「英傑・名将の知られざる実像」カテゴリーアーカイブ

北条時頼・・・策謀も駆使し他氏族を屠り、北条執権家の安定強化図る

 北条時頼は鎌倉幕府の第五代目執権だ。能楽『鉢の木』に登場する時頼は、花も実もある、立派な為政者に仕立て上げられている。それは温和で最も実直なイメージの三代泰時に重なる。だが、実態は陰の主役となって、血なまぐさい陰謀の数々をやってのけ、執権家としての北条氏の基礎を初めて確立した二代義時の姿に近い人物だった。つまり、時頼こそ北條氏の“執権らしい執権”だったのだ。

 北条時頼は、北条時氏を父とし、安達景盛の娘(後の松下禅尼)を母として生まれた。幼名は戒寿丸、通称は五郎。11歳のとき祖父泰時の邸で元服。烏帽子親は当時、鎌倉府の首長だった摂_将軍、藤原(九条)頼経(よりつね)だ。1243年(寛元元年)、左近将監に任ぜられ従五位下に進んだが、1245年(寛元3年)、四代目執権北条経時と図って、時頼は27歳の将軍頼経を辞任させ、子の頼嗣を新将軍の座に据えてしまった。頼経の年齢が、ロボットとして操りにくい段階にまで達したからだった。この交替からまもなく、経時が病死したため、執権職は弟の時頼に回ってきた。

 経時の死が、23歳という若死にのせいもあり、不可解な部分もある。権位への野望のために時頼が兄を殺したのではないかとの疑問だ。何故なら、兄を立てるなら経時の遺児たちが幼少の間、一時政権を預かったにせよ、成長後はこれを返上してやるはずなのだ。しかし、経時の子供たちはいずれも出家し、経時の系統はそのまま絶えてしまっている。そして、この後、代々得宗として一族の上に君臨したのは時頼の子孫なのだ。それだけに、黒い噂がより真実味を帯びてくる。

 しかし、五代目執権職に就いた20歳の時頼はしたたかだった。時頼の強引なやり口に疑惑と反感の目を向ける者には、一門であっても、反対に彼らを挑発し、機先を制して屠ってしまう。三浦一族に対してもそうだった。

 三浦氏は、幕府の創業時代から目覚しい武威を持ちながら常に北条氏の走狗となって裏切り、煽動、離間など血みどろ仕事の先棒担ぎ、他族の蹴落としに一役買ってきたため、北条側の弱味も握っており、時政(初代)や義時(二代目)、泰時(三代目)にさえ一目置かせていた存在だったのだ。当然、時頼にとっても目の上の瘤(こぶ)だった。そこで彼は謀略の限りを尽くして三浦氏を挑発し、虚をついて、これを滅亡させた。こうして彼は北条執権家の基盤の、より一層の安定強化を図ったのだ。

 時頼は30歳で出家し、嫡男の時宗が幼弱だったため一時、執権職を一門の長時に譲ったが、なお最高指導者としての活動はやめず、自宅で秘密会議を開き、重要政務を決定した。時頼は37歳で亡くなったが、やり遂げた仕事の量は、彼が生きた歳月の量をはるかに上回っていたといえる。
 六代目長時のあとは泰時の弟で当時、長老的な立場にあった政村が担当、時宗を連署(副執権)とし、その成長を待って八代目を時宗に譲った。

 130年、十六代にわたって執権職を務めた北条氏。これほど長きにわたって権力を保持するにはどすぐろい、権謀術策の限りを尽くし、さぞかし人間的に“欲望の塊”と化した人物が揃っていたのだろうと思いたくなるところだ。だが、違うのだ。確かに、得宗と呼ばれている宗家嫡流の権力保持には、後世の人々に陰険な氏族として毛嫌いされているにもかかわらず、一人ひとりの生き方は、権位にありながら珍しいほど清潔だった。藤原道長、平家の公達、足利将軍義満、義政、豊臣秀吉、徳川家斉ら数多い。ところが、北条執権職を務めた人物のうち、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した者は、十四代の高時を除いてほとんど見当たらない。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

保科正之・・・名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要

 会津藩藩祖の保科正之は、徳川二代将軍秀忠の隠し子という血筋の確かさから、また三代将軍家光の死に際して、四代将軍家綱の後見役を仰せつかり、理想的な名君と誉れ高い存在だが、果たしてどうか?生没年は1611~1672年。

 会津藩主としての保科正之の評判はいい。これは、高遠藩3万石から山形藩20万石という破格の加増によって、家臣の給与を3倍から4倍に上げたからだ。戦いで命を張ったわけでも、民政で功労があったのでもないのに、禄高がこれだけ上がれば、藩士や領民が“名君”と感謝感激しても当たり前だ。さらに、会津に23万石で転封されたときも、2割から3割もの加増が一律に行われている。

 飢饉対策として、正之が儒学者・山崎闇斎の助言で古代中国に倣って社倉(米や麦を貯蓄する倉)制度を推進したのはそれなりに成功したが、これも手放しで評価できない部分がある。というのは、これは一種の強制預金で、運用の仕方では租税に上乗せした収奪になりかねないからだ。また、90歳以上の高齢者に生活費を与えたのはすばらしい高齢者対策で、「国民年金の創設」などというのも、ちょっと的外れの評価といわざるを得ない。当時の90歳以上など現在の100歳以上より少なかったはずで、そのような全く例外的扱いをもって福祉対策が充実していたなどと表現することはおかしい。

 幕政の担当者としての事績をみると、「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」「末期養子の許可」が四代将軍家綱のもとでの三大美事とされ、正之の功績とされている。殉死は戦場で功を立てることが難しくなったこの頃になって急に流行りだしたものだ。殉死者は家康にはいなかったし、秀忠にも一人だけだった。ところが、家光の死に際して5人になった。そこで、この愚劣な流行を抑制すべきというのは当たり前の考え方だ。

大名証人制の廃止は、主要35藩の家老嫡子の江戸在住だけが廃止されたのであって、決して大名家族の人質政策が廃止になったのではない。末期養子の許可は、嫡男がいないだけでお家取り潰しするのは、もともと厳しすぎる、極端な政策だったから緩和は妥当だ。ただこの廃止により、できの悪い大名を残すことになった。そして石高の固定化は、大名についても一般の武士や庶民についても、有為な人材にとってチャンスが少なくなることを意味した。

まだある。明暦の大火(1657)の後、蔵金が底を尽くという批判をものともせず、罹災者に救援金を与えたことや、江戸の大々的な都市改造を行ったことも美談とされる。しかし、その結果、家光時代に金銀だけで400万両から500万両、物価水準を考えると、およそいまの1兆円の蓄えがあったのを、ほぼ使い果たしてしまった。単なるばらまきで財政を破綻させたのだ。

刑罰の軽減化などに具体化された独特の「性善説」に基づく正之の哲学は、ユニークで魅力があり、江戸時代の名君の原型に挙げる人が少なくない。ただ、あるべき指導者の姿としての「名君」としては、かなり割り引いて考えざるを得ない。カネと権力あればこその「名君」だったといえるのではないか。

(参考資料)八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

前田利家・・・壮語せず篤実な姿勢が好感され、大藩の基礎作りに貢献

 加賀藩の藩祖・前田利家は織田信長、豊臣秀吉に仕え、徳川の世に、全国で最大の120万石を領有する大藩の基礎をつくった人物だ。加賀藩の華麗さは今日もよく知られている。100万石以上もの大名第一等の大封を持ちながら、幕府への遠慮から、殊更に武の印象を抑え、学問と美術工芸を奨励した。このため藩都の金沢は、小京都といっていいほどに優美だった。

 前田利家は、尾張愛智郡荒子村で土豪の前田縫殿助(ぬいのすけ)利春(利昌ともいう)の四男として生まれた。幼名は犬千代。通称は又左衛門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将。渾名は槍の又左衛門、槍の又左。利家の生没年は1537(天文6)~1599年(慶長4年)。

 利家が生まれたのは、まさに戦国時代の真っ只中だ。このとき武田信玄18歳、上杉謙信9歳、織田信長5歳、そして徳川家康は4年後に生まれている。天下平定の覇気に燃える武将の中で尾張一円を勢力下に置き、まず頭角を現すのが織田信長だが、この信長の配下に属し、その勢力圏内で、荒子一帯を領していたのが前田利春だった。

 若い頃の利家は負けん気でやんちゃ、ことに信長に仕え始めたころは“かぶき者”で、周囲のひんしゅくを買う青年だった。こうした若い頃の無軌道ぶりや挫折が、中年以後の利家の器の大きさをもたらしたといえよう。利家は信長の父・信秀の死後、起こった「尾張海津の戦い」が信長配下としての初陣だ。この戦いで活躍した後、信長の伯父・津田孫三郎信家を烏帽子親として元服。犬千代から孫四郎利家と名乗ることになった。その後、1556年(弘治2年)、「尾張稲生(いのう)の合戦」に参戦。この戦いは、信長の弟・信行を擁した林美作守の反乱だったが、ここでも戦功を挙げ、利家は100貫の加増を受け150貫(石高にすると357石)の禄高となった。またこの合戦の後、利家の上手なとりなしで柴田勝家が信長の配下となった。

 ところで、利家はその生涯で二度、大きな挫折を味わっている。最初の挫折は1559年(永禄2年)、信長の同朋衆・拾阿弥を斬り、信長の勘気に触れ追放されたのだ。この後、変転目まぐるしい戦国の最中、2年もの間、主を持たない浪々の時期を過ごしている。そして「美濃森部の戦い」の功により晴れて帰参。「赤母衣(あかほろ)衆」に取り立てられ、300貫加増された。赤母衣衆とは指揮班の将校にあたる。

 1582年、主君・織田信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれると、利家は初め柴田勝家に付くが、後に秀吉に臣従。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀・越中を与えられ、加賀百万石の礎を築いた。1598年(慶長3年)には秀吉から徳川家康と並び、豊臣政権の五大老の一人に、また秀頼の傅役(後見人)に任じられた。秀吉がいま少し長寿であれば、まだ平穏な時が続くはずだった。

 ところが、同じ1598年(慶長3年)、五大老・五奉行など豊臣政権の行く末を定めた数カ月後、その要の秀吉が亡くなると時の流れは一気に加速。徳川家康に付く福島正則らの武断派と、石田三成らの文治派の対立が顕在化、事態は激しさを増していく。この争いに利家は加わらず、仲裁役として懸命に働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力する。
しかし、利家には傅役を全うする時間はもう残されてはいなかった。秀吉の死後、わずか8カ月後、病没した。

俗に“加賀百万石”と呼ばれ、大名のトップとしての権勢を誇った前田家は、菅原道真の後裔ということになっている。この菅原道真と戦国大名の前田と、どこに接点があるかといえば、配流された筑紫(九州)で生まれた子供の一人が前田氏の先祖となり、その一族が尾張愛智郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子町)に住みつき、前田姓を名乗ったという。

さらに、前田家にとって運が良かったことは利家が「関ケ原の戦い」(1600年)の前年に亡くなったことだ。前田家として、豊臣恩顧は利家までで、子の代になると、その点が身軽になった。秀吉の死後、豊臣家は石田三成派と徳川家康派に分裂したが、前田家はこの内紛に直に引き込まれずに済んだ。

 家禄を含め前田家を守るに際しては、利家の未亡人、芳春院(まつ)の果たした役割が大きい。頑固であまり融通の利かない利家とは違い、なかなかな政略家だった。彼女は若い頃からの友達だった秀吉の未亡人、高台院(北政所=ねね)と語り合い、徳川家康方に加担。お家取り潰しや改易を狙う徳川方からの挑発には一切乗らず、前田家(利家の晩年の石高、83万5000石)を守るべく、彼女は自ら江戸へ赴き、人質になった。徳川方にとっては想定外の離れ業だったに違いない。

(参考資料)酒井美意子「加賀百万石物語」、司馬遼太郎「街道をゆく37」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

前田綱紀・・・藩主在位78年間で加賀前田家の家風を確立した名君

 加賀藩第五代目藩主・前田綱紀は加賀前田家の家風を確立した名君で、前田家で最初の教養人でもあった。綱紀が在位した78年間、領国の政治に緩みがなく、新田開発などの経済面だけでなく、一種の社会福祉政策も遂行したことで知られる。江戸城における謁見の席も、1698年(元禄2年)、徳川第五代将軍綱吉から、外様大名ながら御三家に準ずる待遇を与えられた。

 前田綱紀は、加賀藩第四代目藩主・前田光高の長男として生まれた。母は水戸藩・徳川頼房の娘(徳川第三代将軍家光の養女)清泰院。幼名は犬千代丸、元服後の名は綱利。元服して亡き父と同じ官位を授けられ、後年、四代将軍家綱の一字を賜って綱紀を名乗り、加賀守に任ぜられた。藩祖・前田利家の曾孫。綱紀の生没年は1643(寛永20)~1724年(享保9年)。

綱紀の78年の在位を将軍の代で数えると、三代将軍家光の1645年(正保2年)、3歳で家督を継ぎ、八代将軍吉宗の1723年(享保8年)に隠居した。6代(家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗)の将軍に仕えたことになる。

 1645年(正保2年)、31歳の若さで早世した父・光高の後を受けて綱紀(当時は犬千代丸)は、わずか3歳で五代目藩主の座に就いた。藩政は、小松で隠居していた祖父・利常(三代目藩主)が取り仕切ることになった。1654年(承応3年)、元服して綱利と名乗った。そして、徳川家との絆を維持するため、保科正之の二女摩須子(徳川第二代将軍秀忠の孫)を妻に迎えた。綱紀16歳、迎えた姫はまだ10歳だった。

1658年(万治元年)、利常が脳溢血で亡くなると、岳父・保科正之の後見のもとで、綱紀は藩政改革を行うことになった。新田開発や農政から着手、彼が始めた「荒政の九法」は飢饉や不作などに備えた、いわば郡村の組織化で、長く農政の規範となった。当時、備荒貯蓄米を蓄えるため藩が設けた義倉は、金沢に一カ所、越中に三カ所、能登に二カ所、常時十万石から二十万石に及ぶ米が貯蔵されていた。そのため、江戸時代は全国でしばしば大飢饉に襲われ、悲惨な結果を招く例は少なくなかったが、加賀藩領では飢饉のために領民が困窮したという記録はほとんどない。

 綱紀は稗の種子を朝鮮から輸入したり、農民に副業として養蚕を奨励するなど凶作の対策に心を砕いている。「百姓は生かさぬように、殺さぬように」「百姓と菜種は絞れば絞るほどよし」といった思想が農政の根底にあった時代、利常・光高・綱紀ら三代の指導のもと、加賀藩が取った農政は稀有な例と高く評価されている。

 徳川八代将軍・吉宗のブレーンとして世に知られた荻生徂徠は、その著『政談』で「加賀の国に非人一人もなし、真に仁政なり」と絶賛している。当時の藩主は綱紀だ。祖父や岳父の後見も卒業して、彼が自ら政務を執るようになったのは27歳のときからだった。
ところで、治世上何かミスやトラブルがあれば、それを引き合いに領地没収や改易などを課そうと、幕閣は虎視眈々と狙っていた感のあったこの時代、お家を守ることは大変だった。前田家は並大抵の努力でその大身の家を守ったのではなかった。江戸城の龍の口にあった江戸・前田家の上屋敷は1657年(明暦3年)1月の振袖家事(明暦の大火)という江戸時代最大の火事で焼けた。火元は本郷丸山の本妙寺で、火は乾(北西)の烈風に煽られて江戸市街地ばかりか、江戸城の天守閣をも焼き、内堀の大名・旗本屋敷も焼き尽くし灰になった。

 その後の防火計画では、空地をつくること、道路を広くすること、町家の草葺きを禁じることなどが盛り込まれたが、江戸城の周りについても、大名屋敷をことごとく取り除いて空地とした。このため、加賀前田家は移転せざるを得なくなり、代替地として、本郷に大きな地所をもらった。後の東大構内の主要部で、本郷から不忍池に至る10万3000坪という広大なものだった。

 前田家は財政のいい家だった。だが、倹約して金を貯めたりすると、幕府からどんな疑いを受けるか分からないという理由から、財政能力を上回るほどの豪華さで、新しい本郷上屋敷をつくり上げた。ここで、前田家にとっては不運というか、全くありがた迷惑な事態が起こった。五代将軍綱吉が「加賀殿の屋敷は、庭といい、普請といい、見事というではないか」といったらしいと聞かされ、一大事となった。1702年(元禄15年)のころのことだ。

綱吉は幕閣政治を好まず、権力を一身に集め、苛烈に信賞必罰の政治をやり、このため幕臣の気風が萎縮した。その結果、側用人・柳沢吉保など側近に権勢が集まった。綱吉の言葉を聞き流すわけにはいかない。綱吉に誉められた以上、前田家としては御成りを乞うほかない。前田綱紀にすれば、一代の危機というべきだった。

 何故なら、綱吉がおしのびでやってくるわけではなく、側近から老中、若年寄などもくる。警護の番士もくる。そのうち、「加賀殿の新邸を拝見したい」という者が多くなり、規模が膨れ上がって、遂に5000人の供という前代未聞の招待になったのだ。江戸城の大工の棟梁たちまで加わったという。
 江戸時代は階級社会だ。客を同身分ごとに集めて酒肴を出さねばならない。老中や側用人の権勢の者には、とくに気を使う。大工の端々まで、それ相当の席を設け、酒肴を出すのだ。将軍や大名たちが満足してくれても、それ以外の者に対して粗相があっては、苦心も水の泡になる。

 司馬遼太郎氏の『街道をゆく 本郷界隈』によると、綱紀はこのために未曾有の借金をした。国許や江戸、あるいは上方の商人から莫大な金を借り、その後それを返すのに十数年かかった。将軍綱吉の半日の遊覧のために、迎賓館ともいうべき御成御殿を建てた。敷地8000坪、建坪3000坪、棟の数が45という壮麗なものだった。それに伴って、林泉も整えられた。さらに、もてなすために江戸詰めの家臣だけでは手が足りないので、国許から大勢の人数を呼び寄せた。それらの宿舎を400棟も建てたという。

 当日、将軍綱吉は大いに満足した。他の5000人も喜んだ。わずか一日の歓を得るために、加賀前田家は戦争そこのけの総力を挙げたのだ。だが、この壮麗な御成御殿も翌年の関東・東海大地震でことごとく焼けた。江戸末期の安政地震(1854~55年)でも加賀藩上屋敷は大きな被害を受けた。その後も地震が頻発し、本郷の加賀藩上屋敷は1855年(安政2年)の直下型の地震で壊滅したらしい。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、酒井美意子「加賀百万石物語」

前野良沢・・・蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者

 前野良沢といっても、いつ、どのようなことを成した人物かと問われても、とっさには出ない人が多いのではないか。良沢はオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の編纂に携わった主幹翻訳者の一人だ。ところが、解体新書発行当時、良沢は自らの名前を出さなかったため、その業績は知られておらず、『解体新書』発行の功績は杉田玄白一人に帰した感がある。だが、現実に即していえばオランダ語に群を抜いた知識を持つ良沢を除外しては、翻訳事業が成り立たなかった。ひいては、1774年時点で、内容的にあのレベルの『解体新書』刊行はなかったと思われる。

杉田玄白はターヘル・アナトミアの翻訳事業を推進させた功績者ではあった。だが、彼にはその翻訳を一日も早く公にすることで名声を得たいという野心も十分にあった。それは人間としてある意味では当然の欲望だったが、学究肌の良沢にはそれが度を超えたものとして映った。そのため、良沢は翻訳事業が終了したとき、『解体新書』はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけた後に行うべきだと考えていた。しかし、玄白は刊行を急いだ。良沢はそれについていく気になれず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。玄白はそれを素直に聞き入れた。その結果、『解体新書』の訳者は杉田玄白ただ一人となったのだ。

 『解体新書』が華々しい反響を得た中で、前野良沢は書斎に閉じ籠った。53歳だった。病と称して門を閉じ、交際も極力避けた。訳書の量は増えていったが、名利を卑しむ彼は、それを刊行することすらしなかった。生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。そして。研究は医学から天文・暦学・地理などにも及び、多くの訳書がその手によって残された。

対照的に杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。また玄白は医術に精励したという理由で十一代将軍家斉に拝謁も許された。それは蘭方医として初の大きな栄誉でもあった。しかし、玄白のオランダ語研究は『解体新書』刊行と同時にほとんどやんだ。玄白は開業医として経済的にも豊かな後半生を送り、85歳の天寿を全うした。玄白の出世の道が『解体新書』を刊行したことで拓けたとするなら、それはストイックなまでに学究肌の、名利を卑しむ前野良沢という蘭学に一生を捧げた人物がいたからこそ実現したのだ。良沢がいなければ、玄白の人生はあるいはもう少し違ったものになっていたかも知れない。

 前野良沢は豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。生没年は1723(享保8年)~1803年(享和3年)。筑前藩士、谷口新介の子として江戸牛込矢来に生まれた。幼時に父は死亡、母も良沢を捨てて去り孤児となった良沢は、山城国淀藩主稲葉丹後守正益の医官で、叔父の宮田全沢に引き取られ育てられた。1769年(明和6年)、蘭学を志して晩年の青木昆陽に師事。その後、1770年(明和7年)藩主の参勤交代について中津に下向した際、長崎へと留学した。留学中に入手したのが西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』だった。

 良沢はこの書を翻訳するにあたって大宰府天満宮に参詣し「名声利欲にとらわれず、学問のため一生を捧げる」と誓った。『解体新書』が完成したとき、彼は天神への誓いを守って書中に自分の名をあらわさなかった。そうした蘭学に対する真摯な姿勢により、藩主・奥平昌鹿から「蘭学の化け物」と賞賛された。そして、彼はこれを誉として「蘭化」と号した。
 寛政の三奇人の一人、高山彦九郎とは親しかった。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。

(参考資料)吉村昭「冬の鷹」、吉村昭「日本医家伝」

槇村正直・・・東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物

 槇村正直(まきむらまさなお)は明治時代初期、東京奠都で衰退しつつあった京都の近代化政策を強力に推進した中心人物だ。当時、全国に先駆けて行おうとしたものも少なくなかった、槇村の施策に呼応した「町衆」と称される商工業者たちにより、京都の近代化が確立していった。槇村の生没年は1834(天保5)~1896(明治29年)。

 槇村正直は山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となった。初名は半九郎、のち龍山と号した。

 槇村の出世は藩閥を抜きには語れない。1868年(明治1年)、長州出身で維新政府の要職に就いた木戸孝允は、幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槇村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槇村は議政官試補皮切りに、徴士・議政官、大阪府兼勤。そして権弁事を経て京都権大参事となった。1870年の小野組転籍事件に関連し、謹慎を命じられたが、その後、34歳の若さで1871年、京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場になった。長谷知事退任に伴い、1875年京都府権知事になり、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)に就任した。彼は会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。

 槇村が行った主な京都近代化政策は・1869年(明治2年)、小学校の開設・1870年(明治3年)、舎蜜局(せいみきょく)の創建・1871年(明治4年)、京都博覧会の開催・1872年(明治5年)、都をどりの創設・1872年(明治5年)、新京極の造営・女紅場(にょこうば)の創建-などだ。
全国に先駆けて学区制による小学校開設に着手し、町組ごとに64校の小学校をつくった。大阪市本町の舎蜜局とは独立して、京都における舎蜜局(理化学工業研究所)を明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村が勧業場の中に仮設立した。理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、島津源蔵ら多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。博覧会は日本で最初で、三井八郎衛門や小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。

 都をどりは槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになった。新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路をつくり、恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。女紅場は女子に裁縫、料理、読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校だ。

 こうして生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。これは槇村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果だった。ただ、近代国家の体制ができ上がり、地方政治の制度が整ってくると、槇村の裁量権の幅も次第に縮小し、やや強権的な政治手法は新たにできた府議会などとの対立も引き起こした。

 槇村は1881年(明治14年)辞表を提出、知事の座を北垣国道に譲って京都を去った。そして東京へ移って、元老院議官となり、行政裁判所長官(1890~1896年)、貴族院議員(1890~1896年)などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

松平春嶽・・・開明的藩政指導行うが、幕政参画後は“労”報われず

 御家門筆頭の国持大名として家格が高かった越前松平家の養子となり、第十六代越前福井藩主となった松平慶永(のちの春嶽)は、藩政改革に着手、積極的な人材登用、殖産興業・富国強兵による藩財政の立て直しを推進した。だが将軍継嗣問題で井伊直弼らと激しく対立し、隠居・謹慎処分を受けることになる。そこで彼は家督を養子茂昭に譲り、一時は5年にも及ぶ謹慎生活を送った。

だが、春嶽は井伊大老亡き後、見事に復活、幕府の要職に復帰する。幕府から政事総裁職を拝命、幕政に参画したのだ。そして、・参勤交代制の緩和・洋式軍制の採用・幕府職制の改正・京都守護職の新設-などを実施。第十四代将軍家茂による229年ぶりという将軍上洛を実現させた。

ただ、幕末の開国と攘夷、倒幕派勢力の台頭と幕府安泰・朝廷尊崇の理念の狭間で、春嶽の行動自体が振り子のように揺れ動き、そのために当事者たちに絶対の信頼を得られなかったためか、調停役としての春嶽の多くの“労”は報われなかった。

 松平慶永は徳川御三卿、田安家三代斉匡の八男として生まれた。母は閑院宮家木村某の娘礼井。幼名は錦之丞。徳川第十二代将軍家慶の従弟。天保9年、11歳のとき将軍の命で越前福井藩32万石の藩主・松平斉善(なりさわ)の養子となり、斉善の病没後を継承、藩主となった。将軍家慶の一字を賜り慶永、元服して越前守を称したが、隠居後、生涯愛用した雅号「春嶽(しゅんがく)」の方が有名だ。春嶽の生没年は1828(文政11)~1880年(明治23年)。

 福井松平家の藩祖・秀康は徳川家康の次男で、嫡男信康早世後、三男秀忠の唯一の兄で、豊臣秀吉の名をもらって結城家に養子に出されていなければ、家康の後継男子としては最年長だった立場だ。慶永は16歳で初入国し、90万両の負債を抱えた福井藩財政立て直しのため、近侍御用役に股肱の臣、中根雪江をはじめ、村田万寿、若手の逸材、橋本左内、三岡三四郎(後の由利公正)らを登用。また、「国是三論」を著した横井小楠を熊本から顧問として招き、洋式兵制の導入や種痘館、藩校明道館を創設。殖産興業策を推進して開明的藩政指導を行った。

 春嶽は幕末、幕政に参画してからは島津久光、山内容堂、伊達宗城らとともに有力賢候の一人として一目置かれたが、労多くあまり成果は挙げられなかった。彼の持論でもあった政権返上は、土佐の懸案を容れた大政奉還奏上によって実現、次いで王政復古の大号令が発せられる。ここで十五代将軍徳川慶喜の「辞官納地」が挙げられると、春嶽は徳川家のために抗議、慶喜の朝政参加を図ろうと努めたが、鳥羽伏見の戦いが勃発。遂に慶喜は朝敵となって政治復権の道は断たれた。

 春嶽は維新後、明治新政府側において徳川家の救済に尽力。内国事務総督、議定となり、明治2年、民部卿、大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍続となった。だが、明治3年、一切の官職を辞して以後、文筆生活に入った。「逸事史輔」などの幕末維新史の記録、武家風俗史上、貴重な著述類を執筆。また伊達宗城らと「徳川礼典録」を編纂、注目すべき業績を残した。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき」、童門冬二「小説 横井小楠」

三浦梅園・・・死後100年以上経過して認められた「条理学」の思想家

 三浦梅園は、儒学と洋学を調和した独自の自然哲学によって、大宇宙の原理を解明しようとした江戸時代中期の自然哲学者、思想家だ。その思想は独学独想で構築されたもので、「条理学」といわれる。梅園の学問は当時認められなかったが、死後100年以上経過した明治の終わりになって、人々に知られ認められるようになった。生没年は1723(享保8)~1789年(寛政元年)。

 三浦梅園は豊後国、現在の大分県国東市安岐町富永で生まれた。本名は晋(すすむ)。梅園の生まれた三浦家は、この富永村で代々医者を家業としていた。二男六女、八人兄弟の次男に生まれたが、長男が幼くして死んだため、事実上、一人息子として育てられた。

 梅園は非常に小さいときから物事を何でも疑うという性質があった。他の人が説明してくれればくれるほど、自分は分からなくなる。人はそれで分かったというけれど、自分は話を聞くとますます分からなくなってくる。何でも疑わしくなってくるというわけだ。梅園の旧宅から山を越えて4・隔たった村に、西白寺(さいはくじ))という禅宗の寺がある。ここに少年時代の梅園の勉学ぶりをしのばせるエピソードがある。

15歳の頃、彼はまず中国の詩の本を一人で読み始めた。しかし、梅園の家には字引がない。あちこち探し、やっとこの禅寺にあることを知り、月に4、5回、分からない字をためておいて、ここまで字引を引きに通ったという。17歳になると、杵築(きづき)の城下まで毎日通学した。富永から杵築まで、山を二つ越えて往復30・の道のりだ。こうして梅園の真理探究の行脚が始まった。

 当時、ヨーロッパの自然科学が漢文に翻訳されて、中国から長崎にもたらされていた。梅園はこれらを通して、西欧の実証的な学問の方法を貪欲に取り入れていった。梅園自製の天球儀が旧宅に保存されている。梅園はこれを手元に置いて、富永村の空を仰いで天体の運行を観測したのだろう。

そして、30歳のとき梅園は自然界の現象の現れ方には決まった筋道があることを見い出した。梅園はこれを「条理」と名付けている。彼には、これこそ天地万物の謎を解く鍵だと思われた。そして、彼の独創的なことはこの条理を探求していく際、数学・数式ではなく、図形をもとに緻密な思索を繰り返している点だ。

 例えば、手を離せば石がなぜ落ちるかという疑問を手掛かりとして、梅園は自らの思索を進めていった。同じように、りんごの落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したアイザック・ニュートンの例がある。両人とも通常、人が不思議としないことを不思議として、自らの問いとしたのだ。しかし、そのために用いた方法は、全く違ったものだった。ニュートンが数学の発展を考えの土台にしたのに対して、梅園は古代中国の易の陰陽の考え方を基本とした。

 梅園が自分の思想を述べた著作には畢生の大著「玄語(げんご)」のほか、「贅語(ぜいご)」と「敢語(かんご)」とがある。これらを合わせて「梅園三語」と呼んでいる。この三著作が梅園の思想の骨格を成すものだ。このうち生前に印刷されたのは、「敢語」だけだった。せっかく刊行をみた「敢語」も、当時の多くの学者からは受け入れられなかった。それは、端的に言えば難解だったからだ。梅園自身それは、他の学者に話しても簡単に理解してもらえることではないだろうと思っていたのだ。

 梅園は近隣諸藩の仕官の招聘を固辞し、生涯、三回の旅行を除いては死ぬまで郷里を離れずに学問と思索の日々を送った。三回の旅行のうち、二回までは長崎への旅だった。長崎ではオランダ通詞(通訳)に会って西洋事情を聞いたり、珍しい外国の本を写している。56歳になって梅園は、オランダ語にも並々ならぬ関心を示した。梅園の旧邸に、オランダ通詞の吉雄耕牛から梅園に贈られた木製の顕微鏡がある。耕牛は、「ターヘル・アナトミア」の翻訳「解体新書」を著した中津藩の蘭学者兼医師、前野良沢のオランダ語の師だ。

 梅園の対象とした学問は天文事・物理・医学・博物・政治・経済・文学と、非常に幅広い範囲にわたっている。今日でいえば百科事典のようなものを自分でこしらえているほどだ。梅園にとっては、それらのすべては、天地万物の条理を究めていくために必要なものだった。郷里には大学者・大思想家、三浦梅園が生涯をかけて著した原稿はいまも残っており、思索を重ねた屋敷もほとんど変わらぬ姿で残されているという。

(参考資料)湯川秀樹「日本史探訪/国学と洋学」

山内容堂・・・武力倒幕画策の薩長尻目に「大政奉還」実現の演出者

 幕末、薩摩・長州両藩などが武力倒幕を画策する中、討幕を断念させたのが、土佐藩が幕府に建白した「大政奉還」だった。このとき、事実上藩政を掌握していたのが、「安政の大獄」で隠居、謹慎処分を受け、藩主を退いていた前藩主の山内容堂(隠居前は豊信=とよしげ)だった。「大政奉還」は容堂の腹心、後藤象二郎が坂本龍馬の立案した新国家構想「船中八策」をもとにしたもので、天皇のもとで大名らの合議による政権を樹立することがその主旨だった。血を見ずに革命を実現させる、まさに妙案だった。これにより、山内容堂の名が広く知られることになり、土佐藩は後世に名を残し存在感を示したのだ。

 土佐十五代藩主を継いだ豊信は門閥の南家の出で、十二代藩主豊資の弟、豊著(とよあきら)の子だ。この分家南屋敷の家禄は1500石だった。藩主豊信は、吉田東洋を仕置役(参政)に抜擢し藩政改革に努めた。また、この東洋によって後年、土佐藩を背負って立つ有能な人材が発掘された。後藤象二郎(のち参政)・福岡孝弟(たかちか、のち参政)・岩崎弥太郎・乾(板垣)退助・谷干城(たてき)らだ。

 司馬遼太郎氏は山内容堂について、「諸侯きっての剛腹な男で、大酒飲みであり、剣は無外流の達人で、言辞は針を含むように鋭く、しかも言い出したら後に引かない男だ」と記しているように、長州藩主・毛利敬親らの印象とはかなり異なる、アクの強い人物だったようだ。

 一口に西南雄藩といっても、それぞれ藩内は様々な事情を抱えていた。したがって、思想は異なっていたのだ。急進・過激的な諸藩の中でも、とりわけ薩長両藩が典型的な倒幕派であったのに対し、土佐藩は「上士」・「下士」で分かれていた。土佐藩郷士(下士)は倒幕派だったが、土佐藩上士は会津藩・幕府とともに公武合体派だった。この上士を指揮していたのが容堂というわけだ。したがって、土佐藩の幕末の様々な動きは、決して藩主が了解したうえで行われたわけではない。

いや、「上士」と「下士」という動かし難い階級・身分格差が厳然として存在した同藩の場合、藩上層部は上士とつながってはいたが、倒幕派に与した郷士(下士)が中心となって進められた改革の動きは、藩主および藩上層部の全くあずかり知らぬことだった。土佐勤王党の盟主、武市半平太(瑞山)は郷士の出であり、坂本龍馬や中岡慎太郎らは脱藩しているのだから、彼らの動きをコントロールできるはずがなかった。

 幕末の土佐は、この土佐勤王党の出現により、新しい政治の時代を迎えた。武市半平太は1856年(安政3年)、江戸に出て知名の剣客桃井春蔵の道場に入門し、1857年(安政4年)塾頭を務めた。諸国の尊攘志士と交わり、江戸築地の土佐藩別邸で土佐勤王党を結成した。盟約署名の党員は192名、志を通ずる者は数百人を超えた。武市は参政・吉田東洋を説き、土佐藩を薩摩・長州と同じく勤王に固めようとした。しかし、幕府との協調路線を取る東洋は説得に応じない。焦った武市らは遂に東洋暗殺を決意、決行。保守派の門閥家老らと結び、新政権を誕生させた。この政権を武市らは陰で操縦したのだ。

しかし、「八月十八日の政変」(1863年)を機に京都の尊攘派は急激に凋落。これを好機とみた容堂が江戸より土佐に帰国し、藩政を掌握。土佐勤王党の弾圧に乗り出した。東洋暗殺の報復だった。容堂は遂に武市を追い詰め、切腹させる。だが、多数の勤王党員は脱藩、もはや藩上層部の意思で事を収められる段階にはなかった。時代の新しい潮流はもう止めようがなかった。

 容堂は薩摩藩・島津斉彬、越前福井藩・松平春嶽、伊予宇和島藩・伊達宗城らとともに、「幕末の四賢候」と呼ばれた名君とされている。だが、土佐藩の場合、後藤象二郎ら一部藩士を除けば、容堂あるいは藩上層部が主体的に藩を動かしたのではなかった。むしろ、亀山社中・海援隊を組織した坂本龍馬、土佐商会を興した岩崎弥太郎ら脱藩藩士はじめ下士ら、もっぱら彼ら藩上層部が弾圧した者たちが、したたかに、逞しく時代を動かした要素が強い。

(参考資料)中嶋繁雄「大名の日本地図」、司馬遼太郎「酔って候」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、司馬遼太郎「慶応長崎事件」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、豊田穣「西郷従道」

山片幡桃 ・・・江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタント

 山片幡桃は江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタントでもあった。「幡桃」というのは彼自身が大坂の豪商升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじって付けたペンネームだ。彼は単なる豪商の番頭ではなく、彼の唱えた学説は現在でも多くの学者が高く評価している。

 山片幡桃こと、升屋小右衛門は播州印南郡米田村(現在の兵庫県高砂市米田町)の農民の子として生まれた。彼は小さいときから学問好きで、大坂の中井竹山・履軒の営む懐徳堂で学んだ。また、日本科学の先覚者だった麻田剛立(ごうりゅう)に天文学や蘭学を学んだ。

幡桃の本姓は長谷川氏だ。長谷川の家は、大坂の升屋とは親戚にあたっていた。そこで、小右衛門は小さいときから升屋の丁稚小僧として奉公した。もっとも、その前に大坂の両替商河内屋へ丁稚奉公に上がったが、生来の読書好きのため店を追い出されたと伝える史料もある。当時の常識からいえば丁稚に学問は不要ということだろう。

 ともかく他の丁稚小僧と違って、多少は血のつながりがあったために、早く番頭の役に就いた。もちろん、このころの商家のしきたりとして、ただ親戚だからといって、すぐ取り立てることはしない。それでも小右衛門がどんどん出世したというのは、それなりに彼の能力が優れていたからだ。番頭になったとき、彼は24歳だった。

 小右衛門が番頭になったとき、升屋は対外的にも内部的にも大きな危機に見舞われていた。まさに“内憂外患”の状況だったのだ。内憂は、ときの当主に実子がいなかったため、養子をもらったが、この養子をもらうとすぐ、皮肉なことに実子が生まれてしまったのだ。そうなると、当主はやはり実子が可愛く、この子に家を継がせたくなった。そこで、養子にいろいろと注文をつけ「もし、お前の身持ちが悪かったら、いつでも養子縁組を解消して、実子に家を継がせるからな」と迫り、升屋にゴタゴタを起こす原因になりかねない情勢だった。

 外患は大名貸しの破綻だ。このころの大名家はすべて極度の財政難に陥っていたから、なかなか借りた金を返してくれない。それだけでなく、借金を踏み倒すような大名家も次々と出てきたのだ。そのため、升屋では資金繰りに苦慮、本業の米屋の方も思わしくなくなっていた。

 小右衛門はまず内部固めから始めた。そして打ち出したのが当主の隠居と、養子を説得し、当主の実子に店を継がせる-との方針だった。いわば痛み分けだった。ただ、当主はまだ年少だったから、彼は補完する組織として「番頭会議」を設置した。合議制による集団指導システムだ。つまり、隠居した当主は自分の望み通り実子に店を譲れた。しかし、実権は「番頭会議」にあって、実子にはない。形の上でも、実質的にも「痛み分け」としたのだ。小右衛門は店の大事なことはすべてこの番頭会議にかけた。

 これにより、番頭たちのモラルは一挙に上がった。これも小右衛門の狙ったところだった。彼はクールな合理性を持って判断し、日本人特有の“情”にあまり煩わされることはなかった。
 次は外患の解決だ。大名家に貸した金を返してもらうことだ。そんなとき、大口の貸付先、仙台の伊達家から「わが藩のコンサルタントになって、財政を再建してくれないか」と申し込んできた。それは常日頃、小右衛門が店の者にいっていることを評価したからこその依頼だった。

彼は「貸した金が取れないからといって、うろたえてただ催促するだけでは、ことは解決しない。なぜなら相手方も財政が逼迫しているからだ。それは日本の経済がコメを中心に動いているからだ。ところが、実際に品物を買って、その支払いをするのは金だ。コメと金の相場がうまくいっていればいいが、大抵うまくいかない。それと根本的に大名家の収穫高は、昔から決まっている。積極的に新田開発をしない限り、増収は望めない。貸した金を返してもらうためには、やはり借り手の方が富まなければだめだ。だから、貸した方も借り手に対し、積極的に知恵を提供すべきだ」というのがその主旨だ。

現在でいえば、金融機関の考え方だ。つまり、ただ金を貸し付けるだけでなく、金を借りた側の経営手法についても、いろいろコンサルタント的な知恵を提供して、一緒に富むことを考えるのだ。
 依頼のあった伊達家に対し、彼が経営コンサルタントとして・コメの生産量を上げ、品質を良くすること・コメは藩政府が買い上げ、これをできるだけ多く大坂市場に出して売ること・生産性を高めるため、農民に対して肥料や農具の貸し付け行うこと・農民からコメを買い上げるとき、藩政府は藩札で支払い、大坂で売ったコメの代金は正札で差し上げること-などを助言した。

これらの施策で仙台藩は財政を好転させた。そして、彼はその正札の中から貸し金を正貨によって全部回収してしまった。この方法は各藩で評判になった。そこで尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩が、藩財政の立て直しを依頼してきた。彼は可能な限りこれを引き受けた。その期間は、番頭になったときから約30年間にわたった。主家を支えると同時に、依頼のあった各大名家の財政の再建に努力したのだ。

 山片幡桃の代表作は「夢の代(ゆめのしろ)」という本だ。この本は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書(陰陽)、異端、無鬼(神道、儒教、仏教)、雑論などの各章に分かれているが、彼の説は少し乱暴な表現をすれば、「この世に神や仏はない。すべて人間の作り出した想像物だ」と言い切っているところに特色がある。
江戸時代の稀有な経営コンサルタント、山片幡桃は、「夢の代」完成の1年後、74年の生涯を閉じた。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸のビジネス感覚」