「私説 小倉百人一首」カテゴリーアーカイブ

私説 小倉百人一首 No.71 大納言経信

大納言経信
※右大臣源重信の孫。

夕されば門田の稲葉おとづれて
       芦の丸屋に秋風ぞ吹く

【歌の背景】都の西郊、源師賢の住んでいた梅津(京都市右京区)の村里の秋の情緒を詠んだもの。秋イコール無常という情緒ではなく、夕暮れに稲の葉をさやさやと鳴らす秋風、芦葺き小屋などがさわやかな情緒で迫ってくる。

【歌 意】ここは都を遠く離れた訪れる人もない村里だが、夕方になると門前の田の稲の葉をさやさやと鳴らして、芦葺きの小屋に秋風が吹いてくる。

【作者のプロフィル】右大臣源重信の孫で、権中納言道方の子。三河守、参議大納言から太宰権帥になり、堀川天皇の承徳元年(1097)九州の大宰府で死んだ。82歳。後一条から堀河天皇まで六代の帝に仕えている。博学多才で、正保3年10月の白河天皇の大堰川(洛西)行幸の時の、いわゆる「三船の才人」であり、和歌・詩文・管弦の船のどれにも乗れる資格があった。蹴鞠の名手ともいわれた。

私説 小倉百人一首 No.72 祐子内親王家紀伊

祐子内親王家紀伊

音に聞く高師の浜のあだ浪は
       かけじや袖の濡れもこそすれ

【歌の背景】中納言俊忠が「浦風によって、波が打ち寄るように、恋の思いを打ち明けたい」という意味を込めて歌ったのに、紀伊が「ごめんです」と歌い返したもの。恋歌の歌合のことだから、実際の恋の駆け引きではない。恋歌をやり取りする宮中での遊びにふさわしい、技巧に走った歌。

【歌 意】世間で評判の高い高師の浜の、むなしく打ち寄せる波のように、移り気で真実のないあなたの誘い言葉に、思いをかけるのはやめておきましょう。そんな方に恋をすれば、後で捨てられ悲しみの涙で袖を濡らすようなことになるでしょうから。

【作者のプロフィル】祐子内親王家に仕える紀伊という女。内親王は後朱雀天皇の第一皇女。紀伊は平経方のむすめ。紀伊守重経の妹だったので、兄の官名でこの呼び名がある。「一宮の紀伊」「中宮の紀伊」ともいわれた。当時、歌人として令名があったらしく、歌合にも名が連なっている。

私説 小倉百人一首 No.73 権中納言匡房

権中納言匡房
※大江匡房。匡衡の曾孫。

高砂の尾上の桜咲きにけり
        外山の霞立たずもあらなむ

【歌の背景】内大臣、藤原師道の邸宅で酒盛りをして、晩春、季節の名残を惜しんで、遠く山の桜を見るという主題で詠んだ歌。

【歌 意】あの奥山の高い峰にも桜が咲いている。近景の里近い山にどうか霞が立たないでほしい。今日は遠景の美しい桜の花を眺めたいのだから。

【作者のプロフィル】大江匡房は匡衡の曾孫、信濃守成衡の子。権中納言、太宰権帥を経て大蔵卿となり、鳥羽天皇の天永2年(1111)71歳で死亡。子供のときから才智に優れ、神童といわれていた。4歳で書を学び、8歳で史伝に通じ、11歳で詩歌に長じたという。和歌はむしろ余技で、漢学の方では中国人をも驚かしたというエピソードもあるほど。

私説 小倉百人一首 No.74 源俊頼朝臣

源俊頼朝臣

うかりける人を初瀬の山おろし
       はげしかれとは祈らぬものを

【歌の背景】祈っても思う人に逢えない恋を歌っている。逢うというのは、逢って恋が叶えられるということを意味する。恋の成就を初瀬山の長谷寺の観音に祈ったのに、女の気持ちが自分になびくどころか、かえって冷たさを増してしまった。これは一体どうしたことかと観音に恨みを訴えている、やや難解な歌。

【歌 意】長谷寺の観音よ、私につれなく逢ってくれようともしない人が、さらにつれなさを増すようなことは祈っていないのに、初瀬の山おろしのように、つれなさがひどくなるのです。

【作者のプロフィル】大納言源経信の第三子。堀河・鳥羽・崇徳の三帝に仕えた。右近衛少将から右京大夫になった。官位は低かったが、歌壇の実力者で歌合の判者になり、白川法王の命をうけて崇徳天皇の大治2年(1127)に「金葉集」を選んだ。父の遺志を継ぎ、歌道に革新をもたらし、歌材や表現時に用語の上で清新の気を吹き込んだ。このため伝統派の藤原基俊と争った。

私説 小倉百人一首 No.75 藤原基俊

藤原基俊

契りおきしさせもが露を命にて
       あはれ今年の秋もいぬめり

【歌の背景】基俊の子の光覚が、毎年10月に興福寺で行われる維摩経を講ずる会の講師になりたいと願っていたのに幾度も選に漏れた。太政大臣藤原忠通に恨みごとを言うと、忠通は清水観音の歌と伝えられる「ただ頼めしめぢが原のさしも草われ世の中にあらむかぎりは(新古今集)」から引用して「しめぢが原だ。おれのいる限りは安心しろ」といった。ところが、また今年の選にも漏れた。そこで父、基俊がもぐさの産地である「しめぢが原」にかけて、「させもが露」と歌いこみ、違約をそれとなく忠通に訴えたもの。

【歌 意】あれほど堅くお約束してくださったお言葉を命とも頼み、待っておりましたのに、そのお約束は今年も叶えていただけず、秋も過ぎてしまうようです。

【作者のプロフィル】右大臣藤原俊家の子。御堂関白藤原道長の曾孫で名門だが、官位は低く従五位上左衛門佐に終わっている。出家して覚舜といい、近衛天皇の康治元年(1142)83歳で没。歌才・学才があり、源俊頼と歌の上で競った。伝統派の旗頭だったが、狭量で傲慢なところがあって、人望がなかったようだ。

私説 小倉百人一首 No.76 法性寺入道前関白太政大臣

法性寺入道前関白太政大臣
※藤原忠通

わたの原漕ぎ出でてみればひさかたの          
       雲居にまがふ沖つ白波

【歌の背景】崇徳上皇の天皇在位時代、保延元年(1135)4月に行われた内裏歌合の席で「海上望遠」という題が出て、それに応えて詠んだもの。ただ、この背景には後の保元の乱に至る、天皇家と摂関家を二分した複雑な政争がある。
この争いは鳥羽(そしてその子後白河)-藤原忠通(この歌の作者本人)ラインが勝者となり、崇徳-藤原頼長(作者の弟)ラインが敗者となる。頼長は流れ矢に当たって死に、崇徳院は讃岐に配流となった。

【歌 意】大海原に船を漕ぎ出してはるか遠くを眺めると、空の雲と見分けが付かないくらいに、(怪しげな)沖の白波が立っている。(油断されるな)。

【作者のプロフィル】藤原忠通。関白忠実の子。左大臣頼長の兄。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の4代に仕え、摂政・太政大臣を2度ずつ務めた。保元・平治の乱の渦中にあって、政治的手腕を示した。久安6年(1150)摂政を改めて関白となり、応保2年(1162)66歳で出家、法性寺に入って円観と号したが、長寛2年(1164)68歳で没。

私説 小倉百人一首 No.77 崇徳院

崇徳院

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
       われても末にあはむとぞ思ふ

【歌の背景】独特の表現で、線が太い、激しい恋の歌。前向きな意志があふれた、恋の心情がよく表現されている。

【歌 意】瀬が速いので、岩にせき止められて滝川の水流は一時は左右に分かれるが、また流れは合流するものだ。それと同じように世間に妨げられて、私は恋しい人と別れ別れになっているが、将来は必ずその人に逢おうと思う。

【作者のプロフィル】崇徳天皇。鳥羽天皇の御子。顕仁。元永2年(1119)生まれる。5歳で即位。関白忠通が摂政となる。18年後、父鳥羽法皇の意志で、3歳の近衛天皇に譲位し、鳥羽法皇と区別して「新院」と呼ばれた。さらに法王の死後、御子重仁親王をさしおいて、後白河天皇が即位したので不満やるかたなかった。崇徳上皇は、兄忠通を敵視する左大臣頼長と計って兵を挙げようとし、かえって天皇、忠通側に襲われて敗北、讃岐に流された。これが保元の乱だ。配所で8年、悲憤の日を送られ、長寛2年(1164)46歳で崩御。

私説 小倉百人一首 No.78 源兼昌

源兼昌

淡路島かよふ千鳥の鳴く声に
       いく夜ねざめぬ須磨の関守

【歌の背景】人里離れた須磨の関所の関守の夜ごとの寂寥を思いやって、哀感の迫ってくる優れた一首。

【歌 意】淡路島へ飛び通っていく千鳥の哀れな声に、須磨の関守は幾度、眠れずに目を覚ましたことだろう。

【作者のプロフィル】美濃守源俊輔の子。従五位下皇后宮大進だったらしいが、伝記はよく分からない。鳥羽天皇の天永3年(1112)39歳で亡くなったという。

私説 小倉百人一首 No.79 左京大夫顕輔

左京大夫顕輔
※藤原顕輔

秋風にたなびく雲の絶え間より
       洩れ出づる月の影のさやけさ

【歌の背景】手の込んだ技巧のない、素直で分かりやすい歌。平凡にみえるが、当時としてはこうした歌いぶりに新味があった。

【歌 意】秋風に吹かれてたなびいていた雲が一瞬切れた。すると、その切れ間から洩れ出た月の光の、なんとすがすがしいことか。

【作者のプロフィル】藤原顕輔は修理大夫顕季の三男。中宮亮を経て右京大夫になった。堀河・鳥羽・崇徳・近衛の四代の帝に仕えた。久寿2年(1155)66歳で没。父顕季は、俊頼や基俊の二派とは別に、一派を立てていた。顕輔は父のその遺志を継いで、いわゆる六条家をはじめ俊成・定家らの御子左家に対立した。六条派は、当時流行の技巧的な歌を否定し古風に返ろうとした。

私説 小倉百人一首 No.80 待賢門院堀河

待賢門院堀河
※堀川は待賢門院璋子に仕えていた。

長からむ心も知らず黒髪の
       乱れて今朝は物をこそ思へ

【歌の背景】この歌は「小倉百人一首」の中でも、恋の激しさと恋の不安とを詠んだ女性の歌で最も優れたものの一つといわれる。

【歌 意】あなたに末永く私を愛し続ける心があるのかどうか、私にはわかりません。お別れしたばかりの今朝は、寝乱れた黒髪のように私の心は思い乱れて悩んでいるのです。

【作者のプロフィル】神祇伯源顕仲のむすめで、初め前斎院白河皇女令子内親王に仕えて六条、後に鳥羽院中宮待賢門院しょう子に仕えて堀河と呼ばれた。康治元年(1142)の待賢門院の落飾に殉じて出家した。父も和歌に巧みだったが、彼女も女流歌人として第一級の実力者という名声を持っていた。