笠原良策・・・幕末、私財を投げ打ち種痘を成功させ、天然痘予防に尽力

 笠原良策は蘭方医学に通じ、福井・越前藩の町医ながら、8世紀に日本に侵入し、恐るべき感染力で大流行を繰り返し、おびただしい人命を奪った日本の天然痘予防に尽力、医業も私財も投げ打っての苦闘のすえ、種痘を成功させた人物だ。良策の生没年は1809(文化6)~1880(明治13年)。

 笠原良策は福井の医師、笠原竜斉の子として生まれた。名を良、字を子馬、後に白翁と号した。15歳で福井藩医学所済世館に入り、漢方を学んだ。20歳で江戸に出て磯野公道について古医方を学び、23歳のとき福井に戻って開業した。27歳のとき山中温泉で大武了玄という蘭方医と知り合い、啓発を受けて蘭方への志を絶ち難く、京都の大蘭方医と称されていた日野鼎哉(ひのほうさい)の門を叩いて入門を許された。良策の勉学ぶりは真剣そのもので、たちまち頭角を現した。

 ところで1796年、イギリスのジェンナーは牛も天然痘にかかり、人間にもうつるが、症状が軽く発病しないうえに、一度かかると一生、天然痘にかからないことに注目し、種痘に成功した。そこで、日野鼎哉、笠原良策の師弟は日本にも種痘を普及させねばならないと一念発起した。しかし、これが日本に伝わり、天然痘の予防法として広まるには笠原良策らの、長期にわたる献身的な努力が必要だった。

 まず第一の難関が痘苗(とうびょう)の入手だ。長崎で種痘が成功を収めていることを知った良策は、1849年オランダ人の医師オットー・モーニッケがもたらした、液状の痘苗を入手した。福井越前藩の名君の誉れ高い松平春嶽に、鎖国下の日本にあって牛痘病の輸入を嘆願してからすでに3年の歳月が流れていた。それは医業も私財も投げ打っての苦闘の連続だった。まず液状の牛痘病で失敗した良策は、次に保存性の高い牛痘のかさぶたを使うと、今度は見事に登痘させることに成功した。そこで彼は日野鼎哉らの協力で、京都に種痘所を設けた。1849年9月ごろのことだ。

 京都で100人以上の子供に種痘を済ませたころ、その噂を耳にした名医の緒方洪庵も大坂に種痘を広めるために良策のもとを訪れている。しかし、京都で成功を収めた種痘も、福井では簡単に広まらなかった。同年11月いよいよ福井へ伝苗する。だが、障害は多い。それは未知のものだけに、痘苗を植え付ける恐怖がどうしても先に立つなど、多くの困難が立ちはだかったからだ。それでも良策らは伝苗にあたり、より確実な人から人へ植え継ぐ方法をとった。

 当時の医術では痘苗の保存は一週間が限界で、種痘を施した子供の腕に発痘がみられると、滲み出る膿を採って新たな痘苗とし、一週間以内に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならなかった。良策は京都から福井までの旅程一週間を考慮し、京から二人、福井から二人の幼児を雇い、未知の種痘に怯える幼児の両親を含め、総勢14名で京都を発った。

 季節は11月、積雪がないと異常気象とされる山岳地帯を、女子供を連れての旅は困難を極めた。京都→大津→草津→米原と経由し、そこで京童から福井童への種痘が行われた。このときも子供の両親が未知と天然痘への恐怖から説得に難渋したこともあったが、何とか種痘は行われた。役目を終えた京童とその両親はここで引き返した。ここからは山岳地帯を越えての福井入りだったが、ただでさえ雪深い栃ノ木峠が当時は六尺(2・)もの積雪があり、これに加え猛吹雪が一行を襲い、遂に日没を迎え遭難寸前のところへ追い込まれた。

しかし、事前に連絡を受けていた虎杖(現在の板取)の村落の人々が良策一行を心配し迎えにきていたため、危ういところを救出された。虎杖で一夜を過ごし、翌朝村を発ち、その日のうちに今庄へ着き、路上で計画通り府中(現在の武生市→越前市)の斎藤策順、生駒耕雲、渡辺静庵の三人の医師の子供たちに種痘を施した。京都を発って七日目、こうして良策の決死の雪中行は終わった。安政2年、藩医学所済世館の東に除痘館が併置された。

 良策はその後、嘉永6年までに6595人に種痘をし、その中で天然痘に感染したのは三国港の小役人鷲田楢右衛門の子供一人のみで、他は一人残らず感染から免れた。良策がもたらした種痘はその後、各地へ広がっていった。鯖江藩、大野藩、そして加賀藩金沢、富山、敦賀、勝山、丸岡、金津、三国などへも福井から分苗され、多くの人命を救った。

(参考資料)吉村昭「雪の花」、吉村昭「日本医家伝」