「小倉百人一首1~50」カテゴリーアーカイブ

私説 小倉百人一首 No.11 参議 篁

参議 篁
※小野 篁

わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと
       人には告げよあまのつりぶね

【歌の背景】仁明天皇の承和年間に乗船のことについて、遣唐大使と争ったため、嵯峨天皇の怒りを受け、官位を剥奪され隠岐島へ流された。これは、その島流しのため、難波から船で出発するとき詠んだもの。

【歌 意】広い大海原を多くの島々の間を通り過ぎながら、(私の舟が)沖へ漕ぎ出していったと、(都にいる)あの人にだけは伝えてくれよ、波に浮かぶ海人の釣り舟よ。

【作者のプロフィル】参議小野峯守の長男。淳和天皇の承和元年、遣唐副使として出発したが、暴風に遭って引き返し、その後再三の出発も果たさなかった。彼は病気と称して役を辞し、同5年「西道謡」という詩を作り、遣唐使のことを批判したので嵯峨上皇の咎めを受け、隠岐に流された。承和7年、文才を惜しまれて召し返され、14年参議になる。仁寿2年(852)12月没。51歳。

私説 小倉百人一首 No.12 僧正遍昭

僧正遍昭

天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ
       乙女の姿しばしとどめむ

【歌の背景】毎年11月、宮中で催される豊明節会の折り、公卿や国司の未婚の美女を召して舞を舞わせた。その舞姫をみて天女を連想して詠んだもの。

【歌 意】空を吹く風よ、(天女が往来するという)雲の中の通り道を、雲を吹き寄せて閉じてくれ。あの天女たちの華やかな姿をいましばらく地上にとどめておきたいから。

【作者のプロフィル】大納言良岑安世の八男。素性の父。安世は桓武天皇の皇子で、良岑の姓を賜った。遍昭は出家してからの名で、それ以前は良岑宗貞と称していた。仁明天皇の恩顧のもとに蔵人頭にまで至ったが、35歳で帝の崩御に遭い出家した。以後各地で修行の後、叡山の慈覚大師(円仁)、智証大師(円珍)に師事して伝法灌頂を受け、権僧正、僧正に至り、元慶寺座主、花山僧正と呼ばれた。75歳で没。

私説 小倉百人一首 No.13 陽成院

陽成院
※第57代天皇

筑波嶺のみねより落つるみなの川
       恋ぞつもりて淵となりぬる

【歌の背景】光孝天皇の第一皇女綏子内親王に宛てて詠んだ恋の歌。光孝天皇は55歳の高齢で陽成天皇に代わった人。綏子内親王はのち陽成妃になっているから、この恋は成就している。

【歌 意】古来、男が歌いかけ女が答えられなかった時は、女が男の一夜妻にならなければならなかったという歌垣の山、筑波山。その筑波山の峰から落ちる男女川は、その水が積もり積もって深い淵となってしまうが、そのように私のあなたへの激しい恋の思いも積もり積もって深い淵のようなものになってしまったことだ。

【作者のプロフィル】第57代の天皇。名は貞明。清和天皇の第一皇子。貞観10年(868)12月生まれ。生母は藤原長良のむすめ高子すなわち二条の后で、藤原基経の妹。元慶元年、9歳で即位。外戚の基経が摂政となって政治を執った。病気のため同8年、光孝天皇に譲位し、陽成院に住む。太上天皇の尊号を贈られた。基経をはじめ藤原総領家に疎まれ8年の在位だったが、結局、退位後60数年を生き、82歳という前例のない長寿を生きた。

私説 小倉百人一首 No.14 河原左大臣

河原左大臣
※源 融(とおる)

みちのくのしのぶもぢずりたれ故に
       乱れそめにし我ならなくに

【歌の背景】上二句「みちのくのしのぶもぢずり」は、「乱れそめにし」というための序詞。したがって、陸奥の信夫の郡でつくられたという信夫もぢずりは当時、京ではおそらくもてはやされたのであろう。恋の歌のやりとりで、自分の不実をなじる相手を逆にやんわりとなじる駈け引きの歌。

【歌 意】陸奥の信夫郡から産出するもじ摺りの衣の乱れ模様のように、私の心は乱れ始めた。一体誰のせいでこのように心が乱れ始めたのでしょう。それはあなたのせいです。(それなのに私の心をお疑いとは心外です。)

【作者のプロフィル】源融のこと。嵯峨天皇の第十二皇子。母は正四位下大原金子。承和5年臣籍に降り、源姓となる。皇位への思いままならぬ無念さを晴らすごとく、巨富に任せて邸宅河原院や嵯峨山荘棲霞観を営み、豪奢な生活を送った。貞観の初め従三位、同14年左大臣。陽成天皇元慶元年に正二位となる。宇多天皇のとき従一位まで昇り、寛平7年(895)8月、74歳で没。

私説 小倉百人一首 No.15 光孝天皇

光孝天皇

君がため春の野に出でて若菜摘む
       わが衣手に雪はふりつつ

【歌の背景】光孝天皇がまだ即位する前の時康親王といったころ詠んだ歌。自分で若菜を摘んで贈ったとも、贈った日にちょうど雪が降っていたのでこのように詠んだともいわれている。ただ、その若菜および歌を届けた相手の人とは誰か?定かではないが、藤原基経ではないかといわれる。基経は10代という若い陽成天皇を帝位から下ろし、55歳という高齢の光孝天皇に代えた“実力者”だけに、そう考えると恋歌のかたちを取りながら、別の意味を含んだ歌だ。

【歌 意】あなたに差し上げたくて、春の野に出て、かつては神に捧げたという若菜を摘んでいますと、私の衣の袖に雪はしきりに降ってきます。

【作者のプロフィル】第58代の天皇。名は時康。仁明天皇の第三皇子で、御母は贈皇太后藤原沢子。幼少から経書史書をよく読み、賢く穏やかなひととなり  だったので、祖母の橘太后に可愛がられた。55歳という高齢で即位し58歳で亡くなった。

私説 小倉百人一首 No.16 中納言行平

中納言行平
※在原行平。業平の兄。

たち別れいなばの山の峰におふる
       まつとしきかばいまかへりこむ

【歌の背景】因幡守に任じられた行平が、任地へ赴くため京を出立するにあたり、親しい人に名残りを惜しんで詠んだもの。「因幡」の国にある「稲羽」山、「松」と「待つ」というように掛詞を二つ使っているところにおもしろさがある。

【歌意】私はこうしてあなたと別れて行きます。でも、あの稲羽山の峰に生えている松の「待つ」という言葉のように、あなたが私を待っていると聞いたら、すぐにも帰って来よう。

【作者のプロフィル】在原行平。平城天皇の皇子・阿保親王の第二子。母伊豆内親王は桓武天皇の皇女。天長年間(826)在原氏として臣籍に下る。業平の兄。経済の才能があり治績をあげた。天慶年間、中納言正三位となり、寛平年間(893)76歳でなくなる。仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多の六朝に仕えた。

私説 小倉百人一首 No.17 在原業平朝臣

在原業平朝臣

ちはやぶる神代もきかず竜田川
       からくれなゐに水くくるとは

【歌の背景】二条の后・藤原高子がまだ清和天皇の女御で、東宮(後の陽成天皇)の御息所といわれていたとき、屏風に龍田川に散った紅葉が流れている絵が描かれているのを題にして詠んだ。
【歌意】いろいろ不思議なことのあった神々が住んでいたと想像された時代においても聞いたことがない。たつ田川の水をこんなに真っ赤にくくり染め(絞り染め)にするとは。
【作者のプロフィル】在原業平は現代風にいえば名うてのプレーボーイだった。彼の恋の相手は二条の后・藤原高子と恬子内親王。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母である。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢神宮の斎宮として男性との一切の交渉を禁じられていた女性である。このほか、清和天皇の后であり、貞数親王の母である姪の在原文子、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子らもアバンチュールの相手と噂された。いずれも高貴な女性であり、すべて禁忌(タブー)の不倫だ。
 彼は平城天皇の子、阿保親王の第五子であり、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女。したがって、本来ならこの平城天皇の系譜に彼の皇位は伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、子供たちもやむなく臣籍に下り「在原」姓を名のったというわけだ。
 そんな不遇の生い立ちがアバンチュールの相手として、何事もなければ社会的に同列に並んでいたであろう天皇の后妃たちを選び、彼をタブーの恋に駆り立てたのではないだろうか。
 「伊勢物語」の作者。六歌仙に一人。

私説 小倉百人一首 No.18 藤原敏行朝臣

藤原敏行朝臣

すみの江の岸による浪よるさへや
       ゆめのかよひ路人めよくらむ

【歌の背景】宇多天皇の母后班子親王の御殿で催された歌合に詠んだ歌。「住の江の岸による浪」までは「夜」を言い出すための序として使われている。住の江は住吉の古称。

【歌 意】かつて難波の都があり殷賑を極めた住の江の浦。そこに寄せる波のように、あなたに寄り添い一つになりたいと願っている私なのに、昼間実際に通って行く道でならともかく、夜でさえも夢の中で通って行く道においてまで、どうしてこんなに人目を避けるのであろうか。

【作者のプロフィル】従四位下陸奥出羽按察使富士麿の長男。母は刑部卿紀名虎のむすめで、妻が在原業平の妻の妹だったことから、業平らのグループと親しかった。仁和2年6月に従六位上、左兵衛権佐、右近少将、さらに右衛門督になる。彼の代表作は『古今和歌集』に収められている「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」で、優れた歌として名高い。没年については二説ある。昌泰4年(901)、延喜7年(907)のいずれか不明。若死にだったようだ。

私説 小倉百人一首 No.19 伊 勢

伊 勢
※伊勢守藤原継蔭のむすめ。

難波潟みじかき芦のふしの間も
       逢はでこの世を過ぐしてよとや

【歌の背景】宇多天皇の皇后温子の兄、藤原仲平との恋を詠んだもの。恋人に対する思慕と怨恨とが入り混じった、恋する女性の心情を詠んでいる。

【歌意】難波の潟に生えているあの芦の短い節の間ほどのわずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。(それはあんまりです。)

【作者のプロフィル】伊勢守、藤原継蔭のむすめ。仁和の頃、七条の后に仕えたので、父の官名を呼び名にしていた。はじめ藤原仲平、次いで宇多天皇の寵愛を受け、さらには宇多天皇の第四皇子敦慶親王と、恋人を変えた情熱的歌人。ただ、小野小町が情熱をそのまま表現したのに対し、彼女の歌は情熱を抑えた慎ましい表現であったのが特色。宇多天皇との間で行明親王を産んだため「伊勢の御息所(みやすどころ)」とも称せられた。

私説 小倉百人一首 No.20 元良親王

元良親王

わびぬれば今はた同じ難波なる
       みをつくしても逢わむとぞ思ふ

【歌の背景】元良親王が不倫の恋人との秘め事が露見して問題になったとき、逢うこともままならない侘しい心情を不倫相手の京極御息所に送った激情の歌。京極御息所とは藤原時平のむすめ、褒子。

【歌意】こうして心が晴れず寂しくつらい思いをしているのだから、今はもう逢わないでこうしているのも、逢って世事の煩わしさに苦しむのも同じことだ。だから、難波の海の澪標(みおつくし)のように、たとえこの身を滅ぼすことになっても、あなたにお逢いしたいと思う。

【作者のプロフィル】陽成天皇の第一皇子。母は主殿頭藤原遠長のむすめ。三品・兵部卿。和歌に優れ、抒情歌を多く詠まれた。また、非常に色好みな性格で、美しいと風聞のある女性には必ず言い寄られた。天慶6年(943)54歳でなくなられた。