月別アーカイブ: 2013年3月

日・イの教育交流促進に尽力した大使館の本村書記官

日・イの教育交流促進に尽力した大使館の本村書記官
 じゃかるた新聞によると、2010年9月から約2年半にわたり、日本とインドネシアの教育交流促進に尽力してきた在インドネシア日本大使館の本村宏明一等書記官が今月末に帰任する。本村氏は将来の日・イ友好の礎となる留学生の誘致に奔走、2012年11月、両国の大学計61校の学長が参加した初の日・イの学長会議を実現させた。
 本村氏の在任中の活動は、東日本大震災がキーとなった。皮肉なことに震災で被災し大きなダメージを受けたことが、両国の人たちの心を近づけたし、今こそ日本のために何かしたい。恩返しをしたいと募金や留学生支援活動に奔走する元日本留学生協会(プルサダ)やインドネシア日本同好会(KAJI)のメンバーの心を動かした。
 また、この困難をバネにして本村氏は、日本へ留学生を呼び込もうとインドネシア国内各地を行脚した。西スマトラ州パダンや北スラウェシ州マナド、中部カリマンタン州パランカラヤなどに足を運び、日本の安全性や留学に必要な情報を提供。週末のほとんどは学校やフェアに出かけ、学生への日本留学に関する説明に費やしたという。
 インドネシアから日本への留学生志願者数は増加傾向にあり、12年5月時点のインドネシア留学生数は前年比114人増の2276人で、国別では7位となっている。 

宮都支えた製鉄炉を再現 大津市・源内峠遺跡

宮都支えた製鉄炉を再現 大津市・源内峠遺跡
 滋賀県大津市郊外、びわ湖文化公園の片隅に、源内峠遺跡(大津市)で見つかった7世紀後半の製鉄炉が再現されている。一見オブジェのようにも見える、楕円形の塔の群れがそれだ。一帯は7~8世紀の製鉄や製瓦陶に関わる遺跡が集中。現代風に表現すれば、当時の都、奈良県の飛鳥京や藤原京などへ物資を供給する古代のコンビナートだったとみられ、「瀬田丘陵生産遺跡群」として国史跡となっている。
 源内峠遺跡もその一つで、製鉄炉跡が4基見つかっている。炉は粘土積みで長さ2.5㍍前後、幅30㌢前後、高さは推定1㍍余り。砕いた鉄鉱石と木炭を投入して点火し、側面に並ぶ穴からふいごで空気を送り込んで温度を1200~1400度まで高める。不純物(鉄滓=てつさい)を炉外に排出し、最後に炉壁を取り壊して、底に溜まったケラ(鉄素材)を取り出したと考えられる。15年前の発掘では鉄滓が15㌧も出土したという。炉の復元は地元住民らで組織する「源内峠復元委員会」によるもの。

キトラ古墳の石室内で新たな石材加工の目印の朱線

キトラ古墳の石室内 新たな石材加工 目印の朱線
 奈良文化財研究所によると、奈良県明日香村の国特別史跡、キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の石室内で、石材加工の目印にしたとみられる朱線が新たに51カ所見つかった。朱線は長さ0.1~3.6㌢。これまでに見つかった分と合わせ計117カ所となった。こうした朱線は同村の高松塚古墳(同)でも確認されており、古墳の築造技術を探る重要な手掛かりという。キトラ古墳は、石室を埋め戻して墳丘を一部復元し、公園にする計画。

日本で研修経験ある「ジフィリア」が日本語に込める友好の絆

日本で研修経験ある「ジフィリア」が日本語に込める友好の絆
 日本語を挿入したヒット曲「アイシテル」で知られるインドネシアのロックバンド「ジフィリア」のメンバー4人が、日本のアニメーションや音楽ライブ作品を上映するイベント「ジャパン・アニメ・Jポップ・ウィーク(じんぱくと)」の記者会見に、日本の女性4人組のロック・ポップバンド「SCANDAL(スキャンダル)」とともに参加した。
 ボーカル、ギターを担当するズルさん(32)は2003年から08年まで約5年半、日本で働いた経験があり、ギターは研修先の群馬県太田市で日本人から学んだという。様々な工場を転々としたが、名古屋にいたとき同地で公演したインドネシアの人気ロックバンドにスカウトされ、帰国後に当時日本で大ヒットした曲、日本のラップ歌手SoulJa(ソルジャ)と青山テルマのデュエット「ここにいるよ」のカバーをレコーディング。遠距離恋愛の切なさを「アイシテル」と日本語に込めた。それが2010年にはインドネシア各地で歌われるほどの大ヒットになり、「アイシテル2」「アイシテル3」と3部作を制作。さらにセカンドアルバムには「アイノアカシ(愛の証)」と日本語の歌詞の比重を増やした曲も収録。日本とは、いわば切っても切れない関係になった。
 もっと日本関連のイベントに出演し、日本とインドネシアの懸け橋として活動できたら-と語るジフィリアの、7月に東京で予定されている観光イベントへの参加、5年ぶりの再訪が楽しみだ。

バリ州駐デンパサール総領事・城田実さんの送別会に100人

バリ州駐デンパサール総領事・城田実さんの送別会に100人
 バリ日本人会、バリ日本語補習授業校、在バリ日本エージェント会(JTOA)は3月8日、サヌールのパラダイスプラザ・ホテルで、退官を控えバリ島を離れる城田実・駐デンパサール総領事の送別会を開いた。会場には日本人会メンバー、補習校の保護者や子供たち約100人が詰めかけ、歌や踊りで賑やかに城田さんを見送った。
 学生時代と合わせるとインドネシアでの暮らしが約25年という城田さん。現地の人も、インドネシアについてこれほど造詣が深く、どんな相手にもインドネシア語で堂々とスピーチできた人が、ここから離れてしまうのは寂しい-と話していた。
 補習校の小中学生らによるチアダンス・チームと音楽教室のメンバーのパフォーマンスが目を引いたほか、女性参加者らによる歌謡曲に合わせた踊りや八木節も会場を大いに沸かせた。最後は城田さんの音頭で結成された「バリ・ラグラグ会」率いるインドネシアの歌の合唱で締めくくられた。

志賀直哉の未発表書簡 岡山で見つかる

志賀直哉の未発表書簡 岡山で見つかる
 作家の志賀直哉(1883~1971年)の未発表書簡が岡山県倉敷市で見つかった。これは彼が小説を連載していた大阪毎日新聞の学芸部長で詩人の薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた手紙とはがき計5通。これらは1919~20年に書かれ、倉敷市出身の薄田の遺族が市に寄贈した資料の中から発見された。うち4通は、同紙で連載した「或る男、其姉の死」に関する内容。新聞連載用に回を区切って書く難しさを語ったもの、紙面の都合で連載が休止された時期に、あまり間が空くのは読者には面白くない-などのいらだちを綴ったものもある。

東大寺二月堂で「修二会」本行始まる

東大寺二月堂で「修二会」本行始まる
 東大寺二月堂(奈良市)で3月1日、「修二会(しゅにえ)」(お水取り)の本行が始まった。前日の春のような陽気から一転、小雨混じりのあいにくの天候となったが、傘越しに多くの参拝客が見守る中、童子と呼ばれる男たちが打ち振るった長さ約6㍍のたいまつが、夜空に明々と燃え上がった。火の粉を浴びたり、燃えかすを拾ったりすると無病息災がもたらされると伝えられる。修二会は752年に始まり、選ばれた11人の僧侶「練行衆」が、十一面観音像を祀る二月堂で板に体を打ち付ける「五体投地」などの懺悔(ざんげ)の行に勤める。

奈良・薬師寺で東西両塔を同時公開

奈良・薬師寺で東西両塔を同時公開
 奈良市の薬師寺で3月1日、約110年ぶりの大規模な解体修理が進められている東塔(国宝)と、復元、修理された四天王立像(国の重要文化財)を堂内に安置する西塔が同時に一般公開された。東塔の1階は心柱(しんばしら)を間近に見られ、解体修理中に心柱の最上部から発見された仏舎利も拝観できる。3月20日まで公開。

興福寺の出城跡で”堀切り”跡見つかる

興福寺の出城跡で”堀切り”跡見つかる
 京都府木津川市教育委員会によると、興福寺(奈良市)の出城だった鹿背山(かせやま)城跡(京都府木津川市)で、敵が襲撃しづらくなるように、山の尾根をV字形に掘った”堀切り(ほりきり)”跡が見つかった。城の周辺には当時、寺の荘園があり、城は軍事的拠点として整備されたとみられる。堀切りは城の曲輪(くるわ)に向かう尾根で見つかり、最深8.3㍍、幅10㍍。寺側の文献には、1568年9月、戦国武将の三好氏の軍勢と遭遇して城に逃げ帰ったとの記述が残っている。こうした事態に備え堀切りを築造したとの見方が有力だ。

「絆」人文字で連帯 インドネシアで「3.11」追悼式典

「絆」人文字で連帯 インドネシアで「3.11」追悼式典
 東日本大震災から2年の3月11日、世界各地で犠牲者を追悼する式典や催しが行われた。2004年のスマトラ沖地震・津波の被災地、インドネシア・アチェ州の州都バンダ・アチェ近郊の中学校校庭では、ジルバブ(スカーフ)を被った制服姿の女子生徒約30人による、直径約10㍍の真っ赤な漢字の「絆」の人文字が披露され、東日本大震災・被災地への連帯をアピールした。傍らには日本とインドネシアの国旗が並べて掲げられた。
 式典には州政府や地元漁協の関係者、中高生ら計約600人が参加。日本からは、在メダン日本総領事館の浜田雄二総領事が出席した。生徒らはこの日のために練習した日本語の歌を合唱した。