長野市・善光寺で6年ぶり前立本尊「ご開帳」
長野市の善光寺で4月5日、本尊の身代わりの「前立(まえたち)本尊」を6年に1度(数え年では7年に1度)公開する「ご開帳」が始まった。期間は5月31日まで。5日は小雨の中、午前6時過ぎ本堂の厨子(ずし)が開くと金色に輝く前立本尊が姿を現し、約500人の参拝客は感嘆の声を上げた。期間中、北陸新幹線効果で前回2009年の673万人を上回る700万人の参拝客を見込んでいる。
文豪・谷崎が愛娘に宛てた28年間の225通の書簡見つかる
文豪、谷崎潤一郎(1886~1965年)が、最初の妻千代との間に生まれた一人娘、鮎子(1916~94年)に送り続けた未発表の書簡225通が見つかった。背徳かつ官能的な作風ゆえに「悪魔主義」とも評された谷崎の、愛情あふれる父親像がうかがわれる資料だ。また、作家で詩人の佐藤春夫(1892~1964年)に宛て、人妻との恋を打ち明けた手紙1通も発見された。いずれも神奈川県近代文学館(横浜市)が4月4日から公開される。
鮎子宛ては1930年8月~58年12月の長期にわたる。谷崎と離婚した千代が佐藤春夫と結婚し「細君譲渡事件」と世間を騒がせた頃に始まり、宛名は<佐藤春夫様方 谷崎鮎子殿>となっている。文面は<パーマネントは小生が趣味として不賛成なのではなく、あれをすると気が赤くなり減る恐れ>(38年8月)と22歳の鮎子の髪を気遣っている。初孫誕生後の44年11月は<もう立つちや あんよが出来る時分と楽しみに致し居り候>と幼児語を使っている。
佐藤宛の発信日は33年3月23日で、代表作の一つ「春琴抄」の執筆時期にあたる。谷崎は千代の後、別の女性と結婚していたが、<小生一人(略)変名にて神戸の方へ宿を取り居候(コノ事絶対秘密)>と不和を告白。後に結婚して添い遂げることになる人妻の松子への熱情や、現在抱える離婚交渉の難しさも書き、佐藤への信頼がうかがえる。
同館で5月24日まで「没後50年 谷崎潤一郎展」を開催中。
難波京「朱雀大路」跡 難波宮跡の南部で側溝を確認
大阪文化財研究所の調査によると、上町台地に築かれた都・難波京(なにわきょう)のメインストリート「朱雀大路」の側溝とみられる溝が、大阪市中央区の難波宮跡(国史跡)の南で見つかった。難波京の朱雀大路が確認されたのは初めて。道幅は、藤原京を超える約33㍍と推定されている。現場は、1993年に現・大阪市立聴覚特別支援学校のグランドで見つかった、前期難波宮の朱雀門(宮城南門)跡から南に約140㍍。
難波京は孝徳天皇が大化の改新直後の645年から建設し、天武天皇の時代にかけて整備された「前期」と、聖武天皇が726年から造営を始め、平城京の副都として整備した「後期」に分かれる。溝の時期は絞り込めていないが、難波京の基準となる朱雀大路も、前期には建設されていたとみられる。
土井晩翠がローマから薄田泣菫に宛てた書簡発見
岡山県倉敷市は3月27日、「荒城の月」の作詞者として知られる土井晩翠(1871~1952年)が、イタリアのローマから倉敷市出身の詩人、薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた書簡が見つかったと発表した。これは1903年ごろ、2枚の絵はがきとスミレの押し花を封筒に入れ、晩翠が留学していたローマから送ったもの。
「未だ御目にかからず候へとも一筆御免被下度」と始まることから、まだ面識がなかったが、尊敬する薄田に手紙を書いたとみられる。スミレの花は薄田が愛読した英国を代表する詩人ジョン・キーツの詩集で詠まれており、薄田のペンネームにも使われた。晩翠はキーツの墓のそばに咲いていたスミレを押し花にして送っていた。薄田の子孫が倉敷市に寄贈した書簡類から見つかった。