだろうか。近藤の生没年は1834(天保5)~1868年(慶応4年)。

 近藤勇昌宜(こんどういさみまさよし)は、農民、宮川久次郎の三男として武州多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)で生まれた。幼名は勝五郎、のち勝太。慶応4年から大久保剛、のち大久保大和(おおくぼやまと)と名乗った。末っ子だったため父、久次郎の愛を一身に受けて育った。父から「三国志」「水滸伝」などの英雄伝を読み聞かせてもらい、これらを通して勝五郎は忠孝の思想的観念を、幼い胸の中に芽生えさせていったとみられる。

宮川勝五郎は1848年(嘉永元年)、兄二人とともに近藤周助の天然理心流道場・試衛館に入門した。15歳のときのことだ。彼は一番年少にもかかわらず、けいこには一番熱心だった。入門後8カ月で近藤周助より天然理心流の目録が与えられた。それだけ、周助も勝五郎の剣の素質の素晴らしさに、密かに目をつけていたのだ。

 剣の素質を見込まれた勝五郎は、まず周助の実家の島崎家に養子に入り島崎勝太と名乗り、後に正式に近藤家と養子縁組し島崎勇、そして後の近藤勇を名乗った。1861年(万延2年)、府中六所宮にて天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派の一門の宗家を継ぎ、その重責を担うことになった。

 江戸幕府は1863年(文久3年)、清河八郎の献策を容れ、第十四代将軍家茂の上洛の警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。このとき近藤勇は土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎、藤堂平助ら試衛館のメンバーを伴って、これに参加することを決め上洛した。朝廷に建白書を提出し、浪士組の江戸帰還を提案した清河に、異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留。京都守護職・会津藩主松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。後の新選組の原点だ。

 その後、近藤派、芹沢派の二派閥体制となった浪士組だが、「八月十八日の政変」(1863年)が起こり、その警護にあたった浪士組の働きぶりが認められて、武家伝奏により「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。その後、芹沢鴨の一派が暗殺されると、近藤勇主導の新体制が構築された。芹沢鴨一派の暗殺事件では、近藤が直接手を下すというより、近藤の意を受けた副長の土方以下が指揮し、実行部隊となったとみられる。この後、新選組は近藤を局長として好感しない隊士には“血の粛清”が繰り返し行われ、結束を強固なものとしていった。そして京では池田屋事件をはじめ、西南雄藩藩士の勤皇志士たちの倒幕的な活動に対する取り締まり役として、「新選組」は“勇名”を馳せ、怖れられた。

 負傷療養中の近藤に代わって副長の土方歳三が率いて戦った、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸へ戻った。幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は、甲陽鎮撫隊として隊を再編し、甲府へ出陣した。だが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別した。

その後、近藤は大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の新政府軍の本営に出頭する。しかし、大久保を近藤と知る者が新政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行され捕縛された。その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。あっけない死だった。

近藤とは立場が違うが、各地の戊辰戦争を戦い抜き、幕臣として榎本武揚らと函館・五稜郭まで粘り強く転戦した土方歳三の生きざまとはっきり異なる。農民の出ながら、武士としての階段を昇り、一定の役職に就いた者と、そうでなかった者との違いなのか、死に臨んで近藤にはしたたかさより、数段、潔さが勝ったようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

葛飾北斎・・・西欧印象派画壇の芸術家に影響与えた希代の浮世絵師

 葛飾北斎は江戸時代に活躍した浮世絵師で、とりわけ後期、文化・文政期を代表する一人。森羅万象、何でも描き生涯に3万点を超える作品を発表。版画のほか、肉筆画にも傑出していた。さらに読本、挿絵芸術に新機軸を見い出し、「北斎漫画」をはじめとする絵本を多数発表した。葛飾派の祖となり、後にはゴッホなど西欧の印象派画壇の芸術家をはじめ、工芸家や音楽家にも影響を与えた、世界的にも著名な画家だ。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。

 北斎は武蔵国・葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)で、貧しい百姓の子として生まれた。幼名は時太郎。後に鉄蔵と称した。生没年は1760~1849年。小さい頃から頭が良く、手先の器用な子で、初め貸本屋の小僧になり、14、15歳の時、版木彫りの徒弟に住み込んだが、そんな閲歴が絵や文章に親しむきっかけとなったと思われる。

 北斎は1778年、浮世絵師、勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)を多く手掛けた。しかし1779年、真相は不明だが、勝川派を破門されている。ただ、貧乏生活と闘いながら一心不乱に画業の修練に励んだお陰で、寛政の初年ごろから山東京伝、滝沢馬琴らの作品に挿絵を依頼されるようになった。

 北斎を語るとき忘れてはならないのが、改号と転居(引越し)の多さだ。彼は頻繁に改号し、その回数は生涯で30回に上った。「勝川春朗」「勝春朗」「郡馬亭」「魚仏」「菱川宗理」「辰斎」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「錦袋舎」「画狂人」「画狂老人」「卍老人」「白山人」など数え上げたらきりがない。現在広く知られている「北斎」は当初名乗っていた「北斎辰政」の略称。

 転居の多さもまた有名で、生涯で93回に上った。1日に3回引っ越したこともあるという。これは北斎自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為=かつしか・おうい)が、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに、掃除するのが面倒くさい、借金取りの目をくらます、家賃を踏み倒すなどのため引っ越していたからだ。改号もカネに困り、画号を門弟に売りつけた結果、いやでも変えざるを得なかったわけだ。

 カネ欲しさに大事な画号を門弟連中に押し売りしたりすれば、後世、拙作、真作が混在し、巨匠北斎の栄誉にマイナスに働きはしないかなどと考えるのは、彼の画業を芸術視している現代人の考え方だ。アカデミックな立場にある公儀御用絵師はともかく、浮世絵描きの町絵師など、世間も芸術家とは見ていなかった。先生、師匠と呼びはしても読み捨ての黄表紙同様、浮世絵も消耗品の一種と見ていたのだ。だから、北斎自身もごくリアルに、当面のカネの算段が最優先だったわけだ。「富嶽三十六景」のような代表傑作を生み出した原動力も、例えば新人の安藤広重が彗星の如く現われて、センチメンタルなあの独特の抒情で、めきめき評判を高めだしたのに刺激され、若い広重に負けてたまるか-という敵がい心、競争意識をバックボーンに、猛烈にハッスルした結果なのだ。

 北斎は結婚は二度している。ただ、二度とも妻の名は分からない。初めの妻との間に一男二女、後妻に一男一女を産ませたから、5人の子持ちということになる。二人の妻とは死別か離別か、それも不明だ。90年にわたる生涯で、52、53歳頃から独り身を通し、女は同居していた娘のお栄のほか、いっさい近づけなかった。
(参考資料)杉本苑子「風狂の絵師 北斎」、梅原猛「百人一語」

空也・・・念仏を唱え続けた民間の浄土教の先駆者 「念仏聖」の先駆

 空也は平安時代中期の僧で、天台宗空也派の祖。乞食しつつ諸国を巡り、道を拓き橋を架け、盛んに口称念仏(称名念仏=しょうみょうねんぶつ)を勧め、市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖(あみだひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと称された。民間における浄土教の先駆者と評価されている。

彼の活動は貴族からも注目された。ただ、踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したことを示す史料はない。空也の門弟は高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。

 詳細は分からないが、空也は尾張国(現在の愛知県)で生まれたとみられる。法号は空也・光勝(こうしょう)。空也の生没年は903(延喜3)~972年(天禄3年)。『空也誄(るい)』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』などの史料によると、空也は醍醐天皇の皇子とも、仁明天皇の皇子・常康親王の子とも伝えられているが、無論、彼自身が自らの出生を語ることはなく、真偽は不明だ。

 922年ごろ尾張国の国分寺にて出家し、空也と名乗った。若い頃から在俗の修行者、優婆塞として諸国を巡り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら、道路・橋・寺などを造り、井戸を掘るなど様々な社会事業を行い、貴賎を問わず幅広い帰依者を得た。絶えず南無阿弥陀仏の名号を唱えていたので、俗に阿弥陀聖とも呼ばれた。

 938年(天慶1年)、京都へ入って浄土往生の念仏を勧めるとともに、街中を遊行して乞食(こつじき)し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝えられる。948年(天暦2年)、比叡山で天台座主・延昌(えんしょう)のもとで得度、受戒し「光勝」の法号を受けた。ただ、空也は生涯、超宗派的立場を保っており、天台宗よりも、奈良仏教界、とくに思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。

 950年(天暦4年)から金字大般若経の書写を行い、人々から浄財を集めて951年(天暦5年)、十一面観音像ほか諸像(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)を造立した。963年、鴨川の岸で大々的に供養会を行い、これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深めた。東山・西光寺(現在の六波羅蜜寺)で70年の生涯を閉じた。空也の彫像は六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男、康勝の作)が有名。

 平安時代以降、貴賎を問わず、老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のお陰だといわれる。また、東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された
 諸悪に満ちたこの世を嫌って、美しく、楽しい「あの世」を求める浄土教の祖師たちは、理論家の法然を除いて、源信、親鸞、一遍などいずれも詩人の心を持ち、すばらしい偈(げ)や和讃を残している。中でも、とりわけすばらしい詩心の持ち主は、彼らの先駆者だった空也だと思われる。空也の言葉はあまり残っていないが、わずかに『一遍上人語録』などに断片的に残っている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

河井継之助・・・幕末の越後長岡藩執政となり、激烈な北越戦争を指導

 河井継之助は幕末、越後長岡藩の120石取りの藩士から、同藩の上席家老へ異例の出世を遂げ、“藩の舵取り”役となり藩政改革を断行した。そして、西南雄藩も目を見張るほどの近代武装を成し遂げ、新政府軍との戊辰戦争では長岡藩の軍事総督を務めた。当初、戊辰戦争では中立を唱えたが、新政府軍に受け入れられず、結局これと激戦。悲運の最期を遂げた。生没年は1827~1868年。

 河井継之助は長岡城下同心町で沙門良寛とも親交のあった勘定頭・河井代右衛門秋紀の長男に生まれた。字は秋義、蒼龍窟(そうりゅうくつ)と号した。生来意志が強く、長じて剣を鬼頭六左衛門に、文学を藩儒山田愛之助らに学んだ。18653年(嘉永6年)、江戸に遊学し、斎藤拙堂の門に学び、次いで古賀茶渓(さけい)の久敬舎に入り、一時、佐久間象山にも師事して海外の事情を学んだ。翌年、勘定方随役に抜擢されたが上司と合わず、まもなく辞し、再度、家を出た。

継之助は、1859年(安政6年)、備中松山藩(現在の岡山県)の山田方谷(ほうこく)に学び、長崎に遊んで見聞を広め、翌年帰国した。1865年(慶応1年)、外様吟味役、そして郡奉行、町奉行も兼務。さらに年寄役に累進。この前後、藩政の大改革を断行した。1868年(慶応4年)上席家老となり、当時の日本においては最新の銃器類を入手して防備を固め、軍事総督として戊辰戦争における“武装中立策”を推進した。

だが新政府軍がこれを認めないため、これと激戦を展開した。継之助は巧みな戦術で敵を惑わせ、いったんは敵の手に落ちた長岡城を奇襲で奪還。しかし、圧倒的な敵の兵力には勝てず敗走、再度の落城で継之助率いる長岡軍は会津へ向かう。だが途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で彼は悲運の最期を遂げたのだ。

 河井継之助はいま見た通り、明治維新の内乱のうち地方戦争と見られがちな北越戦争の、それも敗者になった側の越後長岡藩の執政で、おまけに中途戦死して、後世への功績というべきものは残していない人物だ。しかし、維新史好きの人の間では、北越戦争が維新の内乱中、最も激烈な戦争だったこととともに、その激烈さを事実上一人で引き起こした河井継之助の名はよく知られていた。畏怖、畏敬の念も持たれてきた。

 継之助が藩政を担当した時には、皮肉にも京都で十五代将軍慶喜が政権を朝廷に返上してしまった後だった。このため慌しく藩政改革をした後、彼の能力は恐らく彼自身が年少のころ思ってもいなかった、戦争の指導に集中せざるを得なかった。ここで官軍に降伏すれば藩が保たれ、それによって彼の政治的理想を遂げることができたかも知れない。だが、継之助はそれを選ばず、ためらいもなく正義を選んだ。司馬遼太郎氏が「峠」のあとがきに記している言葉だ。

 河井継之助は徹底した実利主義者だった。物事の見方は鋭く、すぐに本質を見抜いた。また彼は大変な開明論者で幕末、士農工商制度の崩壊や、薩摩と長州らによって新政権が樹立されるであろうことを予測していたという。さらには度を超えた自信家で、本来なら継之助の家柄では家老などの上級職になれなかったが、彼は「ゆくゆくは自分が家老職になるしかない」と周囲に言い触らしていた。そして、その宣言通り長岡藩の命運を担い、その舵取りを務め“義”の戦いを展開し、潔く散った。

(参考資料)司馬遼太郎「峠」、奈良本辰也「不惜身命」

陸 羯南・・・“硬派”の新聞『日本』を主宰した明治の代表的言論人

 陸羯南(くがかつなん)は新聞『日本』の社主兼主筆を務めた明治時代の代表的言論人だ。『日本』は、陸羯南が刊行の辞で「新聞は政権を争う機関にもあらず、私利を射る商品にもあらず、博愛の下に国民精神の回復を発揚する…」と述べている通り、議論一点張り、ニュースも政治教育方面のものが主体で、三面記事は一切、掲載しなかった。振り仮名抜きの漢文体という“硬派”の新聞だ。印刷用にはフランスからマリノニ式輪転機を入れ、写真を初めて取り入れた、熱情あふれた紙面は青年の血を沸かし、神田の下宿屋では、この新聞を取るのを誇りとしたという。

 ただ、この『日本』は部数5000部(最大時2万部)と少なかったこと、また政治教育方面のニュースを大胆に斬るスタイルだったため、発行停止となることが極めて多く、経営は困難を極めた。ちなみに、黒田清隆内閣のときは3回・31日間、山県有朋内閣のときは2回・32日間、第一次松方正義内閣のときは2回・29日間、第二次伊藤博文内閣のときは実に22回・131日間、第二次松方正義内閣のときは1回・7日間の発行停止を食っているのだ。これでは経営難に陥るのも無理はない。しかし、陸羯南がやり遂げたことは「男子一生の仕事」と呼ぶにふさわしいものだった。

 陸羯南は津軽・弘前藩藩医で近侍茶道役を務めた中田謙斎の長男として生まれた。本名は実(みのる)。「羯南」を生涯の号とした。妻てつとの間に一男七女をもうけた。漢学者の鈴木虎雄は娘婿。陸の生没年は1857(安政4)~1907年(明治40年)。

 陸(現実にはこのころは「中田」姓)は15歳ごろから工藤他山の漢学塾に通うようになり、その後、漢学、英学両方の教えを受けた郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となった。そこで上京して司法省法学校に入学。ここでも賄征伐事件に関連して、校長の態度に反発し、退学した。このとき共に退学した同窓生に原敬、福本日南、加藤拓川、国分青涯らがいる。このころ、親戚の陸家を再興し、これまでの中田から「陸」姓となった。これには徴兵逃れの措置という説と、唐の詩人・陸宣公に倣ったという説がある。

 青森新聞社などを経て北海道に渡った後、再度上京し、フランス語が堪能だったことから、太政官文書局書記局員となった。ここで井上毅、高橋健三らと知り合った。1885年(明治18年)には内閣官報局編集課課長となった。また、このときフランスの保守主義者ジョゼフ・メーストルの『主権についての研究』を翻訳、『主権原論』として出版。しかし1887年(明治20年)、政府の条約改正・欧化政策に反対して退官した。

 陸は徳富蘇峰とともに明治中期を代表する言論人だが、徳富の発言がほとんど社会の全般にわたったのに対し、陸の評論は政論中心だった。ただ政論中心といっても、政府や政党の動向を具体的に追跡するだけではなく、国民全体の歴史や社会・経済・思想・風俗・慣習との関連のもとに政治の動向を捉える点に特徴があり、そうした見方は、国際政治の捉え方にまで貫かれていた。彼が政論記者として他の追随を許さないと評価されたゆえんだ。

 陸は1888年(明治21年)『東京電報』という月刊新聞を創刊、翌年『日本』と改題、社長兼主筆として活躍した。三宅雪嶺、杉浦重剛、長谷川如是閑、正岡子規など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムの先駆けとなった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」