「私説 小倉百人一首」カテゴリーアーカイブ

私説 小倉百人一首 No.61 伊勢大輔

伊勢大輔
※伊勢の祭主、大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)のむすめ。

いにしえの奈良の都の八重桜
       けふ九重ににほひぬるかな

【歌の背景】旧都奈良(平城京)の八重桜を天皇に献上した人があったとき、その花を題にして即詠を促された天皇に応じて詠んだ歌。藤原道長が促したともいわれる。彼女は大中臣輔親のむすめだから歌もうまいだろうと、人々も期待したのだ。「いにしえ」と「けふ」を奈良と平安との二都に対比させ、「八重」と「九重」を対置するなどの技巧と、即興的な歌としてのおもしろさがある。

【歌意】その昔の奈良の都に咲いた八重桜が、きょうはこの平安京の宮中で美しく咲き誇っていることです。

【作者のプロフィル】作者は伊勢の祭主、大中臣輔親のむすめ。父の官名によって伊勢大輔という。上東門院彰子に仕え、歌詠みとして名を知られた。紫式部、和泉式部、清少納言、赤染衛門、小式部内侍らとともに才を競った。後に筑前守高階成順(なりよし)の妻となった。

私説 小倉百人一首 No.62 清少納言

清少納言
※清原元輔のむすめ。「枕草子」の作者。

夜をこめて鳥のそらねははかるとも
       よに逢坂の関はゆるさじ

【歌の背景】藤原行成とのやり取りを歌に詠んだもの。行成がある晩、清少納言のところへ来て物語などしていたが、宮中の御物忌に参内するので帰っていった。翌早朝「ゆうべはもっといたかったのに、鶏の声に催促されてお別れしました」と手紙をよこしてきた。これは事実に反するので、彼女は「夜更けに鳴く鶏とは、函谷関のにせ鶏のことですか?」と返事をすると、折り返し行成からは「それはあなたに逢いたいという逢坂の関のことです」と言ってきたので、この歌を詠んだ。行成に負けまいと、凄まじい対抗心を感じさせる清少納言の教養と才知が露骨に出た歌。

【歌意】まだ夜が明けきらぬうちに、関所の門を開かせようとして鶏の鳴きまねをし、函谷関の関守騙すことはできても、決して逢坂の関は騙されて開門するようなことはありませんよ。いい加減なことを言うあなたに会うことなどはありません。

【作者のプロフィル】清少納言は官名。本名は不明。清原深養父の孫、元輔のむすめ。一条天皇の中宮定子に仕え、中宮一家とその宮廷生活を終えたらしい。歌才より散文に優れた作品を残した。「枕草子」はとくに有名

私説 小倉百人一首 No.63 左京大夫道雅

左京大夫道雅
※藤原伊周(これちか)の子。

今はただ思ひ絶えなむとばかりを
       人づてならでいふよしもがな

【歌の背景】通雅は、伊勢の斎宮を勤めて都へお帰りになった三条天皇の皇女(常子内親王)と相思の仲になった。密かに通っていたのが天皇の耳に入り、番をする女を斎宮につけられたので、この歌を贈って悲恋を嘆いた。天皇の怒りに触れて諦めねばならない恋だが、今一度最後に逢ってせめてその諦めの気持ちを恋人に告げたいという、切々とした恋の心情が感じられる。

【歌 意】私があなたのもとに通っていることが人の知るところとなり、今はもうあなたとの仲を諦めるよりほかしかたがなくなりましたが、その心を人を仲介してではなく、直接あなたに告げる方法がほしいものです。

【作者のプロフィル】藤原伊周の子。三条天皇の長和5年(1016)に従三位左近衛中将。その後、後一条天皇の万寿3年(1026)左京権大夫におとされる。後冷泉天皇の天喜2年(1054)に63歳で没。歌人としては有名ではなかったが、斎宮との相聞歌(恋愛歌)には傑作が多い。

私説 小倉百人一首 No.64 権中納言定頼

権中納言定頼
※四条大納言藤原公任の子。

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
       あらはれわたる瀬々の網代木

【歌の背景】冬の宇治川での実景を歌ったもの。夜、川に立ち込めた霧、それが夜明けとともに川面を浮動し、薄れていく。そしてその絶え間から、あちこちと姿をみせてくる網代木。そんな素直な叙景歌。

【歌 意】冬の夜明け、宇治川に立ち込めている川霧が途切れ途切れに切れて、その切れ間からあちらこちらの瀬の網代木が次第にくっきりと見えてくる。(なんとゆかしい宇治川の眺めだ。)

【作者のプロフィル】四条大納言藤原公任の子。一条天皇の寛弘年中に侍従右近衛少将、次いで後一条天皇の長元2年(1029)に権中納言、さらに正二位兵部卿を兼ねた。寛徳2年(1045)に52歳で没。父公任とは作風は違うが、和歌はうまい。能書家でもあった。

私説 小倉百人一首 No.65 相 模

相 模
※源頼光のむすめと伝えられている。

恨みわびほさぬ袖だにあるものを
       恋に朽ちなむ名こそをしけれ

【歌の背景】永承6年(1051)の内裏歌合せの折、大江公資と別れた後、一条天皇の皇女、脩子内親王家に仕えていた時代に浮き名が知られた藤原定頼、源資通らとの奔放な恋を回顧して詠んだもの。

【歌意】男(恋人)の無情を恨めしく思い、涙で濡れて乾かぬ袖は朽ちてしまいそうです。そのうえ、この恋のために世間からとやかく言われて浮き名を立て、私の名まで朽ち果ててしまうのは本当に残念なことです。

【作者のプロフィル】大江山の鬼退治で名を馳せた源頼光のむすめとも養女ともいわれ、母は慶滋保章のむすめ。初めは後朱雀天皇の皇女、祐子内親王に仕えて乙侍従といわれたが、相模守大江公資の妻となったので、以後、相模と呼ばれた。生没年不詳だが、1020年代から1050年代にかけて優れた恋歌を多く残し、情熱的で妖艶な歌風で知られた

私説 小倉百人一首 No.66 前大僧正行尊

前大僧正行尊
※三条院の曾孫。

もろともにあはれと思へ山桜
       花よりほかに知る人もなし

【歌の背景】修業する山伏は春秋2回、大和(奈良県)吉野郡十津川近くの大峰山に登った。これは春のもので、里では散り終えた桜が、人跡絶えた深山に咲き誇っている。思いがけずその山桜を目にして、懐かしさのあまり詠んだものとみられる。山にこもって修業にひたすら没頭するものの孤独な思いが、山桜を見て、はからずもほとばしりでたと思われる。

【歌 意】山桜よ、お互いに懐かしく思い合おうではないか。人里離れたこんな山奥ではお前以外に心の通じ合う人もいないのだから。

【作者のプロフィル】前大僧正行尊は三条院の曾孫。参議源基平の子である。後冷泉天皇の天喜3年(1055)に生まれた。12歳で出家。近江・大津の三井寺(園城寺)の平等院の僧正。鳥羽天皇の保安4年(1123)に延暦寺(比叡山)の座主になり、天治2年(1125)大僧正となる。さらに朝廷の護持僧になり尊崇された。保延元年(1135)81歳で没。

私説 小倉百人一首 No.67 周防内侍

周防内侍
※周防守平継仲のむすめ。

春の夜の夢ばかりなる手枕に
       かひなく立たむ名こそ惜しけれ

【歌の背景】当時の宮廷人の趣味的・遊蕩的雰囲気がよく表現された歌。早春の月夜、徹夜で女房たちがしゃべり合う。そんなとき周防内侍が「枕がほしいなあ」という。すると、通りすがりの大納言忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾(みす)の下から出す。その戯れに対して詠んだ歌。

【歌意】心浮き立つ短い春の夜、夢を見るぐらいのほんの短い時間、座興を真に受けて、あなたの腕を借りて枕にしてしまって、つまらない噂を立てられては残念です。

【作者のプロフィル】周防守平継仲のむすめ。ここからその呼び名が出た。本名は仲子。後冷泉・後三条・白河・堀河の4代(在位1095~1107年)の天皇の後宮に出仕した女官。後に大和守義忠の妻になったという。

私説 小倉百人一首 No.68 三条院

三条院
※冷泉天皇の第二皇子。

心にもあらでうき世に長らへば
       恋しかるべき夜半の月かな

【歌の背景】三条天皇が眼病のために退位しようとご決心されたころの歌。ご退位の決意は病気だけではなく、藤原氏の専横が露骨になってきた時期だけに、権力の煩わしさから自由になりたいと思われたとも考えられる。こんな美しい月も、この目が見えなくなっては眺めることもできない。そんな心境を詠まれたもの。

【歌 意】つらいこの世にこれ以上生きながらえたくもないが、もし不本意にも生き続けるようなことがあるなら、今宵不自由な目で眺めた夜半の月を恋しく思い出すことだろう。

【作者のプロフィル】三条院は冷泉天皇の第二皇子。いみ名は居貞。母は藤原兼家のむすめ超子。寛弘8年(1011)36歳で一条天皇のあとに即位。在位五年で長和5年病弱のため譲位。翌年寛仁2年(1017)出家。失意のうちに崩御。在位中二度も皇居が炎上し、目が悪くて遂には失明するなど、幸福な生涯ではなかった

私説 小倉百人一首 No.69 能因法師

能因法師
※橘永 (たちばなのながやす)。橘諸兄の子孫。

あらし吹く三室の山のもみぢばは
       竜田の川の錦なりけり

【歌の背景】三室の山(奈良県高市郡飛鳥村にある山)のもみぢが散り落ちても、地形上、竜田川に流れることはない。実景描写ではない。ただ当時の歌の趣向として、三室山と竜田川という二つのもみぢの名所が歌いこまれていれば
よかったので、作者はそれを心得てその二つをうまく“料理”したもの。

【歌 意】嵐が吹き荒れる三室の山のもみぢ葉は、竜田川へ落ちてその流れを錦のように美しく見せて流れていく。

【作者のプロフィル】能因法師は橘諸兄の子孫、遠江守忠望の子。兄、長門守橘元やすの養子になった。俗名は永_。はじめ朝廷に仕えたが、出家して融因、やがて能因と改めた。摂津の古曾部に住んでいたので古曾部の入道ともいわれている。歌が好きで当時、歌名の高かった藤原長能に師事して和歌に精進した。歌道で師弟の関係ができた最初ともいわれる。永承6年(1051)ころまで存命。

私説 小倉百人一首 No.70 良暹法師

良暹法師

さびしさに宿を立ち出でてながむれば
       いづこもおなじ秋の夕暮れ

【歌の背景】秋の寂寥感を歌ったもので、秋の夕暮れを巧みに歌いつくした、次の三夕(さんせき)の歌の先駆けをなすと評価されている秀歌。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ   
                       西行法師
見わたせば花ももみぢなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ   
                       藤原定家
寂しさはその色しもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ    
                       寂蓮法師 
 
【歌 意】ひとりで庵に閉じこもっていて寂しさのあまり気がふさぐので、外に出てあちこち眺めると、さすがに秋の夕暮れだ。どこも同じように寂しい。

【作者のプロフィル】父祖や生涯はよく分からない。父は祇園の別当で、母は藤原実方の家の女童という説もある。京都・大原の里に住んでいたようだ。平安後期、後冷泉期ころの歌僧。