「歴史を彩ったヒロイン」カテゴリーアーカイブ

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、欽明天皇の第三皇女で、同母兄・用明天皇の皇后。用明天皇との間に厩戸(うまやと)、来目(くめ)、殖栗(えくり)、茨田(まむた)の四人の皇子をもうけた。厩戸皇子は豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)などとも呼ばれた聖徳太子だ。つまり、この穴穂部間人皇女は聖徳太子の生母なのだ。同母弟に穴穂部皇子がいる。

  用明天皇の母は蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)であり、穴穂部間人皇女は堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)の娘だ。つまり、姉が産んだ皇子のもとに、妹が産んだ皇女が嫁いだというわけだ。異母兄・妹の結婚だった。

 穴穂部間人皇女の生年は不詳、没年は622年(推古天皇29年)。用明天皇崩御後、用明天皇の第一皇子、田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し、佐富女王(長谷王妃、葛城王、多智奴女王の母)を産んだ。彼女の同母弟、穴穂部皇子(あなほべのみこ)は敏達(びだつ)天皇が崩御した際、皇位を望んだとされる。皇子は皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を姦すべく、もがりの宮に入ろうとしたところを敏達天皇の臣下、三輪君逆(みわのきみさこう)に遮られた。

 穴穂部皇子はこれを憎み、当時の実力者、大臣(おおおみ)蘇我馬子、大連(おおむらじ)物部守屋に三輪君逆の無礼を訴え、斬殺するように命じた。物部守屋は兵を率い、磐余(いわれ)の池辺(いけのへ)を皮切りに三輪君逆の跡を追い、遂にその命を奪った。蘇我馬子は穴穂部皇子に自重を促したが、皇子はこれを聞き入れなかった。これを契機に、穴穂部皇子と皇后・炊屋姫および馬子の関係は険悪なものとなったといわれる。 

 こうした経緯があって、穴穂部間人皇女に因む以下の逸話が伝えられている。京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、この穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。この皇女は、蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せた。そして都に戻る際に、惜別の意味を込めて自分の名を贈った。

 ところが、同地の人々は皇后の御名をそのまま呼ぶのは畏れ多いとして、皇后がその地を退座したことに因み、「たいざ」と読むことにしたという。ただ、「古事記」「日本書紀」などの文献資料には、穴穂部間人皇女が丹後国に避難したことの記述はない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「聖徳太子の叛乱」

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

 鏡王女(かがみのおおきみ)は、額田王(ぬかだのおおきみ)の姉だから、近江の豪族・鏡王の女(むすめ)だ。とはいえ、これには異説があり、第三十四代舒明天皇の皇女とも皇妹ともいわれる。鏡王女の名を一般的に眼にするのは、中大兄皇子の妃だった彼女が、懐妊中、大化改新で貢献した功臣・中臣鎌足に下された件(くだり)だ。感激した鎌足は、鏡王女を正妻として遇したが、そのときの子が、藤原不比等だ。困ったことに、これにも異説があって、不比等の母は車持の与志古娘(よしこのいらつめ)ともされる。だが、父・鎌足が賜った藤原姓を、中臣氏の中で不比等の系統のみが継ぐことになったのは皇胤だからとする解釈も根強い。

 いずれにしても、中大兄皇子の鏡王女に対する気持ちはすでに冷めていた。だから、鎌足への下賜につながるのだ。鏡王女にとっては悲しい現実にさらされたわけだ。ただ、名ばかりの妃でいるよりは、正室として迎えられ、普通に言葉を交わせる鎌足との生活が、女性にとって幸せだったのではないかとの見方もできる。鏡王女の生年は不詳だが、没年は683年(天武12年)だ。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。鏡女王とも呼ばれた。彼女の少女時代のことは何も分からない。額田王ほどではないが、代表的な万葉歌人の一人といわれる。史料によると、夫・鎌足の病気平癒を祈り、669年(天智天皇8年)に山階(やましな)寺(後の興福寺)を建立した。

 鏡王女が紛れもなく皇族の一員だったことが分かる件がある。『日本書紀』に天武天皇12年7月、王女を天武天皇が見舞いにきたことが記されているのだ。『万葉集』には4首の鏡王女の歌が収められ、天智天皇、額田王、藤原鎌足との歌の問答が残されている。

 「風をだに恋ふるはともし風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ」

 これは、鏡王女がまだ中大兄皇子(天智天皇)の妃の一人だったとき、妹の額田王が

 「君待つとわが恋ひをればわが屋戸の 簾動かし秋の風吹く」

と歌ったのに対して返したものだ。額田王が中大兄皇子を待つ満ち足りた心を歌ったのに対し、鏡王女はすでに皇子の寵が去った自分のところには風さえ来ないと、妹をうらやましい気持ちで歌ったわけだ。鏡王女自身が感じていたように、中大兄皇子の自分への気持ちは冷めていた。だから、冒頭で述べたように、鎌足への下賜につながるのだ。

 鎌足が中大兄皇子から下賜された鏡王女に対して詠んだ、情熱的?なこんな歌が『万葉集』に収められている。

 「玉くしげみむろの山のさな葛 さ寝ずは遂にありかつましじ」

 『万葉集』独特の枕詞や飾りの言葉が入っているので分かりにくいが、彼のホンネは下の句にある。現代風に表現すれば、「あなたと寝ないではいられないだろうよ」ということだ。この歌は、鏡王女の次の歌に対して答えた歌だ。

 「玉くしげ覆ふを安み明けていなば 君が名はあれど我が名し惜しも」

 歌意は、化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってから、お帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の良くない評判が立つのが惜しいですわ。

 鎌足には天智天皇から手厚い恩賞として、采女の安見児をもらったとき詠んだこんな歌がある。これも『万葉集』にある歌だ。

 「吾はもや安見児えたり皆人の得がてにすとふ安見児えたり」

 歌意は、俺こそ采女の安見児(やすみこ)をわがものにしたぞ。みんなが結婚できないという安見児を、我が妻にした-と手放しで喜んでいる。

 中大兄皇子=天智天皇の生涯は波乱を極めたが、鎌足は常に側近にあって活躍した。それだけに鎌足に対する天智の信任は絶大で、位人臣をきわめ、手厚い恩賞も与えられた。そして、異例中の異例のことだが、実は鏡王女の下賜も、破格のご褒美の一つなのだ。

 普通、豪族は天皇家に対する忠誠の証として娘を、天皇家の側女=采女として差し出す。その意味で、その女性は人ではなく、世話をする個人(天皇や皇子)の所有物、つまりモノと同じなのだ。だから、一見、中大兄皇子=天智天皇の取った行動は非人間的なものに思われ勝ちだが、本来的にはその女性本人の意思や気持ちがどうであろうと斟酌されることはないのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」

吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

 吉野太夫(よしのだゆう)は江戸時代初期、京都・六条三筋町の遊郭(のち島原に移転)の名妓だった。容姿、芸、人格ともに優れ、当時の同遊郭の「七人衆」の筆頭で、夕霧太夫、高尾太夫とともに「寛永三名妓」といわれる女性だ。

 吉野太夫(二代目吉野太夫)は本名・松田徳子。実父はもと西国の武士とも、関ケ原浪人ともいわれる。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。生没年は1606(慶長11)~1643年(寛永20年)。吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡で、初代から数えて十代目まであったと伝えられている。ただ、その職性から、ここに取り上げた二代目以外の人物像については詳細不明となっている。

 松田徳子は幼少のころに肥前太夫の禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、林弥(りんや)と称した。1619年(元和5年)、吉野太夫となった。14歳のときのことだ。彼女は利発な女性で、和歌、連歌、俳諧はもちろん、管弦では琴、琵琶、笙が巧みだった。さらに書道、茶道、香堂、華道、貝合わせ、囲碁、双六を極め、諸芸はすべて達人の境にあったという。それだけに、吉野太夫は当時18人いた太夫の中でも頭抜けた存在だった。容姿、芸、人格ともに優れ、才色兼備を称えられた彼女の名は国内のみならず、遠く中国・明まで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえているといわれるほど、知れ渡っていたという。

    馴染み客に後陽成天皇の皇子で近衛信尹(のぶただ)の養子、関白・近衛信尋(のぶひろ、後水尾天皇の実弟)や、豪商で当時の文化人の一人、灰屋紹益(はいやじょうえき)らがいた。皇族から政財界、文化人まで幅広い層の、当時第一級の人物が、彼女のファンだった。吉野太夫の名を、さらに華やかにし高めたのは、関白・近衛信尋と豪商・灰屋紹益が、彼女の身請けを競ったためだ。結果は、関白を押さえ、灰屋紹益が勝利を収めた。紹益は勝った後、吉野太夫を正妻として迎え世間を驚かせた。1631年(寛永8年)、吉野太夫26歳のときのことだ。

 吉野太夫が、身請けを競って勝った紹益に贈った歌がある。

 「恋そむるその行末やいかならん 今さへ深くしたふ心を」

 一方、迎え入れた紹益は、人気の太夫を娶った嬉しさを、

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

と詠んでいる。

 吉野太夫は結婚後は、遊女時代の派手さ、きらびやかさとは無縁の質素な暮らしをし、夫を立てて親族との交わりを大切にした。そのため、後世、遊女の鑑(かがみ)として取り上げられる逸話も多い。 十余年の結婚生活の後、吉野太夫は夫・紹益に先立って病没し、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺に葬られた。まだ38歳の若さだった。

 毎年4月第3日曜日、吉野太夫を偲んで常照寺では花供養が行われ、島原から太夫が参拝し、訪問客に花を添えている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

 祇王御前(ぎおうごぜん)は白拍子の名手で、『平家物語』によると当時、栄耀栄華を誇った平家の総帥・相国入道平清盛に寵愛された女性だ。祇王御前は近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲町)で生まれたとされている。生没年は不詳。都で評判となった舞と美貌を権力者の清盛が聞き付け、邸に招かれた。そして、祇王はたちまち清盛の寵愛を受ける身となった。祇王17歳ころのことだ。これを知った祇王の母の刀自(とじ)は、娘の“玉の輿”を大変喜んだ。

 祇王がどれだけ清盛の寵愛を受けていたかを示す逸話がある。祇王の出身地、野洲は毎年ひどい干害が起こるところだった。そこで、祇王は清盛に野洲の干害を何とかしてほしいと頼んだ。清盛は愛する彼女の頼みを聞き入れ、野洲川から水を通すために溝を掘らせ、干害対策を施した。このとき掘られた溝は祇王井川と呼ばれ、現在も残っている。

 ところで、祇王が清盛に仕えて2年が過ぎたある日、西八条御殿の清盛の邸に、加賀国生まれの「仏」と名乗る白拍子が訪ねてきた。侍者がこのことを清盛に取り次ぐと、清盛は「白拍子が招きもしないのに、訊ねてくるとは怪しからん」と怒り、追い返そうとする。しかし、同じ白拍子の祇王は仏御前を不憫に思い。彼女を邸に入れてあげるよう取り成した。邸に入ることを許された仏御前は、今様(当時の流行りの歌)を歌うよう命じられ、

 君を初めて見る折は 千代も経ぬべし 姫小松

 お前の池なる亀岡に 鶴こそ群れゐて 遊ぶめれ

と、3回繰り返して歌った。

 この歌を聴いた清盛は仏御前に興味を示し、次は舞を舞うように命じた。すると、彼女は清盛の前で美しい舞を披露したため、大いに気に入られ、邸に留められることになった。

 仏御前が邸に来てからは、清盛の関心は祇王から彼女に移った。祇王のお陰で邸に入れてもらった仏御前は、そのことを心苦しく思っていた。それを察した清盛は、祇王が邸にいるから仏御前の気持ちが沈んでしまうのだと考える。そして、思いもかけない事態が起こる。何と清盛は祇王を邸から追い出してしまったのだ。同じ白拍子の身で不憫に思ってかけた情けが、完全に仇となったわけだ。

 祇王は邸を出る前に、忘れ形見として障子に、次の和歌を残したと伝えられている。

 「萌え出づるも 枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋に あはで果つべき」

 歌意は、追い出す仏も、追い出される私も、いずれも野辺の草。秋が来れば飽きられて捨てられる運命にあるのですよ。

 その後、祇王は母と妹の祇女と一緒に出家し、嵯峨野に草庵(=往生院)を結んでひっそりと暮らすことにした。だが、『平家物語』は祇王の物語に劇的な展開を用意している。清盛は、嵯峨野で隠棲している祇王を呼び、仏御前の無聊(ぶりょう)を慰めるために舞うよう命じる。

 仏も昔は凡夫なり 我らも終(つひ)には仏なり

 いずれ仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

 悔し涙をこらえながら、祇王は歌い舞った。祇王の舞は相変わらず美しく、人の心を揺さぶるものだった。仏御前には身につまされた。程なく、髪を下ろし出家姿で、祇王らの嵯峨野の草庵を訪れた女性は、あの仏御前だった。彼女も現世の無常を感じ、清盛のもとを去り、出家することにしたのだった。

 現在、往生院は祇王寺と呼ばれている。その境内には祇王、祇女、刀自の墓とされる宝筐院塔と平清盛の供養塔の五輪塔がある。また、祇王寺の仏間には清盛、祇王、祇女、刀自、仏御前の木像が安置されている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

儀同三司母 中関白・藤原道隆の正室で教養人だったが、道長一族に敗れる

儀同三司母 中関白・藤原道隆の正室で教養人だったが、道長一族に敗れる

 儀同三司母は、学者として高名な高階成忠の娘、貴子(きし、もしくは たかこ)のことだ。摂政・関白を務めた藤原兼家の長男、道隆の正室で、二人の間に伊周(これちか、正二位、内大臣)、隆家(正二位、中納言)、僧都隆円、定子、原子ら三男四女がいた。定子は一条天皇の中宮として入内しているし、末娘の原子は三条天皇の女御となっている。きらびやかで栄華に満ちた一族だった。また、夫・道隆の弟に栄華の頂点を極めた道長がいる。

 だが、従一位で摂政関白、内大臣を務め、中関白(なかのかんぱく)と称した夫・道隆が43歳の若さで亡くなってしまうと、儀同三司母=高階貴子の人生は暗転してしまう。摂関家の嫡流・氏の長者は道兼、次いで道長に奪われてしまった。まさに血脈を分けた一族の中で政権争いが発生。夫の弟、道長と伊周、叔父・甥の骨肉の争いとなったのだ。結果は、道長が勝利し、まだ22歳の伊周がこの政争に敗れ、弟の隆家ともども官位を剥奪され、996年(長徳2年)九州(大宰権帥)へ左遷された。このとき、母貴子は同行を願ったが、聞き容れられず、彼女は半年後、不幸にも失意のうちにこの世を去った。

 儀同三司は息子、藤原伊周のことで、結局、伊周は三公(太政大臣、左大臣、右大臣、唐風には三司)になれなかった。後年、彼が「准大臣」となり、自らをこの官職の唐名「儀同三司」と称した。そのため、彼の母ということで、「儀同三司母」は彼女の死後付けられた通称だ。

 高階貴子の生年は不詳、没年は996年(長徳2年)。平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙に数えられる。貴子の生母は不詳。成忠の妻には紀淑光の娘が知られ、貴子がその所生だとすると、名立たる学者、紀長谷雄の血をひくことになる。円融天皇の後宮に内侍として仕え、高内侍(こうのないし、女官名)と呼ばれていた。

    『大鏡』などによると、貴子は女性ながら和歌を能くし、漢学、漢詩の素養も深く、円融天皇も一目置かれたほどの才媛だった。その貴子と恋に落ちたのが、時の大納言・藤原兼家(後の従一位、摂政・関白・太政大臣)の長男、道隆だった。その道隆との恋の歓びを歌ったのが次の歌だ。これは『新古今集』、『小倉百人一首』に収められている、激しくも傷(いた)ましい恋の歌だ。

 「忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな」

 歌意は、あなたはいつまでも決して忘れないよ、そうおっしゃいます。でも、それは信じられません。それなら私はいっそ、たった今死んでもいいのです。今日のこの嬉しさの絶頂で。詞書(ことばがき)によると、この歌は道隆との恋が始まったばかりの、幸福の絶頂ともいうべき時期の歌だ。にもかかわらず、傷ましいほどの緊迫感をもって、明日のことはあてにするまい、せめて今日の命のこの歓びだけをしっかり握っていたい-と、その心情を吐露している。

   一夫多妻の平安期において、ほとんどの場合、女はひたすら男の訪れを待つだけの存在だった。したがって、女は未知の恋に対して極めて慎重であるのが普通で、ひとたび男に身を委ねたときには、その恋を永続させることに心を砕き、絶えず不安におののいていなければならなかった。恋の歓びの歌に、深い哀しみが内蔵されるのは、そうした女の受け身の立場からきており、この歌もその典型的な一首だ。

(参考資料)永井路子「この世をば」、大岡 信「古今集・新古今集」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」

間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

 間人皇女(はしひとのひめみこ)は、第三十五代・皇極天皇、そして重祚(ちょうそ)して第三十七代・斉明天皇となった女帝の娘で、母の同母弟、第三十六代・孝徳天皇の皇后でもあった女性だ。付け加えて記せば、彼女は第三十八代・天智天皇の同母妹で、第四十代・天武天皇の同母姉だから、これ以上ない、ピカ一の血筋なのだ。したがって、彼女にとって今日もう少し称賛されるような事績が残っていてもよさそうだが、実は史料として残っているのは、彼女にとってマイナスイメージを抱かせるようなものばかりだ。

 そのマイナスイメージの一つが、同母兄・天智天皇いや、中大兄皇子時代から間人皇女が孝徳天皇の皇后となった後を含めて、中大兄皇子・間人皇女の二人が、タブーとされている同父同母兄妹の密通=近親相姦(「国津罪」)があったとされることだ。当時は、兄妹であっても母親が異なれば、その恋愛、そして結婚についても別にタブーではなく、ザラにみられた。今日風にいえば、極めて近い親戚で、叔父と姪や叔母と甥の間での結婚も普通に行われていた。だが、同父同母となると話は全く別で、当時も当然のことながら厳しく、恋愛・結婚は禁止されていたのだ。間人皇女は、そのタブーを犯したのだ。

 孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は実は血を分けた兄の中大兄皇子だったのだ。このことは飛鳥に住む者には公然の秘密だった。こんなタブーを犯しただけに二人に、そして二人の親族は高価な代償を払わねばならなかった。皇太子・中大兄皇子は孝徳天皇没後、母の皇極上皇をいま一度担ぎ出し、帝位に就け斉明帝としたのは、同父同母の兄妹が男女関係を持つなど、神意に悖(もと)る。そんな中大兄皇子が即位すれば、神の怒りで必ず国に禍事(まがごと=わざわい)が起こる-との世論に屈したからだったのではないか。

    また、建築好きで、太っ腹の女丈夫で百済救援の派兵を断行した、この斉明老女帝も661年、筑紫の行宮(あんぐう)、朝倉宮で疫病に感染し亡くなってしまった。ここでも中大兄皇子はすぐ即位しなかった。いや即位できず、661~668年の7年間も「称制」(即位せず、皇太子のまま政務を執る体制)を取っているのだ。この間、天皇は不在だった。その大きな理由の一つが、妹・間人皇女との間の男女関係を解消できなかったからとの見方がある。

  事実、古代の皇室では同母兄妹と肉体関係を持ったために追放された皇子・皇女がおり、反対勢力が結束して、皇太子・中大兄皇子の即位を阻止した可能性はある。中大兄皇子の後宮には多くの妃が召され、数多くの子も生まれた。しかし、間人皇女との仲は誰よりも長く格別なものだった。そのため、母帝の急逝によって生じた帝位の空白を、いまは悪性の熱病にかかり意識が混濁し、もはや呼吸しているだけの状態にあった間人皇女を、たとえしばらくの間でも中天皇(なかつすめらみこと)として、この国の主(あるじ)の座に座らせたい-と中大兄皇子は考えた。愛しい妹への餞(はなむけ)だった。後世の史家は、恐らく歴代天皇の数に入れないだろうが…。世の指弾をはね返してまで貫き通した禁断の愛ゆえの、最期の悲しい“看取り”だったのかも知れない。

 間人皇女の生年は不詳、没年は665年(天智天皇4年)。既成のワクにとらわれない、よほど奔放な女性だったのか、兄・中大兄皇子にだけ従順な女性だったのか、よく分からない。ただ、兄・天智天皇を虜(とりこ)にしたことだけは間違いない。

 孝徳天皇が653年(白雉4年)、当時皇太子だった中大兄皇子らとともに自分のもとを去った皇后・間人皇女を詠んだ歌がある。

「鉗木(かなぎ)附け吾が飼う駒は曳き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか」

    歌意は、木にくくりつけて、逃げないように大切に飼っていた馬が、私の知らない間に、どうして他の人と親しくなって、私のもとから連れ去られてしまったのだろう-の意味だ。病中の自分を難波の廃都(難波長柄豊碕宮)に打ち捨て、母や兄たちと飛鳥京(飛鳥河辺行宮)へ引き揚げてしまった妻・間人皇后を、馬に擬して痛罵したのだ。厩舎の止め木につながれ、飼い主でさえ曳き出せない馬を、気ままに乗り回せる人物こそ、中大兄皇子をさしていることはいうまでもない。

(参考資料)遠山美都雄「中大兄皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代 天皇総覧」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

 右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね・えもんのすけのつぼね)は江戸時代前期、常盤井局と称し、天皇の中宮に仕えていたが、才智あふれる美女だったために、請われて江戸へ下向。第五代将軍・徳川綱吉の御手附中臈(おてつきちゅうろう)となり、この右衛門佐局と名を改めたのだ。公家の姫君で才色兼備の彼女は、江戸城の大奥に京風の雅(みやび)をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 右衛門佐局は、藤原北家道隆の流れ、坊門家の支流にあたる水無瀬中納言氏信の娘として京で生まれた。生没年は1650(慶安3)~1706年(宝永3年)。初め後水尾院に出仕し、後、第百十二代霊元天皇(在位1663~1687年)の中宮・新上西門院に仕えて常盤井局と称した。当時、宮中随一の才媛と呼ばれ、才智あふれる美女だったため、第五代将軍綱吉の御台所・鷹司(たかつかさ)信子に請われて江戸の下向することになったのだ。1684年のことだ。

 綱吉の御台所・信子は学問の相手として、『源氏物語』『古今和歌集』などの講義もできる常盤井局を招いたのだが、真意は別にあった。御台所は綱吉との間で子に恵まれず、夫・綱吉の気持ちが側室・お伝の方に移っていたことが、その背景にあった。つまり、子を生す生さぬという問題にとどまらず、大奥の勢力争いにも通じる事態となっていたのだ。そこで御台所は叔母の新上西門院に訴えて、才色兼備の彼女が選ばれたというわけだ。御台所の狙いはピタッとあたった。学問を好むという部分も少しはあったろうが、むしろその雰囲気を愛した綱吉は、たちまち公家の姫君の魅力の虜となった。常盤井局は将軍家の御手附中臈となり、名を右衛門佐局と改めた。そして、大奥に京風の雅をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 1689年(元禄2年)、北村季吟、湖春父子を召し出し、初代歌学方(かがくかた)としたのも右衛門佐局の推挙によるものだ。翌年、住吉具慶(広澄)が土佐派絵所を開いて、江戸に土佐派が確立したのは彼女の功績だ。後に、右衛門佐局の権勢に対抗するために、綱吉の生母・桂昌院によって招かれた大典侍(おおすけ)局(清閑寺大納言煕房の娘)が、能・狂言役者たちを江戸に呼び寄せたことともあわせて、京風化の進展が江戸の文化史上に新たなページを加えるようになった、格好の契機となった。

 右衛門佐局は残念ながら、将軍生母とはならなかった。1691年(元禄4年)懐妊したが、対抗勢力のお伝の方の依頼を受けた護持院・隆光の呪詛で流産したと伝えられる。翌早春、吹上御苑で催された観梅の宴の際、右衛門佐局が、

 「御園生(みそのふ)にしげれる木々のその中に ひとり春知る梅のひと本」

と詠み、これを賞した綱吉に「梅が枝に結び付けよ」と命じられ、踏み台に登ったときに、目が眩んで倒れた。それがための流産だった。

 右衛門佐局、御手附ながら事務方の最高位の大奥総取締の役に就いた。三代将軍家光の側室の「お万の方」の例に倣ったものだが、より実質的な役割だったといえよう。大奥という職場で仕事をしたキャリアウーマンという意味では、むしろ春日局に近い実績を残した女性だった。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典

伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

 伊勢は、その妻の座に就くことはなかったが、初め藤原仲平そして兄・時平、次いで宇多天皇、さらに宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王と恋人を変えた情熱的な女流歌人だった。時の最高権力者や、その子息たちが、彼女のもとに通った。ということは、伊勢がいかに美しく魅力に富んだ女性だったかという証だろう。これらの恋人の他にも言い寄る男は多かったが、相手にしなかったようだ。

 伊勢は伊勢守・藤原継蔭(つぎかげ)の娘で、この父の官名を呼び名にしていた。父・継蔭は藤原氏北家・真夏の流れで四代の孫にあたる。真夏は、嵯峨天皇の信頼を受け左大臣にまで昇った冬嗣の兄だが、政治的には平城(へいぜい)天皇側についていたので失脚。そのため子孫も権力から遠く、継蔭も文章生(もんじょうのしょう)から身を起こし、三河守、伊勢守、大和守など受領職を歴任した。

    父が伊勢守の任期を勤め上げた直後、伊勢は宇多天皇の中宮・温子(おんし=藤原基経の娘)に仕えた。中宮が父・基経の喪のため里邸に下がっていた折、中宮に付き添っていた伊勢は、そこで中宮の兄・仲平(後に左大臣、当時右衛門佐)と愛し合うようになった。そのころ、仲平との恋を詠んだのが『新古今和歌集』『小倉百人一首』に収められている次の歌だ。

 「難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をよとや」

 歌意は難波の潟に生えているあおの芦の短い節ほどの、わずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。それはあんまりです-という、恋人に対する思慕と怨恨の情を詠んでいる。

    しかし、伊勢の父は身分違いということもあって、娘のこの純情な恋に危惧を感じていた。案じた通り、仲平はまもなく権門の娘と結婚することになって遠ざかった。傷ついた伊勢が、心変わりした仲平に贈った歌が、次の歌だ。

「三輪の山いかに待ち見む年ふとも たづぬる人もあらじと思へば」

 この後、伊勢は仲平の兄・時平(後に左大臣、当時参議)と恋に落ち、さらに宇多天皇の寵愛を受け、行明親王を産んだので、「伊勢の御(ご)」とか「伊勢の御息所(みやすどころ)」と称された。まさに、恋多き女性だった。恐らく美しい女性だったのだろうが、同時に歌の巧みさが美しさを、さらに引き立てていたのだろう。

    伊勢の『古今和歌集』入集歌は女流歌人中トップで、『古今和歌集』以下の勅撰集に184首が収められ、とくに三代集では女流歌人で最も多い。紀貫之と並び称されたが、技巧の中に情熱を秘めた歌風は、和泉式部の先輩格といえるかも知れない。伊勢は美人で、気立ても優しく、華やかな宮廷生活を送ったが、後には不遇な境涯にあったようだ。彼女の晩年は落ちぶれて、遂に住む家まで売るようなところまで追い詰められたらしい。そのとき、柱に書き付けたという歌が『古今和歌集』に収められている。

 「飛鳥川淵にもあらぬわが宿も 瀬に(銭)変わりゆくものにぞありける」

    平安時代の女流文学者のほとんどには、その生涯の公的な記録がない。伊勢の場合も同様だが、彼女の家集「伊勢集」には、自伝的色彩の濃い詞書が多く、そのためある程度の生涯と生活は推定されてきた。伊勢の生没年は875(貞観17)~939年(承平9年)。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

    阿仏尼は『十六夜日記』の著者だが、出家した後、30歳ごろ結ばれた藤原定家の嫡男・為家の側室となった。そして、その為家から息子の為相(ためすけ、後の冷泉家の祖)に播磨国の所領を譲り受けた。だが、為家の死後、異腹の長男・為氏(ためうじ)との所領争いが発生。この問題解決に彼女は、はるか鎌倉に赴いて幕府に提訴するしたたかさを見せたのだ。『十六夜日記』は、そんな阿仏尼の鎌倉への旅日記なのだ。阿仏尼は、安嘉門院(あんかもんいん)に仕えて越前(えちぜん)、右衛門佐(うえもんのすけ)、四条などと称した。

 阿仏尼は、若き日に奔放な恋の遍歴を重ね、恋に絶望して出家したらしい。こうした経緯が日記『うたたねの記』に綴られている。その後、藤原定家の嫡男・為家と巡り合い、遂に為家と結ばれ、彼の側室となり、定覚(じょうがく)、為相、為守の3人の子をもうけた。1252年(建長4年)ごろのことだ。二人は嵯峨で同棲した。彼女が30歳のころ、為家はすでに50の半ばを超えていた。

    為家は若い彼女に夢中になり、家に代々伝えられた多くの書物を彼女に譲り渡したばかりか、いったん長男・為氏に譲られた播磨国細川庄(現在の兵庫県三木市細川町)を、彼女の息子の為相に与えるという約束を彼女に与えたのだ。そのため、彼女は御子左家伝来の文書を、自らの本居「持明院の北林」に移すような事件も起こした。

 為家が死ぬと当然、このことが紛争の対象になった。この場合、当然、彼女は弱い立場で、引き下がりがちになるところだ。しかし、彼女はそんなヤワではなかった。いや彼女は強かった。彼女は自分の主張を押し通した。そして、1279年(弘安2年)この細川庄の所領相続問題の解決のために彼女は、はるか鎌倉に行き、幕府に提訴したのだ。ここまで頑強に、さらに攻勢に出てくることは、為氏にとっては、恐らく想定外のことだったのではないか。

 『十六夜日記』は阿仏尼の鎌倉への旅日記だ。この日記は旅行記としては平凡だ。だが、梅原猛氏は阿仏尼は単なる旅行記を書いたのではなく、あくまでも訴訟を有利にするため政治文書として著したとみている。そうした視点でみると、彼女は自己の文学的才能を十二分に発揮し、この細川庄が彼女の子・為相の領地であることを、都および鎌倉の知識人に十分印象付けることに成功したとみられる。

 『十六夜日記』によると、阿仏尼は為家と結婚する前に名も知らぬ男との間に娘をもうけた。この娘は、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の次女・公子、すなわち後深草院の中宮・東二条院(亀山天皇の中宮・藤原位子の説もある)に仕えたが、後深草院(亀山天皇)の手がつき皇女をもうけた。恐らく阿仏尼はこの娘を使って院(天皇)に取り入り、わずか9歳の為相を侍従にし、その弟の為守までも大夫(たいふ)にしたとみられる。

 さらに、阿仏尼のしたたかさをうかがわせることがある。彼女がしきりに機嫌を取っている人物だ。それは、為家の三男の藤原為教(ためのり)の娘で、西園寺実氏の長女・●子(後嵯峨天皇の中宮・大宮院)に仕えた藤原為子と、その弟・京極為兼(ためかね)だ。為教は阿仏尼が鎌倉へ出発する1279年(弘安2年)の5月に亡くなったが、阿仏尼の鎌倉行きはこの為教一家の応援のもとに行われたと思われるのだ。つまり、阿仏尼は鎌倉幕府と親しい西園寺家の力を借りるとともに、為教一家を抱き込んで嫡男の為氏を孤立させようとしたのではないだろうか。

 阿仏尼は判決を待たず1283年(弘安6年)亡くなったが、彼女が打った手は無駄ではなかった。細川庄は為相に譲られ、彼を祖とする冷泉家は、為氏の二条家、為教の京極家が滅びた後も和歌の家として現在も保存されているからだ。母の力は偉大だった。

(参考資料)梅原 猛「百人一語」

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

 お登勢は京都伏見の船宿「寺田屋」の女将だ。坂本龍馬はこのお登勢と懇意で、寺田屋を定宿としていた。龍馬はお登勢について、姉の乙女宛ての手紙で「学問があり、侠骨(きょうこつ)を具(そな)えた気丈夫な女性」と表現し、龍馬は彼女のことを土佐風に「おかァー」と呼んだと伝えられている。それほど、龍馬にとってお登勢は近しい存在だった。後に龍馬の妻となったお龍が、この寺田屋で働くようになったのも、元をたどれば戦で焼け出され、家族とともに住まいを失い、働き場も失ったお龍の身の上を案じて、龍馬がお登勢に働けるように頼み込んだからだった。また、別にお龍はお登勢の養女だったとの説もある。

 お登勢は大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。お登勢の生没年は1829年ごろ(文政12年ごろ)~1877年(明治10年)。18歳のとき、京都伏見の「寺田屋」第6代目の主人、寺田屋伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけた。だが、夫の伊助は放蕩者で、旅館の経営を顧ず、酒を飲みすぎ、それがもとで病に倒れ35歳の若さで亡くなった。そのため、寺田屋の経営は以後、彼女が取り仕切った。

 伏見の寺田屋が歴史上の事変の舞台となったことは二回ある。初めは1862年(文久2年)、薩摩藩の内紛、尊皇派藩士同士の鎮撫事件だ。これは薩摩藩主・島津忠義の父で当時の藩の事実上の指導者だった島津久光が●千の兵を率いて上洛するのに合わせて突出、藩論を倒幕へ舵を切らそうとする有馬新七らの説得に失敗したため、久光の指示で、大山綱良、奈良原繁ら、とくに剣術に優れた尊皇派藩士を、有馬らの集合場所であり、薩摩藩士の京の定宿でもあった寺田屋に差し向け、事態を鎮撫しようとした事件だ。この際、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直次郎ら6名が死亡、田中謙介、森山新五左衛門の2名が重傷を負った。

    二回目が「薩長同盟」を企図し、両藩の橋渡し役を演じた坂本龍馬捕縛ないし暗殺のため宿泊先の寺田屋を1866年(慶応2年)深夜、急襲したときだ。この「寺田屋事件」で、長州藩から派遣された龍馬の護衛役、三吉慎蔵とともに、伏見奉行・林肥後守配下の捕り方を迎え撃った龍馬は、死線をさ迷うほどの深傷を負った。だが、龍馬は幸運にもこの危難をくぐり抜けることができた。

    寺田屋を舞台にした、この悪夢のような災禍をお龍とともにつぶさに見ていたのが、女将のお登勢だった。薩摩藩からの救援隊の到着が遅れていたら、龍馬の人生はここでピリオドを打っていたかも知れない。とすれば、この後の大政奉還も、「世界の海援隊」もなかったのだ。桂小五郎の求めに応じて、龍馬が薩長連合の約定書=薩長同盟の裏書を書いたのは、彼が寺田屋で遭難し、九死に一生を得た直後のことだった。

 お登勢は人の世話をすることが大好きだった。龍馬をはじめ、幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを数多く保護した。このため、幕府から一時は危険人物と見なされ、入牢されそうになったこともある。気丈な名物女将だった。

(参考資料)宮地佐一郎「龍馬百話」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」