「小倉百人一首1~50」カテゴリーアーカイブ

私説 小倉百人一首 No.31 坂上是則

坂上是則
※坂上田村麻呂から4代目の好蔭の子。

あさぼらけ有明の月と見るまでに
       吉野の里に降れるしらゆき

【歌の背景】是則が大和の吉野へ旅して、旅寝の朝見た、有明の月の光と見まごうばかりの雪が真っ白に降った朝の感動を歌ったもの。

【歌 意】夜明けごろ、有明の月が出て照らしているのではないかと思ったら、吉野の里に降り積もった白雪ではないか。本当に真っ白で美しいなあ。

【作者のプロフィル】征夷大将軍坂上田村麻呂から四代目の好蔭の子。坂上氏の先祖は応神天皇の時にに帰化した後漢の霊帝の曾孫阿知使主だという。延喜8年大和権少掾になり、21年大内記、延長2年(924)正月、従五位下加賀介になり、醍醐・朱雀両天皇に仕えた。没年不明。

私説 小倉百人一首 No.32 春道列樹

春道列樹

山かはに風のかけたるしがらみは
       流れもあへぬもみぢなりけり

【歌の背景】山城国から如意岳を越えて近江国の志賀山を行くと晩秋のもみぢが美しい。山路一面に、そして山中を流れる谷川には流れようとして流れられないほどのもみぢを浮かべている。その様子をまるでしがらみのようだと歌ったもの。 

【歌 意】志賀越えの山道から見ると、谷川の激しい流れをせき止めて、おびただしいもみぢがたまっている。あれは(志賀越えの名に因み)人ならぬ風がかけたもみぢのしがらみだ。

【作者のプロフィル】従五位下歌の雅楽頭だった新名宿禰の子。延喜10年(910)文章生に補せられ、のち太宰大典、延喜20年(920)に壱岐守に任ぜられたが、任地に向かう前に没したという。

私説 小倉百人一首 No.33 紀友則

紀友則
※紀 有友の子。貫之とはいとこの関係。

ひさかたの光のどけき春の日に
       しづ心なく花の散るらむ

【歌の背景】春、そして花を詠んだ定番ともいえる名歌。古今和歌集中の秀作で、平安朝の代表作として愛される。

【歌意】うららかな日の光が射している春の日に、どうしてこんなに慌しく桜の花は散るのであろうか。

【作者のプロフィル】紀有友の子。貫之とはいとこの関係。紀氏は名族だが、友則の官歴は不遇であった。延喜4年(904)に大内記となったのが記録に残る最後の官職。翌年61歳でなくなったとみられる。

私説 小倉百人一首 No.34 藤原興風

藤原興風

たれをかも知るひとにせむ高砂の
       松もむかしの友ならなくに

【歌の背景】高砂の松を自分と同じように老いて孤独の身と見立て、彼となら友になれるかと訪ねてみたが、松は人間ではない。また昔からの知己でもない。一体誰を友とすればいいのだろうと、老年の寂しさを歌ったもの。

【歌 意】かつて親しく交わった友人たちはみんな死んで、私一人が老いて孤独に残っている。さてこれからは一体誰を自分の友としようか。あの高砂の松なら友になってくれるかと訪ねてみたが、もともと人間ではないし、昔からの知己でもない。今さら、それを友だちにするわけにもいかないのだ。

【作者のプロフィル】参議浜成の曾孫。正六位相模掾道成の子。院の藤太と号した。昌泰3年、相模掾になり、従五位下を授けられた。官位は低かったが、歌人として名を得た。管弦も巧みで、とくに琴をよくした。没年不明

私説 小倉百人一首 No.35 紀貫之

紀貫之

ひとはいさ心も知らずふるさとは
       花ぞむかしの香ににほひける

【歌の背景】貫之が奈良の長谷の観音に参るたびに定宿にしていたところへ、しばらくぶりに行くと、その宿の主人が「このようにちゃんと宿はございますのに、本当にしばらくぶり(お見えになりませんでした)ですね」と皮肉を込めて言った。そこで彼は、そこの梅の花を一枝折り取って詠んだ歌。宿の詰問に対して即興で詠んだもの。

【歌意】人の心はさあどうであろうか、わからない。しかし昔なじみのこの里の梅の花だけは、昔の通り変わらない香を放って美しく咲いていることだ。
   
【作者のプロフィル】出自は異説が多く不詳。歌人としてはもちろん能書家、評論家として活躍。土佐守として赴任、任期を終えて京に上る途中書いた日記が「土佐日記」。
   醍醐天皇の勅を奉じて、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑らと勅撰和歌集の第一集「古今和歌集」二十巻を撰進。その仮名序を書き、歌人たちを論評した。明治までは万葉集の柿本人麻呂と並ぶ歌人とされた。

私説 小倉百人一首 No.36 清原深養父

清原深養父
※「枕草子」の作者、清少納言の曽祖父。

夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 
       雲のいづこに月やどるらむ

【歌の背景】夏の月は秋の夜長のしみじみした情趣とは違った趣がある。その夏の月に見惚れて思わず夏の短い夜を寝ずに明かしてしまったときの感懐を詠んだもの。

【歌 意】夏の夜は短くて、まだ宵の口だと思って月を眺めているうちに夜が明けてしまって、気が付くと肝心の月は見えなくなってしまっている。いったい雲のどこに宿って隠れているのだろう。

【作者のプロフィル】筑前介海雄の孫で、豊前介房則の子。「枕草子」の作者清少納言の曽祖父。清原元輔の祖父にあたる。延長年間に内蔵大允となった。山城国愛宕の小野の里に補陀落寺を建立して、そこに隠棲した。紀貫之らとも交わりがあった。

私説 小倉百人一首 No.37 文屋朝康

文屋朝康
※文屋康秀の子といわれている。

しらつゆに風の吹きしく秋の野は
       つらぬきとめぬ玉ぞ散りける

【歌の背景】秋の野の草一面の露が風の吹きしきるままに飛び散って、まるで真珠を散らしたように見える。そんな光景を鮮明に詠んでいる。

【歌 意】草一面においた白露に風が吹いている秋の野は、ちょうど糸を通さない水晶の玉が散り乱れているようで、その白露がはらはらと散って美しい。

【作者のプロフィル】文屋康秀の子。「古今集」に先立つ時代の歌合で活躍したようだ。官位も駿河掾を経て大舎人大允で終わった。伝記はあまり確実には分からない。

私説 小倉百人一首 No.38 右 近

右 近
※右近衛少将、藤原季綱のむすめ。

わすらるる身をば思はず誓ひてし
       人のいのちの惜しくもあるかな

【歌の背景】右近が、永遠の愛を誓い合った相手の男が、自分を顧みなくなってからその男に贈った歌。どれだけ愛を誓い合っても、心変わりするのは男の習いである。この点は今も昔も変わらない。それを神かけて誓い合ったのだから、誓いを破った男に神罰が下らぬかと心配しているさまは、素直に解すると捨てられてもなお相手に正面から恨み言を言わず、間接的にしか抗議できない女の哀れさが表現されている。また、もう少し深く読むと、女は男の身勝手を脅し文句スレスレでからかっている歌ともとれる。

【歌意】私はあなたに忘れられる身であったのに、そのことを考えもしないで、いつまでも人の心は変わるまいと神かけて誓っておりました。でも、あなたはその誓いを破ってしまった。そのために(神罰を受けて命を失うのではないかと)あなたの命が惜しまれてなりません。

【作者のプロフィル】右近衛少将藤原季綱のむすめで、醍醐天皇の中宮、七条の后穏子の女官であったので、その女房名として父の位の「右近」を呼び名としていた

私説 小倉百人一首 No.39 参議 等

参議 等
※源 等

浅茅生の小野のしの原しのぶれど
       あまりてなどか人のこひしき

【歌の背景】「古今集」の読み人知らずの「浅茅生の小野の篠原しのぶとも人知るらめや言う人なしに」を本歌としたもの。こらえてもこらえ切れない恋心の切なさを歌っている。

【歌 意】茅がまばらに生えている小野のしの原の“しの”という名のように、恋の思いを心に忍びこらえているけれど、それもこらえ切れず、どうしてこんなにあなたが恋しく思われるのでしょう。

【作者のプロフィル】源等は、嵯峨天皇の皇子大納言弘の孫。中納言源希の次男。近江権少掾を皮切りに、参河守、丹波守、山城守などを歴任、左中弁、右大弁などを経て、天慶元年(938)参議となり、正四位下に叙された。天暦5年(951)72歳で没

私説 小倉百人一首 No.40 平 兼盛

平 兼盛

忍ぶれど色に出でにけりわが恋は
       ものや思ふと人の問ふまで

【歌の背景】忍ぶ恋の歌。恋の思いは人目に隠そうとすればするほど、素振りや顔色にそれが表れて、ついに人に不審に思われる。平安朝時代を代表する秀歌の一つ。

【歌 意】誰にも気付かれないようにと、必死にこらえてきたけれど、とうとう外(顔色・態度など)に出てしまったなあ私の恋は。何か物思いをしているのかと、人が不審に思って(どうしたのかと)尋ねるくらいに。

【作者のプロフィル】光孝天皇の皇子是忠親王の曾孫。太宰少弐篤行の第三子。和歌が上手で漢学に優れ文才があったので、天皇に認められた。天暦4年(950)に平姓を称した。赤染衛門の父ともいわれるが、定かではない。諸国の国司などを経て天元2年駿河守になった。正暦元年(990)12月没。