「私説 小倉百人一首」カテゴリーアーカイブ

私説 小倉百人一首 No.91 後京極摂政太政大臣

後京極摂政太政大臣
※藤原良経

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
       衣方敷きひとりかも寝む

【歌の背景】晩秋の夜のひとり寝のわびしい思い、自然と人情との交感を感じさせる恋の歌。

【歌 意】こおろぎが鳴く、この霜降る寒い夜、寒そうな筵(むしろ)のの上に自分の着物だけを敷いて、またひとり寝の夜を過ごすのでしょうか。(心優しいあなたは、いつかきっと来てくださると信じています。)

【作者のプロフィル】藤原良経法性寺入道忠通の孫。九条兼実の二男。母は従三位藤原季行のむすめ。嘉応元年に生まれ、後京極殿・中御門院と称せられた。式部史生・秋篠月清などと号した。元久元年(1204)従一位、太政大臣となった。歌学を定家に、詩文を親経に学び、後鳥羽院に愛された。秀歌が多い。「新古今和歌集」の撰にも参加し、仮名序を書く。能書家としても知られる。建永元年(1206)38歳で急死。

私説 小倉百人一首 No.92 二条院讃岐

二条院讃岐
※二条院に仕えた讃岐という女官。

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の
       人こそ知らねかわく間もなし

【歌の背景】片思いを海中の石に見立てた、少し技巧的すぎるが、魅きつける力のある歌。

【歌 意】私の着ている衣の袖は、あの潮が引いた時にも現れない沖の石のようなもので、人は知ってはくれないけれど、片思いのつらい涙で乾く間もないのです。

【作者のプロフィル】二条天皇に仕えた讃岐という女官で、源三位頼政のむすめ。頼政は宮中の鵺(ぬえ)退治をしたという話で有名な武将だが、和歌もよくし風流の才にも富んでいた。そのむすめだけに彼女も歌才に優れ、また兄やいとこたちにも歌人がいた。当時、式子内親王と並び立つ女流歌人の第一人者だった。二条院が崩御後、藤原重頼と結ばれた。後鳥羽天皇中宮宜秋門院任子にも仕えたが、のち出家。建保5年(1217)ごろ、77~78歳で没

私説 小倉百人一首 No.93 鎌倉右大臣

鎌倉右大臣
※源実朝。鎌倉幕府第三代将軍。

世の中は常にもがもな渚こぐ
       あまの小舟の綱手かなしも

【歌の背景】漁夫の小船の綱手に興味を感じて詠んだものだが、実はこの世の無常を感じながら人生の永遠を願っている。しかし、やがて迎える悲劇的な死と重ね合わせてみると、悲痛な思いを感じさせる一首。

【歌意】世の中はいつも変わらないものであってほしい(死なないでいたいなあ)。そうすれば、いつでもこの浜辺に来て波打ち際を漕ぐあの漁夫の小船の引き綱が見られる。あの小船はなんと興味深い眺めだろう。

【作者のプロフィル】源実朝。頼朝の子。母は北条時政のむすめ政子。建久3年(1192)生まれ。兄頼家に次いで建仁3年(1203)12歳のとき鎌倉幕府第三代将軍となった。27歳で右大臣。承久元年(1219)甥の公暁に暗殺された。享年28歳。その短い生涯にもかかわらず、優れた歌を残している。当時の歌調に染まらず、万葉的な歌風が特徴。

私説 小倉百人一首 No.94 参議雅経

参議雅経
※藤原雅経

みよし野の山の秋風さよふけて
         ふるさと寒く衣うつなり

【歌の背景】その昔、離宮があり、天皇の行幸などもあった吉野の里の晩秋の夜のひなびた情趣の感じられる歌。

【歌 意】その昔、天皇の行幸もあった吉野だが、いまはそのようなことも久しく絶え、山から吹きおろす秋風の中、夜も更けた吉野の古い里に寒々とした、衣打つ砧(きぬた)の音が聞こえてくる。

【作者のプロフィル】藤原雅経は刑部卿頼経の子。母は顕雅のむすめ。建仁・建永のころ、越前介、加賀介を経て、左近衛少将となった。後鳥羽院の勅を受けて、定家らとともに「新古今和歌集」の撰者となった。承久2年に参議となり、同3年(1221)52歳で没。歌学を定家の父俊成に学び、飛鳥井家と称した。彼は多才で、和歌だけでなく、蹴鞠も名手で、兄宗長とともに有名であった

私説 小倉百人一首 No.95 前大僧正慈円

前大僧正慈円
※関白藤原忠通の子

おほけなくうき世の民にもおほふかな
            わが立つそまに墨染の袖

【歌の背景】慈円がまだ法印だった時に、僧侶として衆生済度の大任を果たせるかどうかという覚悟が、謙虚に表現されている歌。伝教大師、最澄の歌にならったものとみられる。

【歌 意】私は身のほど知らずにも、この比叡山に住みついて私の墨染めの袖を、つらくて悩み多いこの世の人々の上に覆いかけて、済度しようとしているのだ。

【作者のプロフィル】関白藤原忠通の子。久寿2年(1154)生まれ。11歳で延暦寺座主覚快法親王に師事し、14歳で出家した。初め道快と名のったが、のち慈円と改めた。吉水和尚ともいう。建久3年権大僧正、天台座主となり、前後4度も天台座主になる。若いころ西行に和歌を習った。その著「愚管抄」はわが国最初の史論。後堀河院の嘉禄元年(1225)9月、71歳で没。おくり名を慈鎮(じちん)という。

私説 小倉百人一首 No.96 入道前太政大臣

入道前太政大臣
※藤原公任

花さそふあらしの庭の雪ならで
       ふりゆくものはわが身なりけり

【歌の背景】権勢を誇り栄華を極めた藤原公経が「落花」を詠んだ歌。後半の「ふりゆくものはわが身なりけり」のベースには、小野小町の「花のいろはうつりにけりな いたづらに我が身世にふる ながめせしまに」の歌があり、とくに「我が身世にふる」の女人の嘆きを転じて男の感慨に変えたものとみられる。

【歌 意】花を誘うように春の嵐が吹き、花吹雪が舞い庭一面に散り敷く。ただ、降りゆくものは花吹雪ばかりではなく、(春はまた巡り花はまた咲くが)ふりゆく(年をとってゆく)ものは私の身なのだ。 

【作者のプロフィル】藤原公経。坊城内大臣実宗の二男。母は前中納言基家のむすめ。彼の妻が源頼朝の妹の夫である中納言能保のむすめのため政治力があった。承久の乱(1221)には幕府方を支持した。後堀川天皇が即位されるとすぐ内大臣となり、貞応元年(1222)8月太政大臣となった。従一位。寛元2年(1244)、74歳で没。西園寺家の祖。

私説 小倉百人一首 No.97 権中納言定家

権中納言定家
※藤原定家

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
       焼くや藻塩の身もこがれつつ

【歌の背景】内裏の歌合のとき、定家が恋人を待つ女の立場になって詠んだもの。掛詞・縁語の無理のない使い方、じりじりとした気持ちで人を待つものの心情を歌った明晰さ、調べの巧みさが感じられる。

【歌 意】いくら待ってもやって来ないあなたを待ち続け、ちょうどあの松帆の浦の夕なぎのころに、海女が焼く藻塩のように、わが身も焦がれるほどに(あなたに)恋い焦がれているのです。

【作者のプロフィル】藤原定家。五条三位俊成の子。母は若狭守親忠のむすめで、美福門院の女房で加賀といった。応保2年に生まれた。早くから歌学者および歌人として、後鳥羽上皇に重んじられ当代第一人者となった「新古今集」撰者の一人。貞永元年権中納言となり、後堀河天皇の勅命で、「新勅撰集」を選ぶ。天福元年剃髪し、明静と称し仁治2年(1241)8月80歳で没。死後、紀貫之とともに歌聖といわれた

私説 小倉百人一首 No.98 従二位家隆

従二位家隆
※藤原家隆

風そよぐならの小川のゆふぐれは
       みそぎぞ夏のしるしなりける

【歌の背景】寛喜元年(1229)藤原道家のむすめが後堀河天皇に女御として入内するときの屏風に書いた歌の一首。「みそぎ」は禊で、6月と12月の末日に行われたが、ここは6月の末日。旧暦では4・5・6月の3カ月が夏だから、この句は晩夏にあたる。

【歌 意】楢の木の葉が風にそよぐならの小川の夕暮れ時。あたりの風情はすでに秋がやってきたような気配だが、小川であのようにみそぎをしているのを見ると、まだ夏だったのだなあ、と思い知らされる。

【作者のプロフィル】藤原家隆のこと。正二位中納言光隆の子。母は太皇太后亮実兼のむすめ。保元3年(1158)生まれ。俊成に歌を学んだ。その歌才は素晴らしく、後鳥羽院の殊遇を受け定家と並び称された。元久2年(1205)には定家らと「新古今集」の撰者となった。嘉禎元年(1235)従二位に進み、壬生に住んだので「壬生の二位」といわれたが翌年出家して仏性と号した。同3年(1237)80歳でなくなった

私説 小倉百人一首 No.99 後鳥羽院

後鳥羽院
※第82代天皇

人もをし人も恨めしあぢきなく
       世を思ふ故にもの思ふ身は

【歌の背景】後鳥羽院は武家から政権を取り戻すことと、歌を作ることの二つに生涯を懸けた天皇だ。ただ、承久の乱の結果が示すように、天皇の政治上の画策は失敗した。この歌はその苦悶の生涯から自然に生まれた嘆きだ。憎い連中に対する怒り、思うようにならない世の中に対する嘆きが強烈に詠まれている。

【歌 意】世の中をつまらなく思っているので、いろいろと物思いする私は、愛しく思う人もあれば、恨めしく思う人もある。

【作者のプロフィル】第82代の天皇。高倉天皇の第四皇子。諱は尊成。御母七条院。治承4年7月14日生まれ。安徳天皇が平家とともに西国へ落ちられたので、寿永2年(1183)7月20日、4歳で即位。15年間の在位中も譲位後も武家からの政権奪回に腐心し、承久の乱の結果、隠岐に流され、19年の長い寂しい生活の後に、同地で延応元年(1239)2月22日、60歳で崩御。多芸多才、琵琶にも蹴鞠にも優れていたが、とくに歌人として著名。

私説 小倉百人一首 No.100 順徳院

順徳院
※第84代天皇

百しきや古き軒端のしのぶにも
       なほあまりある昔なりけり

【歌の背景】父、後鳥羽院とともに討幕を計って、政権を朝廷に取り戻そうと苦心した天皇の、古き良き昔(王朝の盛時=延喜・天暦の頃か)への生涯の夢が詠み込まれている。

【歌 意】大宮(皇室の御殿)の荒れ果てた古い軒端には忍ぶ草が生えている。それを見るにつけ、政権が王朝にあって皇室の盛んだった古き良き時代のことが偲ばれ、どんなに偲んでも偲び尽くせない。

【作者のプロフィル】第84代の天皇。後鳥羽院の第三皇子。御母は従二位藤原範季のむすめで修明門院重子。建久8年(1197)9月10日誕生。諱は守成。父後鳥羽院のご寵愛が深く、承元4年(1210)土御門院に代わって即位された。後鳥羽院とともに鎌倉幕府討伐を企て承久の乱後、佐渡へ流された。20余年後、仁治3年(1242)9月13日、46歳で崩御。武事、文事いずれにも優れ、早くから父君から歌の道を学ばれ、歌学にも通じており、「八雲御抄」は歌学史の重要文献。