「アジア-国際交流」カテゴリーアーカイブ

ジョクジャカルタのお好み焼き店が日・イ交流の場に

ジョクジャカルタのお好み焼き店が日・イ交流の場に
 日本人留学生が多く住むジョクジャカルタ特別州スレマン県に今年4月、本格的な日本風お好み焼き店「こてこて」がオープンした。元広島大の留学生、ガリー・ハリラニンダ・ベルダナさん(28)が、「日本のありのままのお好み焼きを提供したい」とこだわって開業した、ムスリムにも配慮した「ハラル」お好み焼き店だ。以下、じゃかるた新聞が伝える、インドネシア人と日本人の交流の場となっている同店の様子を紹介する。  
 入口には店名が書かれた手作りの暖簾(のれん)が下がり、オレンジ色の電球が温もりを感じさせる。香ばしいソースの匂いに誘われて中に入ると、カウンター上部には木の札に書かれた「広島風」「大阪風」の文字。ソースや鉄板、店の内装まで、日本のありのままにと、こと細かくこだわったあとがうかがわれる。ソースは自家製だ。壁には店を訪れた多くの人々の写真が飾られている。ガリーさんは、日本の味をインドネシアに広めるとともに、店を触れ合いの場として様々な人に交流してもらいたい-と話す。
 店主ガリーさんがここまでこだわる日本との関わりは古く、それは幼少期に遡る。親の都合で幼稚園~小学5年生までを広島県東広島市で過ごしたのだ。この間に胸の奥深くに刻み込まれた日本への思い入れは、インドネシア帰国後も捨てられずに、広島大学に留学という形で具現化されることになった。
 そんなガリーさんだけに、「こてこて」のお好み焼きは通常、インドネシアで出されるお好み焼きとかなり違う。インドネシアでは一般に薄くてべったりしたお好み焼きを出す店が多い。ところが、「こてこて」では日本のオリジナルに近いお好み焼きに仕上げている。魚介やチーズなど様々なトッピングが可能で、サイズは大、中、小を用意。値段は1万ルピアから。本格指向のこだわりが受けてか「こてこて」は毎晩、多くのインドネシア人や日本人留学生らでにぎわう。とくに日本からの帰国子女たちに人気があり、憩いの場所になっているという。

熊本大が2大学と提携 アイルランガ大,ITSと交流強化

熊本大が2大学と提携 アイルランガ大,ITSと交流強化
 熊本大学は東ジャワ州スラバヤの国立アイルランガ大学と連携強化に向けた覚書、スラバヤ工科大学(ITS)と修士レベルでの共同学位プログラムをそれぞれ締結した。これにより、インドネシアの大学機関との交流を促進する。
 11月25、26の両日にはスラバヤのホテルで第10回熊本大学フォーラムを開催。同大からは約40人の教職員が参加し、アイルランガ大やITS関係者も出席した。アイルランガ大の研究者が生命科学分野の学部の教育に関してプレゼンし、熊本大の研究者は地質工学など様々な分野で特別講義を実施。同大の谷口功学長は「インドネシアの大学機関と関係を深化させていきたい」と意気込みを語った。
 熊本大学には現在450人の留学生が在籍。インドネシア人留学生は全体で2番目に多い44人。2010年にはITS内に熊本大オフィスを設置し、学術交流などを通じ両校の交流を深めてきた。

パプア州で日本兵の遺骨282柱を確認 厚労省の派遣団

パプア州で日本兵の遺骨282柱を確認 厚労省の派遣団
 太平洋戦争中に死亡した日本兵の遺骨を収集するため、インドネシアパプア州ビアク島を訪れている厚生労働省の派遣団は11月25日、282柱の遺骨を確認し、焼骨した。26日の追悼式などを経て、遺骨はおよそ70年ぶりに帰国する。遺族ら民間6人と厚生労働省や大使館の職員で構成される派遣団は19日、同島に入った。地元住民らの協力も得て、収集した遺骨をインドネシア大学の法医学者らが鑑定した。
 同島での遺骨収集は56年に開始され、今回で15回目。太平洋戦争末期、日本軍の航空基地があった同島は1944年5月末、圧倒的な軍備を誇る米軍上陸後、日本軍は壊滅。応戦した日本兵約1万1000人が死亡。帰還した遺骨は、今回確認分も含め約4250柱にとどまり、まだ約6750柱が同島に眠っているとされる。

東ティモール警察官がブカシで日本式地域警察官育成研修

東ティモール警察官がブカシで日本式地域警察官育成研修
 じゃかるた新聞によると、東ティモールの警察官がインドネシア警視庁で、11月17日から1週間にわたり、日本式の地域警察官の育成研修を受けている。研修には30~40代の東ティモール警察官が参加。警視庁ブカシ県、ブカシ市両署管内の交番や駐在員から業務の内容などの説明を受けるとともに、地域の民家や学校に出かけ、実際の巡回連絡を経験した。
 インドネシア警視庁は10年以上前から、国際協力機構(JICA)による警察改革支援で、交番制度など日本式の地域警察官の育成を図っている。また、東ティモールは2002年の独立以降、治安状況が徐々に改善。さらなる安定化には地域住民との協力や信頼関係の構築が重要で、東ティモール警察は2008年から日本式地域警察官制度の確立を目指している。そこで今回、東ティモールは同国より早く日本式地域警察官育成を始め、一定の成果を出しているインドネシアの事例に学ぼうというのが狙い。

きれいな街づくりへ 芦田さんがジャカルタ国立大で講演

きれいな街づくりへ 芦田さんがジャカルタ国立大で講演
 じゃかるた新聞によると、ジャカルタお掃除クラブ代表の芦田洸さん(51)が11月16日、東ジャカルタのジャカルタ国立大学(UNJ)で行われた日本文化祭「自由祭り」で、「日本のようなきれいな街を目指すためには」のテーマで講演した。芦田さんは約120人が集まり満員になった会場で、「ポイ捨てするのは恥ずかしいこと」という意識を持ってもらうようにしたいと意気込み、何よりも「ごみを出さないことが大切」などと呼び掛け、自分たちの街をきれいにすることの大切さを訴えた。
 芦田さんの活動の原点は2012年4月、じゃかるた新聞のコラムに清掃活動を呼び掛けたところ、数人から反応があったところから始まる。同月末にクラブを創設。日曜日朝に中央ジャカルタ・スナヤンのブンカルノ競技場でごみ拾いを続け、最近では地元のテレビや新聞でお掃除クラブの活動が取り上げられるようになったという。芦田さんは常に携帯灰皿を持っていること、外国企業はインドネシアに数多く投資しているが、街が汚いから住みたくないという人も多いことなどを紹介。
 教材に、日本の小学校の掃除の時間の様子をビデオで見せるなどし、啓蒙・啓発活動用の『ごみの怪じゅう(Raksasa Sampah)』と題した紙芝居を披露した。紙芝居は現在ジャカルタ在住のイラストレーター、本多智子さんがつくったものだ。この紙芝居で今後、地元の小学校などに出向き啓発活動していくという。セミナーにはお掃除クラブのメンバー十数人も参加。講演後は文化祭会場でごみ拾いをした。

セイコー時計の”こだわり”のものづくり精神を講演

セイコー時計の”こだわり”のものづくり精神を講演
 インドネシア日本友好協会(PPIJ)は11月14日、時計大手セイコーウオッチの服部真二社長(セイコーホールディングス会長)らを招き、中央ジャカルタのホテルで「第5回ものづくりセミナー」(後援:在インドネシア日本大使館、日本貿易振興機構、元日本留学生協会)を開いた。
 今回はセイコー時計の歴史、ものづくりの理念・こだわりなど基本的な考え方の紹介と、組立・彫金の現場における技術者の実演も交えた内容となった。実演部分を担ったのが、盛岡セイコー工業内の雫石高級時計工房に所属し、高級機械式時計の組立師の桜田守氏と、彫金士の照井清氏。2人は「現代の名工」と称される厚生労働省の卓越技能賞に選ばれ、黄綬褒章を受章しており、集まった約100人の出席者は精密な作業を、静かに息を呑んで見守った。
 じゃかるた新聞によると、冒頭に講演した服部社長は、腕時計づくりを開始した1913年から今日に至るセイコーの100年の歴史を紹介。世界的にもスイスをはじめ、部品ごとに別工場でつくる水平分業型が主流の時計づくりの業界で、セイコーは部品から組立まで1社で行う垂直統合型の、世界でも数少ないマニュファクチュール(一貫生産工場)であること。この点こそが同社のこだわりであり、これが優れた製品を生み出す-と強調した。インドネシアでは1968年にアジア・ジャヤ社と販売代理店契約を締結し、現在は専門店9店のほか、600店で販売しているという。
 実演では、桜田氏は直径200ルピア硬貨ほどの基盤に、120個の部品をピンセットで取り付けていく作業を実演した。薄さは198㍉で、生産できるのは1日1個という。彫金は0.25㍉の薄さの板に、0.15㍉の深さで模様を彫る。照井氏は「もっと良いものがつくれる。もっと時間を縮められるという、貪欲さがないと工夫や努力をしない」とものづくりに対する心構えを話した。

気仙沼市長らユドヨノ大統領を表敬訪問 震災慰問の返礼

気仙沼市長らユドヨノ大統領を表敬訪問 震災慰問の返礼
 インドネシアを訪問している宮城県気仙沼市の菅原茂市長ら、同市経済界の10名を合わせた訪問団15名は11月12日午前、ジャカルタの大統領宮殿にユドヨノ大統領を表敬訪問した。同大統領夫妻は、東日本大震災後の2011年6月18日、気仙沼市を訪れ被災地を視察、仮設住宅や避難所を慰問するとともに、同市に200万米㌦の寄付を受けた。その際、気仙沼市の復旧、復興にあたり、津波災害からの復興を果たしたバンダ・アチェ市をぜひ訪問し、復興に役立ててほしい旨、訪問要請があった。
 こうした経緯から、今回はその大統領の要請に応えて同国を訪問し、気仙沼市の復興の状況を説明するとともに、寄付金の活用計画について報告するのが目的だった。2年5カ月ぶりの再会で、菅原市長ら同訪問団は笑顔で大統領と握手を交わし合った。
 同訪問団は25日に帰国するまで、この後、ジャカルタ特別州、アチェ州バンダ・アチェ市、バリ州デンパサール市を歴訪する予定。その間、インドネシア側の経済団体、水産加工業界および関連企業、港湾関係部署などと意見交換し、経済交流の発展を図る。

 

由美子バレエ教室がジャカルタ芸術劇場で慈善公演

由美子バレエ教室がジャカルタ芸術劇場で慈善公演
 西ジャワ州ボゴールにある由美子バレエ教室(由美子サントソ衛藤さん主宰)は11月10日、中央ジャカルタのジャカルタ芸術劇場で「くるみ割り人形」の慈善公演を開いた。じゃかるた新聞によると、日本からゲスト出演した森眞美さん(大屋バレエMOM代表)、英ロイヤルバレエ団に留学経験がある長田沙織さん、熊川哲也バレエ・カンパニーに在籍経験があり、現在フリーで活躍する高島康平さんらプロのダンサーが、同教室の生徒112人と共演。約530人が集まり満員となった会場からは、これらプロのダンサーの圧巻の踊りに”ブラボー”の声が上がり、子供たちのたどたどしい踊りに笑いが起き、でも可愛いと拍手の音が鳴り響いていた。今回の公演の収益は全額、ボゴールのインドリヤ自閉症センターへ寄付される。 

 

en塾(エンジュク)が「バックトゥザ戦国!」日本で公演

en塾(エンジュク)が「バックトゥザ戦国!」日本で公演
 じゃかるた新聞によると、インドネシア人学生による日本語ミュージカル劇団「en塾(エンジュク)」は11月2、3日、中央ジャカルタのジャカルタ芸術劇場で、第5回公演「バックトゥザ戦国!」を上演した。インドネシア人留学生が時空をつなぐ不思議な扉で、現代日本と戦国時代を行き来する筋書き。この演目は2014年4月に熊本、東京で公演し、東日本大震災の被災地も訪問する予定だ。
 戦国時代に迷い込んだ留学生が、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が主君・織田信長の草履を懐で温めていたエピソードから、信長が有力大名、今川義元を破り、その名を”全国区”にした桶狭間の戦いや、姉川の戦いなどを垣間見る。そのうち留学生と信長との間で、時代観念のギャップを超えた交友が生まれる…。インドネシア人の観客にも理解しやすい平易な説明と歌、ダンスを交えて、笑いとシリアスな要素が入り混じる構成になっている。
 en塾は2009年の初演から「かぐや姫」「浦島太郎」「雪女」に題材を取った日本昔話三部作を上演。2012年は大正時代の下町を舞台にした「我が輩はニャンコである」に挑戦している。

100年迎えたジャカルタの日本人会 231人から8659人に

100年迎えたジャカルタの日本人会 231人から8659人に
 ジャカルタの日本人会は10月、設立から節目の100年を迎えた。1913年(大正2年)10月、日本人商店「トコジュパン」の店主、商社員らが中心になってバタビヤ日本人会が設立された。この時の会員数は231人。その後、拡大し続けた組織・会員数も、周知の太平洋戦争勃発で一度途絶える。こうした苦難、曲折を経て、現在のジャカルタの日本人会は8659人(2012年10月、在留届けベース)に達している。100年で40倍近くに増えたわけだ。
 ただ、日本とインドネシア(蘭領東インド時代~)の関わりはもっと遡る。初めての日本人会は1897年(明治30年)、北スマトラ州のメダンで産声を上げている。そして1905年設立のマルク州のドボ日本人会、1913年7月設立の西ジャワ州のバンドン日本人会、同10月のバタビヤ日本人会へと続いたのだ。