小松帯刀(こまつたてわき)は、幕末の薩摩藩の藩主後見人・島津久光の側近、そして若き家老として幕末動乱期の薩摩藩運営を担当、また大久保利通らとともに藩政改革に取り組んだ。惜しくも35歳の若さで亡くなったが、西郷隆盛や大久保利通らの上席にいた人物だけに、健在なら明治維新政府の中で一定の地位を占め、今日に何か足跡を残したに違いない。小松帯刀の生没年は1835(天保6)~1870年(明治3年)。
小松帯刀は薩摩国鹿児島城下の喜入領主・肝付兼善(5500石)の三男として生まれた。通称は尚五郎。1856年(安政3年)、指宿・吉利領主の名門、小松清猷(2600石)の跡目養子となって家督を継承し、清猷の妹千賀(お近)と結婚した。1858年(安政5年)、帯刀清廉(たてわききよかど)と改名した。肝付尚五郎は、後に徳川十三代将軍家定の正室となった篤姫(天璋院)や篤姫の兄、島津忠敬らとともに吉利領主の小松清猷から学問を学んだとされるが、篤姫と肝付尚五郎の接点を示す史料は残されていない。
名君といわれた藩主島津斉彬が急死した後、小松帯刀は1861年(文久元年)、藩主後見人・島津久光に才能を見い出されて側近となり、大久保利通とともに藩政改革に取り組んだ。1862年(文久2年)には久光による上洛に随行し、帰国後には28歳という若さで家老職に就任した。薩英戦争後、集成館を再興して、とくに蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都に駐在し、久光の意向を汲んで公武合体を念頭に、主に朝廷や幕府諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。参与会議等にも陪席した。他方で、御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などの要職を兼務するなど藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校開成所を設置した。
1864年、禁門の変では幕府から出兵を命じられるも、当初は消極的な態度を示した。だが勅命が下されるや、小松は薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。禁門の変後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。
また、勝海舟から土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬とその塾生の面倒をみてくれと頼まれたのがきっかけで、龍馬と昵懇となり、亀山社中(後の海援隊)設立を援助したり、その妻お龍の世話をしている。
1866年(慶応2年)、京都二本松の小松邸で龍馬の仲介のもと、小松帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と桂小五郎の長州藩が会談。全六箇条からなる「薩長同盟」が成立した。翌年には薩摩藩と土佐藩の盟約、「薩土同盟」を成立させるなど、小松はいかんなく外交手腕を発揮した。
1867年、大政奉還発表の際、小松は薩摩藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。この頃から小松は痛風もしくは糖尿病と考えられる病魔に侵されていたようだ。
明治維新後、小松はその交渉能力を評価されて明治政府の参与と総裁局顧問の公職を兼務したほか、外国事務掛、外国事務局、判事などを兼務した。総裁・議定(ぎじょう)・参与は三職と呼ばれ、明治政府の中央政治機構の重要な官職だった。
1869年、病気のため官を辞し、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けることに専念した。しかし病状は悪化、すでに手遅れの状態だった。そのため、将来には総理大臣をも嘱望されながら、薩摩の英才・小松は志半ばで、わずか35年の生涯を閉じた。
(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、宮尾登美子「天璋院篤姫」