久坂玄瑞(くさかげんずい)は松下村塾にあって、高杉晋作と並び称された秀才で、幕末の長州藩の尊攘運動の先頭に立って藩を導いたが、「禁門の変(蛤御門の変)」で一軍を指揮するうち膝に弾丸を受けて、鷹司邸内で同じ「松下村塾」の塾生だった寺島忠三郎とともに自刃した。24歳の若さだった。生没年は1840(天保11年)~1864年(元治元年)。
長門国萩平安古(現在の山口県萩市)に藩医、久坂良迪(りょうてき)と富子の三男として生まれた。幼名は秀三郎、諱(本名)は通武(みちたけ)、のち義助。号は江月斎、玄瑞。両親が歳を取ってから生まれたため、両親の愛情を一身に受けて育った。家業である医学を勉強するため藩校医学所「好生館」に入学した後、藩校「明倫館」に入学。前途洋々のはずだった。
ところが、久坂玄瑞の人生はこの後、暗転。1853(嘉永6)年から1854年(嘉永7年)にかけて母、兄(玄機=げんき)、父が相次いで亡くなり、玄瑞はわずか15歳にして家督をつぐことになった(次男は玄瑞が生まれたときにはすでに死亡していた)。それと同時に名前を「玄瑞」と改めている。
1856年(安政3年)、17歳のとき藩に願い出て九州に3カ月間遊学。吉田松陰の親友だった肥後の宮部鼎蔵を訪ねた際、松陰に学ぶことを奨められ、初めて生涯の師となる松陰の名を耳にする。帰藩後、吉田松陰に手紙を書き、松陰と書簡のやり取りを行い、その1年後、18歳となった玄瑞は松下村塾へ入塾し、松蔭の薫陶を受けることになった。このことが玄瑞のその後の人生の方向を決定づけることとなった。
吉田松陰は久坂玄瑞を「防長(防府・長州)第一流の人物」と高く評価し、高杉晋作と競わせて才能を開花させるよう努めた。松下村塾においては、高杉晋作の「識」、久坂玄瑞の「才」と並び称された。松陰は自分の一番下の妹との結婚を玄瑞に勧めた。松蔭がいかに玄瑞に期待していたか、そんな気持ちの表れだ。1854年(安政4年)、玄瑞は松蔭の妹、文と結婚した。玄瑞18歳、文15歳のことだ。
1858年(安政5年)、江戸と京都に遊学。安政の大獄により、義兄でもあった師・吉田松陰が刑死。この後、玄瑞は無念の死を遂げた松蔭の遺志を継ぐかのように、長州藩尊攘運動の先頭に立ち、日米修好通商条約を締結、安政の大獄を引き起こした幕政を批判し、他藩の志士と交わるなど活発に活動するようになった。
長州藩が長井雅楽の幕府寄りの公武合体政策、「航海遠略策」を採択したため、玄瑞はこれを激しく弾劾し、1862年(文久2年)同志と長井雅楽暗殺を企てた。また同年、高杉晋作らと攘夷血盟を行い、「御楯組」を結成。攘夷督促の勅使が東下した際には自らも江戸へ赴き、高杉晋作、伊藤博文らとイギリス公使館焼き討ち事件を起こした。
このころ久坂は「玄瑞」から「義助」に改名。1863年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、「八月十八日の政変」による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して、木戸孝允らとともに長州藩の失地回復に努めた。
1864年(元治1年)、その後の長州藩の方向を決定づけることになった禁門の変に参加。久坂義助は指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ参戦。一軍を指揮するうちに膝に弾丸を受け負傷。鷹司邸内で、松下村塾で同じ塾生だった寺島忠三郎とともに自刃した。明治維新に向けた戦いの最中、“道半ば”やり残したことがまだまだある、あっけない最期だった。
(参考資料)古川薫「花冠の志士 久坂玄瑞」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」