「英傑・名将の知られざる実像」カテゴリーアーカイブ

荻原重秀・・・慶長金銀の改鋳で悪評生むが、経済通で日本初の財務官僚

 荻原重秀は出自こそ卑しかったが、大変な経済通で、恐らく日本で最初の政策官僚と呼ぶにふさわしい人物だった。とくに五代将軍徳川綱吉の後期に行われた通貨改革では、彼の発議と責任で「慶長金銀」の改鋳が行われ、後に悪評を生む原因となった半面、その高い見識と才能が遺憾なく発揮された。

 荻原重秀は荻原十助種重の二男で、父ももちろん勘定所の下役だった。重秀は1674年(延宝2年)、勘定所に出仕するようになり、150俵の給米をもらっている。1677年(延宝5年)、幕府は畿内一円の大検地を行うが、重秀はこの検地に派遣されて参加。また、1681年(天和元年)失政を問われて改易された、沼田城主真田信利の領地請取役として現地に出張している。こうした実績を積み重ねる中で、勘定方に荻原重秀ありという声は早くから高かったようだ。

 1695年(元禄8年)、幕府はそれまで通用していた「慶長金銀」を改鋳し、それに比べて金で約33%、銀で約20%品位の劣る「元禄金銀」を発行した。これは、荻原重秀の発議と責任で行われたものだが、この改鋳が後に重秀の悪評の原因となっている。というのも、この改鋳は重秀が銀座商人たちから賄賂をもらって行ったもので、幕府自身は出目(改鋳差益金)を稼いで、一時的に財政難をしのぐことができたが、庶民はそのために引き起こされた物価高に苦しんだ-といわれるからだ。実際のところはどうだったのか。

 本論に入る前に、理解を深めるために江戸時代の通貨制度を簡単にみておこう。江戸時代の基本通貨は金・銀・銭の三つだ。金は貴金属の金を主成分とした鋳造貨幣で、両・分・朱による四進法で計算されていた。銀は秤量(ひょうりょう)貨幣で、幕府の認可を得て銀座でつくった銀の塊を、秤で計ってそれを貨幣として使っていた。したがって、重さの単位の貫・匁が、貨幣としての銀の呼称単位に使われていた。銭は普通「寛永通宝」という名で知られている鋳造貨幣で、銅を主成分としており(鉄の場合もある)、貫文(かんもん)単位で計算されていた。

 金・銀・銭の三貨のうち金は主として関東を中心として東国圏で使われ、銀は京・大坂など上方を中心とした西国・裏日本で使われていた。銭は庶民が日常の買い物などに使う小額貨幣だった。この金・銀・銭はそれぞれ独立した通貨で、同一体系に組み込まれた通貨ではなかったため、これら三者の交換を円滑にするため毎日相場が立ち、その比率は絶えず変動していた。幕府は1609年(慶長14年)に金1両=銀50匁=銭4貫文という公定相場を決め、三貨がそのような相場で通用することが望ましいとしている。ただ、この公定相場は荻原重秀によって1700年(元禄13年)に金1両=銀60匁と改訂されている。

 江戸時代の通貨は、金は金座、銀は銀座、銭は銭座の特定の商人たちにその発行を請け負わせるのだ。彼ら鋳造請負人は分一(ぶいち)といって、鋳造高の何分の一といったように、一定の比率で手数料を取り、それが彼らの主たる収入になっていた。したがって、鋳造量が鋳造請負人ら商人の収入の多寡に直結していたことは確かだ。

 さて元禄の改鋳は、物価騰貴を引き起こして、果たして庶民の生活に大きな影響を与えたのだろうか。結論からいえば農民、職人、商人の生活より、厳しい影響を受けた階層があった。武士だ。武士は収入が固定していて増えないうえに、幕府の定めた規定に従って、その家禄に応じた数の家来を私費で養い、また下男・下女を一定数抱えて、家格相応の生活を保っておく義務があった。彼らの労賃が上昇しても、武家には商人・職人のようにそれを他に転嫁するところがなかったため、その被害をもろに受けたのだ。

 いずれにしても元禄の改鋳を終えた荻原重秀は、その功績もあって1696年、勘定奉行に栄進、2000石に加増され従五位下近江守に叙せられた。わずか150俵の給米取りの勘定方の下僚から出発した者としては破格の出世だった。

しかし、将軍綱吉が死亡、六代将軍家宣の代になると、事情が少し変わってくる。家宣は重秀の才能を認めていたが、執拗な重秀罷免運動に動く人物が出てきた。新井白石だ。重秀が行った銀の一方的な品位の切り下げは、上方に本拠を置く日本の巨大資本には我慢ならないことだった。そして、恐らくその意向(利害)を代弁したのが新井白石だったと思われる。1712年(正徳2年)、遂に重秀はその座を追われ、翌年死亡している。獄中で自殺したとも、殺されたとも、諸説あって定かではない。

(参考資料)堺屋太一「峠から日本が見える」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

第十三回 貝原益軒・・・ 『養生訓』は幸福な長寿を楽しむ人の大きな指標

 実証医学の祖といわれる貝原益軒。彼が今から300年ほど前、死の前年、実に84歳で書き著した『養生訓』は、高齢者問題が重大となってきた今日、幸福な長寿を楽しもうとする人々にとって、大きな指標となっている。

 『養生訓』には飲食物の食べ方、飲み方、体のいろいろな器官の働き、住まいや衣料のあり方、排泄から入浴の注意、病時の心得、医者の選び方、薬の飲み方、鍼灸の用い方から、高齢者や幼児の養い方に至るまで-今日でいう予防医学を内容として、心と体の安定法を懇切丁寧に説いている。

 とくに老年にある人の健康法として『養生訓』の多くの部分は、今日も役立つ。何よりも精神の平静を保つことに心がけること、日々楽しみを見つけて生きること、日常の起居に激動を避けながらも、体を動かすように努めること、大食しないこと、食事を淡白にすること、熱い湯には入らぬこと、少量の酒をたしなむこと、病気になってもいきなり薬をのまないこと-などは、多くの高齢者にあてはまる。

 益軒が『養生訓』を著した当時は、体は精神の奴隷みたいなもので、心さえしっかりしていればいいなどという考え方が横行した時代だ。そんな時代に益軒は一人の人間の命は大事である。絶対にこれが人間社会の基本である-といったわけだ。体を精神と同じレベルに持っていく。そして精神と体を一つにした、一人の人間の持って生まれた体を大事にして、どこまでも健康で長生きしていく。そして本当の幸福な老後というか、一生を送らなければならないという。益軒は人生の楽しみとして、健康と長生きと、人に気を使ったりしないで自由に生きること、この三つを挙げている。これが、いろいろな項目に分かれてかかれているのが『養生訓』なのだ。

 貝原益軒は江戸時代の本草学者、儒学者。筑前国(現在の福岡県)の福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれた。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。生没年は1630(寛永7年)~1714年(正徳4年)。

 福岡藩に仕えたが、二代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送る。三代藩主光之に赦される。藩費による京都留学で本草学や朱子学などを学ぶ。この頃、木下順庵、山崎闇斎、松永尺五らと交友を深める。帰藩後、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂した。

 益軒は幼少の頃から読書家で、非常に博識だった。ただし、書物だけにとらわれず、自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていた。
 70歳で役を退き、著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』『和俗童子訓』『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。
 
(参考資料)貝原益軒/松田道雄訳「養生訓、」杉靖三郎「日本史探訪/国学と洋学」

清河八郎・・・傲慢な性格が権謀術数に頼らせ、志半ばで死を招く

 清河八郎の元の名は斎藤元司だ。生国の出羽国庄内藩領清川村(現在の山形県東田川郡庄内町)に因んで、清河八郎を名乗ったのだ。同じように生国に因んで名乗った雲井龍雄とともに、東北から出た維新前夜の傑物だった。清河八郎の生没年は1830(天保元)~1863年(文久3年)。
 清河八郎は出羽国庄内藩領清川村の郷士の斎藤豪寿の子として生まれた。幼名は元司。諱は正明、本名は斎藤正明。贈正四位。

 1843年(天保14年)、八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事し、勉学に勤しんだ。14歳のときのことだ。1846年(弘化3年)には後の天誅組総裁、藤本鉄石と会い親交を深めた。1847年(弘化4年)、18歳のとき江戸に出て古学派の東条一堂に師事。才を認められて東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。安積艮斎の塾へ、転塾。その傍ら、北辰一刀流の開祖、千葉周作の玄武館で剣を磨き、免許皆伝を得、江戸幕府の学問所、昌平○でも学んだ。その後、1854年(安政元年)、当時ここだけという、学問と剣術を一人で教える、清河塾を開設した。

 話は前後するが、清河八郎は1848年(嘉永1年)、東海道から京都・大坂を経て山陽地方を歩き、1851年(嘉永3年)には北陸路から中国・九州、1854年(嘉永6年)には奥州から蝦夷地を経て、常野房総の各地を遊歴。1861年(文久1年)には京都から九州、土佐にかけて遊説したのだ。この間における各地の地理的風俗の見聞や志士たちとの交際によって、彼が風雲児といわれるまでの骨格が形成されたとみられる。

 八郎が交わった人物の一部をみると、江戸では幕末の三舟で知られた山岡鉄舟、高橋泥舟、大和天誅組の安積五郎、京都では寺田屋事件の田中河内介、九州では熊本の河上彦斎、松村大成、筑前の平野国臣、筑後久留米の真木和泉守、薩摩の伊牟田尚平、越後の本間精一郎、土佐では間崎哲馬ら、ひとくせある人物ばかりだった。

 万延年間、時勢が切迫し清河八郎の塾を訪れる諸藩の志士たちとの往来が激しくなり、八郎のもとで同志が会合することも多く、その行動について幕府からも目を付けられていた。そして、偶然にも八郎が町人を無礼討ちにしたことから、幕府の捕縛の手がのびてくる結果になった。遂に八郎は公儀のお尋ね者となってしまった。

 幕吏の手が回ったのを知ると、清河八郎はすぐに山岡鉄舟、高橋泥舟の力添えで東北から越後、甲州路を経て京都に入り、志士たちの「伏見の挙兵」計画に参加し九州路への遊説に向かった薩摩の島津久光を擁して大芝居を打とうという計画だったが、「寺田屋騒動」が起こり、失敗に終わった。そこで、東国に引き返し、まもなく組み立てたのが幕府を煽り、「浪士組」を募集するという策だ。
 ひょうたんから駒ではないが、尊皇攘夷の志士に手を焼いていた幕府は、八郎が上申した策を採用し、「浪士組」募集が聞き届けられるとともに、八郎は自由の身となったのだ。ところが、予想外のことが起こった。ひとまず50名だけ尊王攘夷の浪士を募り京都へ上らせようという計画に対し、234人もの応募があり、幕府も面食らった。幕府の予算は1人宛に50両、50人で2500両ということだった。そのために予算面で大きな狂いが出てしまった。

しかし、1863年(文久3年)、ひとまず将軍(十四代将軍徳川家茂)上洛の前衛警護の目的で、八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷の先鋒にあると説いた。これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らだった。彼らは八郎と袂を分かち、壬生浪士となり、後に、新選組へと発展していった。近藤らを除く200名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て、幸運にも受理された。

 こうした浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻す。八郎は江戸に戻った後、浪士組を動かそうとするが、京都で幕府と対立していたため、狙われていた。彼は幕府側の意を体した刺客、佐々木只三郎、窪田泉太郎など6名によって、麻布一ノ橋で討たれ首を斬られた。北辰一刀流、千葉周作道場の免許皆伝の腕前も、覚悟を決めた6人を相手にしては敵わなかった。享年34。
 幕末~維新にかけて、浪人志士には様々な人物がいた。だが、いずれも薩摩や長州など大藩の力を借りて志を述べている。そうするより他はなかったのだ。例えば真木和泉は長州藩を頼り、坂本龍馬は薩摩と長州の両藩を頼り、平野国臣は薩摩藩を頼っている。ただ一人、ここに取り上げた清河八郎だけが、どこの藩にも頼らない。ほんのしばらく薩摩藩に頼ろうとしたが、すぐやめている。彼は傲慢に過ぎたのだ。頭を下げることが嫌だったのだ。権勢に対する飢餓感がありながらだ。よほど傲慢だったと言わざるを得ない。

 あの時代、強力な背景なしに、志を述べようとすれば、勢い権謀術数に頼らざるを得ない。しかし、大きなバックボーンを持てない清河八郎は、そのために人の警戒心を呼び、思惑通りに事が運ばず、志を成就することなく死んだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、藤沢周平「回天の門」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「幕末」

後藤象二郎 幕府に大政奉還を建白した功績大だが、尻すぼみの人生

 後藤象二郎は幕末、土佐藩前藩主・山内容堂の信任を受けて、坂本龍馬が立案した新国家構想「船中八策」をもとに1867年10月3日、「大政奉還」を幕府に建白、土佐藩の存在感を示した。当時は薩長両藩が武力倒幕を画策しており、龍馬が考え出した、血を見ずに革命を実現させる大政奉還は、薩長両藩を出し抜く、まさに妙案だった。将軍慶喜は同年10月13日、諸藩の重臣に大政奉還を諮問、翌日朝廷に奏上し、ここに徳川幕府による政治が終わりを告げたのだ。

ここに取り上げる後藤象二郎は、その新しい歴史の一ページを開く突破口をつくったわけだ。
 後藤象二郎は土佐藩の上士、馬廻格・後藤助右衛門(150石)の長男として、高知城下片町に生まれた。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、幼名・保弥太、のち良輔。雅号は暢谷。幼いときに父と死別、少年期に叔父(姉婿)の吉田東洋に養育され、その小林塾で学んだ。後藤の生没年は1838(天保9)~1897年(明治30年)。

 1858年(安政5年)、後藤は東洋の推挙により、幡多郡奉行、1861年(文久元年)には御近習目付、その後は普請奉行として活躍する。ところが、出世の道筋をつけてくれた東洋が、土佐勤王党に暗殺されると失脚。しかし1863年(文久3年)、藩政に復帰し、前藩主・山内容堂の信頼を得るとともに、江戸の開成所で蘭学や航海術、英学も学んだ。1864年(元治元年)、大監察に就任した。こうして後藤は、公武合体派の急先鋒として、土佐勤王党の盟主、武市半平太(武市瑞山)らを切腹させるなど、土佐勤王党を弾圧した。
 1867年(慶応3年)、政治姿勢を攘夷論に転換。尊皇派の坂本龍馬と会談し、龍馬の提案とされる「船中八策」に基づき、第十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還を提議。これを山内容堂にまで上げ土佐藩の藩論とし、あの歴史的役割を演じることになるのだ。

 後藤の生涯を語るとき、やはり一際、異彩を放っているのがこの時期だ。この時期の土佐藩や国政に関わった功績だ。後藤が龍馬の大政奉還策を容堂に進言し、藩論として仕上げ、大政奉還の実現に寄与したことは紛れもない事実だ。ただ、彼はこの大政奉還策が龍馬の発案である旨を述べなかったことから、龍馬の功績を横取りしたという汚名を被っている部分もある。

しかし、後藤の立場に立って考えると、度し難い身分格差のある土佐藩にあって、下士出身で、脱藩罪まで犯している龍馬より、上士の自分の名で提議した方が、容堂も取り上げ、この策を実現しやすいと考えたのではないか。とすると、後藤が龍馬や容堂、慶喜のパイプ役を担って、明治維新への原動力となった点を考慮すれば、十分評価に値する。
 後藤は維新後、政府に入り参与・外務掛・工部大輔・参議を歴任するが、征韓論をめぐる政変で西郷隆盛、板垣退助らとともに退官。翌年、板垣と民選議院設立を建白し、憲政史上に一期を画した。その後、黒田清隆内閣、第一次山県有朋内閣、第一次松方正義内閣で第二代逓信大臣を、そして1892年、第二次伊藤博文内閣で第十代農商務大臣を務めた際に、取引所設置問題に不正ありとされ、弾劾された。

以降は再起の機会に恵まれなかった。自由民権運動や実業界へ転身しても、幕末期のあの“輝き”は完全に失ってしまっているのだ。とにかく活動に一貫性がない。とくに自由民権運動では政府の買収に応じるなど、自由民権運動の活動家を何度も失望させ、彼の評価を下げる一因となっている。
奈良本辰也氏は後藤について、終始策士としてあり続けた男で、生涯を通じて醜聞がつきまとい、第一級の政治家として終わりを全うすることはできなかった。凄腕、切れ者の評価は勝ち得たけれど、大看板にはなれなかった-としている。

もちろん、後藤に限らず維新の元勲たちに中にはカネにルーズで、ダーティなイメージの持たれている人物も少なくない。だが、彼が維新後、岩崎弥太郎への利益供与と同等の、不明朗な仕置きなどを含め、そうした部分を差し引いても特筆される事績を残せなかったからなのか、いわゆる“尻すぼみ”の印象は拭えない。このため維新の元勲の中では知名度も低く、評価も高くない。徳川慶喜に大政奉還を建白したときのあの“熱”や“覇気”はどこへいったのか。惜しい気がする。

(参考資料)奈良本辰也「日本史の参謀たち」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、豊田穣「西郷従道」

海保青陵・・・近代日本の先駆的経済学者で藩・経営コンサルタント

 海保青陵は江戸時代後期の経世家、あるいは今日風に表現すれば、さしずめ藩・経営コンサルタントだ。武士、それも藩家老の長子として生まれながら、家督を弟に譲り、生涯の大部分を諸国を遊歴、見聞を広めながら、絶えず自己を自由な境涯に置いて独自の思想を展開し、近代日本の先駆的思想家・経済学者として注目される人物だ。海保青陵の生没年は1755(宝暦5)~1817年(文化14年)。

 海保青陵は丹後宮津藩・青山家の家老、角田市左衛門(青渓、家禄500石)の長子として江戸で生まれた。名は皐鶴(こうかく)、字は萬和(まんわ)、通称儀平、青陵は号。青陵の父と当時の藩主・青山幸道は従兄弟にあたっていたため、父は藩の勝手掛という重職に就き、藩財政の立て直しに努力したが、藩に内紛が起こったことで、隠居せざるを得なくなり、1756年(宝暦6年)数え年2歳の身で、青陵が家督を相続した。

 2年後、藩主が美濃郡上藩に移封になると、一家は暇願いを出し、浪人の身となった。但し、青陵の父は彼が生きている限り青山家から20人扶持に金100両ずつ毎年送られてくることになっていたので、一家が困窮することはなかった。

 青陵は荻生徂徠の弟子、宇佐美潜水に学んだ。その後、家督を弟に譲り、曽祖父の姓である「海保」の姓を名乗った。蘭学者、桂川甫周とも交流を持ち、30~52歳の間、江戸、京都を中心に諸国を遊歴し見聞を広めた。彼はとくに経済に関心があった。彼は、商人が社会の最劣位に置かれていることに、不合理なものを感じていた。

彼に言わせれば、天皇と公卿や藩主と家臣の関係もすべて市道ではないか-ということになる。市道とは売りと買い、すなわち商行為のことだ。つまり、君臣の関係を例にみれば、家臣は忠誠心を切り売りして、君主から俸禄をもらうのだから、その間には一種の契約関係があるという見方だ。こういう観点に立てば、商人の行っている商行為も、それほど悪しざまにいわれることはない。品物を通して、売りと買いが成立しているのだから、卑しめられることは全くない-というのが彼の考え方だった。

したがって、そうした商行為を行う商人を蔑むというのは筋が通らない、道理に合わない、ということになる。青陵の出身は宮津藩の家老の家だ。それだけに、自らの立場を擁護することなく、分け隔てのない、こうした考え方は当時としては随分先に進んだものといわざるを得ない。

そして、青陵は現実を直視した貨幣経済による産業政策振興を唱え、各地で諸侯・豪農層に自らの富藩論を啓蒙し、経営コンサルタント的なことを行った。藩営商業論を積極的に説き、具体例として江戸時代文化期に加賀藩などで藩交易を主とした富藩政策を展開し、積極的な領外への産物輸出によって富藩を実現しようと試みている。また、天保期には長州藩の村田清風の産業政策にも青陵の影響がうかがわれる。海保青陵の説は「経済」を、「士農工商」の儒教世界から解放したという意味で、心ある商人たちを大いに励ました。

 青陵は、晩年は京都に腰を落ち着け、著述業に専念した。著書に『稽古談(けいこだん)』『前識談』『洪範談』『老子国字解』『文法披雲』など20数作品がある。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸のビジネス感覚」

久坂玄瑞・・・幕末の長州藩の尊攘運動を主導した、松下村塾の秀才

 久坂玄瑞(くさかげんずい)は松下村塾にあって、高杉晋作と並び称された秀才で、幕末の長州藩の尊攘運動の先頭に立って藩を導いたが、「禁門の変(蛤御門の変)」で一軍を指揮するうち膝に弾丸を受けて、鷹司邸内で同じ「松下村塾」の塾生だった寺島忠三郎とともに自刃した。24歳の若さだった。生没年は1840(天保11年)~1864年(元治元年)。

 長門国萩平安古(現在の山口県萩市)に藩医、久坂良迪(りょうてき)と富子の三男として生まれた。幼名は秀三郎、諱(本名)は通武(みちたけ)、のち義助。号は江月斎、玄瑞。両親が歳を取ってから生まれたため、両親の愛情を一身に受けて育った。家業である医学を勉強するため藩校医学所「好生館」に入学した後、藩校「明倫館」に入学。前途洋々のはずだった。

ところが、久坂玄瑞の人生はこの後、暗転。1853(嘉永6)年から1854年(嘉永7年)にかけて母、兄(玄機=げんき)、父が相次いで亡くなり、玄瑞はわずか15歳にして家督をつぐことになった(次男は玄瑞が生まれたときにはすでに死亡していた)。それと同時に名前を「玄瑞」と改めている。

 1856年(安政3年)、17歳のとき藩に願い出て九州に3カ月間遊学。吉田松陰の親友だった肥後の宮部鼎蔵を訪ねた際、松陰に学ぶことを奨められ、初めて生涯の師となる松陰の名を耳にする。帰藩後、吉田松陰に手紙を書き、松陰と書簡のやり取りを行い、その1年後、18歳となった玄瑞は松下村塾へ入塾し、松蔭の薫陶を受けることになった。このことが玄瑞のその後の人生の方向を決定づけることとなった。

 吉田松陰は久坂玄瑞を「防長(防府・長州)第一流の人物」と高く評価し、高杉晋作と競わせて才能を開花させるよう努めた。松下村塾においては、高杉晋作の「識」、久坂玄瑞の「才」と並び称された。松陰は自分の一番下の妹との結婚を玄瑞に勧めた。松蔭がいかに玄瑞に期待していたか、そんな気持ちの表れだ。1854年(安政4年)、玄瑞は松蔭の妹、文と結婚した。玄瑞18歳、文15歳のことだ。

 1858年(安政5年)、江戸と京都に遊学。安政の大獄により、義兄でもあった師・吉田松陰が刑死。この後、玄瑞は無念の死を遂げた松蔭の遺志を継ぐかのように、長州藩尊攘運動の先頭に立ち、日米修好通商条約を締結、安政の大獄を引き起こした幕政を批判し、他藩の志士と交わるなど活発に活動するようになった。

長州藩が長井雅楽の幕府寄りの公武合体政策、「航海遠略策」を採択したため、玄瑞はこれを激しく弾劾し、1862年(文久2年)同志と長井雅楽暗殺を企てた。また同年、高杉晋作らと攘夷血盟を行い、「御楯組」を結成。攘夷督促の勅使が東下した際には自らも江戸へ赴き、高杉晋作、伊藤博文らとイギリス公使館焼き討ち事件を起こした。

 このころ久坂は「玄瑞」から「義助」に改名。1863年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、「八月十八日の政変」による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して、木戸孝允らとともに長州藩の失地回復に努めた。

1864年(元治1年)、その後の長州藩の方向を決定づけることになった禁門の変に参加。久坂義助は指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ参戦。一軍を指揮するうちに膝に弾丸を受け負傷。鷹司邸内で、松下村塾で同じ塾生だった寺島忠三郎とともに自刃した。明治維新に向けた戦いの最中、“道半ば”やり残したことがまだまだある、あっけない最期だった。

(参考資料)古川薫「花冠の志士 久坂玄瑞」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

小松帯刀・・・幕末、28歳で薩摩藩家老職を務め、藩政をリードした英才

 小松帯刀(こまつたてわき)は、幕末の薩摩藩の藩主後見人・島津久光の側近、そして若き家老として幕末動乱期の薩摩藩運営を担当、また大久保利通らとともに藩政改革に取り組んだ。惜しくも35歳の若さで亡くなったが、西郷隆盛や大久保利通らの上席にいた人物だけに、健在なら明治維新政府の中で一定の地位を占め、今日に何か足跡を残したに違いない。小松帯刀の生没年は1835(天保6)~1870年(明治3年)。

 小松帯刀は薩摩国鹿児島城下の喜入領主・肝付兼善(5500石)の三男として生まれた。通称は尚五郎。1856年(安政3年)、指宿・吉利領主の名門、小松清猷(2600石)の跡目養子となって家督を継承し、清猷の妹千賀(お近)と結婚した。1858年(安政5年)、帯刀清廉(たてわききよかど)と改名した。肝付尚五郎は、後に徳川十三代将軍家定の正室となった篤姫(天璋院)や篤姫の兄、島津忠敬らとともに吉利領主の小松清猷から学問を学んだとされるが、篤姫と肝付尚五郎の接点を示す史料は残されていない。

 名君といわれた藩主島津斉彬が急死した後、小松帯刀は1861年(文久元年)、藩主後見人・島津久光に才能を見い出されて側近となり、大久保利通とともに藩政改革に取り組んだ。1862年(文久2年)には久光による上洛に随行し、帰国後には28歳という若さで家老職に就任した。薩英戦争後、集成館を再興して、とくに蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都に駐在し、久光の意向を汲んで公武合体を念頭に、主に朝廷や幕府諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。参与会議等にも陪席した。他方で、御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などの要職を兼務するなど藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校開成所を設置した。

 1864年、禁門の変では幕府から出兵を命じられるも、当初は消極的な態度を示した。だが勅命が下されるや、小松は薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。禁門の変後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。

 また、勝海舟から土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬とその塾生の面倒をみてくれと頼まれたのがきっかけで、龍馬と昵懇となり、亀山社中(後の海援隊)設立を援助したり、その妻お龍の世話をしている。
 1866年(慶応2年)、京都二本松の小松邸で龍馬の仲介のもと、小松帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と桂小五郎の長州藩が会談。全六箇条からなる「薩長同盟」が成立した。翌年には薩摩藩と土佐藩の盟約、「薩土同盟」を成立させるなど、小松はいかんなく外交手腕を発揮した。

 1867年、大政奉還発表の際、小松は薩摩藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。この頃から小松は痛風もしくは糖尿病と考えられる病魔に侵されていたようだ。

 明治維新後、小松はその交渉能力を評価されて明治政府の参与と総裁局顧問の公職を兼務したほか、外国事務掛、外国事務局、判事などを兼務した。総裁・議定(ぎじょう)・参与は三職と呼ばれ、明治政府の中央政治機構の重要な官職だった。

 1869年、病気のため官を辞し、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けることに専念した。しかし病状は悪化、すでに手遅れの状態だった。そのため、将来には総理大臣をも嘱望されながら、薩摩の英才・小松は志半ばで、わずか35年の生涯を閉じた。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、宮尾登美子「天璋院篤姫」

川路聖謨・・・幕府と武士道に殉じた幕末を代表する外交官の一人

 1853年(嘉永6年)、開国・通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎にやってきた際、ロシア使節と事実上、交渉を行ったのが、勘定奉行・露使応接掛を命ぜられた川路聖謨(かわじとしあきら)だ。川路の任務は重かった。領土問題から開国問題まで一身に背負っていた。単なる随行員の一人ではないのだ。川路は北方領土に対する主張を堂々と述べて、一歩も退かぬ気概を示し、プチャーチンと渡り合った。また、開港に関してもその時期を数年後というあいまいなまま最後まで譲らず、優柔不断な幕閣・老中たちの時期引き延ばしの考えに沿って、ロシア側の開国要求を退けた。これだけ、幕府に貢献した川路だったが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に嫌われて、幕府の要職から追放され隠居差控となるなど不遇だった。

 川路聖謨は幕末を代表する外交官の一人だ。幕末、海外の列強が開国・通商を求めて日本へやってきた。それだけに、外交官の力量次第でその結果は大きく異なってくるのだ。現実に川路がロシア側の要求を退け、江戸への帰路、幕府がアメリカのペリーの開国要求に屈したことを彼は聞いている。同じ幕命を帯びて交渉に臨んでも、交渉役の力量次第で不首尾に終わることがあることを幕閣は痛感したことだろう。アメリカ・ペリーとの交渉が如実に物語っている。

 では、川路聖謨のどのような点が優れていたのだろうか。ロシアのプチャーチンとの交渉の様子をゴンチャロフが描いている。それによると、川路は非常に聡明だった。彼は私たち(ロシア)に反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのだが、(私たちには受け容れがたい。)それでもその人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の発する一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識とウィットと練達を示していた。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある-と記している。川路は交渉相手にこれだけの評価を得ていた人物だったのだ。

 川路聖謨は江戸末期の旗本。豊後国(現在の大分県)日田で、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。官位は従五位下左衛門少尉。号は敬斎、幼名は弥吉。1812年(文化9年)、12歳で小普請組の川路三左衛門の養子となった。翌年元服して萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。その後、勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏からスタートし、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となった。その後、寺社奉行吟味調役として寺社奉行所に出向。このとき仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格。その後、佐渡奉行を経て、幕府老中、水野忠邦時代の小普請奉行・普請奉行として御改革に参与した。このころ、名を萬福から聖謨に改めた。

 川路は江川英龍や渡辺崋山らとともに尚歯会に参加し、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷された。奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、「神武御陵考」を著して朝廷に報告している。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させたといわれる。

 1854年(安政元年)、下田で日露和親条約に調印。1858年(安政5年)には堀田正睦に同行して日米修好通商条約を調印。井伊直弼が大老に就任すると、西丸留守居役に左遷され、さらに翌年その役も罷免されて隠居差控を命じられた。1863年(文久3年)、勘定奉行格外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満を募らせ、病気を理由にわずか4カ月で役を辞した。

 引退後は中風による半身不随や弟、井上清直の死など不幸が続いた。1868年(慶応4年)、勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞き、自決を決意した。その日、川路は妻を用事に出した後、浅く腹を斬り、拳銃で喉を撃ち抜いて果てた。拳銃を用いたのは半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。

 川路は要職を歴任したが、別に閣老に列したわけではなく、生涯柔軟諧謔(かいぎゃく)の性格を失わなかったのに、見事に幕府と武士道に殉じた。徳川武士の最後の“花”ともいうべき凄絶な死に方だった。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」

栗本鋤雲・・・維新政府の出仕要請を固辞、幕臣の矜持を貫いた多才の人

 幕末期の幕臣、栗本鋤雲(くりもとじょうん)は幕府の昌平坂学問所に学び“お化け”といわれるほどの秀才だったが、維新後も政府からの出仕要請を固辞。幕臣の矜持を貫き通した人物だ。生没年は1822(文政5)~1897年(明治30年)。

 栗本鋤雲は幕府の典医を務めていた喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男として生まれた。名は鯤(こん)。初名は哲三(てっさん)。瑞見。通称は瀬兵衛。1830年(文政13年)9歳のとき、安積艮斎の塾に入門。1843年、幕府の昌平坂学問所に入学し、校試において優秀な成績を修め褒賞を得ている。また、多紀楽真院、曲直瀬養安院のもとで医学と本草学を学んでいる。

1848年、17歳のとき奥医師・栗本瑞見の養子となり、六世瑞見を名乗り、家督を継ぎ、次いで奥医師となった。安政年間、医学館で講書を務めており、各年末には成績優秀により褒美を与えられている。このままゆけば、ずっと医師のコースを進み、法眼か法印ぐらいまで出世する、はずだった。

 順風満帆だった鋤雲だが、思いもかけない“蹉跌”が訪れる。1855年(安政2年)34歳のとき、オランダから献上された幕府蒸気船観光丸の試乗に応募したことから「漢方を旨とする奥詰医師が西洋艦に乗りたいとは不届き」と時の奥詰医長の咎めを受けたのだ。そして遂には侍医から追われて一時謹慎。1858年(安政5年)、蝦夷地在住を命じられて、函館に赴任することになったのだ。左遷だ。37歳のときのことだ。以後、鋤雲は函館で医学院の建設、薬園経営に尽力した。ただ、すぐその実力を認められて1862年、箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられた。

1863年、思いもかけない転機が訪れる。探検から戻ると幕府から即座に江戸へ戻るよう命令が出る。幕府も箱館における鋤雲の功績を評価していたため、昌平坂学問所の頭取、目付に登用された。鋤雲は箱館時代、フランス人宣教師メルメ・ド・カションと親交を結んだほか、フランス駐日公使ロッシュの通訳を務める人物と面識があったため、その経緯からロッシュとも仲が良くなった。上司の指示でメルメ・ド・カションに日本語と日本の書物の読み書きを教え、同時にカションからフランス語の伝授を受けたのだ。そのため幕府よりフランスとの橋渡し役として外国奉行に任じられる。そこで鋤雲は幕府による製鉄所建設や軍事顧問招聘などに尽力している。

また、彼は徳川昭武一行がパリで開催された万国博覧会の視察に訪れたときには、その補佐を命じられフランスに渡った。そして、そこで日本の大政奉還と徳川幕府の滅亡を知った。
 ヨーロッパにいた留学生をまとめ、引率して日本へ帰ったのが1868年(明治元年)の5月だった。幕府はすでになくなっている。47歳の鋤雲は隠退の道を選んだ。新政府からどんなに求められても官職には就かなかった。幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があるとの思いからだった。鋤雲とはそんな人物だった。

 1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌年『郵便報知新聞』に編集主任として招かれた。この『郵便報知新聞』が維新後の鋤雲の、控えめな活動の舞台だった。月給150円。主筆を務めたこともあるが、自分はもっぱら文芸欄を担当、早いうちに主筆のポストを藤田茂吉に譲って一記者に戻った。主に随筆を書いて、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北、福地桜痴らとともに、当時の新聞界を代表するジャーナリストとして声名を馳せた。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、大島昌弘「小栗上野介 罪なくして斬らる」

小村寿太郎・・・幕末以来の不平等条約解消、関税自主権回復に尽力

 小村寿太郎は外務大臣として、日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議の日本全権として、ロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。また、幕末以来の不平等条約を解消するために尽力、1911年に日米通商航海条約を調印し、関税自主権回復による不平等条約の完全撤廃を実現した人物だ。生没年は1855(安政2)~1911年(明治44年)。

 小村寿太郎は日向国飫肥(おび、現在の宮崎県日南市)藩の下級武士の子として生まれた。1870年、大学南校(東京大学の前身)入学。第一回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学、法律を学んだ。帰国後、司法省に入省した。小村25歳のときのことだ。ただ、司法官時代の小村は英語ができるだけの無能な男と評価されていた。また、職務を離れると大酒を飲み女遊びが激しかった。

大審院判事を経て、明治17年、外務省へ転出。小村29歳だった。その頃の小村は父から相続した多重債務と、美人だが家事などは一切できないわがままな妻のヒステリーに悩まされ、精神的に荒んだ時期を過ごしていた。小村の月給150円に時代に、彼の父の負債額は未払い利息を含めて1万6000円にも達していた。

ところが、不遇の連続だった小村だが、幸運にも時の外務大臣、陸奥宗光の目にとまる。1893年(明治26年)、清国日本公使館参事官に抜擢されたことにより、ようやく小村の活躍が始まった。清国代理公使を務め、日清戦争の後、駐韓弁理公使、外務次官、駐米・駐露公使を歴任。1900年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。

 1901年(明治34年)、小村は46歳という若さで第一次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張し、回避不可避と考えられていた日露戦争に対する備えをした。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年、ポーツマス会議の日本全権としてロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。日露戦争開戦当初、日本は有利に戦いを進めることができたものの、圧倒的な軍事力を誇るロシアに対して長期戦になった場合、日本の国力ではやがて形勢は逆転することは必至と判断した小村は、早くからロシアとの講和の必要性を説いた。しかし、緒戦での戦勝で日本が優勢にある状況下での講和は弱腰外交と受け取られ、受け入れてもらえず非難を浴びる。それでも小村は自らの信念を貫き、講和条約調印にこぎつけた。一筋繩ではいかない相手とのハードでタフなネゴだったが、これによって小村は優れた外務官僚としての評価を得た。ただ、その後アメリカの鉄道王ハリマンが日本に、満州における鉄道の共同経営を提案した際、首相や元老らの反対を押し切って拒否した。この件については評価の分かれるところだ。

 小村は1908年成立の第二次桂太郎内閣でも外務大臣に再任され、後世に名を残す役割を果たす。幕末、列強との間で締結した不平等条約の解消に取り組むことになったのだ。明治期の為政者の長年の懸案だった条約改正の交渉を行い、1911年、日米通商航海条約を調印し、関税自主権の回復を果たした。また、日露協約の締結や韓国併合にも関わり、小村は一貫して日本の大陸政策を推し進めた。

(参考資料)吉村昭「ポーツマスの旗」