「歴史くらぶ」カテゴリーアーカイブ

令和最初の「正倉院展」初出展4件含む41件の宝物出展

奈良時代の聖武天皇ゆかりの宝物を集めた「第71回正倉院展」が10月26日から始まった。令和で最初となる今年の正倉院展には初出展の4件を含む41件の宝物が出展され、11月14日まで奈良市の奈良国立博物館で開かれている。                                       今回の展示で興味深いのは革製のくつ、「衲御礼履(のうのごらいり)」だ。これは聖武天皇が大仏開眼法要の際に使用したと推測されるもの。表面には赤く染めた牛の革が、内側には鹿の革が用いられ、真珠や水晶などでつくられた花形の飾りがあしらわれている。また、「紫檀金鈿柄香炉(したんきんでんのえごうろ)」は、香をたくのに使う道具で、獅子の形をした飾りが取り付けられており、器の側面には植物や蝶の文様など豪華な装飾が施されている。

平安京の「西寺」の五重塔跡? 見つかる 京都市の発掘調査で

京都市の発掘調査によると、794年の平安京への遷都で、桓武天皇の命で「東寺」と対になるように造られた官営の寺「西寺」の五重塔の基礎部分の可能性が高い跡が見つかった。調査ではこれまでに、最も大きな建物とみられる講堂の土台部分の「基壇」が確認された。今回さらに五重塔があったと推定される場所を発掘したところ、碁盤の目状に12カ所で地盤を突き固めた跡が見つかり、これまでの調査と合わせると五重塔の基礎部分である可能性が高いという。                                                                            西寺は、鎌倉時代に火災に遭い焼失、それ以降は再建されず、京都市南区の跡地が国の史跡に指定されている。

「命のビザ」,発給でリストラに 杉原千畝の履歴書見つかる

第2次世界大戦中の1940年、赴任先のリトアニアでナチスの迫害を逃れるため、ビザを求めるユダヤ人に日本の通過ビザを発給し続けて、およそ6,000人の命を救ったとされる日本の外交官・杉原千畝氏(1900~1986年)の履歴書が新たに見つかった。これによると、杉原氏は1947年4月の帰国後に外務省を辞め、NHKや商社などを転々としたが、1949年2~10月に参院資料課で主事として勤務したことが新たに判明した。外務省では杉原氏の退職理由について「不明」としているが、同氏が参院に提出した履歴書では「1947年3月の行政整理に際し被整理者に予定せられたる」と記載しており、人道的立場から、いわば省命に背き行った「ビザ発給」後、同氏は懲罰的に帰国前の段階でリストラ対象者とされていたと判断される。

天皇陛下 即位を国内外に宣言 2,000人を前に「即位礼正殿の儀」

天皇陛下の即位に伴う「即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)」が10月22日、皇居・宮殿であいにくの雨の中、皇族方11人および各界の代表や外国の元首などおよそ2,000人の参列者を前に、即位を国内外に宣言された。                                                天皇陛下は「黄櫨染御袍(こいろぜんのごぼう)」に身を包んで、皇后さまとともに儀式に臨み、「松の間」に設(しつら)えられた「高御座(たかみくら)」でお言葉を述べられた。この中で、天皇陛下は「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法に則(のっと)り、日本国および日本国民統合の象徴としての務めを果たすことを誓います」と述べられた。夜には祝宴にあたる「饗宴の儀」も行われた。

親鸞直筆の教え説く文書 長崎大村市で見つかる

本願寺史料研究所などによると、浄土真宗の開祖として知られる親鸞が、仏典の中から重要な箇所を選び出し、自ら書いた文書が長崎県大村市で見つかった。この文書は同市の正法寺の前住職が20年ほど前に業者から購入し、同寺に保管されていた。今年8月に同寺から依頼されて同研究所などが調べたところ親鸞直筆と確認された。文書の内容は、教えを信じ、念仏を唱えることの必要性を説くもの。                                 九州地方で親鸞直筆の文書が見つかったのは、鹿児島県の寺に次いで2例目。これらのほかにも親鸞直筆の書物は全国で見つかっている。これらのことから鎌倉時代、親鸞が教えを広め、伝えるために繰り返し文書を書き、配っていたことがうかがえるという。

弥生期の奈良の遺跡から乳房表現した土器発掘、国内初

奈良県田原本町教育委員会の発掘調査で、およそ2000年前の弥生時代中期の「清水風遺跡」から、女性とみられる人物が両手を広げ、祈りを捧げる様子を表現した土器の破片が発掘された。この土器の破片は縦12cm、横16cm。絵には女性をイメージさせる乳房が表現されていて、同町教育委は祭祀を司る”みこ(巫女)”が豊作を祈願する様子を表現したとみている。同様のポーズをした人が描かれた土器の発掘例は19件あるが、乳房が表現された例は初めてという。                                                                       この土器は10月10日から12月1日まで、田原本町の「唐古・鍵考古学ミュージアム」で展示される。

源氏物語「若紫」最古の藤原定家写本見つかる

藤原定家の子孫にあたる京都・冷泉家の調査によると、原本が残っていない平安時代の「源氏物語」(全54帖)の「若紫」を鎌倉時代の歌人、藤原定家が書き写した写本が新たに見つかった。今回見つかったのは、これまで紫式部のオリジナル表現に近いものとして最も信頼できる資料とされてきた室町時代の写本を、さらに250年遡る「若紫」の写本で、定家の筆跡と一致した。当時、官位の高い人物しか使うことが許されなかった青墨も使われていた。表紙は国の重要文化財に指定されている、定家の源氏物語のほかの写本「花散里」「行幸」「柏木」「早蕨」の4帖と同じだという

藤原宮跡の大極殿院で新回廊の跡見つかる 旧来の知見見直しも

奈良文化財研究所の発掘調査によると、橿原市にあった飛鳥時代の都の中心「藤原宮跡」で、天皇が政務や儀式を行った「大極殿院」の区画から、屋根のある廊下「回廊」の跡が新たに見つかった。藤原宮の大極殿院は大極殿の建物を中心に、周囲に東西およそ120m、南北およそ165mの長方形の「回廊」があったと考えられていた。               ところが今回の発掘調査で、南北に走る東側の回廊の途中から、西に直角に伸びる長さおよそ30mの回廊の跡が新たに見つかったもの。回廊は単純な長方形だと考えられていたため、新たな回廊の跡は想定外。このため同研究所では「古代の宮殿の変遷や発展を考えるうえで、貴重な発見だ。今後、構造や配置を見直す必要が出てきた」としている。

藤原京跡の西端に広大な宅地跡 見つかる、官位低い貴族の邸宅

橿原考古学研究所の発掘調査によると、奈良県橿原市にあった飛鳥時代の都、持統天皇が造営したとされる「藤原京」跡の西端に、広大な宅地の跡が見つかった。場所は橿原市四条町で、東西におよそ14m、南北におよそ10mの広さの建物跡と、建物の南側に9mほどの幅がある門の跡が見つかった。さらに門に沿って塀の跡が、東側におよそ45mにわたって伸びていた。建物の配置から、塀は門を挟んで反対側の西側にも伸びていたとみられ、宅地は周辺の道も含めておよそ130m四方の区画を占めていたと考えられるとしている。その規模の広さから比較的、位の低い貴族の邸宅とみられるという。都の端にあたる場所で、貴族の邸宅跡が見つかるのは初めてという。当時の都の整備の進め方を知る貴重な手掛かりになるとみられる。

正倉院で「開封の儀」、10/26から41件の宝物の正倉院展

奈良市の正倉院で10月1日、宝物の点検や調査のため年に一度、部屋の封印を解く「開封の儀」が行われた。正倉院事務所長の先導で、宮内庁の職員や東大寺の僧侶らが手や口を清めた後、宝庫の中に入った。正倉院はこれからおよそ2カ月にわたり、宝物の点検や調査などが行われる。これに合わせ奈良国立博物館で10月26日から「正倉院展」が開かれ、初出展の4件を含む41件の宝物が公開される。また、今年は令和天皇の即位を記念して、一部の宝物が10月14日から東京国立博物館でも公開される。正倉院では、奈良時代に造られた校倉造りの正倉に入っていた聖武天皇の愛用品や東大寺ゆかりの宝物などおよそ9,000点が宝庫と呼ばれる建物に移され保管されている。