大岡忠相・・・吉宗の信頼を得て「享保の改革」を支えた江戸町奉行

 一般に知られている江戸時代の「三大改革」のうち、最初に行われたのが八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」だが、江戸町奉行としてこれを支えた人物が、TVドラマでもお馴染みの、この大岡越前守忠相(ただすけ)だ。水戸黄門の水戸光圀などの例でも明らかなように、小説やTVドラマが伝えるものはいわば虚像であって、実像とはかけ離れている場合が少なくない。大岡忠相の場合は果たしてどうだろうか。

 大岡忠相は1677年(延宝5年)、旗本大岡美濃守忠高の十人の子供の中の七番目(四男)に生まれ、1686年(貞享3年)10歳のとき同族大岡忠真の娘のところに婿養子として入った。忠相が養子にいったころの実父忠高は奈良町奉行で2700石を知行し、養父忠真は御徒頭として1420石を知行していた。生家・養家ともに上級旗本で、彼の出発はいわば一定の出世を約束されたに等しい恵まれたものだった。

 1700年(元禄13年)、忠相は24歳のとき養父の後を継ぎ、26歳で初めて幕府の役職、御書院番に就いた。御書院番は戦時には将軍の身辺を守り、平時には江戸城の要所を守り、また将軍出行時にはその前後を守って随行する役だ。忠相がこの職にあった1703年(元禄16年)、江戸に大地震が起きた。震源地は小田原付近。死者は小田原でおよそ2300人、小田原から品川までの間で1万5000人、房州10万人、江戸3万7000余人といわれた。後の安政の大地震(1855年)、大正の関東大震災(1923年)とともに、関東地方を襲った地震の中でも最も規模の大きいものだ。忠相はこの地震の復旧作業に精励して功績があった。後の御普請奉行、町奉行への出世の足掛かりとなった。

 1704年(宝永元年)に御徒頭、1707年(宝永4年)に御使番、そして1708年(宝永5年)に御目付に進んだ。1712年(正徳2年)、山田町奉行に転じた。4年ほど山田町奉行を務め、1716年(享保元年)忠相は江戸に呼び返されて御普請奉行になった。吉宗が八代将軍になる直前のことだ。抜擢されて、世に名高い江戸町奉行・大岡越前守忠相となるのは1717年(享保2年)のことだ。

 江戸町奉行は京都町奉行・大坂町奉行・長崎町奉行・奈良町奉行・山田町奉行など幕府直轄の町を支配する町奉行の一つだが、江戸の場合だけは寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれて別格の待遇を受け、評定所の正規構成員として幕府最高の司法と行政に参与する高級閣僚の業務をも担当する特別官だった。

 忠相が江戸町奉行になったときは41歳、家禄は養父から引き継いだままの1920石だが、このころの江戸町奉行は大体1000石~1500石くらいの旗本が成っているので、異例のものとは言い難い。ただ、当時の町奉行は60歳前後の者が多かったから、41歳の忠相は早い出世といえる。彼はこの町奉行職に19年余という長期間就いている。吉宗が将軍だった間の町奉行の平均在職年数は9.27年で、忠相の場合はその倍を超えている。
 1736年(元文元年)、忠相は寺社奉行になった。60歳のときのことだ。江戸町奉行と勘定奉行は旗本が就くべき役職であったのに対し、寺社奉行は譜代大名が就く役職だった。しかもこのポストは1658年(万治元年)以降は、将来徳川政権の首脳部(老中・若年寄・京都所司代・大坂城代など)になることを期待されて、その訓練・見習いを兼ねた幹部候補生という意味合いもあって、奏者番に抜擢された譜代大名の若手有能者の中から、さらに選ばれて兼務する名誉ある職だった。したがって、万石以上の譜代大名でもなく奏者番でもない、60歳という老旗本が寺社奉行になったということは、異例中の異例だ。

 1920石で江戸町奉行になった大岡忠相は、1723年(享保8年)「足高(たしだか)の制」が施行されて江戸町奉行が3000石相当の役職とされると、当然その不足高1080石を補われるが、1725年(享保10年)に2000石の加増を受けて3920石の家禄となり、足高の適用を外される。本来「足高の制」というのは、幕府財政に負担をかけないで人材を登用するために取られた措置なので、功労があっても加増はしないのが原則だから、忠相のこの大幅加増も異例というべきことだ。

 さらに寺社奉行に栄進したとき、新たに2000石を加増されて5920石の家禄となり、それに4080石の足高を加えて万石格となった。それから12年目の1748年(寛延元年)、足高になっていた分が加えられて、ここに正真正銘の大名となり、万石以上の譜代大名が奏者番となって寺社奉行を兼ねるという本来の姿になった。

 また、忠相は江戸町奉行・寺社奉行に付随する評定所一座という業務も「享保の改革」の全期間、幕府の機能中枢に当たるこのポストを占め続けた。このほか、1745年(延享2年)、23年間にわたって兼ねていた「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」の職の返上を願い出て、許されるまで務め続けている。農政はもともと江戸町奉行の仕事ではなく、勘定奉行の仕事なので、この登用は珍しいことであって、これをみても忠相がいかに吉宗から信頼されていたかが分かる。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、直木三十五「大岡越前の独立」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」