「悲劇の貴人」カテゴリーアーカイブ

早良親王・・・藤原種嗣暗殺事件の関係者の嫌疑で幽閉・配流、怨霊に

 早良(さわら)親王は第50代桓武天皇の弟で、皇太子の座にあったが、ある事件の関係者あるいは首謀者の嫌疑をかけられ、一言の弁明もできないまま幽閉され、配流の途中、衰弱して亡くなった悲劇的な人物だ。この後、桓武天皇はこの早良親王の怨霊に怯え続けることになった。そのため、早良親王の霊を祀るとともに、延暦19年、同親王に崇道(すどう)天皇を追号した。早良親王の生没年は750?(天平勝宝2?)~785年(延暦4年)。

 このきっかけとなったのは、桓武天皇が平城京へ赴いている最中、785年(延暦4年)に起こった長岡京造営の最高責任者、藤原種継暗殺事件だ。この事件は反桓武天皇勢力=早良皇太子の役所、春宮に仕える人々が長官、大伴家持の死後、暴発して起こしたものとみられる。桓武天皇は、自分が信頼し朝政の中枢を担っていた種継が暗殺されたことに怒り、大伴継人(つぐひと)など関係者数十人を捕縛、ただちに処刑した。この事件の背景には種継主導の下の遷都や人事などをめぐって、藤原氏と大伴・佐伯両氏との根深い対立があったとされる。

とりわけ問題を大きくしたのは、この事件の関係者の中に、春宮坊(皇太子の御所の内政を担当)の官人ら皇太子の側近が混じっていたためだ。その結果、嫌疑が早良皇太子にまで及んだ。その中には、万葉歌人として名高い大伴家持も加わっており、家持はすでに亡くなっていたが、官位を剥奪される憂き目に遭った。捕えられた早良親王は、皇太子を廃され、一言の弁明も許されないまま乙訓(おとくに)寺に幽閉された。そして、淡路への配流処分となった。早良皇太子は無実を訴えるため、自ら飲食を絶って、配流の途中、衰弱して河内国高瀬橋付近で憤死したとされている。

 早良親王は母が百済系の卑母だったので、幼いときに出家している。761年のことだ。奈良の寺に入れられ親王禅師と呼ばれていた。781年、兄、桓武天皇の即位と同時に父・光仁天皇の勧めで還俗し、皇太子に立てられている。平穏なら桓武天皇の後を受けて、皇位に就いていたはずなのだ。

 藤原種継暗殺事件に早良親王が関与していたかどうかは不明だ。だが、東大寺の開山、良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(=早良親王)に後事を託したとされること、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたことなどが伝えられている。種継が中心となって推進していた長岡京造営の大きな目的の一つが、東大寺、大安寺などの南都寺院の影響力排除だったため、南都寺院とつながりの深い早良親王が、遷都阻止を目的として種継暗殺を企てたとする見方もできるわけだ。

 さらに、早良親王が種継暗殺を企てる可能性を示唆する伏線もあった。桓武天皇の治政下、大事は天皇自身が決したが、平常の事務は皇太子と藤原種継に委ねていたのだ。そして、長岡京造営が進むと皇太子と種継との間に確執が生まれ、二人の仲は次第に険悪になっていたともいわれる。

 一方、桓武天皇側にも早良親王を皇太子の座から外し排除したいとの思惑もあった。父、光仁天皇から譲位された際、父の強い要望で僧籍にあった弟、早良親王を還俗させてまで皇太子に立てたが、できることなら可愛い自分の息子たちを跡に据えたい思いが強かったのだ。

 早良親王の死後、皇太子には新たに桓武天皇の長子、安殿(あて)親王が立てられたが、その後、天皇の身辺では忌まわしいできごとが頻発した。藤原百川の娘で天皇の夫人だった藤原旅子が年若くして他界し、天皇の母、高野新笠、皇后の藤原乙牟漏らが次々と発病してこの世を去った。安殿皇太子も体調がすぐれず、陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りと出た。

桓武天皇はこれを聞き、早良親王の怨霊をとくに恐れた。そこで人心の一新を図るべく794年、平安京に遷都した。平安遷都は怨霊ゆかりの地である長岡を退去することが目的だったが、遷都後も長く天皇は早良親王の怨霊に怯え続けた。そのため、早良親王に崇道天皇を追号した。また、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復も図られたのだ。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史/平安京」、永井路子「王朝序曲」、永井路子「続 悪霊列伝」

塩焼王・・・帝位目前に非業の最期を遂げた、藤原氏に対抗した反骨の王

 塩焼王(しおやきおう・しおやきのおおきみ)は、天武天皇の孫だ。天武天皇の子・新田部(にたべ・にいたべ)親王を父として生まれた、皇位をも望める血筋で、聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた不破内親王の夫となった人物だ。彼は、隆盛を誇った藤原四兄弟(宇合・武智麻呂・房前・麻呂)の死後、以前の勢いを失ったとはいえ、いぜんとして権勢を持つ藤原氏に対抗、皇位を奪取しようと目論んだとみられている。しかし、その企みはあっけなく露見し、官位を奪われ、最終的に配流されてしまう。『続日本紀』にはその事実だけが記され、その理由は何一つ書かれていない。したがって、詳しいことは分からない。ただ、様々な類推が可能な情報は記されている。その後、復帰し栄達するが、担ぎ出されて帝位を目前に、非業の最期を遂げた。

 塩焼王の生年は不詳、没年は765年(天平宝字8年)。母は不明。758年(天平宝字2年)、「氷上真人」の氏姓を与えられて、臣籍降下し、「氷上塩焼」と称した。官位は従三位、中納言。
塩焼王は732年(天平5年)、親王の子に対する蔭位として無位から従四位下に叙された。740年(天平12年)、従四位上の昇叙。同年10月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年11月には正四位下に昇叙。時期は不明だがこの間、中務卿に任ぜられている。当時の皇族の最長老、新田部親王の子としてはまず順調な出世の途を歩んでいた。

 ところが、742年(天平14年)女嬬4人とともに塩焼王は投獄され、伊豆国に流されたのだ。真相は不明だが、皇位継承問題などの政争に巻き込まれたものと推測されている。冒頭に述べた皇位奪取の目論見が露見したためと思われる。ただこの際、彼がどの程度、主体的な役割を果たしたのか、あるいは担ぎ上げられて巻き込まれたのか、詳細は分からない。

 しかし3年後の745年(天平17年)、赦免されて帰京、746年(天平18年)には官位も正四位下に復している。恐らくは、それほど主体的な役割は演じていないものと判断されたことと、妻の不破内親王が聖武天皇の皇女だったことから特赦されたとの見方が強い。ただ、これにより新田部親王の旧宅は没収され、勅によって鑑真に与えられて戒院とされ、のち「唐招提寺」となった。

 永井路子氏は塩焼王が伊豆に配流になった要因として、藤原氏に対抗して、県犬養広刀自一家の“祈り”にも似た意向を受けて、塩焼王がもっと積極的に皇位奪取の意志があったとみている。そして、藤原氏・聖武天皇に、彼にそう思わせる状況があったと指摘する。

 それは、聖武天皇が情緒不安定で、ノイローゼに陥ったことと、隆盛を誇った藤原四兄弟が疫病で相次いで急死し、宮廷内での藤原氏族の勢力が低下したためだ。また聖武天皇自身が藤原氏との関係に深入りし、先に讒言を信じ込み、結果的に藤原氏の策謀に乗せられて、左大臣で朝廷内きっての実力者、長屋王 一家を冤罪で自決に追い込んだ負い目も加わって、藤原氏を襲った相次ぐこれらの不幸を、気弱な聖武天皇は“祟り”と捉えて恐れたからだ。この後、聖武天皇が難波・恭仁・紫香楽と遷都、行幸を繰り返すのも、呪われた地、藤原氏の本拠・奈良を逃れたいとの思いからだったとみる。

 こうした状況を見た塩焼王が、いまがチャンスと思ったのも無理はない。彼には聖武王朝は崩壊寸前に見えたことだろう。これを支える藤原氏に昔の力がない今なら…。政権は自分の手の届くところにある。血の気の多い、この20代の皇族は暗躍を開始する。彼は聖武天皇を帝位から降ろし、義弟の安積親王(聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた不破内親王の弟)を皇位に就けようとしたのか、自分自身が自ら帝位に就き、妻の不破内親王を皇后にしようと考えたのかは分からない。

 757年(天平宝字元年)、弟の道祖王が皇太子を廃されると、塩焼王は藤原豊成・永手らによって後任の皇太子に推されたが、かつて聖武太上天皇に無礼を責められたことがある(伊豆配流のことか)との理由で、孝謙天皇に反対され、実現しなかった。

 その後、恵美押勝(藤原仲麻呂)に接近して栄達を図った塩焼王は、765年(天平宝字8年)、その頼みの押勝が追い詰められて武装反乱を起こすと、押勝により天皇候補に擁立されて「今帝」と称された。だが、押勝の敗走に同行して、孝謙太上天皇方が派遣した討伐軍に捕らえられ、近江国で押勝一族とともに殺害された。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、杉本苑子「穢土荘厳」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

蘇我倉山田石川麻呂・・・中臣鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略で抹殺される

 蘇我氏一族の中で、馬子直系の氏族は大臣(おおおみ)として権力を独占、蝦夷・入鹿父子は我が世を謳歌したが、同族内で陽の目を見ず、これに不満を持っていた有力者がいた。それが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)だ。蘇我入鹿暗殺事件の際、中臣鎌足(後の藤原鎌足)に引き込まれ、彼が朝鮮使の上表文を読み上げ、これを合図に決行するという重要な役割を演じている。石川麻呂はクーデター成功後、その報酬として右大臣ポストを得ている。

そして、これを機に鎌足の仲立ちで、彼は娘を中大兄皇子の妃に送り込み、天皇家との結びつきを強くしている。これにより先々、これまでの蘇我本家に代わり、分家の蘇我倉家が隆盛期を迎えたかに思われた。ところが、大化の改新が一段落ついたところで、今度は彼の異母弟を使った、鎌足と中大兄皇子の卑劣な謀略によって抹殺されたのだ。蘇我倉山田石川麻呂の生年は不明、没年は649年。

 蘇我倉山田石川麻呂の父は蘇我馬子の子、倉麻呂。したがって、彼は馬子の孫だ。本宗家の蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟にあたる。兄弟に日向(ひむか)・赤兄(あかえ)・連子(むらじこ)・果安(はたやす)らがいる。本宗家討滅計画に加わり、娘の造媛(みやっこひめ)、遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)を葛城皇子(中大兄皇子)の妃に入れた。また、娘の乳娘(ちのいらつめ)は軽皇子(孝徳天皇)の妃とした。こうした閨閥づくりは後に花開くことになる。遠智娘は大田皇女(大伯皇女、大津皇子の母)、_野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)、姪娘は御名部皇女(高市皇子の妃<長屋王の母>)、阿閉皇女(後の元明天皇、草壁皇子の妃)をそれぞれ産んでいる。

 蘇我入鹿暗殺のクーデターの翌日、早くも新政権樹立の準備が始まり、皇極天皇の後継に年長の軽皇子が決定、孝徳天皇となった。当時、軽皇子は50歳、中大兄皇子は20歳だ。大化改新を推進するにあたって、クーデターで動揺している宮廷を治めるにも、こうした長老を立てておくのが人心を収拾するには上策だ。そして、従来の大臣・大連に代わって設置されたのが左大臣・右大臣だ。左大臣に元老格の阿倍内麻呂(倉梯麻呂)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が就任した。

 しかし、石川麻呂は左大臣・阿倍内麻呂の死後、649年(大化5年)異母弟の蘇我日向に、石川麻呂に謀反の疑いがあると讒言され、これを信じた中大兄皇子の追討を受ける破目になった。難波から2子、法師(ほうし)・赤猪(あかい)を連れて、大和の山田寺へ逃げ帰った石川麻呂は、追討軍に周囲を取り囲まれた。それでも石川麻呂は天皇から遣わされた勅使の審問に応じず、天皇に直接対面して事の真相を語りたいと申し出た。だが、これは受け入れられず、石川麻呂は従容として死を受け入れようと、集めた一族に語りかける。長子の興子(こごし)らは抗戦を主張したが、石川麻呂はこの意見を退け、妻子らとともに自決した。連座した者のうち斬殺された者14人、絞刑に処せられた者15人に上ったという。この事件、実は中大兄皇子による謀略だったのではないか。

石川麻呂の異母弟、日向はまんまと中大兄皇子にいいように踊らされ、兄殺しを手伝わされた格好だ。
 石川麻呂の死後、彼の潔白が証明され、中大兄皇子は讒言した日向を筑紫に追放した。

(参考資料)関裕二「大化改新の謎」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」、遠山美都男「中大兄皇子」

聖徳太子・・・厩戸皇子=聖徳太子かを疑問視 事績に虚構の疑いも

 聖徳太子といえば、様々な事績を挙げるまでもなく、日本人なら幅広い世代の間で最も認知されている、賢人・貴人の代表格の人物だ。しかし近年の歴史学研究ではこれまで聖徳太子の事績と考えられていたことを否定する文献批判上の検証や、太子の実在を示す『日本書紀』などの歴史資料としての信憑性の低さから、聖徳太子自体を虚構とする説もある。

廐戸皇子が実在したのは確かだが、廐戸皇子=聖徳太子かどうかが疑問視されているのだ。事実、廐戸皇子の事績で確実だといえるのは「十七条憲法」と「冠位十二階」のみだ。随書にも記載されている事柄だが、その随書には、推古天皇のことも廐戸皇子のことも一切記載されていないのだ。『日本書紀』にも廐戸皇子のことは記載されていない。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女、穴穂部間人皇女。太子の生没年は574(敏達天皇3)~622年(推古天皇30年)。本名は廐戸(うまやど)、別名は豊聡耳(とよさとみみ、とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「廐戸皇子」の呼称に変更している教科書もある。

 聖徳太子についての記述は日本最古の正史『日本書紀』をはじめ、いまは存在しないが最古の太子伝といわれる『上宮記(じょうぐうき)』、平安中期に完成した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』、『上宮聖徳法王帝説』、また『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(ほうりゅうじ がらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)』や『四天王寺本願縁起』などにみられる。

 教科書ではこれらの文献をもとに、聖徳太子の人物像や事績を史実として紹介し、誰もがそれを紛れもない事実として受け止めてきた。父・用明天皇、母・穴穂部間人皇女の間に生まれた太子は、生まれるとすぐに言葉を話し、わずか3歳で合掌しながら「南無仏」と唱え、また幼少の頃から10人あるいは20人の声を同時に聞き分けることができたという。まさに超人的な聡明ぶりだ。
蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐり壮絶な戦いを繰り広げていた際も、蘇我氏に勝利の祈願を依頼されていた聖徳太子は、望み通り蘇我氏を勝利に導くことに成功した。弱冠14歳のときのことだ。また、高句麗や百済の知識人に帝王学を学び、天皇中心の中央集権国家が理想だと考えるようになったという。
 593年、19歳のときには、叔母で日本初の女帝、推古天皇の皇太子・摂政となり、内政の改革に努めた。また、607年には小野妹子を第二回遣隋使として隋に派遣し、隋との外交も進めている。飛鳥から、斑鳩の地に構えた新しい宮殿に移ってからは、世界最古の木造建築、法隆寺、四天王寺などの寺院を建立したほか、経典の注釈書『三経義疏』の著述をはじめ数々の歴史書の編纂を行うなど、様々な功績を残した-とされてきた。私生活では4人の妻をめとり、14人の子供をもうけている。そして622年、49歳で生涯を閉じた。

史実として語り継がれるこうした数々の事柄は、果たして事実なのだろうか。確かに、文献の中には過度に脚色されている部分があるが…。例えば聖徳太子は、伝えられる4回にわたって遣隋使を本当に派遣したのか?冠位十二階、十七条憲法は本当に聖徳太子によって制定されたのか?一つ一つ検証していくと、随書との食い違いは多く、謎は深まるばかりなのだ。聖徳太子はいなかったとする方が、無理がなく自然な部分さえあるのだ。また歴史上、廐戸皇子は、推古天皇の摂政として活躍したとされているが、その当時、摂政という官職はなかったとされている。

 もし実在しなかったと考えるなら、どうして「聖徳太子」という人物をつくり上げる必要があったのか?聖徳太子が日本書紀でつくり上げられたものだと仮定すると、責任者として編集に携わっていた藤原不比等の名前がクローズアップされてくる。不比等は日本書紀を編集する際に、自分にとって都合のいいように書き加える必要があったと思われる。

当時はもちろんのこと、後世の評価はどうあれ、藤原氏隆盛の原点ともいえる「大化の改新」を正しいものだと見せる必要がある。中大兄皇子と藤原鎌足の手柄をよく見せるためには、この二人によって滅ぼされた蘇我氏を悪者にしなければいけない。そのため、入鹿に滅ぼされた山背大兄王や、その父の廐戸皇子を聖徳太子としてつくり上げて、善人にしなければならなかったのではないか。
 不比等は藤原一族に次々と襲いかかる不幸なできごとは、蘇我氏の祟りではないかと考えた。そのため、蘇我氏の魂を鎮めなければならず、日本書紀という歴史書で蘇我氏の働きを褒め称え、魂を慰めようとしたわけだ。ところが、そうすると鎌足と中大兄皇子は蘇我氏を滅ぼした悪者になってしまうのだ。そこで、蘇我一族の善人としてシンボル的存在の、架空の人物=聖徳太子をつくり上げる必要があったのだ。これによって、藤原一族のメンツも立ち、蘇我氏の供養もできるのだ。こうして聖徳太子伝説ができあがったというわけだ。

 伝説とは別に、聖徳太子にまつわる説の一つに、聖徳太子=非日本人、具体的にいえばペルシャ人説がある。その根拠として歴史学者、小林惠子氏は聖徳太子が新羅征伐のためにつくらせ、今日まで法隆寺夢殿に伝承されてきた軍旗、四騎獅子狩文錦を挙げている。四騎獅子狩文錦はササン朝ペルシャの流れを汲む文様が最大の特徴で、翼の生えた馬、すなわちペガサスに乗って獅子を倒そうとするペルシャ人らしき騎士の姿が描かれたものだ。また、騎士が被っている冠はササン朝ペルシャの王、ホスロー2世のものと酷似しているばかりでなく、夢殿に安置されている救世観音像の冠の飾りとも同じデザインなのだ。救世観音像は聖徳太子をモデルにしたといわれており、聖徳太子=ペルシャ人説を裏付けている。

さらに小林氏は、聖徳太子は北朝鮮からイラン北部を征服していた遊牧騎馬民族、突厥人であり、しかもその中の英雄、頭達(たるどう)だとしている。突厥については『随書』の突厥伝に詳しく記載されている。有名人物の生死の記録はほとんど例外なく歴史書に残されているにもかかわらず、頭達は599年の戦いの記録を最後にぷっつりと歴史上から姿を消している。

頭達が姿を消したのとほぼ同時期、今度は日本で聖徳太子が登場する。これが頭達説根拠の一つだ。599年に消息を絶った頭達は実は翌年600年に北九州に上陸、北上して播磨(現在の兵庫県)の斑鳩寺に本拠地を置いたという。その証拠に、その際持ち込まれた西突厥製と思われる、いびつな形の地球儀が今でも斑鳩寺に残されている。また、ゴビ砂漠周辺にはカイルガナ(モンゴルひばり)と呼ばれる鳥が棲息しているが、斑鳩という名称もここからつけられたのではないかと推測されている。斑鳩は斑(まだら)の鳩と訳すことができ、実はササン朝ペルシャの女神、アナーヒターの使い鳥も鳩なのだ。

 聖徳太子の死もまた多くの謎に包まれている。621年、母の穴穂部間人皇女が死亡。翌年、聖徳太子が病に伏してしまう。太子を看病していた妃の膳大郎女が疲れから622年先立つとその翌日、聖徳太子も49歳の生涯を閉じ、3人は同じ墓に葬られたのだ。死因については一切解明されていない。恐らく3人とも異常死だったのではないかと推察されるが、研究が待たれるところだ。

(参考資料)黒岩重吾「聖徳太子」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、小林惠子「聖徳太子の正体」、神一行編「飛鳥時代の謎」

崇峻天皇・・・当時最大の権力者・蘇我馬子に殺害された唯一の天皇

 第一代の神武天皇から第百二十五代の平成天皇まで、様々な個性あふれた天皇がいたが、実在を確認できない天皇はともかく、第三十二代の崇峻天皇ほど不運な天皇はいない。なぜなら、崇峻天皇は当時、政治の実権を握っていた大臣、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手で殺害されたのだから。崇峻天皇の生年は不明で、没年は592年。

 崇峻天皇は欽明天皇の第12子で、母は蘇我稲目の娘、小姉君(おあねのきみ)。「古事記」には長谷部若雀天皇(はつせべのわかさざきのすめらみこと)とあり、「日本書紀」には泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)とみえる。崇峻天皇は大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。崇峻は馬子の娘、河上郎女を嬪としており、馬子にとって崇峻は女婿でもあった。

 崇峻天皇が皇位に就くまでに、実は大豪族間の駆け引き・抗争が熾烈を極めた時期があった。蘇我氏と物部氏の主導権争いだ。第三十一代・用明天皇(聖徳太子らの父)が崩御すると、皇位は穴穂部皇子を押し立てた大連(おおむらじ)・物部守屋と、これを阻止しようとする大臣(おおおみ)・蘇我馬子率いる豪族および泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)ら皇族連合軍との戦いとなった。

当初、連合軍は劣勢だった。ところが、厩戸皇子が戦いに勝利できたならば四天王の像を造り、寺を建立するという誓い立て、仏に祈った効果があったか、戦いは連合軍の勝利となった。

 こうして泊瀬部皇子が即位し、崇峻天皇となった。587年のことだ。激しい物部氏と蘇我氏の対立時代を経て、物部氏の没落によって、第二十九代・欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着がつき、崇峻天皇は法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業を積極的に行った。しかし、皇位に就いた後も、政治の実権は常に馬子が握っており、崇峻は次第に不満を感じ、反感を抱くようになった。

 そして592年、崇峻天皇の運命の歯車が急回転し始める。10月に猪を奉る者があったが、このとき崇峻は「いつの日かこの猪の頸を斬るがごとく、自分の憎いと思うところの人(=蘇我馬子)を斬りたい」と思わず、胸の内を語ってしまったのだ。これが天皇自身の生死を決する決定的な言葉となってしまった。

崇峻天皇の胸の内を知った馬子が手をこまねいてみているわけがない。馬子にとっては、相手が天皇であろうと、自分が押し立て皇位に就けた、単なる皇子の一人に過ぎなかった。翌11月、馬子は配下の側近、東漢直駒に命じ、天皇を殺害した。ただ、狡猾な馬子のこと、その時期には非難の眼が少ないと思われるタイミングを待っていたフシがある。任那再興のため新羅を討つべく大軍を筑紫に向かわせた留守を狙った犯行だった。

 これは、崇峻天皇に限らず、厩戸皇子をはじめこの時代を生きた皇族および有力豪族らのすべてが感じていたことだろうが、蘇我氏の権勢がそれほどに強大で、とりわけ王権さえ軽視し、政治をほしいままにしていた馬子に、意見を言える者などいなかったのだ。あの厩戸皇子さえ、馬子の権勢をよほど恐れていたのではないかと思われる史料が数々ある。今日、聖徳太子の名で、様々な善政として知られる諸施策も、すべて馬子の承諾なしに推し進められたものはないはずだ。もっといえば、聖徳太子が天皇にならなかった、あるいは天皇になれなかったのも、蘇我馬子の存在を抜きには語れない。

(参考資料)黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」、黒岩重吾「磐舟の光芒」、豊田有恒「崇峻天皇暗殺事件」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

平 宗盛・・・武家の大将の器量に欠ける、妻子への愛情深い家庭人

 平清盛の没後、平家政権は惣領=内大臣の平宗盛を中心に、宮廷内の外交は時忠(宗盛の叔父、清盛の正室時子の兄弟)が補佐し、知盛が軍事の指導権を掌握する形で再編成された。つまり、源平争乱の決戦に向けた平家の布陣は、この宗盛を総帥として組まれ、差配されることになった。突き詰めていえば、権勢を誇り栄華を極め、並ぶ者のなかったはずの平家一門の不運は、この点にあった。一門滅亡の最大の要因ともいえよう。

平宗盛は清盛の正室・時子の長子として優遇されて育てられ、精神的な逞しさはなかった。そのため、源氏を筆頭とする東国武士団との闘いにおいて、総帥の宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし、最悪の道を選択してしまう。「平家物語」の表現を借りれば、宗盛はあくまでも妻子への愛情深い家庭人であって、武家の大将たる器ではなかったのだ。

 平宗盛は平清盛の三男。正室・時子の子としては長男で安徳天皇の母・建礼門院徳子は同母妹。官位は従一位内大臣。母が異なる重盛は10歳年上で、当初から重盛の小松家とは対立の芽が内包されていた。平安時代末期、後白河天皇-二条天皇-六条天皇-高倉天皇-安徳天皇および、「治天の君」の後白河院を主君とした。後白河の寵妃、平滋子(建春門院、宗盛の生母、時子の異母妹)の側に一貫して仕え、妻に滋子の妹、清子(高倉天皇の典侍)を迎えている。

生没年は1147年(久安3年)~1185年(元暦2年)。
 「平家物語」は平重盛賛歌の書であって、父清盛も好意的には書かれていない。とくに宗盛は優れた兄重盛との対比として愚鈍なうえ、傲慢な性格で思い上がった振る舞いが多く、そのため他氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物として戯画化されている。

 また「玉葉」では妻清子の死後、宗盛は政治への意欲を失い、権大納言・右大将の官職を返上してその死を嘆き、その妻の遺児(宗盛にとっては第二子・能宗)を乳母に預けず、自分の手で育てている。複数の妻を持つのが当たり前の、平安時代のセレブの貴族社会に照らして考えてみると、高級官僚としては失格だし、どれだけ亡き妻を思ってのこととしても、ちょっと異常としか言いようがない体たらくだ。

 究極は、源氏との最終決戦となった壇ノ浦の戦い以降の宗盛の行動。敗色濃くなった時点で、母時子が夫清盛とともに築いたこの時代の一門の最後の幕引きをするかのように、幼い安徳天皇を抱いて入水。以下、平家の武将や女人たち、要人が次々に自決、入水するなかで、総帥の宗盛は伊勢三郎能盛に生け捕りにされ、息子の清宗とともに、一度は京都へ送られて、次いで鎌倉に護送されていることはどうにも理解できない。どうしてそこまで生き恥を晒すのか?潤色はあるかも知れないが、「吾妻鏡」に書かれている宗盛は愚鈍で、哀れを誘う。彼は勧められた食事も摂らず、泣いてばかりいて、源頼朝との対面では弁明もできず、ひたすら出家と助命を求め、これが清盛の息子かと非難されている。そして、助命嘆願が受け容れられず処刑の直前、「平家物語」によると、宗盛の最期の言葉は「右衛門督(宗盛の長子、清宗)もすでにか」とわが子を思うものだった。ここには、平家の総帥の姿はカケラもない。ただ、子を思う一人の親の顔があるだけだ。宗盛39歳、子の清宗はわずか15歳。父子の首はその後、京都六条河原に晒された。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」、加来耕三「日本補佐役列伝」

徳川忠長・・・兄・家光派勢力のリベンジに遭い、28歳で失脚・自決

 徳川忠長は徳川二代将軍秀忠の次男という確かな血筋で、一時は駿河・遠江・甲斐国の計55万石を領有、「駿河大納言」とも呼ばれた。だが一転、領国すべてを没収され、逼塞処分となり、幕命により28歳の若さで自害、悲劇的な最期を遂げた。果たして、その背景には何があったのか。忠長の生没年は1606(慶長11)~1634年(寛永10年)。極位極官は従二位権大納言。

 徳川忠長(国松)は幼少時、兄・家光(当時の竹千代)より父(秀忠)・母(浅井長政・お市の娘のお江)に寵愛され、次期将軍に擬せられる存在だった。兄が病弱で吃音(きつおん=どもり)だったのにひきかえ、彼が容姿端麗・才気煥発な少年だったからだ。そして、それらに起因する竹千代、国松それぞれの擁立派による次期将軍の座をめぐる争いがあったとされる。結局この争いは、竹千代派の春日局による家康への直訴により、竹千代派の勝利に終わった。

 国松は将軍位こそ逃したが、1618年(元和4年)、甲府藩23万8000石を拝領し、甲府藩主となった。後に信州の小諸藩も併合されて領地に加えられた。1620年(元和6年)、家光とともに元服し、名を忠長と改めた。1623年(元和9年)、家光の将軍宣下に際し、中納言に任官。1624年(寛永元年)には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿・遠・甲の計55万石を領有(小諸藩領は除外)する大身に出世した。

 忠長は1626年(寛永3年)に大納言となり、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行した。また、1629年(寛永6年)には父・秀忠と、父の唯一の隠し子だった保科正之の初めての親子の面会の実現にも尽力した。ここまでは将軍の弟にふさわしい待遇を得、行動していたといえよう。
 ところが、何があったのか、そのわずか2年後の1631年(寛永8年)、不行跡を理由に甲府への蟄居を命じられる。その不行跡の中身がよく分からない。家臣を手討ちにしたとされるのだが、藩主がそれなりの理由があれば、家臣を手討ちにすることは普通にあったことだ。

 将軍の座を争ったという因縁があるだけに、兄・家光との折り合いが悪かったという背景があったにしろ、いきなり全領地没収のうえ蟄居、逼塞処分を科すというのは、どうみても極端すぎる。そして、確かな理由を示す史料がないまま、忠長には将軍の実弟という甘えからも粗暴な振る舞いが多かったという、抽象的な理由が示されているだけなのだ。兄弟の仲はどうあれ、秀忠は忠長さえ立ち直ったら、時期をみて許すつもりだったに違いない。

 忠長も黙って事態を見ていたわけではない。蟄居を命じられた際、秀忠側近の金地院崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、翌年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されなかった。側近の壁に阻まれて会うことができなかった。そして遂に秀忠の死後、改易となり、領国のすべてを没収され、上州高崎城主・安藤重長に預けられる形で高崎国(上野国)に幽閉されたのだ。間髪を置かず最後のカードがきられる。翌年、1633年(寛永10年)、忠長は幕命により自害して果てた-の記録があるだけだ。

 幕府が編纂した『徳川実記』さえ、忠長処罰の不当を訴えている。単純に考えれば、忠長に死に値するような理由はなかったが、“屈辱”の幼少年時代があるだけに、リベンジに燃えた春日局の強い意向も加わって、家光にとっては忠長がとにかく嫌いで、顔も見たくなかった。だから死を与えた、それだけなのかも知れない。だとすれば、それは忠長本人だけの責任ではなく、両親にもそう仕向けた責任があるはずだが…。真実は闇の中だ。

(参考資料)徳永真一郎「三代将軍家光」安部龍太郎「血の日本史」

高岳親王・・・父と叔父の権力争いの巻き添えで人生を狂わせられる

 高岳(たかおか)親王は第51代平城(へいぜい)天皇の第三皇子で、桓武天皇の孫。平穏な時代なら皇太子から、第52代嵯峨天皇のあとを受けて皇位に就いていたはずだ。ところが、父・平城天皇が寵愛した藤原薬子、そして重用した薬子の兄・藤原仲成の二人が行った、天皇の威を借りての傍若無人な振る舞いと、810年、二人がそれに続く「薬子の変」を起こしたことで、父・平城上皇が失脚、出家。そのため、高岳親王は廃太子となり、この後、彼はイバラの道を歩まざるを得なくなってしまったのだ。

高岳親王はまさに、父・平城上皇と叔父・嵯峨天皇(平城上皇の弟)の権力争いの巻き添えに遭い、人生を狂わせられた悲劇の人物だといえる。子に在原善淵らがおり、子孫は在原氏を称した。だが、彼が無事なら後の在原氏の姿も随分違ったものになったはずだ。在原氏一族の活躍の場が格段に広がっていたろう。在原氏の中では、わずかに知名度の高い在原業平は甥にあたる。高岳親王の生没年は799(延暦18)~865年(貞観7年)。

 高岳親王は822年、四品の位を受け、名誉回復が成されるが、その後、東大寺に入り「真如」という法名を与えられて皇族で最初に出家した親王となった。真如親王は空海に弟子入りして密教を学び、阿闍梨の位を受け、弘法大師の十大弟子の一人となった。

 “苦行親王”と呼ばれるほど、求道心に燃えた真如親王は、60歳のときに密教の奥義を究めようと入唐を朝廷に願い出る。しかし、そのころ遣唐使船は23年前の第17次を最後に派遣されていなかった。そこで、日本へ貿易のためにきていた唐の商人に頼んで便乗させてもらうことにした。真如親王の一行29人は861年、奈良から九州へ向かい、そこで一年間滞在した後、862年、大宰府を出発。順風に乗り、寧波の港に無事着いた。そこから越州に向かい、そこで一年間滞在し864年、唐の長安に到着した。

 当時の唐の長安は100万人の人口を擁する世界一の大都市だ。長安には在留40年の留学僧円載(えんさい)がいて、真如親王を西明寺に迎えた。あの空海が逗留した寺だ。この円載は877年、帰国の途中、乗った船が難破して溺死している。

 真如親王は、空海のように中国で優れた師に会うことができなかった。それでも求道の思い断ち難い真如親王は、海路でインドへ渡った義浄のように商船に乗るために長安で天竺へ渡航する許可を得る。865年、天竺を目指して広州から商船に乗り出発した。しかしその後、真如親王の消息は3人の従者とともに、全く分からなくなってしまった。消息不明になってから16年後に、唐の留学僧から朝廷に手紙が届いた。それによると、真如親王は羅越(らえつ)国で78歳で死去された-とあった。羅越国はマレーシア半島の南端という説が有力で、現在のシンガポール・ジョホール付近にあたる。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「王朝序曲」

伴善男・・・藤原氏の政治力に敗れ、応天門炎上事件の首謀者として流罪に

 866年(貞観8年)、平安京の応天門が放火・炎上する怪事件が起こった。果たして真犯人は誰だったのか?経緯は後で詳しく述べるとして、この事件の首謀者として紀豊城(きのとよき)ら4人とともに流罪に処せられたのが、ここに取り上げた大納言・伴善男だ。しかし、この事件には真犯人の真偽よりも、「藤原氏北家の隆盛と他氏排斥」という、当時の政情が複雑にからんでおり、簡単には結論付けられない部分があるのだ。この事件後、伴氏は政界から葬り去られたが、伴善男への同情は後に様々な伝説を生んでいる。伴善男の生没年は811(弘仁2)~868年(貞観10年)。

 伴善男は平安時代前期の有能な政治家だった。父大伴(のち伴)国道は参議に昇ってからも陸奥出羽按察使等を兼ねて活躍した能吏だ。その5男に生まれた善男は仁明天皇に信任されて蔵人と弁官を兼ね、848年(承和15年)38歳で参議兼右大弁となり、次いで検非違使別当・式部大輔・中宮大輔・民部卿等も兼ねて歴任。さらに860年(貞観2年)50歳で中納言、864年(貞観6年)には大納言にまで栄進した。出世街道を突き進んだ。

 その間、伴善男は846年(承和13年)、法隆寺の僧善_(ぜんがい)の裁判事件で法理を争い、左大弁正躬王をはじめ同僚の5人の弁官を失脚させた。また、『続日本後紀』の編集(855年)にあたり、民部省の政務運営などにも携わり活躍している。彼の人生はまさに順風満帆だった。

 ところが、藤原氏北家が巧妙に仕掛けた企てに遭い、善男の人生の歯車が狂い出す。866年(貞観8年)大内裏の応天門が炎上、焼失すると、善男はまず、それを左大臣源信の犯行だとして告発した。源信を失脚させようとの目論見からだった。だが、頼みとした太政大臣・藤原良房の裁定で源信は無罪となり、善男は逆に長男、右衛門佐中庸(うえもんのすけ なかつね)に命じて放火させたものだと告訴されてしまう。善男は再三、無実を主張しても認められず、結局死一等を減じて遠流に処された。善男は伊豆、中庸は隠岐、紀豊城は安房、伴秋実(あきざね)は壱岐、伴清繩(きよなわ)は佐渡へそれぞれ流された。そして、その2年後、不幸にも善男は配流先の伊豆で没した。

 伴善男の出世街道はどうして挫折、そして政界から葬り去られなければならなかったのか。その理由の一つは家系にある。彼は当時、時めいていた藤原氏でも源氏でもない。大伴氏だ。伴という姓に変わったのは淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)が大伴だったので、それを憚って改姓させられたのだ。823年(弘仁14年)のことだ。もとはといえば、万葉の歌人、大伴旅人や家持とも同族なのだ。

 大伴氏は悲運を背負った一族だった。まず曽祖父の古麻呂は奈良時代に橘奈良麻呂の叛乱計画に同調したとして捕らえられ、拷問を受けて非業の死を遂げている。祖父の継人は、桓武天皇の長岡京遷都に反対し、これを推進していた藤原種継を暗殺した首謀者として斬刑に処せられている。父はこれに縁坐して佐渡に流されていたが、20年後許されて都に戻り、官吏として遅いスタートを切りながら、参議までたどり着いた努力家だった。それだけに、善男は自分だけは必ず成功者の道を歩んでみせる、との思いだったに違いない。家柄のハンデは逆に彼を勝気にし、学問に人一倍精進させることになった。そして、彼は用意周到に人脈づくりを進めたはずだった。

 だが、藤原氏北家が推し進めていた他氏排斥の“刃”は、躊躇することなく大納言伴善男にも振り向けられ、巧みな人脈も全く力を発揮することなく、伴一族の夢をあっさり砕いた。

 善男については、後に様々な伝説が生まれた。その一つに彼が死後疫病神になったというのがある。ある年、天下の咳病(しわぶきやみ)-咳の病が流行したとき、ある夜一人の下級官人の前に、赤い衣装を着けた気高く恐ろしげな人物が現れ、自分は伴善男で、いま疫病神になっている、と告げ「本来ならたくさんの人が死ぬのだが、自分も朝廷から恩を蒙っているので、咳の病に変えたのだ」と語ったという。政争のあおりを受けて失脚したものが怨霊になる、という考え方が当時あった。この後、悲運の道をたどった菅原道真がその典型だ。こうした伝説は、力なき民衆の形を変えた権力批判ともいえる一面がある。

(参考資料)永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、永井路子「悪霊列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

徳川家重・・・障害抱え廃嫡されかけたが、「長子相続」に救われた将軍

 徳川家重は生来、虚弱体質のうえ脳性マヒを患っていたと伝えられている。そうした障害があったため言語が不明瞭で、彼の言葉を理解できるのは、ごく一部の限られた側近だけだったという。そんなコンプレックスからか、彼は幼少から大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害した。こんな家重とは対照的に、次弟の宗武は文武に長けていたことから、家重は将軍後継には不適格とみられた。事実、一時は廃嫡されかけたこともあった。しかし、徳川の御法「長子相続」に救われ、第九代将軍に就いた。しかし、そのことが彼にとってよかったのかどうか。家重の生没年は1712(正徳元)~1761年(宝暦11年)。

 徳川家重は御三家紀州藩の第五代藩主・吉宗(後の徳川第八代将軍)の長男として赤坂の紀州藩邸で生まれた。母は大久保忠直の娘(お須磨の方・深徳院)。幼名は長福丸(ながとみまる)。父吉宗に正室との間に子がいなかったため、当然のように世子と目された。弟に宗武、宗尹(むねただ)がいた。

 家重は、父吉宗が第八代将軍に就任すると同時に江戸城に入り、1725年(享保10年)に元服する。ところが、家重には決定的な弱味があった。彼は生来、虚弱なうえ脳性マヒを患っていたといわれる。そんな障害のため言語が不明瞭で、ほとんどの人間には彼の言葉は理解できなかった。そこで、彼は大奥に籠もり勝ちで、酒色に耽って健康を害することも少なくなかった。また、彼は猿楽(能)や将棋を好み、文武を怠った。それにひきかえ、次弟の宗武は文武に長け、兄との違いを見せ付けた。家重の言葉を唯一理解できたのは側用人・大岡忠光だ。大岡忠光は越前守・大岡忠相の親戚だったという。

 こうした兄弟の姿を眼の辺りにして、当然のことながら周囲は家重を将軍後継者として不適格と見る向きが多かった。そのため、父吉宗や幕閣を散々、悩ませたとされている。事実、一時は老中、松平乗邑(のりむら)によって廃嫡されかけたこともあったのだ。しかし、彼はまさに徳川の御法に救われた。「長子相続」だ。

徳川幕府の初期、第二代将軍秀忠の在任時、将軍後継に兄・竹千代(後の第三代家光)と弟・国松(後の大納言忠長)がライバルとして比されたことがあった。当時も、素直で聡明さをみせた弟の国松を推す声が、幕閣の中でも優勢だったことがあった。このとき、大御所・徳川家康が天下泰平の時代に入り、これからは「長幼の順」が基本だと明言、将軍後継に兄の竹千代を指名したのだ。これが以後、徳川の御法となった。

家重は1731年(享保16年)、伏見宮邦永親王の娘、比宮(なみのみや)増子を正室に迎えた。家重は21歳、比宮増子は17歳だった。増子は利口な女だった。家重の言語不明瞭を承知で嫁にきただけあって、初めから覚悟が違っていた。彼女が自分以外に家重の言葉を理解してやれる女性はいないのだと思ったとき、彼女はすでに家重の言葉を半ば理解していた。結婚後半年経つともう分からないことは何一つなかった。家重にとって大変な収穫だった。だが、京都から迎えた嫁は健康に恵まれなかった。そして、不幸なことに江戸に来て3年目の1733年(享保18年)、増子は亡くなった。

 吉宗は才気煥発の弟、宗武や宗尹よりも、欠点だらけの家重を不憫にも思い、弟たちよりはるかに愛したようだ。1745年(延享2年)、吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第九代将軍に就任した。しかし、1751年(宝暦元年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。長子相続の御法は守りつつも、吉宗はじめ幕閣が家重だけに権限が全面移譲されることに不安を覚えた結果だ。家重が将軍後継に推された理由は既述の通り、長子相続によるのだが、いま一つ指摘されている点がある。それは、家重の長男、家治(後の第十代将軍)が非常に利発だったことがある。

 ところで、将軍職に就いた家重の、“家重排除派”に対する恨みは相当深かったようだ。老中・松平乗邑は罷免、弟の徳川宗武も3年間登城停止処分としたことが、如実にそのことを物語っている。
 1760年、家重は亡くなるが、跡継ぎの家治に父として「田沼意次の能力は高いからぜひ使いなさい」と普通に遺言もしている。田沼意次の人物評については「良・悪」分かれるところだが、脳性マヒを患っていたと伝えられる割には、きちんとした観察眼を持っていたのかも知れない。

(参考資料)新田次郎「口」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、津本陽「春風無刀流」、大石慎三郎「吉宗とその時代」