「悲劇の貴人」カテゴリーアーカイブ

徳川家継・・・新井白石らを後見に、徳川歴代最年少の4歳で将軍職に

 徳川家継は、徳川歴代将軍15人の中で、わずか4歳という最年少で将軍職に就いた人物だ。しかもたった7歳で霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と婚約もした。これにより江戸時代初めて、将軍家と天皇家の縁組が実現することになった。しかし家継は生来、病弱だったこともあり、風邪を悪化させ、わずか8歳で亡くなった。これにより、幕府としては期待の大きかった、八十宮吉子内親王の降嫁は実現しなかった。家継の生没年は1709(宝永6)~1716年(正徳6年)。

 徳川七代将軍家継は、六代将軍家宣の四男として生まれた。母は側室で浅草唯念寺住職の娘、月光院(お喜代)。幼名は世良田鍋松。父家宣は48歳という徳川歴代将軍の中で最も高齢で将軍に就任したことや、元来体が弱かったこともあって子宝に恵まれず、正室・近衛煕子、側室おこうの方、お須免の方らとの間に生まれた女子・豊姫、男子・家千代、大五郎、虎吉らがことごとく早世するという不幸に遭った。その結果、四男の家継(鍋松)だけが生き残ったのだ。

 ただ、幼少の家継を将軍職に就けることには父家宣もためらい、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)、顧問格の新井白石らに、いくつかの遺言を残したといわれる。1712年(正徳2年)のことだ。その主なものが「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に一任せよ」というものと、「家継を将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行せよ」というものだ。これは新井白石が後年、著した『折りたく柴の記』に記されている。

しかし、尾張藩の吉通を迎えることになれば、尾張からやってくる家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねないと考え、白石らは自分たちがしっかり後見することで家継を将軍職に就けると判断、家宣の遺言を無視する形で“幼少将軍”を断行したのだ。

もちろん、この結論を得るまでには異論も少なくなかった。幕閣では「鍋松君は幼少であり、もし後継ぎなく亡くなられたら、どうするおつもりか」という反対意見もあった。しかし、新井白石は「そのときはそれこそ御三家の吉通公を(将軍に)迎えればよい」と説得したという。

 家継は白石から帝王学を受け、政務全般は側用人の間部らが主導、家継がそのまま追認する形で運営、家宣の遺志を継ぎ「正徳の治」が続行された。家継は聡明で性格的にも穏やかだったようだ。室鳩巣の手紙によると、家継は聡明仁慈で振る舞いも静かで上品だったという。

 この時期、幼少将軍に似つかわしくない話題が幕閣・大奥を賑わしている。真偽のほどは定かではないが、若く美しい未亡人だった家継の生母・月光院と独身の側用人・間部詮房の間にはスキャンダルの噂が絶えなかったのだ。それだけ、将軍の実母の月光院の大奥における権勢が大きくなったことの裏返しとも取れた。これに伴い、一触即発の形勢となったのが大奥の権力闘争だ。先代将軍の家宣の正妻・天英院と、家継の母・月光院の間の激しい対立がそれだ。そのうちの代表的なものが「絵島生島事件」だった。

 こんな生々しいスキャンダルや、醜い権力闘争を横目に、幼少将軍・家継は短い生涯を閉じる。死因は風邪が悪化したためという。享年8。家継の死により、二代将軍秀忠の系統は断絶し、後継の八代将軍に紀州の吉宗が迎えられることになった。吉宗は家継にとっては、はとこ大おじにあたる。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、杉本苑子「絵島疑獄」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

源 実朝・・・母北条政子と北条氏の“操り人形”で、実権のない将軍

 源実朝は鎌倉幕府の第三代征夷大将軍だが、その実態は母北条政子と北条氏の“操り人形”であって、実権の伴わない将軍職を担ったに過ぎなかった。そのため、実朝は政治と関わりの薄い世界、中でも和歌の世界に精力を注ぎ多くの優れた作品を残した。また、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、朝廷に対し官位を望み1218年、武士として初めて右大臣に任ぜられた。だが、不幸にもその翌年、鶴岡八幡宮で兄頼家の子、公暁に襲われ亡くなった。これにより、源氏の将軍は三代で絶えた。

ただ、この事件には謎の部分が多いのだ。公暁をそそのかして実朝を襲わせた首謀者は誰なのか?単刀直入にいえば北条義時の影が垣間見られるのだが…。ただ、もう少し俯瞰でこの事件をみてみると、三浦氏の存在もクローズアップされてくる。実朝の生没年は1192(建久3)~1219年(建保7年)。

 源実朝は頼朝の次男として生まれた。幼名は千幡。別名は将軍家、鎌倉殿、右大臣など。鎌倉幕府の開祖、偉大な父頼朝の健在時は何不自由なく過ごしていたが、1199年(正治元年)父が急死すると、周囲の情勢は一変した。実朝8歳のときのことだ。頼朝亡き後、その主導権をめぐって、重臣梶原景時をはじめ兄頼家の長子一幡、比企能員、さらに畠山一族、和田一族らが、次々と実朝の母政子と、外戚の北条氏の手によって殺戮されていったのだ。

 そんな状況の中で実朝は多感な少年期を過ごした。そして1203年(建仁3年)、第二代将軍・兄頼家が将軍職を失い伊豆国へ追放されると、跡を継ぐ。当時の千幡に朝廷から実朝の名を賜り、征夷大将軍に任ぜられた。実朝12歳のときのことだ。しかし、幕府を支える重臣たちの間では争いが続き、とりわけ北条氏による陰湿な策謀、粛清が繰り返され、政治は北条氏による独裁化へ進みつつあった。そのため、実朝の政治への出番はなく、彼は北条氏の操り人形に過ぎず、実権のない三代将軍を演じることを余儀なくされた。

 そんな実朝が生きがいとしたのが和歌の世界だった。彼は藤原定家に師事し和歌を学んだ。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿が、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、1204年(元久元年)京より坊門信清の娘を正室に迎えたのだ。そんな鎌倉殿をみせられて、関東武士たちの間で失望感が広がっていった。

 こうした状況の中で、実朝暗殺事件は起こった。この事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。

その根拠の一つが乳母(めのと)の問題だ。当時実朝の乳母は母政子の妹の阿波局で、実朝を暗殺した甥の公暁の乳母は三浦義村の妻だった。阿波局の背後にはもちろん北条氏がいる。当時の習慣として、養君は乳母一族の「旗」だった。その「旗」があるからこそ、乳母たちは権力を振るえるのであって、「旗」を潰してしまっては元も子もなくなる。また、将軍はあくまでも貴種であって、執権がその座に就くことはできないのだ。

こうした権威と権力の密接なつながりと、超え難い溝がはっきり認識できれば、北条氏が実朝を殺す理由がないことが分かるのではないか。実朝暗殺事件の真相は公暁・三浦氏連合の実朝・北条氏連合に対する挑戦だったとみるのが妥当だ。ただ、このとき公暁側は大きなミスを犯した。目指す実朝は殺したが、義時と思って別人の源仲章を殺してしまったのだ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

源 義経・・・軍事の天才も、兄が目指す武家社会を理解できず敗北

 源義経は周知の通り、天性の戦上手で平家との合戦に連戦連勝し、壇ノ浦に平家を討ち滅ぼし、源氏の中でも最大級の戦功を挙げた。ところが、兄・頼朝の許可を得ずに朝廷より官位を受けたことや、戦上手であるが故に独断専行によって頼朝の怒りを買い、不幸にも頼朝と対立。遂には理不尽にも朝敵とされるに至る。そして、最期は庇護を求めた奥州藤原氏の時の当主・藤原泰衡に攻められ、自刃し果てた。

源氏の、そして武士団の御世をつくるために大きな功績を残しながら、正当な評価を得ることなく、わずか30年の生涯を閉じた義経は、多くの同情を引き、“判官びいき”という言葉まで生まれるほど幅広い世代に人気が高い。また、それゆえに多くの伝説、物語を生んだ。奥州平泉で討たれ、鎌倉に送られた義経の首は本物だったのか?義経は、本当は逃げ延びて大陸に渡ったのではないか?果てはモンゴルへ渡り、ジンギスカンになった、等など。

源平の争乱を制し、新しい時代への扉を開いた源頼朝・義経兄弟。革命家と軍事の天才による、理想的な協同体制は、なぜ兄による弟殺害という悲劇とともに崩壊したのか?何が二人を引き裂いたのか。

 源義経は清和源氏・源為義の流れを汲む源義朝の九男として生まれた。母は常盤御前。鎌倉幕府を開いた兄頼朝の異母弟。幼名は牛若丸、以後、遮那王、義経などに改名。別名は九郎、判官。生没年は1159(平治元)~1189年(文治5年)。
 義経は「平治の乱」で父・源義朝が敗死したことで、幼少の彼は京都・鞍馬寺に預けられる。だが成長して、自分の立場を理解した彼は僧侶になることを拒否。武芸に励み、16歳のとき鞍馬寺を出奔。父義朝が敗死した地で元服。そして奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主で鎮守府将軍・藤原秀衡に庇護を求めた。ここ平泉で義経は逞しく成長する。

 1180年(治承4年)、兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)と、義経は武蔵坊弁慶はじめ側近とともに平泉から馳せ参じ、1185年までの平家との戦いを主導。一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、義経はその最大の功労者となった。

だが、この先が問題だった。義経はその勝利の恩賞として、後白河法皇から従五位下、検非違使左衛門尉(けびいしさえもんのじょう)に任じられたのだ。このとき頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことが、取り返しのつかないミスとなったのだ。また、義経は組織の軍事的統率者としては極めて優秀だったから、平家との戦いにおける独断専行も多かった。こうした温床もベースにあって、東国武士団の総大将・頼朝と現地司令官・義経の対立は、決定的なものになっていった。

 そもそも頼朝は平家攻めの出陣にあたって、朝廷に申し入れをしているのだ。恩賞については後に一括申請しますので、個々に対して与えないでください-と。また、頼朝は出陣する東国武士団にも「朝廷から恩賞の沙汰があっても受けてはいけない。まとめて申請してもらってやる」と申し渡している。その際、恩賞は公平でなければならない。その公平な恩賞の“裁定役”が頼朝の役だったのだ。

 義経の無断任官は鎌倉勢の大前提を突き崩す、明らかなルール違反だった。そのため頼朝は激怒した。現実に義経のマネをして、朝廷から官位をもらう抜け駆け組がぞろぞろ出てきた。組織力と団結力を頼みとする東国武士団の中に、明らかに動揺が起こったのだ。

 残念ながら、義経は全くこの点が分かっていなかった。義経は、平家を打倒し親の仇を討った。その結果、朝廷からわが家(源家)の名誉として官位いただいたのだ。何も悪いことはしていない-と思っていた。だから、何を兄・頼朝は怒っているのだと。生い立ちの違いもあって、この対立は宿命的なものだったのだ。弟・義経は、懸命に新しい武士の時代に求められるルールづくりを進めている革命家の兄・頼朝を全く理解していなかった。

 頼朝・義経の対立を喜ぶ、いやもっと積極的に対立を煽るように企んだ人物もいた。後白河法皇だ。権謀家の後白河は頼朝と義経を対立、分裂させる目的で、半ば強引に官位を義経に与えたとみられる。その企みに簡単に義経が乗ってしまったというわけだ。後白河の軍略が功を奏したのだ。この部分だけをみれば、頼朝・義経の対立は兄弟げんかのように映るが、実は政務には全く疎い義経を頼朝が排除したというのが実態なのではないか。そして、冷静な頼朝は、弟・義経の断罪を、自分たちがつくる新しい武士の時代は、ルールを守らなければ、弟さえも排除する、極めて大事なことなのだぞ、という厳しさをみせつける“最大効果”を狙って断行したことなのかも知れない。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「はじめは駄馬のごとく」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「義経」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」