徳川忠長・・・兄・家光派勢力のリベンジに遭い、28歳で失脚・自決

 徳川忠長は徳川二代将軍秀忠の次男という確かな血筋で、一時は駿河・遠江・甲斐国の計55万石を領有、「駿河大納言」とも呼ばれた。だが一転、領国すべてを没収され、逼塞処分となり、幕命により28歳の若さで自害、悲劇的な最期を遂げた。果たして、その背景には何があったのか。忠長の生没年は1606(慶長11)~1634年(寛永10年)。極位極官は従二位権大納言。

 徳川忠長(国松)は幼少時、兄・家光(当時の竹千代)より父(秀忠)・母(浅井長政・お市の娘のお江)に寵愛され、次期将軍に擬せられる存在だった。兄が病弱で吃音(きつおん=どもり)だったのにひきかえ、彼が容姿端麗・才気煥発な少年だったからだ。そして、それらに起因する竹千代、国松それぞれの擁立派による次期将軍の座をめぐる争いがあったとされる。結局この争いは、竹千代派の春日局による家康への直訴により、竹千代派の勝利に終わった。

 国松は将軍位こそ逃したが、1618年(元和4年)、甲府藩23万8000石を拝領し、甲府藩主となった。後に信州の小諸藩も併合されて領地に加えられた。1620年(元和6年)、家光とともに元服し、名を忠長と改めた。1623年(元和9年)、家光の将軍宣下に際し、中納言に任官。1624年(寛永元年)には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿・遠・甲の計55万石を領有(小諸藩領は除外)する大身に出世した。

 忠長は1626年(寛永3年)に大納言となり、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行した。また、1629年(寛永6年)には父・秀忠と、父の唯一の隠し子だった保科正之の初めての親子の面会の実現にも尽力した。ここまでは将軍の弟にふさわしい待遇を得、行動していたといえよう。
 ところが、何があったのか、そのわずか2年後の1631年(寛永8年)、不行跡を理由に甲府への蟄居を命じられる。その不行跡の中身がよく分からない。家臣を手討ちにしたとされるのだが、藩主がそれなりの理由があれば、家臣を手討ちにすることは普通にあったことだ。

 将軍の座を争ったという因縁があるだけに、兄・家光との折り合いが悪かったという背景があったにしろ、いきなり全領地没収のうえ蟄居、逼塞処分を科すというのは、どうみても極端すぎる。そして、確かな理由を示す史料がないまま、忠長には将軍の実弟という甘えからも粗暴な振る舞いが多かったという、抽象的な理由が示されているだけなのだ。兄弟の仲はどうあれ、秀忠は忠長さえ立ち直ったら、時期をみて許すつもりだったに違いない。

 忠長も黙って事態を見ていたわけではない。蟄居を命じられた際、秀忠側近の金地院崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、翌年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されなかった。側近の壁に阻まれて会うことができなかった。そして遂に秀忠の死後、改易となり、領国のすべてを没収され、上州高崎城主・安藤重長に預けられる形で高崎国(上野国)に幽閉されたのだ。間髪を置かず最後のカードがきられる。翌年、1633年(寛永10年)、忠長は幕命により自害して果てた-の記録があるだけだ。

 幕府が編纂した『徳川実記』さえ、忠長処罰の不当を訴えている。単純に考えれば、忠長に死に値するような理由はなかったが、“屈辱”の幼少年時代があるだけに、リベンジに燃えた春日局の強い意向も加わって、家光にとっては忠長がとにかく嫌いで、顔も見たくなかった。だから死を与えた、それだけなのかも知れない。だとすれば、それは忠長本人だけの責任ではなく、両親にもそう仕向けた責任があるはずだが…。真実は闇の中だ。

(参考資料)徳永真一郎「三代将軍家光」安部龍太郎「血の日本史」