伊達宗城・・・蘭学に傾倒した開明派で、軍制の近代化に着手

 伊達宗城(だてむねなり)は開明派の第八代宇和島藩主で、七代藩主宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。また、開明派のこだわりがそうさせるのか、幕府から追われ江戸で潜伏していた蘭学者・高野長英を招き、さらに長州より村田蔵六(後の大村益次郎)を招き、軍制の近代化にも着手した。生没年は1818(文政元)~1892年(明治25年)。

 伊達宗城は大身旗本・山口直勝の次男として江戸で生まれた。母は蒔田広朝の娘。正室は鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩第五代藩主・伊達村候の次男で、山口家の養嗣子となった人物だ。宗城の幼名は亀三郎。1827年(文政10年)、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となった。1828年(文政11年)、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、翌1829年(文政12年)、なかなか嗣子と成り得る男子に恵まれない藩主宗紀の養子となった。宗紀の五女・貞と婚約し、婿養子の形を取ったが、貞は早世してしまい婚姻はしなかった。

 宗城は1844年(天保15年)、宗紀の隠居に伴い藩主に就任した。宗城は福井藩主・松平慶永(隠居後、春嶽)、土佐藩主・山内豊信(隠居後、容堂)、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、「幕末の四賢候」と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。ところが、阿部正弘が急死し、事態は一転、四賢候ら開明派大名と幕閣との距離は一気に遠くなる。

1858年(安政5年)、第十三代将軍家定の将軍後継問題で対立する立場の井伊直弼が大老に就いたからだ。紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す井伊に対し、一橋慶喜を推した四賢候、水戸藩主・徳川斉昭らは真っ向から対立。井伊は大老の地位を利用し強権を発動、結局、慶福が十四代将軍・家茂になることになり、一橋派は排除された。いわゆる「安政の大獄」だ。これにより宗城は春嶽、斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。

 先代の宗紀は隠居後に実子の伊達宗徳をもうけており、宗城は宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、1862年(文久2年)、生麦事件の賠償金支払いに反対している。また島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。

 1867年(慶応3年)、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし、1868年(明治元年)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りだったので薩長の行動に抗議、新政府参謀を辞任した。1869年(明治2年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のため英国からの借款を取り付けた。

 宗城は長州から村田蔵六を招き、医学しか知らなかった彼にオランダ語の専門書を翻訳して、船を設計するよう命じた。一方で、和船に大砲を積んで砲撃実験を始め、さらに黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せ、研究させた。肝心の蒸気機関は、城下にいた嘉造(後の前原巧山)という提灯屋の男を抜擢して、製作を命じた。藩を挙げての試行錯誤の末、遂に実験的な蒸気船が完成した。黒船来航からわずか3年後のことだ。一般には外国人技師を雇った薩摩藩の船が日本初の蒸気船とされているが、宇和島藩の船は日本人だけでつくった蒸気船の第一号だった。

(参考資料)司馬遼太郎「伊達の黒船」、司馬遼太郎「花神」、吉村昭「長英逃亡」