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角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商
 京都市を北から南へ流れる鴨川。これと平行に、その少し西を走る細い1本の運河がある。森鷗外の「高瀬舟」で知られる高瀬川だ。今は高瀬舟の影もないが、鷗外が記したこの高瀬川は370年の昔、河川開鑿に賭けた一人の京都の大商人によって造られた。角倉了以だ。彼は戦国末期から江戸初期に生きた大事業家だが、大堰川(桂川)、富士川、天竜川など、とくに日本の水運に力を尽くした人だ。
 角倉家はもともと吉田姓をとなえ、室町幕府に医師として仕えていた。この一族が発展する貨幣経済の先端、土倉(一種の金融業)として巨大になるのは、了以の祖父、宗忠の代である。角倉家には二つのはっきりした異質の血が流れている。一つは医者としての、もう一つは代々、土倉業を行ってきた商人としての血だ。医師としての家系は、了以の弟、宗恂に伝えられ、彼は医術をもって徳川家康から禄を受けている。了以は実業家、企業家としての血が、非常に色濃く流れていた
 了以が京都の高瀬川を開き「高瀬舟」を走らせるのには、実は他で見た情景がヒントになっており、彼のオリジナルではない。彼が交易品の調達のため倉敷を訪れその際、親戚を伴って岡山に遊びに行った。陽気のいい時期だったので、親戚は彼を近くの高梁川の水遊びに誘った。そこで彼は乗った船の脇を底の浅い船がしきりに行き交いするのを見た。それが、海や平野部の品物を山に運び、山から山の産品を積み下ろしてくる「高瀬舟」だと知る。これが彼に転機を与えた。
 二条で樋口を設け鴨川の水を取り、九条で鴨川を横切り、伏見で淀川に接するという大工事を数期に分けて、“高瀬川開鑿プロジェクト”を計画した。全長10㌔、川幅8㍍、舟入れ9カ所、舟回敷2カ所、工費7万5000両という大工事が完成したのは、慶長19年秋である。この完成によって、大坂から伏見まで三十石船で運ばれた物資は、伏見で高瀬舟に積み替えられ、京の市中に運ばれた。この運河ができたことにより、京都の経済はこれまで以上に潤うことになった。
 上りの高瀬舟を引く綱引きのホイホイという掛け声が、明治の頃まで両岸数㌔にわたり聞こえた。その高瀬舟159艘。運賃は1回2貫500文。うち1貫文は幕府に、250文は船加工代に、残り1貫250文が角倉家に入った。この開通により京の物価が下がったという。
 角倉了以の仕事の特色は公共性の強い土木や海運、異国交易、河川の開鑿だ。そのうえ了以の性格もあって、自ら陣頭に立って仕事の指揮をした。ただ、ここで忘れてはならないのが、息子の角倉与一(素庵と号す)の存在だ。了以と素庵との仲は、年が17歳しか離れていないこともあって、半ば兄弟のような関係だった。家業の中での役割分担で一番重要なことは、幕府との折衝だった。朱印状や河川開鑿許可など外交的な折衝はすべて素庵の仕事だった。だから了以がやった偉大な事業のほとんどが、この親子の共同事業といっていい。
 了以は宇治・琵琶湖間の疎水計画を幕府に願い出た。これは琵琶湖・宇治川間に運河を引くだけでなく、これにより琵琶湖の水位を下げ、6万石ないし20万石の上田を作るという雄大な計画だった。家康も承諾したが、彼はそれを知ることなく、慶長19年(1614)7月12日、世を去った。

(参考資料)日本史探訪/江戸期の豪商「角倉了以 高瀬川を開いた京の豪商」(辻邦生・原田伴彦)、童門冬二「江戸のビジネス感覚」、童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、邦光史郎「物語 海の日本史 角倉了以・素庵父子」

浅野総一郎・・・並外れた体力で、廃物利用に目をつけたセメント王

 浅野総一郎は、自ら創設した株式会社の数は浅野セメント(後の日本セメント)はじめ30数社に上り、いまなお設立した会社の数において、わが国最多記録保持者の地位を維持している。
 総一郎は1848年(嘉永元年)、富山県氷見郡(現在の氷見市)で町医者の長男として生まれた。成人して後、事業に手を出し、失敗して養子先を離縁され、明治4年、24歳で借金取りに追われるように京都、次いで東京に出奔した。以後、大熊良三の偽名を使い債鬼の眼を逃れつつ、廃物利用産業に狙いを定め、遂にセメント王と称されるようになった。巨財を掌中にしてから畢生の大モニュメント「紫雲閣」を東京・港区の田町に築いた。巨富を手にしてからも質素、倹約の生活に徹し、好物は汁粉とうどんだけ。晩年も夫婦揃ってセメント工場内に職工たちが履き捨てた下駄を拾い集め、再生利用したといわれる。

 総一郎が手掛けた数多い事業の主柱は、何といってもセメントだ。その頃、セメントは煉瓦と煉瓦をくっつける接着剤程度にしか使われていなかったが、彼はセメントそのものが建築材料として大量に使われる日がくるし、そうあらねばならぬと主張。国の財産を保護するためにも、セメント製造を見限ってはならぬと説いた。

彼が渋沢栄一の引き立てをバックにして、官営セメント工場の払い下げを受け、後年の「セメント王」への端緒をつかんだのは、明治16年、36歳の時だった。この頃の総一郎は、朝は5時からセメント工場に入り、夜は12時過ぎまで。製造も販売もやった。一日、職工たちと一緒にセメントの粉にまみれて働いてから、夜は王子製紙の支配人について簿記を習い、夜更けまでかかって一切の記帳を自分でやった。さらに午前2時にまた起き、カンテラを提げて工場内を見回った。

従業員の気持ちをも引き締めた。出勤時間に背いた者は、懲罰の意味で黒板に名を書き出した。事務員には会計も購買も製品の受け渡しもやらせる。製造係に販売もやらせるといったふうに、一人二役にも三役にも働かせたが、その半面、従業員優遇法として社内預金による積立金制度を設けたりした。

 一日4時間以上寝ると、人間バカになる。20時間は労働すべきだと総一郎は考えていた。そんな彼がとうとう血を吐いた。そこで医師はかれに「あなたは命と金とどちらが欲しいのですか?」と詰め寄った。彼は平然と「命も金も両方とも欲しい」と答えた。医者は苦笑してサジを投げた。
 妻のサクも総一郎に負けず頑張った。彼女は総一郎が竹皮屋を始めた頃、布団を借りていた貸し布団屋の女中だった。総一郎は早朝から夜更けまでのなりふり構わぬ彼女の働き振りに惚れて結婚した。彼女は4人の子持ちになっても、なお工場に出て総一郎を助けた。当時のセメント工場は床土が焼けてくるため、職工たちは下駄を履いて仕事していたが、鼻緒でも切れると、すぐセメントの山の中に捨ててしまう。彼女はそのセメントの中から下駄を拾い、きれいに洗って鼻緒をすげ直し、また職工たちに履かせたという。

 総一郎が「セメント王」になった秘密は、廃物に目をつけた商才にあるが、いまひとつ忘れてはならないのが、並外れた体力だ。60歳を超えても体力はいささかの衰えもみせず、若い頃からの習慣である早朝4時起床、入浴、訪問客との商談、そしてオートミールと味噌汁の朝食を済ませると、6時には飛び出していくという日課を変えなかった。しかも60、70歳になっても性力が旺盛だった。好みの女を見つけると、即座に手を握って離さない。顔の方はどうでもよく、ただ太った女でさえあれば、目の色が変わってしまうくらいだった-との旧側近の懐古談があるほど。まさに絶倫男だったのだ。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

伊藤忠兵衛・・・現在の伊藤忠商事・丸紅の前身をつくった近江商人

“足で稼ぐ”をモットーとする近江商人の家に生まれた伊藤忠兵衛(当時栄吉)は、11歳から行商に出され、麻絹布の「出張卸販売」で成功。明治5年、29歳で大阪に呉服反物店・紅忠(現在の「伊藤忠商事」・「丸紅」の前身)を開店。晩年は海外進出にも力を注いだ。生没年は1842(天保13年)~1903年(明治36年)。

 近江国犬上郡豊郷村の呉服太物を商う紅長こと五代目伊藤長兵衛家に1842年(天保13年)、二人目の男児が出生。後の忠兵衛、当時の栄吉だ。紅長は店売りもしたが、近隣各地へ盛んに行商に出かけていった。栄吉も11歳になったとき、兄・万治郎のお供をして商いに行かされた。父は、次男の栄吉はいずれ家を出て独立するのだから、早くから商いに慣れた方がいいと判断したのだ。

兄の万治郎は持っていった荷を楽々と売りさばいたので、栄吉はこれくらい自分ひとりでもできると軽く考え、次は一人で行商に行ったが、ほとんど売れなかった。商売は難しいことを痛感する。難しさが分かってこそ本物の修業が始まる。

 1858年(安政5年)、15歳になった栄吉は名を忠兵衛と改め、いよいよ持ち下り商いに乗り出した。彼は麻布50両分を伯父の成宮武兵衛から出してもらい、最初なので伯父に連れられて豊郷村を後にした。荷持ち2人を連れ船で大津へ、そして京都伏見から大阪へ。八軒屋に着いて、常宿にしている問屋で荷を開いて客を待ったが、折からの激しい雨で買い手が一向に姿を見せなかったので、やむなく和泉から和歌山へと足を延ばして、ようやく57両の売り上げを得た。純益は7両だったが、初商売としてはまずまずだった。

 これに気を良くした忠兵衛は、伯父に頼んで次は山陽山陰と西国の旅に出かけた。そして、下関で紅毛人との交易で賑わう長崎の噂を耳にした忠兵衛は、伯父の制止を振り切って長崎へ向かった。物情騒然たる幕末の長崎に近づく商人はほとんどいなかったため、現地では品薄で、忠兵衛は大いに歓迎されて思わぬ利を拾った。

 ところで、忠兵衛の九州での麻布の持ち下り商いに立ちはだかったのが「栄九講」という一種の同業者組合だ。同じ近江商人でも神崎郡や愛知郡の持ち下り商人たちがお互い結束して、他地域の商人を締め出そうと組織したものだ。そこで、忠兵衛は真正面から「仲間に加えてもらえませんか」と乗り込んでいった。栄九講の仲間たちは当然の如く拒否した。

それでも忠兵衛はめげず、栄九講の宴会に飛び込み、反感と敵意に満ちた視線を一身に浴びつつ、「同じ近江の新参者です。皆様の後について商いの道を学ばせていただきたいと存じます。どうかよろしくお願いします」と臆せず、堂々と熱弁を振るった。その姿に栄九講の幹部たちは遂に新規参入を認めることに決めた。そして、忠兵衛は1年後には栄九講の代表に選ばれたという。彼の優れた資質が発揮されたのだろう。

 その後、持ち下り商いの商圏を長兄の万治郎改め長兵衛に譲って、1872年(明治5年)、忠兵衛は大阪・本町二丁目に呉服、太物店を開いた。それは大きな岐路であり選択だった。その頃、明治新政府が誕生して中央集権が実現。近江商人の持ち下り商いもその存在価値を失い、行商をやめ、定着化が始まった。忠兵衛は仲間より一歩先に動いたのだ。忠兵衛30歳のことだ。

 忠兵衛は近江から招いた羽田治平を支配人として、合理的な経営法を志した。画期的な褒賞制度をつくって、販売成績のよい者に歩合を出すことにした。店員は近江の出身者が多く、採用すると豊郷村にある自邸に住み込ませて、掃除や使い走りをさせつつ、読み書き算盤を習わせて、十分仕込んでから大阪の店へ送り出した。忠兵衛はいち早く丁髷を切って、店員とともにザンギリ頭とした。

 その後も・月に6回夕食会を開き、支配人・番頭・丁稚といった身分の垣根を取り払って自由に意見をたたかわせた・従来の習慣を改め、明治20年代から商業学校出身者を採用した・大阪ではこれまであまり扱わなかった関東織物を大量に仕入れて京物とともに売りさばいた・明治17年頃から現金取引を主義とした・英国、ドイツとの外国貿易に取り組んだ-など数々の斬新な経営手法を打ち出し成功させた。

 伊藤忠財閥の二代目当主、二代目伊藤忠兵衛(1886、明治19~1973年、昭和48年)は16歳で事業を継承。父である初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した「伊藤忠兵衛本店」を発展させ、「伊藤忠商事」と「丸紅」という2つの総合商社の基礎を築いた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

岩崎弥太郎・・・地下浪人から身を起こした三菱財閥創設者

 三井、住友は江戸時代からの富商だったが、三菱は明治になってから台頭した新興勢力だ。この三菱の創業者が地下(じげ)浪人から身を起こした岩崎弥太郎だ。彼は明治の動乱期、藩吏時代の人脈をフルに活用。経済に明るかったことと、持ち前の度胸のよさで政府高官を強引に説き伏せ、海運業の雄となり、政商として巨利を得た最も有名な人物だ。生没年は1834(天保5)~1885年(明治18年)。

 岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村一の宮に住む地下浪人、岩崎弥次郎と妻美輪との間に生まれている。つまり、土佐藩で幕末まで動かし難い階級・身分格差が厳然と存在した被差別階級の生まれなのだ。地下浪人とは郷士の株を売った者のうち、40年以上郷士だった人に与えられる称号で、実際は名ばかりで、禄高もゼロ。何らかの職に就ける望みもほとんどなかった。

そのため、岩崎家も極貧を絵に描いたような生活ぶりで、わずかな農地を耕して飢えをしのいでいた。7人家族に手拭いが2本、傘などなくて、冬になると、破れ布団一組を弟弥之助と引っ張り合って眠るという貧乏暮らしだった。

 普通ならこの時点で、生涯の出世の幅は限られ、ほぼ決まったも同然のはずだった。ところが、岩崎弥太郎は身分にふさわしくないほどの上方志向を持ち続けていた。それに加え、あるときは粘り強く、あるときは強引に、後藤象二郎をはじめとする藩の主流派上層部の人脈に取り付き、現代ではあり得ないほどの“運”をわがものとしたのだ。そして、驚くことに彼は一代で後の三菱財閥の基礎をつくった。

 弥太郎が21歳のとき、こんな悲惨な生活から脱出するチャンスが訪れた。藩士奥宮慥斎(ぞうさい)の従者となって江戸へ行く機会を得た。1855年(安政2年)のことだ。江戸では高名な安積艮斎(あさかごんさい)の門に入った。

 ところが、入門間もなく郷里から急報が届いた。父が入獄したという。驚いた弥太郎は師に別れを告げて土佐へ戻ることになった。もう二度と江戸へ出てくるチャンスはないだろう。だから、これで出世の道は閉ざされてしまった。そんな悔しさ、情けなさを振り払うかのように彼は、不眠不休で東海道五十三次を踏破。そして土佐の井ノ口村まで三百余里を17日間で歩いて実家へ戻った。しかし、庄屋に憎まれていた父弥次郎の救出も覚束ない状況で、郡役所に抗議に出かけていった弥太郎まで役人を誹謗したかどで、父の代わりに今度は彼が入牢させられてしまった。

 出牢後、弥太郎は高知城の郊外で寺子屋を開いた。その頃、土佐藩の執政だった吉田東洋が一時、役を退き開いていたのが少林塾。その塾に学んでいたのが後藤象二郎で、弥太郎は後藤の論文の代筆をして東洋に近づいた。後日、藩政府に東洋が返り咲いて、弥太郎は西洋事情を調べよと長崎出張を命じられる。ここで彼は、これまでの貧乏暮らしの中で抑圧されていた欲望が頭をもたげ、藩金百両余りを使い込むという大失態をしてしまう。ようやく藩の役人になれるかという好機に、自ら招いた過失で見事に失敗したわけだ。

 その後、一時、藩政を握ったかにみえた、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が弾圧され、旧吉田東洋派が浮上。弥太郎は藩庁から召し出され、長崎にある「土佐商会」の主任を命じられた。同商会は土佐藩の物産を外国へ売って、必要な汽船や武器を購入するためのいわば交易窓口だった。藩の執政となった後藤象二郎が長崎へやってきて、汽船や大砲を手当たり次第に買っていったため、弥太郎はその尻拭いに走り回って外国商会から多額の借り入れを行っていた。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、「海援隊」が土佐藩の外郭機関となると、弥太郎は藩命により隊の経理を担当した。

 この頃、歴史の舞台は大きく変わった。徳川幕府が倒れて、明治新政府が誕生した。長崎で知り合った薩摩の五代才助(後の友厚)、肥前の大隈重信、長州の井上馨、伊藤博文、それに土佐の後藤や板垣退助などは江戸改め「東京」に移った新政府の要人となって大活躍していた。ところが、弥太郎はすっかり取り残されて、土佐藩の藩吏となって財政の一翼を担っているに過ぎなかった。

ただ、幸運の女神は弥太郎を見捨ててはいなかった。明治2年、少参事に任じられ、土佐藩の大阪藩邸を取り仕切るまでに出世。すると、大阪にありながら、弥太郎は藩の財政に関わって、物産の販売と金融といった経済面を担当することになったわけで、外国商会からの大金借り入れなどは一手に引き受けていた。その結果、彼は思わぬ昇進を勝ち取ったのだった。

 弥太郎は廃藩置県後の1873年(明治6年)、後藤象二郎の肝いりで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となった。

 最初に弥太郎が巨利を得るのは維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出したときのことだ。各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを、事前に新政府の高官となっていた後藤象二郎からの情報で知っていた弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を買い占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得た。今でいうインサイダー取引だ。

 後藤象二郎が様々な面で、岩崎弥太郎に肩入れし利益供与に近い、土佐藩の資財・資金、そして情報を与えた点について、司馬遼太郎氏は「その理由は維新史の謎に近い」と記している。弥太郎が藩政を預かる後藤に、相当額の裏リベートを支払ったうえでのことだったのか、なぜ、後藤が弥太郎にほとんど誰にでも分かる利益供与をしたのか。それほど不可解なのだ。

こうして彼は持ち前の度胸のよさと、藩吏時代の人脈をフルに活用。多くの政府御用を引き受け、武士上がりで経済に弱い新政府の高官たちを強引に説き伏せ業容を急拡大、現在の三菱グループの礎を築いた。彼の死後、彼の事業と部下たちは、弟弥之助の手によって新三菱社に引き継がれた。

(参考資料)三好徹「政商伝」、津本陽「海商 岩橋万造の生涯」、邦光史郎「剛腕の経営学」、城山三郎「野生のひとびと」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

大倉喜八郎・・・鉄砲屋から一大財閥を築いた御用商人

 大倉喜八郎は幕末、鉄砲屋から身を起こし、明治維新後は軍の御用商人、日清・日露戦争では軍需産業…と、巧みに、そしてしたたかに時の権力に密着しつつ事業を拡大し、遂にその数20数社に及ぶ企業集団・大倉財閥を築き上げた。大倉の事業の隆盛を妬んだ世間から“奸商(かんしょう)”とか“死の商人”と蔑称を浴びせられたが、一向にひるむことなく、ひたすら蓄財に励んだ。

こうしたあくどい商法の反面、費用を惜しまず帝国ホテルを建設。また、私財を投じて創立した商業学校をはじめ各種教育機関や美術館を造って社会に供するなど、文化事業にも貢献した。
 大倉喜八郎の金銭哲学について、内橋克人氏はユダヤ人の商法に一脈通じるものがあるという。1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで、鉄砲店「大倉屋」を開業していた喜八郎は、官軍、幕府軍の双方に鉄砲を売りまくったという伝説がある。

商売は商売という彼の徹底した商法は、第二次世界大戦中、敵国ドイツに火薬を売ったアメリカのユダヤ系財閥を連想させる。商売のコツもユダヤ商人との共通点が多い。喜八郎が重視したのは「現金主義」で、鉄砲売買はむろんのこと、あらゆる取引にキャッシュの原則を押し通した。ユダヤ人も2000年の迫害の歴史から、現金以外の何者も信じない。

 しかし、商売にはあくどいが、儲けたカネはスパッと使う。ユダヤ人は慈善事業などに思い切ったカネのつぎ込み方をするが、喜八郎も明治の初めからしばしば社会事業団体「済生会」などに、寄付献金を重ねている。
 大倉喜八郎は1837年(天保8年)、新潟県北蒲原郡新発田(現在の新発田市)の名主の家に三男として生まれ、18歳で江戸に出た。鰹節店の住み込み店員をしながら、乏しい俸給を貯え、21歳のとき独立、乾物店を開業。さらに鉄砲店を開店し、それが文字通り出世に火をつけた。

 ところで、「子孫に美田を残さず」という“金言”があるが、喜八郎は逆に子孫に事業を残そうと努力した数少ない成金事業家の一人だ。事業を継がせるべき長男の側に当時の帝大出の俊才を配し、巧みな人材活用法で、大倉財閥百年の体制を固めた。第二次世界大戦後、財閥解体の痛手を受けたものの、現在も大倉商事、大成建設、ホテルオークラなど20数社が大倉グループを形成している。一代限りで事業も巨財も雲散霧消させるタイプの多かった明治・大正時代の一群の成金たちとは、かなり趣を異にしている。

 喜八郎のタフネスぶりは超人的というべきで、84歳で妾に子供を産ませている。どんな多忙なときでも、ゆっくり時間をかけて食事を楽しむという主義で、昼食はいつもウナギの蒲焼きと刺し身、それにビールがついていたという。働くために食うのではなく、食うために働く。そして長生きが義務という、そのあたりの生活感覚も日本人離れしている。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」
      三好徹「政商伝」、小島直記「人材水脈」

紀伊國屋文左衛門・・・材木問屋を営み巨富を築いた?江戸前期の豪商

 江戸時代の成功者、成金の代表者の一人として挙げられるのが、この紀文こと紀伊國屋文左衛門だ。しかし、紀文の実像、いやもっといえばその実在性を示す文献資料さえ見つかっておらず、謎に包まれている。

講談や浪花節によると、暴風雨で荒天続きの熊野灘を乗り切って、紀州みかんを江戸へ運んで巨富を築いたということになっているが、この話も実は実証できていない。ただ太平洋戦争前に、紀州有田出身のある実業家が伊勢のある神社に奉納されていた、文左衛門のものと推定できるみかん船のひな型を発見した。有田みかんの歴史は古く室町時代に、みかんを九州から導入し栽培増殖したのが始まりという。江戸時代に入り、紀州徳川家がみかん産業を保護奨励した。1634年(寛永11年)からみかんの江戸出荷が始まり、まもなくわが国の出荷組合第一号ともいうべき蜜柑方(みかんがた)が作られた。文左衛門のみかん船の話が事実だとすると、貞享年間、彼が20歳前後で、この冒険物語は実現可能だ。

また、文左衛門は振袖火事の時、木曾の木材をわずかな手付け金で買い占めてボロ儲けしたとも伝えられる。ところが、明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢だ。紀文ではない。こうなると、果たして紀文は実在したのか、疑わしくなる。

ただ、周辺にはモデルになったのではないかと思われる人物はいる。一般に流布されている紀文物語によると、紀文は幼名を文平といい、有田郡湯浅で生まれたという。その湯浅町栖原(すはら)の出身で、栖原角兵衛(かくべい)、略して“栖角”という大成功者がいるのだ。栖角は房総から奥州へ手を伸ばして漁場を開き、後に江戸へ進出して鉄砲洲に薪炭問屋の店を持った。さらに深川で材木問屋を始めるなど多角経営で事業を広げている。

紀文が活躍した貞享から元禄期は、生活ばかり派手になって手元に金のない、いわば欲望過多の時代だった。そんな時代背景が、「いてもおかしくない」という思いも加わって、講談や浪花節の世界にしろ、瑞賢と栖角を足した架空の人物を生み出したのではないだろうか。

紀文のモデルに加えられた人物がまだいる。奈良屋茂左衛門だ。紀文とともに遊郭、吉原で贅を尽くしたという挿話を記した「吉原雑記」に名を残している豪商だ。江戸の当時の家屋は、竹と土と紙とでできているので燃えやすく、ちょっと風が強いとすぐ火事が起こった。大火事があると当然材木屋が儲かる。だから、江戸初期の富商は木材問屋が大部分を占めていた。ただ、木材は投機性の強い商品で、いったん的中すると儲けは莫大なものになったが、狙いが外れると厖大なストックを抱えて四苦八苦しなくてはならない。そんな浮き沈みの多い木材問屋の中でも、儲け頭は奈良茂こと奈良屋茂左衛門だった。

奈良茂は日光修復の工事入札で、普通の業者の半分にも満たない安値を入れて落札した。しかし、本来そんな値で木材を揃えることなどできるはずがない。ところが、ここに奈良茂のしたたかな計略があったのだ。まず奈良茂は江戸一の木曽ヒノキの問屋柏木屋へ行き、木材を売ってくれといった。だが、むろん柏木屋は頭から断った。すると、奈良茂は恐れながらと訴え出て、柏木屋に木材を売るように命じてほしいと願った。そこで、役人が柏木屋へ行き、木材はないのかと問うと、船が入らないのでと、通り一遍の口実を使った。ところが、それこそが奈良茂の思う壺だった。同業の事情に明るい奈良茂は、いえそんなはずはありません、柏木屋の木材の隠し場所へご案内しましょう-といって、貯木場へ案内した。最初、体よくあしらわれた役人はカンカンに怒って、柏木屋の隠し場所にあった木曽ヒノキを片っ端から焼印を捺して奈良茂に下げ渡した。そして柏木屋の当主と番頭は、三宅島へ送られてしまった。奈良茂はライバルを没落させたばかりか、日光修復の工事用木材をタダ同然で手に入れ、しかもなお2万両分の余剰木材が残ったという。半ば伝説の主人公、紀文にふさわしい逸話だ。

実際は、紀文はもっと地味な商売人で、こうしたモデルになったともみられる豪商ほど詳細は分からない。だが、材木商としての地歩を固めた紀文が、当時の幕府の“大物”、勘定奉行の荻原重秀を抱き込み、幕府の土木事業の指名を受けたことは確かなようだ。中でも幕府が行った上野寛永寺の中堂建設の材木を一手に引き受けて、50万両の儲けをはじき出したという。彼が紀文大尽として、吉原の大門を締め切って、傾城(けいせい)を買い切りにしたなど、“勇名”を馳せるのはこれからのことだ。

(参考資料)津本陽「黄金の海へ」、邦光史郎「豪商物語」、南原幹雄「吉原大尽舞」、中田易直・南條範夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

鴻池新六・・・十人両替商の筆頭で大名並みの権威持った江戸の大富豪

 江戸時代を通して、豪商と呼ばれたのが鴻池家だ。全国一の富豪で、諸大名に何千万石もの大金を貸し付け、その各大名から扶持をもらって、合わせると一万石を超え、大名並みの権威を持っていたといわれる。現在の銀行業務を行っていた十人両替商の筆頭として知られた鴻池家の始祖が新六幸元だ。生没年は1570年(元亀元年)~1650年(慶安3年)。

 鴻池の姓は、摂津国伊丹在鴻池村に住んだことに由来する。元は山中姓だったという。それも、尼子十勇士を率いた尼子の家老、山中鹿之介幸盛の子が新六だと伝えられている。新六は幼時、大叔父にあたる山中信直に養われたが、この大叔父が没して後は大叔母に育てられた。15歳で元服して幸元と名乗ったが、武士の身分を隠すため、名前も新右衛門と変え、両刀を捨てた。豊臣秀吉の天下となって、彼の身の上はかえって処世の妨げとなったのだ。

 摂津国鴻池は古来、酒造の地で、やがて新六もその仲間の一人になることができた。当時の酒は今でいう濁り酒だ。ある時、新六に叱責されて、それを恨んだ使用人が仕返しのため、酒桶の中に、灰汁を投げ込み、そ知らぬ顔をして主家を出て行った。翌朝、いつものように新六が酒造場の見回りにいくと、大桶の酒が、どうしたことか、濁り酒から清酒に変わっていたので驚いた。調べてみると灰汁桶が空になっていて、清酒に変わった酒桶の底に、灰汁が残っていた。そこで、あの男のしわざと気付いた。ところが、この美しく澄んだ酒をすくってみると、香気があって、味がいい。不思議なことだ。使用人にも試飲させると、皆に評判がいい。

そこで実験を重ねて、清酒づくりに励み新製品を売り出すことになった。これが鴻池の「諸白(もろはく)」と称された清酒だ。この清酒は評判を呼んだので、新六は江戸ヘ出すことを決めた。当時、江戸は人口100万人に達し、ロンドン、パリを抜いていた。この100万人の人口の半数は旗本や諸大名の家臣とその家族、つまり消費するだけの武士階級だ。しかも江戸近辺は当時、米さえ作れない乾いた土地が多く、酒はすべて伊丹や伏見から送っていた。

新六はこの「諸白」を、初めは馬で、次には船でどんどん江戸へ大量輸送し、売れに売れたのだ。そこで、鴻池は自ら廻船問屋を開業するに至った。こうして新六は酒造家として成功した。
新六は妻・花との間に10人(8男2女)の子に恵まれた。次男と三男は分家して、別の酒造家となり、1619年(元和5年)、新六も鴻池村を出て、大坂城下の内久宝寺町に店を開いた。鴻池村の本宅は七男が継ぎ、大坂の店舗は後に、八男正成が相続するようになった。その頃の鴻池家は約240坪の敷地に、酒造蔵と米蔵それぞれ2棟を持ち、年間1万7000石の清酒を醸造していた。

新六は64歳のとき海運業を始めた。天下の台所と称された大坂は、様々な物産の出船入船千艘という一大商都となって、物流手段として船への需要が大きくなるとの判断だった。初め、自家製の酒を江戸へ運んでいるだけだった鴻池の船も、江戸の帰りに大名から頼まれた参勤交代用の荷物を運ぶようになり、やがて大名家出入り商となって、米を扱うようになった。やがて、大名の蔵元となり、大名貸しする両替商となっていくのだ。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

五代友厚・・・関西財界の基礎確立に貢献 大阪財界の父

 五代友厚は大阪株式取引所、大阪商法会議所などを設立した、大阪財界の父といってよい働きをした。渋沢栄一が関東で商工会議所や株式取引所を設立して、多くの事業を生み育てていったのと並び称された。

 五代は天保6年(1835)12月26日、薩摩国鹿児島の城下町で生まれた。幼名は才助。五代家の先祖は島津18騎の一人で“銀獅子”と称していた。その五代家の五代目、秀堯と妻やす子との間に生まれた次男が、後の友厚だった。兄徳夫、姉広子、妹信子といった兄弟とともに生まれ育った家は松林の中という静かな環境で、父は儒学者として知られ、藩内にあっては町奉行を務めていた。ただでさえ質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学んだ。

 14歳になった時、琉球公益の係を兼ねていた父親が、帰宅すると奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。それは、藩主がポルトガル人から入手した輿地図だった。父が兄の徳夫に声をかけなかったのは、兄がコチコチの保守主義者で、外国の話をすると真剣に怒り出すからだった。その点、友厚は早くから異国の文物に興味を持って、これが世界地図だと知ると、食い入るように眺めていた。 

そして、その地図には薩摩はおろか日本も載っていないことを教えられる。それなのに、国内ではやれ薩摩だ、やれ長州だといって互いに相争っている。どうして力を一つにして外国に負けないような国力と技術力をつくろうとしないのだろうか-と疑問を持つ。

 藩主が父に申し付けたこの地図の模写を、友厚は一人で引き受け二枚分を一気に筆写した。そして一通を藩主に献上して、残る一枚を自室の壁に掲げた。地球は丸いというので、直径2尺(60・)ばかりに球体を作って、そこに世界地図を貼り付けた。そしてそれに彩色をした。球体にしてみると、さらに世界の様子がよく分かった。

 16歳になった友厚は藩候に建白書を出して、海運の隆盛を図って、学生を遊学させるべしと主張した。その願いが聞き届けられ、友厚は長崎出張を命じられた。当時幕府は長崎に海軍伝習所をつくって、オランダ人教官を雇って若い武士たちに航海術を学ばせようとした。そこには幕臣勝海舟、榎本武揚、佐賀の大隈重信、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、長州の高杉晋作、井上馨、紀州の陸奥宗光、福井の由利公正など各藩の英才が集まっていた。これらは後に明治を背負って立つ傑物となった人たちで、彼らは藩の枠を越えて交友を持った。友厚の青春の舞台はこの長崎だった。

 慶応2年(1866)2月、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダを歴訪して、各種の工場や病院などの施設を視察し帰国した五代は、産業振興と富国強兵のニューリーダーとなった。そして御納戸奉行格に任じられて、藩の産業経済の中枢に位置する身となった。まだ32歳の時のことだ。明治維新が成立すると、彼は西郷隆盛や大久保利通とともに新政府の参与に任じられた。薩摩が実行してきた産業立国と富国強兵策を、今度は中央政府にあって断行することとなり、大いに意欲を燃やした。

 明治2年、五代は大久保と協議のうえ実業の道を進むことを伝え大阪へと向かう。大富豪、山中善右衛門(鴻池)、殿村平右衛門、広岡久右衛門たちを集めて、まず銀行の前身ともいうべき為替会社と通商会社を大阪に設立することを要望した。ちょうどその頃、大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、実業界のリーダーとして出発している。その後、五代は鉱山業、紡績業などに乗り出したほか、天和銅山(奈良)、半田銅山(岩手)など4銅山を経営、たちまち鉱山王となった。

 五代は堂島米商会所の組織化、大阪株式取引所の開設、大阪商法会議所の創設などに次々取り組み、商法会議所が生まれると彼は初代会頭に推された。現在の商工会議所の前身がこれだ。明治13年、彼は現大阪市立大学の前身の大阪商業講習所を設立し、商家の子弟に、近代的な経営学を教えることにした。続いて大阪製銅所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの事業化に参画して、さながら会社づくりの神様の如く、多くの経済組織と企業づくりを行った。

 明治18年6月、糖尿病を患った五代は、9月25日、東京の自邸で永眠した。51歳だった。商業家というよりも商工業界のリーダーとして関西財界の基礎づくりに功績を残した五代は、いまも鹿児島と大阪商工会議所にその銅像が遺されている。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

小林一三・・・鉄道事業経営とエンタテインメントをコラボ

 小林一三は阪急電鉄・阪急百貨店・阪急東宝グループの創業者で、阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても知られる。鉄道沿線の住宅地開発、百貨店経営など幅広く関連事業を経営し、沿線地域を発展させながら、鉄道事業のとの相乗効果を上げた。今日の私鉄経営のビジネスモデルの原型をつくった人物の一人だ。また東京電燈会社の経営改革にも携わった。第二次近衛内閣で商工大臣、終戦後は幣原内閣で国務大臣をそれぞれ務めた。生没年は1873(明治6)~1957年(昭和32年)。

 1月3日に生まれたので、一三と名付けられたが、母きくのが同年8月22日に急死してしまったため、養子だった父は離縁。一三と姉の竹代は、両親を失って孤児となってしまった。とはいえ、祖父母や一族に育てられ、何不自由なく成長していった。彼の生家は山梨県巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)で、韮崎は甲州街道の宿駅で、甲州と信州のコメが集まり、豪商が軒を並べる土地柄だった。小林家は屋号を布屋といって、酒造と絹問屋を兼ね、豪商中の豪商として知られた家柄だった。
 祖父小平治は一三が2歳のとき、彼のために別家をつくって家督を継がせた。その翌年7月に三井銀行が開業し、2年後に西南戦争が起こっている。

 一三は15歳で慶応義塾を受験して、即日入学を決めた。彼が最も打ち込んだのが芝居見物で、麻布十番にあった3軒の芝居小屋で連日のように入り浸っていた。明治25年、慶応義塾を卒業し三井銀行に入った。本店秘書課勤務だったが、仕事の中身が不満で少しも気が乗らない。そこで、大阪支店行きを志願。明治26年、大阪に赴任。ただ高麗橋の大阪支店に勤務してからも、道頓堀の芝居小屋に通って、もっぱら上方情緒に浸っていた。

月給は13円だが、韮崎の小林家から毎月100円くらい送金があるので、生活はゆったりしたものだった。文人とつきあって小説を書いたり、芝居通いしているうちに、一三はすっかり大阪に根を下ろしてしまった。ただ、勤務の方は大阪支店から名古屋支店、大阪支店、東京支店と変わったが、希望に反することが多く不遇だった。また結婚したが、早々に離婚、再婚した。

そして、明治39年、33歳のとき一三は三井銀行を退職。箕面有馬電気軌道株式会社設立に参画、様々な、紆余曲折はあったが、一三が専務、北浜銀行の頭取・岩下清周が社長で箕面電車が誕生。一三は電鉄経営者への道を選んだ。彼は“もっとも有望な電車”というパンフレットを出して、当時としては珍しいPRに乗り出し、今ではどの電鉄会社もやっている住宅街の造成を行って、沿線の繁栄を図った。いずれも当時としては、先駆的な手法であり、事業戦略だった。池田に分譲住宅を造ったり、箕面に客寄せの動物園を開設するなど、一三の奮闘は続いた。

大阪から宝塚まで線路を延ばすには何か客寄せが必要というので、宝塚に新温泉をつくって、そこに温水プールを開設した。しかし当時の規則では、男女別々に分けるべしというので、想定したほど客が集まらず、そこで考えついたのが少女歌劇だった。当時、三越で少年音楽隊が出演して人気を得ていたことから、一三が思いついたもので、素人の少女を集めて、今でいうオペレッタを演じさせようというものだった。大正2年に始めたときは、女子唱歌隊と称していた。大正3年4月1日、500人収容の劇場ができ上がって、いよいよ処女公演を行った。この公演は2カ月間大入りを続けた。この成功で年4回の公演に踏み切った。

一三は北銀事件を機に、借金し自社株を買い取りオーナー経営者となった。大正7年、社名を阪神急行電鉄と変更、同9年に神戸線30.3・が開通した。47歳となった一三は、経営者としてようやく独創的な手腕を発揮するようになった。彼は5階建ての阪急ビルを建設。その2階に食堂を開設、これまで一流レストランでしか食べられなかった洋食を、30銭均一で食べさせた。とくにコーヒー付き30銭のライスカレーは大好評だった。また、1階を白木屋に貸して、日用雑貨の販売をさせた。この後、一三は阪急電車梅田駅に乗降客を吸引する新しいターミナル百貨店を誕生させた。

一三は既成概念に捉われず、従来の高料金興行とは違ったやり方による演劇や映画の経営を始めて、東宝王国をつくり上げた。その経営手腕を買われて、彼は東京電燈会社の経営改革にも起用された。

(参考資料)邦光史郎「剛腕の経営学」、小島直記「福沢山脈」

下村彦右衛門・・・「現金正札販売」をモットーに成功した大丸の始祖 

 大丸百貨店の始祖、下村彦右衛門は、京都伏見で生まれた。下村家はもともと摂津の国、山田村の郷士の出身だと伝えられているが、祖父の代には伏見の町で古着問屋を営んでいた。当初、曽祖父の住んでいた河内を記念して、“河内屋”を屋号としたが、祖父が京の五山の送り火、大文字に魅せられ“大文字屋”と改称した。祖父・久左衛門の三男・三郎兵衛が二代目を継いだが、これが彦右衛門の父だ。三郎兵衛の子供たちのうち、長男が早死にしてしまったので、次男の長右衛門が跡を継いだが、彼は優柔不断で怠け者だった。そのため家運は次第に傾いていった。元禄12年(1699)頃のことだ。

大文字屋は京都の色街の一つ、宮川町に質屋と貸衣装の店を出した。三男彦右衛門は父の言いつけで、この店を手伝った。彼は人並み外れて背が低かった。そのうえ頭ばかり大きくて、福助人形そっくりだと、人にからかわれたが、じっと我慢して、いつもニコニコと人に接した。19歳になった頃、彦右衛門は祖父の跡を継いで古着屋を引き受けた。毎日、大風呂敷に古着を包んで背に負うと、とことこと京都の市中まで運んで行って売るのだ。それは実入りが少ない割に、辛くて果てしのない労働だった。休みなく働き続けて23歳のとき、勧める人があって村上光と結婚して、一男をもうけたが、5年後に離婚している。

享保2年(1717)、苦労の末、伏見の一隅に小さな店を開いた。これがいわば大丸の誕生だった。そのとき、壁に掛かった柱暦に記されていた文字をヒントに、○の中に大と書き、これを商標とすることに決めた。○は宇宙を表し、大は一と人とを組み合わせたもので、それなら天下一の商人を意味することになると彦右衛門は解釈した。

彼は店の者を集めてよく教え諭した。“商人は諸国に交易して、西の産物を東に流通させ、北の商品を南に送って、生活の資を商い、それによって自分も応分の利を得て、その身を養うものである。だから決して自分の都合中心に考えてはいけない。必ず世間のためになり、人様の生活に役立つ品を商わなくてはならん。世のため人のためになってこそ、はじめて商いが発展するのである”

「現銀正札販売」、それが彦右衛門の商法の中心だった。享保11年(1726)、彼は大坂の心斎橋に共同出資の店を出し、2年後には名古屋店、続いてその翌年には京都柳馬場姉小路に仕入店を開設した。当時の商人は、「江戸店持京商人」といって、江戸に販売店を開いて、京都に本店あるいは仕入店を置くことを理想としていたからだ。これは人口100万人と世界一、二の人口を擁しながら、江戸はその半数が武士階級で、その他にも職人や商人が多く非生産者がほとんどを占めていた。そこで一大消費地江戸に販売店を開いて、当時最大の呉服の生産地京都に仕入店を置くというのが商人の理想とされていたのだ。

 現金掛け値なしという正札販売は先輩の三井越後屋が最初に行ったものだが、
大丸屋の彦右衛門はいいことを見習うのに遠慮は要らないとばかり、大いにアイデアを模倣した。三井越後屋の貸し傘宣伝法もちゃっかり取り込んで“大丸マーク”入りの傘を雨の日に貸し出して、江戸の街々に大丸印の傘を氾濫させた。神社や寺院に手拭いを寄進して、手洗い場に吊るしてもらった。

店員には賭け事を一切禁じていたが、お客には福袋を売り出して、一等賞に振袖を賞品として進呈した。こうした才智と才覚による新商法は大いに当たって、大丸はやがて江戸でも評判の呉服商店の一つに加えられた。

 大丸は繁栄に繁栄を重ねたが、創業者の下村彦右衛門はまだ56歳だというのに、早くも隠居を宣言した。50代から先は大丸屋の運営を支配人に託して、彦右衛門は半ば隠居の心境だった。茶の湯や謡曲を楽しみつつ、もっぱら家訓をつくって子孫への戒めとしようとした。
彼はたとえその人が目の前にいなくても、得意先を呼び捨てにするようなことを許さなかった。客に上下をつけるな、たとえ子供が買いにこようとも、大名がこようとも同じく客として扱うべし、目先だけの商いを決してするなと戒めた彦右衛門は、商いに誇りを持っていた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」