公慶・・・戦禍で焼失した大仏殿再建に生涯を懸けた三論宗の僧

 公慶は、戦火で無残に傷ついた奈良・東大寺の大仏の修理および、焼失した大仏殿の再建に生涯を懸けた江戸時代前期の三論宗の僧だ。公慶は幕府の許可を得てただ一人、勧進活動のため精力的に全国を行脚した。ただ、悲しいことに彼は大仏殿の落慶を見届けることなく、江戸で亡くなった。公慶の生没年は1648(慶安元)~1705年(宝永2年)。

 公慶は丹後(京都府)宮津出身。1660年(万治3年)、東大寺大喜院の英慶(えいけい)について出家。13歳のときのことだ。公慶は同寺竜松院に住したが、1567年(永禄10年)の兵火に遭い大仏殿が焼失し、以後は大仏が露座のままとなっていることを嘆き、1683年(天和3年)、大仏殿再興を発願。翌年、幕府・寺社奉行の許可を得た。ただ、その許可の内容は、勧進は「勝手次第」、「幕府は援助せず」というものだった。それでも公慶は全くめげず、大勧進職(だいかんじんしき)となり、全国に懸命に勧進。着工にこぎつけた。

1692年(元禄5年)、4年の歳月を経て大仏の修理が完成して開眼供養が行われた。この開眼供養は3月8日から4月8日まで1カ月間にわたり営まれ、1万2800人の僧、一般参詣者20万人余に達したといわれ、奈良全体が未曾有の賑わいをみせた。

大仏の修理が終われば後は、肝心の大仏殿の再興だった。公慶の見積りでは大仏殿再興にかかる費用は18万両だった。公慶はこれだけの大事業を成し遂げるには、公的な力に頼る以外ないと判断。大仏修理の功績があった今回は、護持院・隆光の仲立ちで桂昌院(第五代将軍徳川綱吉の母)-そして綱吉に拝謁することに成功。大仏殿の再興への協力を願い出たのだ。その結果、幕府の全面協力を取り付けたのだった。幕府は公慶が見積もった目標額に応えるため、勘定奉行・荻原重秀を最高責任者に据えた。これにより、大仏殿再建は事実上幕府の直轄事業となった

 幕府の支援を受けることになったことで、再建のメドはついたかに思われたが、公慶は勧進活動を止めることはなかった。民衆に対し、大仏との“結縁”の機会を広めるためだった。ただ、幕府の支援はあったが、恐らく資金的な問題からと思われるが、大仏殿のスケールは当初、公慶が考えたものよりは縮小されている。小さくなったのだ。

 これだけ精力的に勧進活動を展開した公慶だけに、あとは感動の大仏殿完成の日を待つだけ-のはずだった。だが、悲しいことに、彼は大仏殿の落慶を見ることなく1705年(宝永2年)、江戸で病を得て58年の生涯を閉じた。翌年、公盛が公慶の功績を称え、勧進所内に御影堂を建立し、仏師性慶と公慶の弟子即念が製作した御影像を安置した。現在、東大寺境内の一角に建っている公慶堂と、堂内に安置されている公慶上人像がそれだ。待望した大仏殿の落慶は公慶が没した4年後、1709年(宝永6年)のことだ。現在の大仏殿・中門・廻廊・東西楽門はこのとき再建されたものだ。

 東大寺大仏殿の本尊、大仏は華厳経の教主毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)の金銅座像で、高さ五丈三尺五寸(現尺、約14.7・)。聖武天皇の発願により749年(天平勝宝1年)竣工。752年(天平勝宝4年)開眼供養が盛大に営まれた。その後、1180年(治承4年)、源平合戦の際、平重衡の南都焼き討ち、1567年(永禄10年)、三好三人衆と松永久秀の合戦で、それぞれ兵火に遭い、大仏殿はじめ多くの伽藍、さらに大仏も被災している。そのため、大仏も改鋳され、台座蓮弁の一部だけが当初のもので、胴身は鎌倉時代、頭首は江戸時代元禄期のものだ。1180年の最初の被災の際は、俊乗房(しゅんじょうぼう)重源(ちょうげん)上人が抜擢されて、勧進職を務めた。

(参考資料)古寺を巡るシリーズ「東大寺」