「私説 小倉百人一首」カテゴリーアーカイブ

私説 小倉百人一首 No.81 後徳大寺左大臣

後徳大寺左大臣
※藤原実定

ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
       ただ有明の月ぞのこれる

【歌の背景】暁にほととぎすを聞くという題で詠まれた歌。ほととぎすは万葉集以来、秋の月、冬の雪、春の花に並ぶ夏の代表的題材として繰り返し詠まれてきた。なぜなら、山間ならともかく、都では滅多に声を聞くことのできない鳥、もし幸い聞くことができたとしてもほんの一声、しかもその姿を捉えることはほとんどできない鳥だからだ。

【歌 意】ほととぎすが一声鳴いたので、はっと思って声のしたと方を眺めると、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月が残っているだけだ。聞いたと思ったその声さえ、空耳ではなかったかと思われるはかなさだ。

【作者のプロフィル】藤原実定のこと。右大臣公能の子。祖父実能が徳大寺左大臣といったので、それと区別して「後」をつけた。左大臣になったのは文治5年(1189)。建久2年(1191)53歳で没。学識もあり、才能にも恵まれた人で、歌人としても優れていた。

私説 小倉百人一首 No.82 道因法師

道因法師
※俗名藤原敦頼

思ひわびさても命はあるものを
       憂きにたへぬ涙なりけり

【歌の背景】恋する男の心情を詠んだもの。ただ情(こころ)ではなく理屈の歌。

【歌 意】恋のために思い悩んで、それでも死なずに生き長らえている。それなのに自分でどうにかなりそうな涙は、恋のつらさに耐えられなくてあふれ出てくる。人間の生理はままならないものだ。

【作者のプロフィル】俗名は藤原敦頼。父は治部丞清孝。崇徳天皇に仕え、官位は従五位上左馬助になり、後に出家した。歌に熱心だったが、とくに優れた歌人ではなかった。寛治4年(1090)に生まれ、没年は不明だが90歳までの生存が確認されている

私説 小倉百人一首 No.83 皇太后宮大夫俊成

皇太后宮大夫俊成
※藤原俊成、定家の父。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る
       山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

【歌の背景】保元・平治の乱や王朝の交代あるいは朝廷の没落と武家の台頭という転換期の慌しい世相に生きた人間の厭世的な思想をうたったもの。

【歌意】ああ、この憂き世の辛さから逃れる道はないものだなあ。世を捨ててしまいたいと堅く決意して山の奥へ分け入ってみると、ここでも鹿が悲しげに鳴いている。

【作者のプロフィル】藤原俊成は権中納言俊忠の子。後鳥羽天皇に仕え、正三位皇太后宮大夫になる。五条室町に住んだので「五条三位」と呼ばれた。63歳で出家して釈阿といった。歌は藤原基俊に師事、歌才に優れ、やがて歌壇を統一してこれに君臨した。元久元年91歳でなくなった。

私説 小倉百人一首 No.84 藤原清輔朝臣

藤原清輔朝臣

ながらへばまたこのごろやしのばれむ
       憂しと見し世ぞ今は恋しき

【歌の背景】三条右大臣(藤原実行)が中将から昇進しないで嘆いているのを慰めた歌。 
 
【歌 意】生き長らえていたならば、今の苦悩が懐かしく思い出されるのではないでしょうか。かつてつらいと思っていた昔の日々も、今思い返すと懐かしく思えるのですから。

【作者のプロフィル】藤原顕輔の子。太皇太后大進兼長門守になり、高倉天皇の治承元年(1177)74歳で没。俊成ら二条家の歌風に対抗して、六条家の「古風」を守った。六条家は歌よりも学問の家柄だ。「万葉集」はじめ勅撰集を研究した。歌人というより歌学者として優れ、「奥義抄」「和歌初学抄」「袋草紙」などの著書がある。

私説 小倉百人一首 No.85 俊恵法師

俊恵法師
※父は源俊頼

夜もすがらもの思ふころは明けやらで
       閨のひまさへつれなかりけり

【歌の背景】女性の身になって詠んだ恋の歌。寝室でひとり夜を過ごす女性の悶々とした気持ちがよく表現されている。

【歌 意】一晩中訪れのないあなたを思って、恋の物思いにふけっている夜は、早く夜明けになればいいと思ってもなかなかならず、寝室の戸の隙間も白んでこない。寝室の戸の隙間までが無情に思われてつれないことです。

【作者のプロフィル】父は源俊頼、祖父は経信。東大寺に学んだ僧だが、貴賎僧俗にわたる歌好きを集めて小さな歌壇を形成したことで知られる。自分の家を「歌林苑」と名付け、毎月歌合を催した。永久元年(1113)に生まれ、70歳代後半まで生きたようだ。

私説 小倉百人一首 No.86 西行法師

西行法師
※俗名佐藤義清(のりきよ)

なげけとて月やはものを思はする
       かこち顔なる我がなみだかな

【歌の背景】西行がまだ円位法師と名乗っていたころ、「月前の恋」という題を設定してその心を歌ったもの。

【歌意】嘆けといって、月が私に物思いをさせるのか、いやそうではない。けれども、いかにも月のせいであるかのように涙がこぼれ落ちてしまう。

【作者のプロフィル】俗名佐藤義清。藤原北家の左大臣魚名(房前の五男)の末孫。佐衛門尉康清の子で、母は監物源清経のむすめ。元永元年(1118)に生まれた。鳥羽上皇に北面の武士として仕えて左兵衛尉となったが、保延6年(1140)23歳の若さで妻子と別れ出家した。
はじめ円位と号し、後、西行と改めた。仏法修業と和歌に励みながら諸国を行脚。平重衡が焼いた東大寺復興の勧進にも携わった。建久元年(1190)79歳、京都でなくなった。

私説 小倉百人一首 No.87 寂蓮法師

寂蓮法師
※父は醍醐の俊海阿闍梨。

むら雨の露もまだひぬまきの葉に
       霧立ちのぼる秋のゆふぐれ

【歌の背景】上の句のむ・ま・まのM音の調べが特徴的。秋の夕暮れの情景が沁み込んでくるようだ。古典和歌の中で最もポピュラーで、分かりやすく覚えやすい歌。

【歌意】ひとしきり降った村雨の露も、まだ乾かずに濡れて光っているまきの葉に、霧が立ち昇っている秋の夕暮れは何と寂しいことか。

【作者のプロフィル】俗名は藤原定長。父は醍醐寺の俊海阿闍梨。保延5年(1139)生まれ、建仁2年(1202)入寂。伯父の藤原俊成の養子となり、従5位下・左中弁・中務少輔になったが、俊成に実子、定家が生まれたので出家した。「新古今和歌集」の代表的歌人。

私説 小倉百人一首 No.88 皇嘉門院別当

皇嘉門院別当
※皇嘉門院は崇徳天皇の中宮。作者はこの人に仕えた女別当。

難波江の芦のかり寝のひと夜ゆゑ
       みをつくしてや恋ひ渡るべき

【歌の背景】後法性寺入道前関白太政大臣藤原兼実がまだ右大臣だったころ、その家で催された歌合の会で「旅の宿で会った恋」という題で詠んだ歌。

【歌 意】難波の入り江に生い茂っている芦の“刈り根の一節”、そんなかりそめの一夜を契ったばかりに、私は難波の入り江の“澪標(みをつくし)”ではないが、一生恋い慕いながら年月を過ごさなければならないのだろうか。

【作者のプロフィル】皇嘉門院は崇徳天皇の中宮で、法性寺関白藤原忠通のむすめで聖子といった。母は大納言宗通のむすめ。大治元年(1189)中宮となり、永治元年皇太后、久安6年2月門院号を贈られた。作者はこの人に仕えた女別当だ。太皇太后宮亮源俊隆のむすめ。

私説 小倉百人一首 No.89 式子内親王

式子内親王
※後白河天皇の第三皇女。以仁王は兄に当たる。

玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば
       忍ぶることの弱りもぞする

【歌の背景】源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という歴史の転換期を生きた作者が、人に知られずにする忍ぶ恋の苦しさを歌ったもの。

【歌 意】私の命よ、絶えるならいっそ絶えてしまってくれ。このまま生き長らえるならば、この恋の苦しさを耐える力が弱ってしまうだろうから。

【作者のプロフィル】後白河天皇の第三皇女。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。母は従三位藤原成子。平治元年(1159)以後11年間、賀茂の斎院となり、嘉応元年(1169)7月病気のため退下した。建久8年(1187)蔵人橘兼仲・僧観心などの事件に連座した嫌疑を受け、京の外に移されようとしたが、不問に付された。のち剃髪して承如法といった。建仁元年(1201)正月に50歳前後で亡くなっている。「新古今和歌集」の代表的女流歌人。

私説 小倉百人一首 No.90 殷富門院大輔

殷富門院大輔
※後白河院の判官行憲の孫。

見せばやな雄島の海士の袖だにも
       ぬれにぞぬれし色はかはらず

【歌の背景】殷富門院に仕えてきた大輔という女房が、歌合の会で恋に泣く恨みの心情を詠んだもの。

【歌 意】恋しい人を思って流す血の涙のために色まで変わってしまった私のこの袖を、つれないあなたに見せてあげたいものです。あの陸奥の松島の雄島の海士の袖さえ濡れてはいても、私の袖のように色までは変わっていませんよ。

【作者のプロフィル】従五位下藤原信成のむすめで、後白河天皇第一皇女亮子内親王に仕えた。亮子内親王は式子内親王の姉。大輔はその女房名。妹を殷富門院の播磨という。当時女流歌人として知られていた。