「英傑・名将の知られざる実像」カテゴリーアーカイブ

伊達宗城・・・蘭学に傾倒した開明派で、軍制の近代化に着手

 伊達宗城(だてむねなり)は開明派の第八代宇和島藩主で、七代藩主宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。また、開明派のこだわりがそうさせるのか、幕府から追われ江戸で潜伏していた蘭学者・高野長英を招き、さらに長州より村田蔵六(後の大村益次郎)を招き、軍制の近代化にも着手した。生没年は1818(文政元)~1892年(明治25年)。

 伊達宗城は大身旗本・山口直勝の次男として江戸で生まれた。母は蒔田広朝の娘。正室は鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩第五代藩主・伊達村候の次男で、山口家の養嗣子となった人物だ。宗城の幼名は亀三郎。1827年(文政10年)、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となった。1828年(文政11年)、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、翌1829年(文政12年)、なかなか嗣子と成り得る男子に恵まれない藩主宗紀の養子となった。宗紀の五女・貞と婚約し、婿養子の形を取ったが、貞は早世してしまい婚姻はしなかった。

 宗城は1844年(天保15年)、宗紀の隠居に伴い藩主に就任した。宗城は福井藩主・松平慶永(隠居後、春嶽)、土佐藩主・山内豊信(隠居後、容堂)、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、「幕末の四賢候」と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。ところが、阿部正弘が急死し、事態は一転、四賢候ら開明派大名と幕閣との距離は一気に遠くなる。

1858年(安政5年)、第十三代将軍家定の将軍後継問題で対立する立場の井伊直弼が大老に就いたからだ。紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す井伊に対し、一橋慶喜を推した四賢候、水戸藩主・徳川斉昭らは真っ向から対立。井伊は大老の地位を利用し強権を発動、結局、慶福が十四代将軍・家茂になることになり、一橋派は排除された。いわゆる「安政の大獄」だ。これにより宗城は春嶽、斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。

 先代の宗紀は隠居後に実子の伊達宗徳をもうけており、宗城は宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、1862年(文久2年)、生麦事件の賠償金支払いに反対している。また島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。

 1867年(慶応3年)、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし、1868年(明治元年)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りだったので薩長の行動に抗議、新政府参謀を辞任した。1869年(明治2年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のため英国からの借款を取り付けた。

 宗城は長州から村田蔵六を招き、医学しか知らなかった彼にオランダ語の専門書を翻訳して、船を設計するよう命じた。一方で、和船に大砲を積んで砲撃実験を始め、さらに黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せ、研究させた。肝心の蒸気機関は、城下にいた嘉造(後の前原巧山)という提灯屋の男を抜擢して、製作を命じた。藩を挙げての試行錯誤の末、遂に実験的な蒸気船が完成した。黒船来航からわずか3年後のことだ。一般には外国人技師を雇った薩摩藩の船が日本初の蒸気船とされているが、宇和島藩の船は日本人だけでつくった蒸気船の第一号だった。

(参考資料)司馬遼太郎「伊達の黒船」、司馬遼太郎「花神」、吉村昭「長英逃亡」

長井雅楽・・・幕末、一時は国論をリードするが挫折、不当に低い評価

 長井雅楽(ながいうた)は、幕末の長州藩にあって一時期、直目付(じきめつけ)の要職を務めるとともに、「航海遠略策」を建白して朝廷や幕府にも歓迎され、国論を開国に導こうとしたほどの傑物だ。ところが、当時、予想以上に激しさを増していた尊皇攘夷派と対立。その後、幕府の公武合体派老中らの失脚で、追い詰められ孤立。そして、時代の流れは彼に全く味方せず、悲しいことに最終的に長州藩の奸臣として切腹を命じられ、散った。享年45だった。

 司馬遼太郎氏は、「幕末の長州藩は多彩な人物を出したが、その中で長井雅楽を超えるほどの人物は容易に見あたらない。それほどの人物が時代の狂気に圧殺されたというか、実に困った死を遂げる」と記している。そして、長井について「非常な秀才で堂々たる美丈夫でもあり、人物も重厚で、しかも見識の高さは及ぶものがない」と絶賛している。そのため、藩では彼を抜擢し周布政之助という秀才官僚とともに、藩の対外政策面での推進者にした。長井は長州のホープのように期待され、桂小五郎(後の木戸孝允)なども水戸藩の志士に「わが藩は長井・周布という優れた両翼を持っている」と自慢したほどだった。

 長井雅楽は萩藩士大組士中老、長井次郎右衛門の長男として生まれた。諱は時庸、通称は雅楽のほか、与之助、与左衛門など。長井の始祖は、鎌倉幕府を支えた大江広元の次男で、主家の毛利家はその四男だったという。つまり、長井家の始祖は、主家と同格だというわけだ。したがって、長井家は毛利家臣団の中でも名門中の名門で、長井自身、藩主の信頼厚い重臣だった。長井の生没年は1819(文政2)~1863年(文久3年)。

 長井は1822年(文政5年)、4歳のとき、父が病死したため家督を継いだが、このとき彼が幼少のためということで、家禄を半分に減らされた。その後、藩校の明倫館で学び、時の藩主、毛利敬親の小姓、奥番頭となった。その後、敬親から厚い信任を受け、敬親の世子、毛利定広の後見人にもなった。そして、1858年(安政5年)、長州藩の直目付の要職に抜擢された。

 国内で外交をめぐる政争が熾烈となった1861年(文久元年)、長井は公武一和に基づく「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、藩主毛利敬親とともに江戸へ入り、老中久世広周、安藤信正と会見。正式にこの「航海遠略策」を建白して、公武の周旋を依頼されたのだ。

 長井の「航海遠略策」は、端的に表現すれば、通商を行って国力を増し、やがては諸外国を圧倒すべし-というのが論旨。当時、吉田松陰が唱えていた「大攘夷」に通じるものがあった。松陰も攘夷論者でありながら、攘夷をするためには外国を知らねばならないとして密航を企てたが、その思想からの行動だ。だが、両者はその実行論において対極にあった。長井は松陰の行動主義を批判し、松陰も長井を姑息な策を弄する奸臣と見做し憎悪した。

 幕府からこの「航海遠略策」で公武の周旋を依頼されるほどの立場にあった長井だが、実は困った状況にあった。それは、長州藩内の尊皇攘夷派とは対立関係にあり、藩政運営は容易ではなかったからだ。とくに井伊直弼が断行した「安政の大獄」のとき、吉田松陰の江戸護送を直目付の長井が、制止も弁明もしようとしなかったことから、職務上のこととはいえ、松下村塾系の藩士から強い恨みを買うことになった。このため、松陰の弟子、久坂玄瑞や前原一誠らに命を狙われることになったのだ。藩論は対立したまま、事態は一進一退を繰り返していた。

 その後、長井にとって事態はさらに悪化する。1862年(文久2年)、幕府で公武合体を進めていた老中安藤信正や久世広周らが「坂下門外の変」で失脚したのだ。すると、長州藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。そして、時間の経過とともに、尊皇攘夷・激派の著しい台頭で、長井の立場はさらに厳しく、追い詰められていった。

こうなると、まだわずか1年前、国論をリードしようかという「航海遠略策」をまとめ上げ、建白した人物を、長州藩はためらいもなく斬ってしまう。1863年(文久3年)長井雅楽は“長州藩の奸臣”のレッテルを張られ、切腹を命じられ、その生涯を閉じた。

 明治維新後、この長井の積極開国論を長州人たちは維新史の恥部として、すべて長井の個人的運動で、藩は何ら関知していなかったと主張して、やり過ごしてきた。その結果、現代において長井は、高杉晋作、木戸孝允らの事績と比べ、不当に低い評価しか与えられていないようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、三好徹「高杉晋作」、童門冬二「伊藤博文」、松永義弘「大久保利通」、海音寺潮五郎「西郷と大久保」

中岡慎太郎・・・ 「薩長連合」の立役者だが、龍馬“暗殺”の巻き添えに

 1867年(慶応3年)、京都見廻組-佐々木唯三郎一派が坂本龍馬と、この中岡慎太郎を暗殺した。これは幕府側としては大きな収穫だった。もっとも狙ったのは龍馬であり、中岡はちょうどその下宿先へ来合わせていたところで、中岡にとっては不幸な“魔”の一日となってしまった。もちろん当時としては中岡も見廻組や新選組のブラックリストに載せられていたのはいうまでもないが、このときは巻き添えであったことは間違いない。中岡慎太郎の生没年は1838(天保9)~1867年(慶応3年)。

 中岡慎太郎は土佐国安芸郡北川郷の大庄屋、中岡小伝次の長男として生まれた。しかし、父が60歳に近い晩年の子だったので、3人いた姉のうちで次姉に養子が迎えられていたようだ。少年のころは寺の住職や近在の医者に読み書きを学んだが、その上達ぶりは人々の眼を驚かすほどだったという。

 ただ、何といっても中岡の思想的な成長に大きな影響を与えたのは間崎滄浪(まざきそうろう)と武市瑞山(たけちずいざん)だろう。文学の師と剣の師だった。間崎滄浪は、若くして江戸に出て安積艮斎(あさかごんさい)の門に学んで、たちまち塾頭に抜擢されたという俊秀で、山岡鉄太郎や清河八郎などとも交際があった。武市瑞山は通称半平太、幕末の三剣士と呼ばれた江戸の桃井春蔵に剣を学び、そこの師範代となった人物だ。そして、後の土佐勤王党の盟主といった方が分かりやすい。

 中岡は20歳のとき庄屋見習になったが、治績にはなかなかみるべきものがあった。1860年(万延元年)のころ、この地方が深刻な飢饉に見舞われたことがある。このとき彼は、東奔西走して芋を買い入れたり、備貯米の蔵を開いたりして農民たちを助けた。そのころは備貯米の蔵を開くということは、たとえ飢饉でも簡単ではないのだが、それが敢えてやれたというのはかなりの覚悟があってのことだ。

彼には自分が庄屋として預かる農民は、一人も傷つけたり殺したりしてはならないという使命感があった。そしてそれが、間崎や武市の影響で天下・国家に広がっていくのだ。ただ、彼がそのために大きく踏み出すためには、何かの機会が必要だった。

 ところで、土佐にいまを時めく薩摩や長州に肩を並べるほどの発言権を与えたのは何といっても武市瑞山だ。藩主の山内容堂は武市らの考えには反対だったが、適当にあしらって泳がせていた。武市もまた容堂を適当におだてて、諸藩の中に土佐勤王党の実力を認めさせる努力をしていた。土佐勤王党の名が、中岡慎太郎を浮かび上がらせたのだ。中岡の飾らない性格、そして一度正義と決めたら一歩も譲らない剛毅な態度、もちろん学問もある人間性、そうしたものが彼を次第に人々の間に認めさせていった。

 1863年、「八月十八日の政変」以後、遂に中岡は土佐を出て長州、そして京都へも潜入する。「池田屋事件」の際も、中岡はたまたま長州の三田尻に帰っていただけで、同事件で亡くなった人物たちとも交遊があった。彼は1864年に起こった「禁門の変」にも参戦、足に敵弾を受けるが、うまく逃れている。

 中岡の功績として特筆されるのはやはり、坂本龍馬とともに「薩長連合」の立役者となったことだ。犬猿の仲だった薩長を、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の間を粘り強く説き、手を結ばせ連合を成立させる。これにより、明治維新への動きは加速するのだ。しかし、この後、中岡は坂本とともに歴史的役割は終わったかのように、刺客に襲われその生涯を閉じた。

(参考資料)奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、平尾道雄「陸援隊始末紀」

長与専斎・・・わが国の医事行政、公衆衛生の基礎を確立した人物

 長与専斎は医学者であり、わが国の医事行政、公衆衛生の基礎を確立した人物で、明治の衛生行政機構を確立した優れた官僚でもあった。ちなみに、「衛生」は専斎の造語だ。専斎の生没年は1838(天保9)~1902年(明治35年)。

 長与専斎は、肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に数代仕えた漢方医の家に生まれた。号は松香、姓は藤原、名は秉継。父中庵は大村藩の侍医で、漢方を当時江戸幕医の最高権力者、多紀元堅樂春法印に学んでいる。4歳のとき父と死別、祖父俊達に養育された。この俊達も若いときから医術の才に恵まれ、30歳前後で大村藩はじめ近隣近在までその名が聞こえ、門前には診察を乞う人々であふれるほどの名医だった。

専斎は3歳で大村藩の藩校「五教館」(長崎県立大村高等学校の前身)で漢学の修行を始めたといわれる。その後、1854年(安政元年)、大坂の緒方洪庵の適塾に入門、専斎17歳のことだ。1858年(安政5年)には福沢諭吉に代わって塾頭となった。

1859年(安政6年)、緒方洪庵の助言を受けて長崎に赴き医学伝習所に入り、オランダ人医師ポンペに師事、西洋医学を学んだ。次いで、その後任のボードウィン、マンスフェルトに師事、医学教育近代化の必要性を諭される。そして、西洋の近代医学の根底にある基本的な思想に触れたものと思われる。それは、ポンペが著書の中で明快に語っているので、その言葉の一部をここに引用しよう。

「医療の対象は病気そのものである。患者の身分、階級、貧富の差、思想や政治の立場の違いを取り上げてはならない。(略)医術を出世や金儲けの道具にするものがいるが、全く唾棄すべきことである。人は自分のためでなく、何よりも公の社会のために生きなければならない」。

1864年(元治1年)、大村藩の侍医となり、1866年(慶応2年)再び長崎に出て医学研究に努め、1868年(明治元年)、長崎精得館(のち長崎医学校)の医師頭取(病院長)に就任した。翌年、精得館に予科を設けたが、日本の医学教育で予科が設置されたのは、これが最初だ。

1871年(明治4年)上京し文部省に入り、同年岩倉具視遣欧使節団に加わったが、途中、別れてドイツやオランダの医学および衛生行政を視察するとともに、医学教則・医師制度を調査した。1873年(明治6年)に帰国。1874年(明治7年)専斎は、相良知安に代わって文部省の医務局長となり、同年、東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。

1875年(明治8年)、文部省医務局が内務省に移管、翌年に衛生局と改称。専斎は1891年まで衛生局長に在任しその間、医制、創始期の衛生行政を確立。司薬場、牛痘種痘所の設置、コレラなど伝染病の予防規則の布告などを推進するとともに、衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語はHygieneの訳語として専斎が採用したものだ。

 1891年(明治24年)専斎は衛生局長を退いたが、1892年には専斎の意中の人、後藤新平が衛生局長となり、専斎の政策を継承し推進した。専斎は退任後、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、中央衛生会会長などを歴任。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現在の日本公衆衛生協会)を興し、会頭などを務めるなど、衛生行政界に重きを成した。

 自叙伝「松香私志」は、福沢諭吉の「福翁自伝」とともに、往時の適塾のありさまをうかがう貴重な史料だ。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」

二宮忠八・・・設計はライト兄弟より早かった、航空機の先駆的研究者

 二宮忠八は明治時代の航空機の先駆的研究者で、実際の飛行成功の偉業はライト兄弟に譲ったが、飛行機の設計はこの二宮忠八が早かった。あくまでも仮定の話だが、軍部が忠八の上申書を受理し、早くに航空機開発・研究に着手していたら、その後の日本の戦備、とくに空軍の力は当時でもより進んだものになり、違った歴史を刻み込んでいたかも知れない。忠八の生没年は1866(慶応2)~1936年(昭和11年)。

 二宮忠八は伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現在の愛媛県八幡浜市矢野町)で商家の四男として生まれた。

 忠八は21歳のとき、丸亀の歩兵第12連隊に看護卒として入営。1889年(明治22年)の演習中に鳥が飛ぶのを見て飛行機の研究を志し、ゴム動力による紙製模型飛行機などを試作。そして、このゴム動力の鳥型飛行器の飛行実験に成功したことで、「人間が鳥のように飛ぶことができるかも知れない」という思いは確信に変わった。

 忠八はさらに2年間研究を積み重ね、1893年、人を乗せて飛ぶことができる両翼の長さが2・の玉虫型飛行器を完成させた。残る問題は飛行するための動力だけになった。ただ、この動力の確保が彼にとって極めて“重い”課題として残された。そして、思いもよらぬ“挫折”につながっていくのだ。

1894年、日清戦争が勃発。忠八もこの戦争に従軍する。従軍中、飛行機の必要性を痛感した彼は、設計図をつけて飛行機研究の重要性を述べた上申書を3度にわたって提出したが、ことごとく却下された。失望した彼は1898年、軍を除隊した。資力を蓄えてから独力で飛行機を完成させるためだ。
就職先として選んだのが製薬会社だ。忠八は大阪の大日本製薬⑭に入社。商才に長けたアイデアマンだった彼は10年足らずで大阪を代表する実業家の一人となった。こうして資金もできた彼は1908年、京都府八幡町に作業所を構え、飛行機の製作を再開した。

そして、飛行機の枠組みもでき上がり、動力としてオートバイ用のエンジンを取り寄せるだけとなっていた1909年のある朝、忠八の人生は暗転する。新聞に掲載されていた記事で、1903年のライト兄弟の有人飛行実験の成功を知ったからだ。(当時、このニュースはすぐには伝わらず、6年ほど遅れてようやく新聞に掲載された。)少年時代からの夢、「世界で最初に自分の作った飛行器が空を飛ぶ」ことは達成直前で、遂に果たせず、破れた。呆然自失の彼は完成間近の飛行器を壊し、以後、二度と飛行器を作ることはなかった。

 1915年(大正4年)、京都府八幡町(現在の八幡市)に飛行神社を造営、航空殉難者の霊を祀った。

*文中、飛行機を「飛行器」と「器」の文字を使っているのは忠八が、自分が作るものは飛行器とこだわって呼称しているため、それを尊重、そのまま使用しています。

(参考資料)吉村昭「虹の翼」

乃木希典・・・日露戦争の英雄は“虚構”光った文学の“才”

 「乃木大将」「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い乃木希典(のぎまれすけ)は、東郷平八郎とともに「日露戦争」の英雄とされているが、“殉死”の評価について諸説あるように、見方は分かれる。司馬遼太郎氏などのように「愚将」とする考え方も厳然としてある。その一方で、山口県、栃木県、京都府、東京都、北海道など全国各地に神として乃木を祀った「乃木神社」がある。乃木の生没年は1849(嘉永2)~1912年(大正元年)。

 乃木希典は現在の東京都港区で、長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次(のぎまれつぐ)の長男として生まれた。現在六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地だ。幼少期に事故により左眼を失明した。1858年(安政5年)、乃木は長府藩に帰郷。1865年(慶応元年)、長府藩報国隊に入り、奇兵隊に合流し幕府軍と戦った。1871年(明治4年)、陸軍少佐に任官。1877年(明治10年)、歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加した。

 乃木は1886年(明治19年)、川上操六らとともにドイツに留学。1894年(明治27年)、陸軍少将として「日清戦争」に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。1895年(明治28年)、陸軍中将として「台湾征討」に参加。1896年(明治29年)、台湾総督に就任。1898年(明治31年)、台湾統治失政の責任を取って台湾総督を辞職。

1904年(明治37年)、休職中の身だったが、「日露戦争」の開戦に伴い、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮した。様々な史料によると、少なくともこの戦いにおける乃木はどうしようもない凡将だったといわざるを得ない。児玉源太郎の作戦てこ入れがなければ、“無為無策”の乃木大将の指揮のせいで、なお何十万人もの兵士の尊い生命が奪われていただろう。児玉の活躍で乃木は救われたのだ。その代わりといっては語弊があろうが、乃木の2児の勝典、保典が戦死した。

1907年(明治40年)、乃木は学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しく躾けられたという。1912年(大正元年)、明治天皇大葬の9月13日の夜、妻静子とともに自刃した。明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は当時の国民に多大な衝撃を与えた。

 乃木は若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ留学した際、質実剛健なプロシア軍人に感化され、帰国後は古武士のような生活を旨とするようになったという。彼は省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを司令官として過ごした。

 乃木には武将に似合わないほど詩や歌の心があり、広く世に流布するほど多くの漢詩を残した。それは彼が16歳のころ、吉田松陰を育てた萩の玉木文之進を訪ね、学問の師として教えを請うたためだ。玉木のもとで乃木は、鎌や鋤を手にとり、肥桶を担がされるなど百姓仕事をしながら修業。こうした玉木の教育があったからこそ、乃木は文学で身を立てた方が良かったのではないか、との評価を受けるほどの作品を残せたのではないか。

(参考資料)司馬遼太郎「殉死」、司馬遼太郎「街道を行く」、古川薫「天辺の椅子」、奈良本辰也「男たちの明治維新」

支倉常長 歴史上果たした偉業とは裏腹に禁教下の日本に帰国後は冷遇

 1613年(慶長18年)、仙台藩主・伊達政宗は、家臣の支倉常長をヌエバ・エスパニア(現在のメキシコ)との直接通商交渉を目的とし、メキシコ経由で、スペインおよびローマへ派遣した。一行は日本人とスペイン人合わせて180人余り。この偉大な業績は「慶長遣欧使節」の名称で知られ、「天正遣欧少年使節」と並んで、日本の対外交渉史ならびにカトリック史上の画期的な事績として扱われる。

しかし、その遣欧使節の実態については、とくにこの副使を務めた支倉常長の帰国後の暮らしぶりとともに、あまり知られていない。出国直後から、不幸にも日本国内でのキリスト教に対する環境が急速に悪化したこともあって、常長の存在そのものが江戸時代の歴史から消えてしまうのだ。

 支倉常長は山口常成の子として生まれた。幼名は与一。初名は六右衛門長経。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。常長は子供に恵まれなかった伯父支倉時正の養子となった。ところがその後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し600石取りとなった。

 1609年(慶長14年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウイリアム・アダムス(三浦鞍針)の建造したガレオン船を贈り、ヌエバ・エスパーニャへ送還した。このことをきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

 伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れ、スペインを経てローマへ赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で1613年(慶長18年)、月ノ浦を出帆。ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡り、エスパーニャ経由でローマに至った。常長はマドリードの修道女院の教会で洗礼を受けた。

ただ、当時はやむを得ない側面もあったが、この外交使節には大きな成果を得るには限界があった。それは外交文書の作成から外交交渉まですべてを使節一行の正使で通訳兼案内役を務めたルイス・ソテロに任せていた、他力本願型の外交姿勢にあった。伊達政宗は当時の海外事情に精通していなかった。また、常長ら派遣された一行も自らスペイン語やイタリア語を修得して独自の外交手腕を発揮しようという意欲を持たず、ソテロから指示されるまま行動しただけだった。
 そのため、一行は1615年(慶長20年)、エスパーニャ国王フェリペ3世に、そしてローマへ入り、ローマ教皇パウルス5世に謁見したが、スペインとの交渉は成功せず、1620年(元和6年)帰国した。
 伊達政宗の期待のもと出国した常長だったが、不幸にも出国直後から日本国内でのキリスト教に対する環境は急速に悪化した。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗の直筆の手紙が残されている。果たして政宗が危惧した通り、常長が帰国したとき日本はすでに禁教令が出されており、歴史上、彼が果たした偉業とは裏腹に、キリシタンの洗礼を受けた彼はひっそりと暮らしていたらしく、失意のうちに死んだ。というのも常長の前半生と晩年について、確実なことはほとんど分からないのだ。こうして常長は江戸時代の歴史から消えてしまう。

 不幸はまだ続く。1640年(寛永17年)、常長の息子の常頼は、召使がキリシタンだったことの責任を問われて処刑され、名門支倉家は断絶した。1668年(寛文8年)常頼の子の常信の代に、ようやく赦されて家名を再興することができた。仙台藩においては、主命により引き起こされた事態であるため忸怩(じくじ)たるものがあったようだ。

 時を経て、支倉常長の偉業が再び世に出る。それは明治維新後、岩倉具視が欧米視察団としてイタリアを訪れた際、「支倉」の署名が入った文書を発見したからだ。
 常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、2001年(平成13年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。

 この遣欧使節の名目上の目的は通商だったが、本当の目的は当時世界最強国だったエスパーニャ(スペイン)を味方につけ、天下を覆そうという壮大な政宗の計画が秘められていたという説もある。確固たる史料が残っているわけではないので、あくまでも推測の域を出ないのだが…。

(参考資料)大泉光一「支倉常長 訪欧の真実」、遠藤周作「侍」

土方歳三 新選組の副長から、戊辰戦争を転戦した徹底した実践派

 土方歳三は1868年(慶応4年)、下総(現在の千葉県)流山で近藤勇と別れた後、「戊辰戦争」を通して幕臣として官軍と戦い、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、宇都宮城の戦い、会津戦争、箱館戦争を転戦。幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮して、蝦夷共和国・陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取の要職にも就いている。

しかし、歳三の公式の剣の腕前は高くはなかったようだ。天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったのか?ただ、型には一切とらわれず、縦横無尽に闘い、最後は相手を倒すという徹底した実践派で、まさに実戦では滅法強かったといわれている。そうした合理精神は近代戦術にも抵抗なく、柔軟に理解を示して実践させることにつながり、戊辰戦争でも成果を挙げている。歳三の生没年は1835(天保6)~1869年(明治2年)。

 土方歳三は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に10人兄弟の末っ子として生まれた。諱は義豊。雅号は豊玉。土方家は多摩に広がる豪農の家系で「お大尽(だいじん)」と呼ばれる大百姓だった。出生前に父、土方義諄(ぎじゅん)が亡くなり、6歳の時に母も失い、次兄の喜六夫妻に育てられた。14~24歳ごろまで奉公に出ていたといわれる。奉公先には松坂屋上野店の支店、江戸伝馬町の木綿問屋などが挙げられる。

 その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」(骨折・打ち身の秘伝薬)を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだといわれる。日野の佐藤道場に出稽古にきていた天然理心流四代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこのころ出会ったと推測され、歳三は1859年(安政6年)、天然理心流に正式入門した。

 1863年(文久3年)、歳三は近藤道場(試衛館)の仲間とともに、十四代将軍家茂警護のための浪士組に応募し、上洛する。同年8月18日の「八月十八日の政変」後、壬生浪士組の活躍が認められ「新選組」が発足。その後、新見錦切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。そして、権力を握った近藤勇が局長となった。歳三は副長の地位に就き、局長・近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織づくりがなされ、頂点は局長だが、実際の指揮命令は副長の歳三から発せられたとされる。

 1864年(元治元年)の池田屋事件の際は半隊を率いて、長州・土佐藩士が頻繁に出入りしていた四国屋方面を探索して回ったが、こちらには誰もいなかった。そこですぐ池田屋の応援に駆け付けたが、直ちに突入せずに池田屋の周囲を固め、後から駆け付けた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組のことを考えての行動で、歳三らしい冷静な機転だ。このパフォーマンスの効果は絶大で、池田屋事件の恩賞は破格なものとなった。その結果、新選組の“勇名”は天下に轟いた。

 幕府からは近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、ここでも歳三は策を講じる。歳三は近藤を諌め、狙いは与力よりも大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したといわれている。こうした一方、歳三は鉄の戒律「局中法度」をつくり、新選組内部では常に規律を隊士らに順守させ、規律を破った隊士に対しては切腹を命じており、隊士から恐れられていたという。そのため、新選組隊士の死亡原因の第一位は切腹だったといわれているほど。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、鈴木亨「新選組99の謎」、三好徹「さらば新選組」

藤田東湖・・・幕末、尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を集めた傑物

 藤田東湖は水戸藩第九代藩主・徳川斉昭の側近を務め、その懐刀として活躍した。とくに水戸学の大家として著名で、幕末、全国の尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集め、彼らに大きな影響を与えた。

薩摩藩主・島津斉彬が水戸家を訪れた際、接待役を務めた藤田東湖に西郷の名を挙げ、「よろしく教導して引き立ててくれるように」と挨拶している。若き日の薩摩藩士、西郷隆盛も1854年(安政元年)、同志、樺山三円とともに東湖の元を訪れ、東湖の学識、胆力、人柄、態度に感銘を受けている。戸田忠太夫と水戸藩の双璧を成し、斉昭の腹心として「水戸の両田」、また武田耕雲斎を加えて「水戸の三田」とも称された。東湖の生没年は1806(文化3)~1855年(安政2年)。

 藤田東湖は常陸国東茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷(水戸上町梅香)で、水戸学者(彰考館総裁)、藤田幽谷(ゆうこく)の次男として生まれた。母は町与力、沢氏の娘。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持っていた。「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことに因む。ほかに梅庵という号も用いた。藤田家は遠祖が平安時代前期の政治家、小野篁に遡るといわれ、中世に常陸へ移り住んだといわれている。

 東湖は幼少の頃より、父で水戸学の儒臣、藤田幽谷から薫陶を受けて育ち、父の家塾「青藍舎(せいらんしゃ)」で儒学を修めるなど、学問に精進し、次第に藩内で頭角を現した。1827年(文政10年)家督を相続し、進物番200石となった後は、尊王思想「水戸学」藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編修、彰考館総裁代役などを歴任した。そして、当時、藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立した。

 1829年(文政12年)の第八代藩主・徳川斉脩(なりのぶ)の継嗣問題に際しては、徳川斉昭派に加わり、斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進。1840年(天保11年)には側用人として藩政改革にあたるなど藩主、斉昭の絶大な信頼を得るに至った。そして、その名は藩の内外に知れ渡るようになった。

その結果、水戸は維新の震源地だといわれ、全国の藩士・志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集める存在=藤田東湖がそのマグマとなった。各藩の志ある若者は江戸に出た際は、必ずといっていいほど、東湖の元を訪れ、薫陶を受けたといわれるほどだ。信州から佐久間象山、長州から吉田松陰、越前から橋本左内、熊本から横井小楠、薩摩から有村俊斎(海江田信義)、西郷隆盛など次々と訪ねてきた。そこで、単に東湖の怪気炎に圧倒されるだけでなく、訪ねてきた若者同士が議論した。そういう日本の若者たちの“場づくり”をした意味でも、東湖の果たした役割は大きい。

 ここまで順風満帆な人生を送ってきた東湖だったが、この後、思わぬ挫折を味わうことになる。1844年(弘化元年)、藩主・斉昭が隠居・謹慎処分を受けたのだ。これに伴い東湖も失脚し、その後、禄を剥奪された。さらに1846年(弘化3年)、斉昭が謹慎解除されると、東湖はそれまでの責めを受け、江戸屋敷に幽閉され、翌年謹慎処分となった。1850年(嘉永3年)、ようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)やっと処分を解かれたのだ。

 約8年間にわたる、東湖自身の“冬”の時代から一転、大きく変わり始めた日本の世相・時代が、東湖を表舞台に引っ張り出す。1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画することになった。すると、東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになったのだ。そして、1854年(安政元年)には側用人に復帰している。舵取りの難しい激動の時代を迎え、これで水戸藩の体制も整ったかに見えた。

 ところが、そんな東湖を不慮の事故が襲う。1855年(安政2年)に発生した「安政の大地震」だ。関東地方を襲った、マグニチュード7とも伝えられるこの地震で、彼は母親を守り、脱出させるため、落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死したのだ。あっけない最期だった。享年50。
 主な著書に『弘道館記述義』『回天詩史』『正気歌(せいきのうた)』『常陸帯(ひたちおび)』などがある。

(参考資料)童門冬二「私塾の研究」、童門冬二「明日は維新だ」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、小島直記「無冠の男」

藤原能信・・・摂関政治から院政への橋渡し役を演じた陰の実力者

 藤原能信(よしのぶ)といっても、一般にはあまり知られてはいない。彼は藤原摂関政治の生みの親、藤原道長の子だ。父の道長亡き後、王朝社会の陰の実力者となり、表舞台に出ることはなかった。だが、皮肉なことに彼自身は、そうした意識を持っていたのかどうかは分からないが、計らずも摂関政治から院政への橋渡し役を演じた人物だ。平安時代の政治史の節目を彩る藤原氏のキーパソン、藤原氏北家の礎を築いた藤原冬嗣、そして天皇の外戚として、まさに我が世を“謳歌”した道長の二人に比べると、彼の地位は大納言どまりで、随分見劣りする。しかし、この時代の真の主役は、藤原頼通や教通ではなく、間違いなく能信だった。

 藤原能信は藤原道長の四男、母は源明子。官位は権大納言で、春宮大夫を務めたが、頼通・教通らと比べると、随分地味なものだ。生没年は995(長徳元)~1065年(康平8年)。

 父・道長には主な夫人が2人いた。頼通・教通を産んだ源倫子(左大臣源雅信の娘)と、能信の母・源明子だ。倫子は道長の最初の妻であると同時に、当時の現職大臣の娘で、道長の出世の助けになったのに対し、明子の父高明は同じ左大臣でもすでに故人で、しかも「安和の変」で流罪になった人物だった。そのため、倫子の子供たちは嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対し、明子の子供たちはそれ以下の出世に限られていた。

そこで、能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとした。ところが、能信はそれを拒絶し公然と頼通と口論して、父の怒りを買うことさえあった。こうした姿勢が結果的に出世の途を閉ざしたのか、能信は1021年(治安元年)、正二位権大納言昇進を最後に、その後は官位の昇進をみることはなかった。彼はあくまでも「ゴーイング・マイウエイ(わが道を行く)」の姿勢を貫き通した。もっといえば、彼は開き直って、異母兄弟との出世競争の不利は十分承知のうえで、大胆にも対立陣営に身を置いたのだ。

 1037年(長元10年)、後朱雀天皇の中宮(後に皇后)に禎子内親王(後の陽明門院)が決まると、その側近である中宮大夫に能信は任じられた。実はすでに実力者の頼通の養女、_子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営のトップに立ったのだ。そして、彼は禎子内親王所生の尊仁親王(後の後三条天皇)の後見人を引き受けることになった。ここで彼は異常な粘り強さをみせる。1045年(寛徳2年)に後朱雀天皇が重体に陥ると、彼は天皇に懇願して、後を継ぐ後冷泉天皇(親王の異母兄)に対して「尊仁親王を皇太弟にするように」という遺言を得たのだ。

 しかし世間ではここに至っても、後冷泉天皇には頼通・教通兄弟がそれぞれ自分の娘を妃に入れており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろう-と噂していた。また、それだけに尊仁親王やその春宮大夫となった能信への周囲の眼は冷たいものがあり、現実に親王が成人しても妃の候補者が決まらなかった。有力貴族が実力者の頼通・教通兄弟の敵になることを恐れて、娘を妃に出すことを遠慮したためだ。そこで、今度は能信はやむを得ず、自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)、藤原茂子を妃に入れ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を引き受けることで、辛うじて「皇太子妃不在」という異常事態を阻止したのだ。

 これほど献身的にサポートし、以後20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支持者であり続けた能信だが、悲しいことにその“果実”を自ら手にすることはできなかった。彼は、恐らく夢にまで見たであろう、親王の即位を見ることもなく、しかも右大臣・藤原頼宗(能信の同母兄)の急死で後任大臣への道が開かれたにもかかわらず、その6日後にその生涯を閉じてしまうのだ。

 だが、その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに死去すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子の白河天皇が即位した。亡き能信の悲願が達成されたわけだ。そして、後三条天皇は能信の養子で、養父の死後に春宮大夫を継いだ藤原能長(実父は頼宗)を内大臣に抜擢した。また白河天皇は能信に太政大臣の官を遺贈、必ず「大夫殿」と呼んで、生涯尊敬の念を忘れることはなかったと伝えられている。まさに、能信の長年にわたる労苦が報われたのだ。

 能信に果たして摂政関白への野心があったか否か、定かではない。だが、後三条・白河天皇による政治とその後の「院政」の開始は、能信の人生に暗い影を落としてきた摂関家による摂関政治を終焉に導いたことは確かだ。

(参考資料)永井路子「望みしは何ぞ」、笠原英彦「歴代天皇総覧」